03
そうだ。東京都、行こう。
と言ったものの、そこですぐに東京行きの乗車券を手配し、その日の内に出発するほど、僕は考え足らずではない。
たしかに行方が見つけたヒントは重大なものだったし、そこに記されていたアドレスらしき文字列に従って東京に向かうのは価値のある行動なのかもしれない。
しかし、だからといって、そこで家宅捜査を終了するわけにはいかなかった。
行方は自分が見つけた葉書を指して「これが一番新しい文章だ」と言っていたけれど、それが本当かは疑わしい。たしかに彼女の捜査の速度には目を見張るものがあったが、かといって、その精度まで完璧だとは言い切れないのである。それに、第二、第三のヒントが続けて現れる可能性だって無視できなかった。
というわけで僕たちは念のため、その後も探索を続けたのだが──結局、行方が発見した葉書以外に、それらしい情報は得られなかった。
叔母の住居兼職場からは原稿と資料とプロットの束(『世界最高の小説』に関するものを除く)しか見つからなかったのだ。
「他に芳しい結果は得られなかったね。やれやれ、これじゃあ不芳だよ。雪枝行方ならぬ雪枝不芳だ」
「文字に起こしてもやや伝わりにくい冗談を言えるくらいには、元気があるようでなによりだよ……」
窓から見える外の景色が闇に満たされ、時計の短針が右上を指している頃。僕は疲労感で肩を落とす。
たしか叔母の部屋に這入ったのが昼前だったから……あれから半日ほど捜索を続けていたのか。我ながら驚きだ。
そこまでやって見つけたヒントが葉書一枚だなんて、落ち込みたくなるけれど、何も成果が得られないよりは遥かにマシである。
とはいえ、今から葉書の導きに従って出かけようにも、時はすでに深夜。電車も飛行機も動いていない。
僕たちは一旦その場でお開きにし、翌日改めて集合することにした──そして翌朝。
旅の準備を整えた僕は、寝惚けまなこを擦りながら、行方との集合場所に向かうべく、玄関を開く。
しかし、親愛なる叔母を探す旅路は、家を出た直後に止まることとなった。なぜなら、玄関の前に立っていたひとりの少女と鉢合わせになったからである。
まるでこれから向かう東京の某駅前で銅像になっている有名な忠犬のように、僕のことを待ち構えていたのは、中学一年生の頃からの友人にして、この春から同じ大学に通うことになった愛多川ににだった。
「さ、さささっ、魚くん! おっ、おはようっ!」
にには無造作に伸びた前髪の隙間から上目遣いでこちらを見つめながら、不器用な挨拶をした。なんというか、先ほど述べた佇まいといい、見ていて小動物みたいな印象を受ける女性だ。初対面の人は、ににに対して「なにかやましい事情でも抱えているんじゃ」とあらぬ誤解を抱くかもしれない。まあ、彼女との付き合いが長い僕は、この態度にすっかり慣れたけど。
「おはよう、にに。前髪が結構伸びてきたけど、大丈夫か? 目に悪そうで心配だし、そろそろ切った方がいいと思うんだけど……」
「えっ」
にには驚いた。前髪に隠れていても分かるくらいに目をはっきりと丸めて驚愕していた。
しまった。いくら気になったとはいえ、女性の髪形を指摘するなんて、流石にデリカシーがなかったか?
と、僕が猛省しそうになっていると、
「さ、魚くんがそう言うなら切ってみようかなあ……へへへ」
にには薄く笑いながら、そう言った。
どうやら気分を害されているようではないようで、僕は一安心する。
「ち、ちなみになんだけど……魚くんとしては、私に合いそうな髪形って何だと思う?」
「えっ」
次は僕がそう言う番だった。
僕の意見をここで聞く意味についてはよく分からないけれど、話の流れから考えて、ににはきっとこの質問で得られた回答を参考にして、髪を切るつもりなのだろう。
美容院に置かれている雑誌で最近流行の髪形を調べるようなもの、なのだろうか?
