04
「予定調和を嫌悪しろ。先読みを裏切れ。ありきたりとは無縁でいろ」
叔母が口にした言葉は、小説家になる気がない僕に聞かせるには、あまりにも無意味なアドバイスだった。
「別に、この心構えが言えるのは小説の執筆に限らないさ。人生にだって言えるだろう?」
人生?
まだ二十年も生きていない僕にとって、それはスケールの大きな話だ。
大きすぎて──先が見通せない。
予定が組めず、先が読めず、ありきたりになれない。
「逆に、先が見える普通な人生なんてつまらなすぎるだろ。もしも自分が誰とでも代替可能な凡人になるのかと思うと、ぞっとするぜ。人生っていうのは予知できない余地があるからこそ、生き甲斐があるものなのさ」
叔母の言葉を聞き、僕は心を強く動かされた。
なんと素晴らしい言葉だろう。箴言として後世に残したいくらいである。
そうだ、僕は叔母のこういう普通ではない所に惹かれたのだ。特異性を崇拝するようになったのだ。
……まあ、普通でなさすぎるのも考え物であるのだけど。
現に僕は、叔母の失踪という異常事態に悩まされているわけだし──ん?
ちょっと待て、時系列がおかしくないか。
僕は今たしか、叔母を探している最中なのに、どうして消えたはずの彼女とこうして対面して話せているのだろう?
「そう疑問に思うことではないさ。だってこれは夢なんだから。夢の中なら、消えた人間と出会えたっておかしくないだろ」
叔母の台詞を聞くと同時に、僕は周囲の風景が霧がかかっているかのようにぼんやりとしていることに気づいた。
ああ、そうか。夢なのか──明晰夢、というやつか。
夢に見るほど、自分は叔母を敬愛しているらしい。
彼女の信徒を自称している僕にとって、それは誇らしく、喜ばしいことだった。
「相変わらず愛が重いなあ、お前は──この私はお前の夢の中にいる、触れれば消えてしまいそうな幻ってわけだ。だから
お前と私の間で交わされる会話は単なる記憶の整理じみた無意味な自問自答でしかない。最初に私が言った箴言だって、お前が過去にどこかで聞いたセリフの焼き直しでしかないのさ。仮に、ここでお前から『叔母さんは今どこにいる?』と聞かれたところで、満足な回答を返すことはできないんだよ」
それは、まあ──なんとも残念な話だ。
だけど無意味ってことはない。
意味はあった。
「ふうん? どんな意味があったんだ?」
僕が脳内で作り出したまぼろしなら、その答えは聞かずとも知っているはずなのに、叔母は問いかけた。
「叔母さんの姿を一目見られた──あなたを敬愛している甥にとっては、それだけで十分な意味があるんだよ」
本音を言えば、このままずっとここに居たいけど、そういうわけにはいかない。
夢は覚めるものだ。必ず。
それに、僕が起きて探さなくては、叔母は一生見つからないかもしれないではないか。そんなのは御免である。
だから僕は、非常に名残惜しい気持ちになりながらも、目を覚ますことにした。
さようなら叔母さん。
次は現実で会おう。
◆
目覚めた僕は周囲の状況を認識する。
電車の客席のひとつに座っていた。地方の小さな在来線だ。
車内はがたんごとんと緩やかなリズムで揺れており、その振動はまるでハンモックのような心地よさを乗客に提供していた。
昨晩僕が家に帰ったのは日付が変わった後であり、今朝家を出たのはまだ日が出た直後だった。そんな睡眠不足の体でこんな環境にいたら、つい眠ってしまうのも仕方ないのかもしれない。
だがそれは迂闊だった。
雪枝行方という得体のしれない不審者と同行している時に寝てしまうだなんて、油断が過ぎる。寝ている間に何をされるか分かったものではない。
彼女の行動は小説や人生以上に先読み不能の予定不和なのだから。
僕は慌てて、隣の席に座っている行方を見やる。
「すやすや」
彼女は気持ちよさそうに寝ていた。
僕は拍子抜けというか、肩透かしを食らったような気分になった。
「ぐうぐう」
ついさっきまで同じように寝ていた僕に、行方の睡眠をどうこう言う資格はないし、ここで無理やり起こして困らせてやろうという悪戯心なんてもっとないので、このまま安らかに眠らせてやりたいところである。
しかし、車内アナウンスによれば、そろそろ目的の駅に到着するらしい。
