第1話 傷
あの後俺は、一旦奏谷をシャワーにでも浴びせようと思い、部屋に連れて来た。俺は一人暮らしなので、奏谷を連れてきても別に大丈夫──ではないが、事態が流出することは無いだろう。
「お待たせ……」
そうそろりと入って来たのは、シャワーを浴び終わった奏谷の姿だった。
仄かに赤くなった顔に、まだ湿っている奏谷の髪はまた違う印象を与えていた。
「とりあえず奏谷の制服は洗っておいたぞ。良かったな、明日が休みで」
プールに飛び込んだ奏谷は、当然着ていた服は全て濡れて着ていられるはずがなく、今は昔ここに住んでいた姉のものを貸している。
少しだぼっとした服に、ホットパンツ。なんと言うか、彼氏の家に遊びに来た彼女みたいになってしまっている。
それは置いておいて、今は奏谷の事を優先するべきだろう。
「とりあえず、座れよ」
「うん」
そろそろという風に俺の隣に座った奏谷。すると、女性特有の甘い臭いが鼻孔をくすぐる。その臭いに頭が麻痺し掛けるところをギリギリのところで理性を思いだした俺は奏谷を見る。
「なんで俺の隣に座ってるんだ?」
俺が言うと、奏谷は顔を真っ赤に染めて視線を逸らした。
「だって、私たち、一応恋人って設定でしょ」
「ああ、それは別にいいよ。奏谷も迷惑だろ?」
奏谷は小さく頷くのを見て、俺は本来考えなくてはならない事に頭を回すことにした。
それは奏谷を笑わせるという俺に課せられた任務だ。正確には任務ではないが、まあ似たようなモノだろう。重要なのはそこではない。問題は、どのように笑わせるか、だ。
今奏谷に求められているのは、お笑いのような笑いではない。
今求められるのは、感動などで、心から漏れたような笑顔と呼ばれるものだろう。それを引き出すには、なにかしらの感動──絶景を見るようなことが一番効果的だろうか。
「お前の好きな場所みたいなのある?」
「え?」
俺の唐突の質問に驚いたのか、小首を傾げて「どうして?」という視線を向けてくる。
「えっと、……お前を笑わせるには何が効果的かな、と思って」
「なるほど。……山とか、高いところ。あと海とかも行って見たいかも」
奏谷は俯いて、ポツポツと考えながら話す。だが、その顔は心なしか輝いているように見てた。まるで、遊園地に初めて行く子供のように。冒険することにワクワクと高揚しているような。
俺は、自然と微笑んでいた。これまで、悲しみの顔しか見てこなかった俺には、始めてみた希望の顔で、嬉しかった。
「なら、少し行ってみようか?」
「えっ?どこに」
驚き目を見開いてこちらを見てくる奏谷。確かに、今は4時を回ったところで、もう山などに出掛けたら、どう考えても朝まで掛かる。
だが、あいにくその心配は無用だ。何故なら、絶好の場所が、ここの上にあるからだ。
俺が住んでいる場所はマンションで、三階建てなのだ。そこで、俺たちはその三回よりさらに上──天井に登っていた。
マンションは屋根が平らな作りなので、多少汚れている以外は高いところ好きには最高なポイントだった。案の定、彼女も気に入ったみたいだ。
「す、すごい……。夕陽がキレイ」
「だろ?」
目を輝かせて沈み行く夕陽に見行っている奏谷。
俺もそちらに目を向けると、真っ赤な夕陽が世界を赤く染め上げて、段々と地平線へと沈んでいく。毎日、何気に沈んでしまっているこの夕陽は、改めて見ると、常人でも感嘆の息を漏らすほど美しい。世界は、美しいモノが思っているよりも多く存在している。だから、奏谷を笑わせるのは、そう難しいことでは無いのかもしれない。──そう思ったのが間違いだったと、この時はまだ分からない。
***
翌日の朝は、朝日の心地いい暖かさで目を覚ました。
鳥のさえずりが聞こえ、自然とボーッとその声に聞き入ってしまう。2分、3分と過ぎていくのも気にせず、このままもう一度眠ってしまいたくなるような心地よさ。
だが、そんな事はしてられない。今日はやることがあるのだ。
そう思い、すぐに行動を開始した。
「悪い、待たせたか?」
「そんな事ないよ。2、3分ぐらい待っただけだから」
「正直だな。今来たところ、とか言ってくれてもいいのに」
奏谷の反応の薄さにブツブツと文句を言いながら回りを軽く見回す。
いつもの街並みだが、今日は休日だからか、少し人手が多い。ぞろぞろと行き交う人々は、まるでアリの行列のようで、少し切なくなった。結局人は、アリのようなちっぽけな存在と同等なのだと改めて認識させられる。
その切なさの余韻を纏ったまま、奏谷に視線を戻した。
「とりあえず、行こうか」
「そうね。ずっとここにいる訳にはいかないし」
軽くそう交わして座っていたベンチから立ち上がった奏谷に続き、俺も歩みを進め始める。
──と、そんな時だった。
「あれ?翔哉じゃん!おーい!」
「めんどくせえのがいた……」
ブンブンと音がしそうな程の勢いで手を振る元気な声が前方から聞こえて、顔を渋らせる。
そのうちにその声の主は小走りで駆けてくる。
緩くウェーブの掛かったフワフワな茶髪の、いかにも元気ですと言うのを全面に出したような格好の少女──翠菜斎矢。
「久しぶりーって昨日もあったけど、久しぶり。……なにしてんの?」
「意味わかんない日本語を喋るな、日本語への侮辱だ。……ちょっとある場所に向かっててな」
斎矢の出鱈目な日本語にツッコミをいれて、今回出歩いている理由を告げた。どうやら、隣の奏谷のことは他人と認識しているのだろう。
「ねえねえ、翔哉。この人だれ?」
不意に袖を小さく引っ張った奏谷が小声でそう話し掛けてきて、俺は不味いと思った。
「えっ?翔哉、この人だれ?」
始まった。
「速く教えて、だれ?」
「翔哉翔哉、だれなの?」
2報からの質問攻めに鬱陶しい顔をして抗議しようと試みるが、不可能だ。この二人の間には、回答以外の発言を禁じると言うような重い気配がある。
「あのな──」
「私は翔哉の彼女です!」
やったなこいつ。
奏谷が見事に爆弾発言をしたところで、それを上回る地獄のような重い気迫がブワリと広がる。
「どういう事?翔哉?彼女、いたの?聞いてないよ?」
「これは理由があってな──」
「言い訳は無用だよ?」
悪魔のような笑みを向けられて押し黙る俺。流石の奏谷も怯えてベンチに戻って座って知らんぷり。
その後ようやく事情を説明し終えて、誤解が解けると何故か斎矢まで付いてくることになった。