マイホーム
万物は流転する。
古代の哲学者はそう言ったという。この世に存在する全ての事物は絶えず移り変わっていき、不変な物などこの世には存在しない。なるほどたしかにそうなのだろう。
流行している音楽やファッションも数年もすれば見向きもされなくなるし、世界の歴史を見れば栄華を極めた王朝も必ず滅びている。
しかしまさか、自分の家の持ち主が突然変わってしまうとは思いもしなかった。
目の前に立つ4人の男女を見て、塚本はそう思う。
「どういうことなんですか。誰なんですかあなたは。警察を呼びますよ!」
怯えと焦燥、それらに由来する興奮、そういったものをあらわにして、前にいる若い男が叫んでいる。
「健太郎、由美、ちょっと後ろにいなさい。」男の横にいる女も、どうやら息子と娘らしい2人の幼児を塚本から守るように体の後ろに隠した。
パニックを起こしたいのは俺の方だ、と塚本は狼狽する。「ここ、俺の家ですよね。どういうことなんですか、これ。」ほんの数分前に起こった、この混乱した現状の始まりを思い出す。いつものように仕事から帰り、一年前にようやく手に入れた念願のマイホームの前まで到達する。そこまではいつも通りだった。異変に気付いたのは、表札を見たときだ。
「筒井」
何度確認しても表札にはそう書かれていた。塚本の家なのだから、そこには当然「塚本」と書かれていなければおかしい。しかし何度目をこすって見ても、表札の文字は「筒井」だった。悪戯で表札を付け替えられでもしたのか?と首を傾げつつ、ともかく鍵を差し込んでドアを開けて家に入った。
ところが靴を脱ぐまもなく、誰も居ぬはずの家の中から若い男が血相を変えて飛び出してきた。「だ、誰ですかあなたは!」塚本が驚きの余り固まっている間に、続いて男の妻らしき女、さらに二人の子供までもが玄関に現れ、驚きの声を上げた。
こうして現在の状況に至る。何度思い返したところで理解不能だった。なぜ自分の家に見知らぬ家族が居座っているのか。普通なら泥棒か何かを疑うところだが、この家族の反応からすれば塚本自身が泥棒ではないか。
「ここは私たちの家ですよ。出て行ってください。本当に通報しますよ。」
早口でそう言う男の体は震えており、演技をしているようには到底見えなかった。女と二人の子供も不安そうな顔をしている。彼らにとってはここが本当に自分たちの家なのだ。
「待った。待ってください。何かの誤解だ。」少し落ち着いてきた塚本は両手を挙げて敵意のないことを示しつつ、言った。
「私は何も悪いことはしていませんし、あなたたちに危害を与える気もありません。ここは本当に私の家なんですよ。」
「そんな訳が無い。」
「嘘じゃありません。近所の人に確認してもらえば分かることです。」
冷静に考えれば簡単なことだった。隣の家の住人に尋ねれば、ここが塚本の自宅であることを証言してくれるだろう。目の前の家族は何かしらの要因で錯乱しているのだ。ここが自分たちの居るべき場所でないと分かれば立ち去ってくれるに違いない。塚本はそう自分に言い聞かせた。
外に出ると、隣家のチャイムを鳴らした。ほどなく返答があり、塚本の隣で一人暮らしをしている大学生が出てきてくれる。塚本はさほど近所づきあいがいい方ではなかったが、隣人とはすれ違えば挨拶を交わす程度の仲ではあった。ここが塚本の家であることは知っているはずだ。
「どなたですか。」
眠そうな目をして出てきた隣人の第一声を聞いて、塚本は愕然とした。
「な、何言ってるんですか。私ですよ。塚本です。ほら、隣に住んでる。」
隣人はいぶかしげな目で塚本を見つめた。「何を言ってるんですかね。僕の隣に住んでるのはあなたじゃなくて、筒井さんですよ。あ、ほらちょうど筒井さん家から出てきましたよ。」
目が回るようだ。悪い夢でも見ているのだろうか。
「ほら、彼は私たちの隣人の田中さんですよ。ここは私たちの家なんです。分かったのならすぐ立ち去ってください。」
いつの間にか背後に来ていた筒井が言った。隣人の名前まで知っている。
「こんばんは筒井さん。この方は誰ですか。知り合いですか、それとも…」