目的の駅、と言っても東京ではない。そもそも僕たちが住む地方都市から、東京に直結している電車は出ていない。かの日本の首都に向かうには乗り換えを何回か挟まなくてはならないのだ。次に到着する駅はそのポイントのひとつだった。
このまま行方を眠らせてしまえば、そこを素通りすることになってしまう。
なので僕は仕方なく、一向に目覚める気配がない超説家を起こそうと、彼女の肩を揺すった。
「なあ、起きろ行方。そろそろ降りるぞ」
「うう~ん……あと五分……」
「そんなベタな寝言は、逆に起きてないと出ないだろ」
「うう~ん……五分五分……」
「いったい夢の中で誰と拮抗した勝負を繰り広げているんだ⁉」
その後、なかなか起きようとしない行方を必死で叩き起こした僕は、閉じそうになっていたドアに滑り込むようにして、電車を降りた。
危なかった……。あともう少し遅かったら、時間を大幅にロスしてしまうところだった。
「いやあ、すまないね。電車の居心地があまりにも良くて、うっかり眠ってしまったよ。自分の睡眠の管理なんて、物書きとしては第一に守らなくてはならないことなのに、まだまだ未熟者だなあ、私は──あんな醜態、車内で一睡もしなかったであろうしっかり者の魚くんにとっては、失笑ものだっただろうね、ふふ」
起床直後とは思えないほどに滑らかに話す行方だった。
……やっぱりこいつ、最初から起きてたんじゃないか?
実は寝たふりをしていて、ずっと僕をからかっていたのでは?
そんな疑心暗鬼にかられるが、今となってはその真偽を確かめる手段はない。
「ところで魚くん。私は電車に乗ってすぐに寝てしまったから今まで聞けなかったんだけど、君が自宅の前で話していた前髪長子ちゃんは誰なのかな?」
「三秒で考えたような適当な渾名で呼ぶな。アイツには愛多川ににっていう、ちゃんとした名前があるんだから」
「へえ、かわいい名前だねえ。それに『愛多川』って苗字もいい。一字変われば『芥川』になるじゃあないか」
「ん? ……ああ、そういえばそうだな」
今まで気づいたことがなかったし、ににが自覚している風には思えなかったけど、言われてみれば確かにそうである。
よし、今度ににと会う時があったら、今朝の出来事の謝罪と一緒にこのことも言ってみよう。あいつは何年も図書委員を務めていたこともあって、本や作家が好きだから、自分の名前が歴史的な文豪とニアピンしていることに気づいたら喜ぶかもしれない。
「随分と仲が良いんだね。愛多川ちゃんと。私はてっきり、君は叔母以外の人間に興味がないんじゃないかと思っていたから、意外だよ」
僕は自分が他人と比べてどこか歪んでいるという自覚をしているけど、行方が言うレベルまで社会性を喪失しているつもりはない。
叔母以外にも付き合いのある人間はそれなりにいる。
まあ、その中でも特に愛多川とは長くて深い関係になるのかな。
六年以上の付き合いになるんだし。
「へえ、そうなんだ。それは良かったねえ。長い時間を共に過ごせる親友がいるということは、とても素晴らしいことだよ。魚くんと愛多川ちゃんがどうしてそこまで密接な関係になっているのか、すごく気になるなあ。友達作りのノウハウを学んで、これからに活かしたいなあ」
探るような言い方をする行方に、僕は思わず口を閉じそうになったが、別に僕と行方が仲良くなった経緯なんて、隠すほどのことでもない。
それに、僕という人間のパーソナリティを知っていれば、誰にでも予想がつくことだった。
「アイツも好きなんだよ。叔母さんの作品が」
趣味の一致。実によくありふれた、人付き合いのきっかけだ。
とはいえ、この場合の一致は、かなり奇跡的なものだと言える。
叔母のことを心の底から尊敬している僕が語り部を務めている都合上、彼女の、筆々傑作の著作は世界的に広く知られているくらいには売れているんじゃないかと勘違いされる方が、読者の中におられるかもしれないが、実はそんなことはない。彼女は売れない小説家であり、その存在を知っている読書家は非常に少ないのである。
なので、僕にとって叔母の作品の魅力について語り合える同好の士というのは非常に稀有な存在なのだ。