……そうかそうか。
ににも今年から花の女子大学生である。だったら、オシャレに興味のひとつは抱いてもおかしくあるまい。
僕は『そろそろ前髪が邪魔になってきたんじゃないかな』くらいの意味で散髪を提案しただけで、具体的な髪形のプランなんて考えてなかったけれど、まさかこういう展開になるとは──いや、その考えは流石に無責任が過ぎるか。
前髪を切るなら、それに合わせて他の部分も調髪するのが当然だし、そもそも最初に髪形の話を振ったのはこっちなのだ。
ならば、しっかりと答えてみせようではないか。
にににベストマッチな髪形を。
「ええと……」
意気揚々と回答に挑んだ僕だけど、しかし、『愛多川ににに似合いそうな髪形は何か?』について考えてみると、これが難しい。
僕はににが長すぎる前髪以外の髪形をしているところを見たことがない。
中学高校の六年間年間を通じて、ずっと同じ髪型ばかりを見てきた。
つまり、僕の中では『愛多川にに=長い前髪』のイメージがすっかり定着しているわけで、今になってその認識を覆す全く新しい髪形は想像しづらいのである。
そもそも僕は、女子の髪形について詳しいわけでもないし。
思えば、僕が尊敬している叔母だって、あまり髪形に拘らないタイプの人だった。あの人は年中、適当に伸ばした髪を、ゴム紐で後ろ手に結んでいるだけのシンプルな髪形だ。
……くそっ。こんなことなら、叔母の文章が掲載されていないファッション雑誌にも目を通しておくべきだったか!
「そ、そんなに考え込まなくていいよ魚くん……! ご、ごめんね。変な質問しちゃって……」
「謝るのはこっちの方だ、にに。質問ひとつにすらマトモに答えられないなんて、僕はお前の友人失格だよ」
「そこまで思い詰めることかな……⁉」
ともあれ、似合う似合わないの話で言えば、愛多川ににがこの場にいることほど、似合わないシチュエーションはあるまい。
不自然だ。
ににはこの家の住人ではない。すこし離れた所に居を構える愛多川家の息女である。
そんな彼女が朝早くに、秋坂家の玄関前にいるなんて、どうしたのだろうか?
「まさか、また何かトラブルに巻き込まれて、相談しに来たのか?」
「い、いや、違うの。えぇと……ほら、魚くんって一限の情報倫理の講義を取ってるでしょ? 私も偶然、たまたま、意外なことに、同じ講義を取ってるの。だから今日は、どうせだし一緒に大学まで行こうかな……と思って、お迎えにあがったというか……」
「へえ、そうだったんだ」
そういえば、これまで受けた情報倫理の講義を思い返してみると、同じ教室でににの姿を見かけた覚えがある気がする。にには僕と同じ学部で、同じ学科に在籍しているので、講義が被ることくらいはあるだろう。なんてことはない偶然だ。
ここは友人の誘いに乗って一緒に登校し、先ほどの質問に十分な回答を出せなかった分、親交を深めるというのも悪くないだろう。
「……でもごめん、にに。お前の誘いに乗ることはできない。僕は今から叔母さんを探しに行くんだ」
「叔母さんって……あの、失踪した筆々先生だよね……?」
「ああ。昨日、叔母さんの部屋で行方に繋がりそうなヒントを見つけたんだ。これから、それに従って東京に行くんだよ」
帰りはいつになるか分からない。当然その間、大学は休むことになるのだけど、この世の何よりも価値のある叔母を探すためなら、勉学くらい、いくらでも疎かにしてやろうではないか。
「そっかあ……。だったら仕方ないね……筆々先生が無事に見つかるように、私も応援しているよ」
そう言うににの表情は、少しだけ悲しそうだった。
やむにやまれぬ事情があったとはいえ、友人からの誘いを拒否してしまった事実に、僕は心苦しくなる。この埋め合わせはまたの機会に必ずしよう、と決意した。
「そう言えば、叔母さんは『世界最高の小説』を目指していたんだけど──にに、お前は、『世界最高の小説』って何だと思う?」
そんな質問が口から出たのは、何も、叔母の失踪の話題からの流れだけが原因ではない。
愛多川にには中学高校の六年間で図書委員をずっと務めており、本のプロなのだ。
僕が通う理系の学科に所属しているのが不思議なくらいの超文系である。
そんな彼女の『世界最高の小説』についての意見は、叔母の著作以外の小説については白痴も同然な僕や、超説家とかいう怪しい肩書を名乗る行方よりも、遥かに参考となるだろう。
ひょっとすると、叔母の行方を掴む重要なヒントになるのかも? ──という期待すらしてしまう。
僕の問いに対し、ににはしばらく考えた後、絞り出すような声で、
「か、仮に『世界最高の小説』があるとしたら……私なんかは読めないんじゃないかな……」
と言った。
「料理とか芸術とかもそうだけど、最高はそれに見合った人しかお目にかかれないものだと思うの……。だから、もしも『世界最高の小説』があるとしたら、それを読むに相応しい──その小説に似合う人しか読めないと思うんだ……だから、私みたいなつまらない読者じゃ、表紙すら見れない……んじゃないかなあ……」
