第3話 雨の空
そよそよと吹いていた風が止み、不意にザーザーという音を聞いて、読んでいた本から顔を上げた。
「雨か……」
外では、先程の心地よい風が吹いていた頃とは全く変わって、肌寒い空気が充満していて、湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。
これ以上強くなられても困るのと、完全下校時刻が迫っていたために俺は本に栞を挟んでバック仕舞う。そして、バックを頭の上に掲げて傘の変わりにして急いで校門を抜けた。
「──翔哉」
その時、俺の耳に優しい声が聞こえて、そちらの方を向いた。
校門の柱に寄りかかって傘をさしている少女がいた。程よく伸びた美しい白い髪と紫色の瞳がさらに落ち着いた雰囲気を際立たせていた。
「空天……」
「ほら」
俺がその少女の名前を呼ぶと、手に持っていたもう一本の傘を放ってきた。
彼女の名前は天崎空天。彼女は俺と同じグラスで、その事をきっかけにたまに話すことをするという事がある。実際、彼女が何を思っていているかは分かったモノでは無いが、悪い人ではない、と言うと変な言い方になってしまうが、とりあえずそんな感じだ。
そして、全く意図の読めない空天が今日も変わらず突拍子に貸し出してくれた傘を開いて、先を歩いていくその背中を追い掛ける。
「明日、返すよ」
「了解。……あ、やっぱり明日も返さなくていいよ。多分、雨が降るから」
変わらず真っ直ぐ前だけを向いて話す彼女は、雨についてが詳しく、大体空天が「雨が降る」と言ったら降る。何か感じるモノがあるのだろうか。
並んで歩く2人の間に沈黙が下る。それでも、気まずいという感じはない。おそらく雨が耐えず傘を叩いて音を出しているからだろう。俺はその音に耳をすましてみる。
ポツリ、ポツリ。
ポツリ、ポツリ、ポツリ。
不規則なリズムで、さして綺麗でもない音を立てて、それでも耐えず雨は地面を叩く。傘を叩く。窓ガラスを叩く。──世界を、濡らす。
「私ね、雨が好きなんだ」
「……」
俺は、不意に話始めた空天の声に耳を傾ける。彼女は澄んだ声で続ける。
「雨は、降れば色んな物を濡らして、迷惑かもしれない。でもさ、たとえば草が育つ。生命に繋がっている。──そう考えたら、素晴らしいと思うんだ、私はね。……それに、雨が止めば虹が掛かるし」
空天は楽しそうに語る。雨の素晴らしさを、雨の綺麗さを。
他人がどう思うかではなく、自分がどう思っているか。それを彼女は俺に伝えた。たとえ小さな幸せであっても、それは1つの幸せで、幸福。
そうすれば、笑えない彼女も笑うだろうか。
「そうだ。……ねえ、今から私の家に来てよ」
「何でまた……」
「そんな気分になったから。いいでしょ?傘の借りを返すってことで」
俺は彼女の提案に、渋々頷いた。借りを出されれば俺は反論の余地が無かった。空天には現在進行形で助けられているから。
***
空天の家は一軒家で、3年前に両親が離婚して出ていったことで1人暮らしの状態だ。もしかすると、彼女は寂しかったのかもしれない。
「んじゃ、ちょっと好きにしてて」
「え?」
部屋に着くなり、空天は財布を片手に出ていってしまった。
そのことに関しては、いつもの事なのでいいのだが、今は状況が違う。俺は今空天の部屋にいて、その状態で1人にしたら何があるか分かったモノではない。と、自分で言うのも何だが、彼女にはもう少し危機感を持って欲しい。
「まったく……」
手持ち無沙汰の俺は、ローテーブルの近くに腰を下ろして、部屋を一望してみる。白を基調とした綺麗な部屋。カーテンを水色にすることで圧迫感を感じさせない作り。