といっても、別ににには、僕と出会うより前から筆々傑作クラスタだったわけではない。
「むかし、学校の図書室に収蔵されていた五万冊の本が、たった四十分の昼休みの間にすべて切り刻まれる事件があったんだ。で、その犯人として、その時間帯に図書委員として図書室で仕事をしていたににが疑われたんだよ」
ににはあんな性格をしているので、自分にかけられた容疑を晴らせるはずもなく、ただ一方的に責められるだけだった。図書委員の中には、彼女の肩を持つ者も何人かいたけれど、疑われている当の本人が弱気である以上、状況は悪くなる一方だった。
僕の話をそこまで聞いた行方は、顎を撫でながら「ははあ」と呟く。
「なるほど。そこまで聞けば、事の顛末は凡そ予想が付いたよ──先が読めた。五万冊の本が犠牲になるという痛ましいことこの上ない悲劇的な事件に、なんらかの経緯があって関わることになった魚くんは、見事その事件の犯人を突き止め、愛多川ちゃんの無実を証明したんだね」
「ああ、うん、まあ、そんな感じかな」
「すごいじゃないか。まるでミステリー小説に出てくる探偵だ。かっこいいねえ。そんなことをしたのなら、愛多川ちゃんに惚れられたんじゃないかい?」
「そんなことはない。事件が解決した後に、『お礼として何かさせて』と言われただけだ」
「へえ、それで君はどう返したんだい。愛多川ちゃんに何をさせたんだい」
「決まってるだろ──叔母さんの小説を読んでもらったんだ」
たしか、こういうことを指して『布教』と言うんだっけ。叔母のことを神のように崇め奉っている僕としては、当然の行いである。
思い出すだけで、誇らしさに頬が緩みかける僕。しかし、この話を聞いた行方は、ぽかんと口を開けていた。
どうした? 今の話のどこに、そんな呆れ顔をする要素があった?
「魚くん……君は、その、アレだね」
「アレ?」
「馬鹿だね」
口数の多い行方にしては、短くシンプルな罵倒だった。
「女心ってものを、まったく分かっちゃいない。自分は叔母に特大の愛情を向けているのに、どうして他人から向けられる愛情にはそこまで鈍いんだ。理解に苦しむね」
「はあ? どうしてこのタイミングで女心の話になるんだ? たしかに、マイナーな本を読まされるというのは、人によっては嫌なことなのかもしれないけれど、少なくともにには喜んでいたはずだ」
「どうしてそう言い切れるんだ」
「だって、叔母の小説を薦めた際に、僕が『彼女の作品はどれだけ素晴らしいのか』を説明したら、ににはそれをとても興味深そうに聞いていたし、翌日には叔母がこれまで世に出した本をすべて購入していたんだぜ?」
叔母の作品は、その人気に比例して、発行部数が著しく少ない。町中の本屋さんはもちろんのこと、古本屋やネットショップを探しても、取扱店舗を探すのは至難である。
入手難易度だけで言えば、SSR級のレア物だ。
だというのににには、たった一日でそれらをコンプリートしたのである。当時の僕はこれにとても驚かされた。
「僕は叔母の作品をこの世で最も愛しているという自負があるけど、あの時ばかりは、『いつかにには僕以上の叔母ファンになるかもしれない』と戦々恐々したものだ」
「いやあ、単に愛多川ちゃんは君と話を合わせたかっただけなんじゃないかな?」
「え、なんだって?」
「なんでもないよ」
それは魚くんと愛多川ちゃんの問題なんだから、私のような部外者が触れるべきではないだろう──と言って、やれやれと首を横に振る行方だった。
「そうだ。ついでに聞かせてもらうけど、魚くんはどうしてその事件に関与したのかな? 同じ図書委員だったから? それとも、小動物みたいな愛多川ちゃんを見て、助けてあげたくなったから?」
「どれも違う」
これもまた、僕という個人を知っていれば、誰でも想像がつく答えだった。
「犯人が切り刻んだ五万冊の本──その中には、僕が図書室にリクエストして収蔵してもらった、叔母の小説も含まれていたんだよ」
だから僕は許せなかった。
必ずや犯人を見つけてやると心に誓い、事件を解き明かしたのである。
ににを助けたのはことのついでのようなものであり、感謝されるようなことではない。
懐かしい中学時代の思い出を回顧した僕は、そのまま次に乗る電車へと向かっていった。