後半はやや行き過ぎた卑下が入っていたように思える補足を、にには付け足した。
なるほど。要は高級料理店に規定されているドレスコードみたいなものか。
『世界最高の小説』は格の高さも最高であり、故に読者にもそれなりの格を要求するため、ほとんどの人間はそれを読むことができない──か。
「へー、良い事言うね。私が昨日言った『世界で最も価格が高い小説』・稀覯本の案に通じそうな意見だ」
「ひぃっ⁉」
にには短い悲鳴を上げて、顔を蒼褪めさせた。誰だって、見知らぬ誰かが背後から自分の肩に顎を乗せながら話しかけてきたら、そんな反応を取るに決まってる。
ホラー映画みたいな登場の仕方をした行方は、怯えるにににから離れ、僕の傍まで駆け寄った。
「やあ、おはようさかなん。東京旅行が楽しみすぎて早起きしちゃったからさあ、君の家まで迎えに来てしまったよ」
「いったいいつから君と僕は渾名を許せるほどに仲良くなったんだ? そもそもこの家の住所をどうやって……」
……いや、それは無駄な質問か。
同業者でもない赤の他人だったのに叔母の住宅を突き止めていた超説家なら、その甥である僕の家を調べることくらい、実に容易いだろう。
僕に対して慣れ慣れしく話しかけてくる行方を見て、にには口をぽかんと開けて、茫然としていた。見慣れぬ闖入者に理解が追い付いていないようだ。
行方は芝居がかった動作で礼をしながら、人懐っこい笑みを浮かべる。
「初めまして。私はこういう者だよ」
そして、僕と初めて会った時と同じように、懐から取り出した名刺を渡した。
「ゆ、雪枝、行方……ちょう、せつ、か……?」
「全ての小説を超越した物語を執筆する者さ。まあ、今はまだ一作も書けていないんだけどね」
「…………」
ににの沈黙が深くなった。今の彼女の心中を表すなら、『ドン引き』の四文字が適切だろう。
名刺に記された文字列と、目に前に浮かぶ微笑を交互に見比べた後、にには微かな声で言った。
「それで……あの、超説家さんは魚くんと……どんな関係なんですか?」
「私と魚くんはこれからふたりきりで東京に行く。それだけの関係だよ」
「ふたっ⁉」
一瞬、ににの頭髪の何本かが逆立った気がした。
僕の目に映る彼女は、かつてない程に狼狽していた。たぶん、超説家を名乗る不審者から立て続けに与えられたショックが許容量を超過しているのだろう。
「さ、ささささささささささ魚くんっ! 超説家さんが言ったことは本当なの?」
僕と行方の関係。
ぱっと答えが出にくい質問だ。なんなら、先ほどの『愛多川ににに似合う髪形は?』の方が答えやすかったかもしれない。
そもそも、僕と行方は両者の間に名前のある関係を築いていないのだ。
行動を共にする相棒? ──と言うには、ふたりの最終的な目標は異なっているし。
限りなく無関係に近い関係だ。
それなら、行方が言った『ふたりきりで東京に行く程度の関係』が一番無難かもしれない。
「ああ、本当だよ」
瞬間、ににはこの世の終わりが訪れたような表情をした。
まあ、中学からの友人が、超説家とかいう気が狂っているとしか思えない肩書を名乗る不審者と一緒に県外に出かけるなんて、絶望するには十分だし、そんな顔をするのは当然だろう。親戚が怪しい宗教にハマっているのと、さして変わるまい。もしも僕とににの立場が逆だったら、どんな手段を使ってでも引き留めていたに違いない。
今の時刻は朝だというのに自分の周囲だけ夜が訪れているような雰囲気を漂わせているににに対し、僕はどんな言葉を投げかければいいか迷ったが、それよりも早く、行方が口を開いた。
「おっと、魚くん。もうこんな時間じゃないか。楽しいトークタイムはできることなら永遠に続けていたいけど、この辺で終わらせておかないと、時間的に拙いぜ?」
行方はスマホの画面に表示された時計を見せつける。たしかに、そろそろ出かけなくては、電車の発車時刻に遅れてしまう。
「ごめん、にに。そろそろ行かないといけないから──今日の詫びは、帰ってきたら必ずするよ」
僕は謝罪の言葉を残して、その場を去ろうとした。
その時。
「さ、魚くん!」
ににが突然、声を張り上げた。彼女がこんな大声を出すのを僕は初めて聞いたので、とても驚かされた。
何事かと思いながら、僕はににの方を向く。
「ええと、その、あの……私も魚くんにつ、つい……つい……」
「つい?」
「つい、ついて……いっ……」
「ついて?」
「つい……ツインテールにしようかな……?」
なんだ、さっきの話の続きか。
ツインテールのににを想像する。超綺麗だった。
「いいよ。すげーいい。持前の長髪を活かせそうなヘアスタイルだし、楽しみにしているよ」
僕はそう答えたが、何故かにには項垂れていた。