ソファーやテレビなどの家具も充実していて、高校生の1人暮らしには十分過ぎる贅沢さだ。
ポケットからスマホを取り出して、時間を確認する。
4時50分。
まだ、夜ご飯にするには少し速い時間だな、などと考えながら机に突っ伏して目を閉じた。
「おーい、おーい!女の子の部屋で居眠りをするなー」
間延びした声と、ペチペチと頭を叩かれる感覚で目を覚ました。
うっすらと目を開けると、眩しい夕陽で目を細めた。やがてその眩しさにも慣れて目を開くと、白い髪と紫色の瞳をした少女が目に入った。
その少女は俺の正面で同じように突っ伏してこちらをじーっと見詰めていた。
「空天……、帰ってきたのか」
「うん。ただいま」
「お、おかえり」
俺が聞くと、にっこりと微笑みながら体制を起こした彼女に習って、俺も体制を起こした。手に持ったままだったスマホで時間を確認すると、5時14分という表記が見え、20分以上眠っていたことに気が付いた。
「いつ帰ってきた?」
「ん?今だけど。……ほい」
「ああ、ありがとう」
ペットボトルのミルクティーを空天から受け取りつつ、窓の外に目を向ける。雨が止み、あの時と同じようにオレンジ色の空が広がっていた。
ペットボトルの蓋を開けて、一気に飲む。寝起きという事があって、どうやら喉が乾いていたらしい。優しい甘さが口に広がり、俺は息を吐いた。まだ完全な覚醒をしていない頭が重く、視界が朦朧としている。
「翔哉、まだ眠いでしょ」
「ああ。めっちゃ眠い」
小馬鹿にするようにニヤニヤ言う空天に頷きながら目を擦る。
そこで俺は言おうとしていて事を思い出して口を開いた。
「そういえば、空天は遊園地とか行く?」
俺が不意に切り出した話だからか、空天は首を傾げて意外そうにした後、すぐまたニヤニヤし始めた。
「なになに、デートのお誘いかな?」
「……あー、いや。ちょっと来週ある人と遊園地にでも行こうかな、って思ってたんだけど……、その子が女子で、俺は女子が好きなのとか知らないから空天に助けてもらおうと思って」
「あっそ」
俺が事情を説明すると、途端にそっぽ向いて怒った様子の空天。なぜ怒ったのかまったく意図が掴めない。
だが、すぐに空天は嘆息してしょうがないと言う風に肩を竦めた。
「別に良いよ。恋人の頼みだから」
「間違ってもそんな冗談を人前で言うなよ」
特に斎矢とか大変な事になる。アイツは凄い。色々と。
何はともあれ、空天も来てくれる事になって、俺の心は大分軽くなったような気がする。
俺は立ち上がって、窓を開ける。
まだ少し湿った空気が流れ込んできて、雨上がり特有のじめじめした空気が充満する。
──ふと、空を見上げる。
「ね?雨は素敵でしょ?」
「ああ、そうかもな」
いつの間にか隣に来ていた空天も、俺と同じように空を見上げて言った言葉に頷いて、沈んでいく夕陽に目を細めた。
この空を、奏谷も見ているのだろうか──。
***
この空を、翔哉も見ているだろうか。
自室の窓から見上げた空は、大きく傾いた夕陽にオレンジ色に染め上げられていて、雨上がりの少しだけ開けた雲から青い空が覗いていた。
時にいつもより低く飛ぶ鳥が横切ったり、道行く車のライトが割り込んだり。少し生物の存在も見せながら、それでも自分の存在を忘れずに見せる空はいつもと違う雰囲気があった。
「──雨も、悪いことばかりじゃないね」
ポツリと呟いた言葉は孤独に部屋に木霊して、すぐに消えた。
それも良いと思えるくらい、今の気持ちは澄んでいた。いつもと違う空を見上げながら、私は一口ミルクティーを飲んだ。
空は7色の虹に彩られ、夕陽は静かに月へとバトンを繋ぐように沈んで行った──。