プロローグ 笑顔は望まない
高校三年生の俺──秋風翔哉は、たった今ちょっとした人生の岐路に直面していた。
目の前には、少し古びたプール。そして、そんな人気のない場所で1人座っている少女を見つけた。短く切り揃えられた髪は水で濡れて頬に張り付いている。ここからは彼女の顔は見えないが、それでも泣いているように見える。
俺は、プールサイドに座っているその人物にとりあえず話し掛けるだけでもしてみようと開かれた扉をくぐってプールを一望する。
5レーンまで分割された水面には、長く使われていない汚れが浮いている。
ちなみに、今は9月で少し風が肌寒くなってきた季節だ。そんな季節にプールに入る事などないし、さらに部活も廃止された為使われていない。
そんな薄汚れた水に入ったのか、彼女の姿は全身水で汚れていて、顔を抱き寄せた膝の間に埋めていて、顔が見えない。それでも微かに揺れる背中は嗚咽を漏らしているように見えて心苦しい。
彼女は自殺志願者か、それともいじめか、とにかく、聞いてみないことには分からない。そう考えた俺は彼女に近付く。
彼女が放つ哀愁のオーラはどことなく話し掛ける事を躊躇させる。なんと言うか、そう。1人にして欲しいと言っているような。
「ねえ、君。どうしたの?」
「──ぐすっ」
「………風邪、ひくぞ?」
俺の呼び掛けに無反応の彼女。少しずつだが、俺に切なさと羞恥心が訪れてくる。──だが、そんなモノはどうでも良かった。羞恥も、痛みも、今の彼女は沢山持っているから。彼女も、俺も欲しない。
俺は、彼女の隣座って横をちらりと見る。
相変わらず顔を埋めたままの彼女は、時々嗚咽に肩を震わせながら、それでもゆっくりと落ち着いてきて、瞳だけを覗かせた。
その瞳は蒼く、青空のように透き通っていた。
思わず俺は見とれてしまう。視線と視線が交差して数秒間、俺はようやく我に帰って目を逸らした。
「ええっと、とりあえず名前は?」
「…………………………青依呂奏谷」
ボソッと、それでもと透き通るように聞こえた鈴のようなか弱い声は、俺にハッキリと伝わり、心が歓喜する。
「奏谷か……いい名前だな。ちなみに俺は翔哉。よろしく」
「──仲良くする気はない」
勢いのままに思わず握手まで求めてしまった俺を冷徹に断った奏谷はいつの間にか顔を完璧に見せていた。
端正で整った顔立ちは、美しいと言うより可愛い。クラスでそこそこの人気は得ているだろう。──普通であれば、だが。
「こんな所で何やってた?服もびしょびしょだし……」
「あなたには関係ない」
至って素っ気ない奏谷に、俺は微苦笑を漏らす。こういう人はめんどくさいのだ。このまま逃げてしまいたい程めんどくさい。
だがこの時の俺はめげずに何度でも声を掛ける。何故そうしたかは、分からなくもない。昔の俺に重ねたのだろう。
「いじめか?それとも、自殺?」
「どっちも。今回は、後者」
流石に根負けした様子の奏谷はようやく渋々と話し始める。
普段は、いじめによってこうしたプールに突き落とされるなどという事がごく稀にあるらしいが、今回は自殺。だが、いくら潜って死のう死のうと考えても、人間は呼吸を求める。そして、水面から顔を出して、泣いて、余計に呼吸が必要になって──。
嗚咽とは、残酷だ。いくら苦しく、辛くて泣いたとしても、嗚咽によって呼吸が余計に吸われていく。いくら死のうとしても、呼吸が増えていく。
と、そんな事より今は彼女の事だ。
「──どうして、死にたい?」
「……私は、笑えないの。無笑病、笑えない病気だって。死ぬなんて辛い酷いことにはならないけど、それでも笑う事が出来ないって」
そう告げた奏谷は、笑おうとしたのか、口角が少し緩んだ気がするが、笑ったとは決して言えない。
無笑病、聞いたことがない病名だ。症状も、初めて聞いた。まだまだ知らない病気もあるんだな。
「──ねぇ、お願いがあるの」
「お願い?」
「うん」
唐突に切り出された話に、俺は一瞬戸惑った。だが、それを奏谷は気にも止めず口を開く。
「私が、卒業するまでに私を笑わせて。それまで、付き合ってあげる」
そう申し出た奏谷は、真面目な顔で、自然と背筋が伸びるような声で、それでも俺は奏谷の言葉に情けない声を出すことを止めることは出来なかった。