その先を塚本が聞くことは無かった。走って逃げ出したからだ。目の前の得体の知れない人間たちからも、あまりに不可解で理不尽な現実からも逃げ出したかった。あてもなく走り続けた塚本は息を切らし、どうにかたどり着いたカプセルホテルで混乱と不安に満ちた一夜を明かした。
翌日、市役所に向かった塚本はまたも愕然とした。自分の住民票は存在せず、自分は住所不定の人間となっていた。何か自分の理解を超えた力がはたらき、自分から住居を奪っていったのは確かなようだった。市役所の出口で震えながら涙を流す塚本を、人々は奇異なものを見るような目で見つめた。
「塚本さん、この魚おいしいよ、食べる?」不潔さを具現化したかのような、汗と土が染みついて悪臭を放つTシャツをまとった男が話しかけてきた。塚本は生気のない目のまま力なくうなずき、焼いた魚を受け取る。
「元気出しなよ塚本さん。ここに来る人、最初はみんなそんな感じだけどさ。いつまでも悲しんでちゃやっていけないよ。」男の言葉に、周りにいる数人も賛同の声を上げる。
「家が差し押さえられちゃったんだっけ?ショックなのはわかるけどさ、慣れればここの暮らしも気楽なもんだよ。前向いて行こうよ。」男たちはここにいる者特有の、吹っ切れたようにも全てを諦めたようにも見える乾いた笑顔を浮かべて言った。
塚本は下を向いたまま黙り込んだ。差し押さえられたのならまだいい。何も悪いことはしていないのに、突然家を見知らぬ者たちに奪われたのだ。こんな荒唐無稽な話、他人に話しても信じてもらえる訳が無い。
塚本がいるのは都内の公園の端、いわゆるホームレスのたまり場のようなところだった。あの事件から一ヶ月、塚本は会社を首にされ、あれよあれよという間にここまで落ちぶれていた。当然だ。住所不定の人間を雇い続ける会社などあるわけがないし、収入がなくなった塚本に毎日ホテルに泊まり続ける金がある訳も無かった。
塚本は周囲のホームレスたちに適当な返事をしながら食事を終え、段ボールでできた簡易ベッドの中に潜り込んだ。
その夜、塚本は夢を見た。広く快適なマイホームで、素晴らしい生活を送る夢だ。一人暮らしにしてはずいぶん広いリビングにはソファがあり、仕事から帰ってきた塚本はそこに寝転んでゆったりとテレビを見る。清潔な風呂場で誰にも邪魔されない入浴をした後は、柔らかく快適な布団にくるまって眠る…。
そこで目が覚めた。まだ深夜だった。意識がはっきりしてくると、ほんの一ヶ月前は当たり前に所有していたマイホームが、今は夢にまで見る遠い存在になっていることを自覚し、屈辱で目が潤んだ。
塚本は簡易ベッドを衝動的にはねのけると、立ち上がった。すると彼の汚れたズボンのポケットの中で、何かが耳障りに金属質な音を立てた。
取り出してみると、それは鍵だった。いつの間にポケットに入っていたのだろう。その鍵は新品のような輝きを放ち、この世の物ではないかのような神秘的な雰囲気を漂わせていた。塚本はそれをまじまじと見つめ、何かを考え込んだ。
しばらくしてやおら立ち上がると、彼は住宅街のある方角に向かって走り出した。
やがて塚本は適当な一軒の家の前で足を止めた。一ヶ月前まで彼が住んでいた家に少し似たような、新しくきれいな家だった。
窓からそれとなく家をのぞき込む。丁度よいことに、家主はいないようだった。
塚本はポケットから先ほどの鍵を取り出すと、家のドアに差し込む。開くはずがないのに、当然のようにドアが開いた。
満足げに頷くと、靴を脱いで家に上がった。塚本を出迎えたのは名も知らない人のマイホームだった。テレビ、ソファ、キッチン。ありふれた家の中の物が、感動的なまでに懐かしく感じられる。
塚本はくつろいだ。風呂に入り、その後はソファに座ってのんびりとテレビを見た。彼の顔はここ一ヶ月前見せることのなかった幸福な笑顔を浮かべていた。
やがて鍵を開ける音が聞こえ、誰かが家に入ってくる気配がした。塚本は素早く玄関に向かって飛び出し、叫んだ。
「誰ですか、あなたは!ここは私の家ですよ!」
突然現れた塚本に、この家の本来の家主は驚きで目を丸くした。「は?え?どういうことですか?」
「こっちの台詞ですよ。なんで人の家に勝手に入ってくるんですか!警察呼びますよ!」
塚本は声を震わせ、必死に叫ぶ。
明け渡してなるものか。今日からここが俺のマイホームなのだ。