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「『世界最高の小説』ならぬ『世界最古の小説』と言えば、人と神の間に生まれた暴君であるギルガメシュを主人公とする叙事詩があるけど、成立から何千年も経った今でも読み物として十分に楽しめる文学作品っていうのは凄いよね。どれだけ時が流れても、決して色褪せることのない物語──それもまた、『世界最高の小説』に欠かせない要素のひとつなのかもしれない」
行方がそんなことを言った時、僕はまた彼女特有の脈絡のないトークが始まったのかと思ったが、しかし、それはどうやら違うようだった。
『世界最古の小説』──最古。
叔母の住居であるおんぼろなアパートを見れば、そんな言葉が頭に浮かぶのも、仕方のないことである。
僕はこれまで数えきれないくらいにこの部屋を訪れているけれど、その度に驚かされたものだ。……こんなに古くて大丈夫なのか? 僕は建築系の方面には全然明るくないから詳しくは知らないけど、この今にも崩壊してもおかしくない化石のような建築物が、建築基準法の何らかの個所に抵触していても、まったく不思議ではない。
そんな古民家の中で、僕と行方のふたりは、先日失踪した叔母の足取りを掴むヒントを求めて、室内に置かれている紙束の大群と睨めっこをしていた。
叔母の作品の元となった資料や、成果物である原稿の数は膨大であり、山のように堆積している。これらの中から、あるかどうかも分からないヒントを探すのかと思うと、気が遠くなった。
すぐそばにあった山のひとつに手を伸ばし、上からひとつずつ順番に目を通す。紙で出来た地層を掘っている気分だ。
「ふふ、探索というよりも掘削だねえ、こうなると。これらの中に『世界最高の小説』と言える傑作が埋まっているのかと思うと、宝探しみたいでワクワクするよ」
「人間ひとりの失踪事件に、そんなゲームみたいな感覚で関わるのはやめてくれないか?」
「まあまあ、そう苛立たないでよ。案外すぐに、その辺から『そうだ。京都、行こう』って書かれた置手紙が見つかるかもしれないぜ?」
相変わらずちゃらんぽらんで適当な言動である。
さっきは流されるままに入室を許可してしまったけど、やっぱり今すぐにでも部屋から叩き出すべきなんじゃ──僕がそう考えながら、叔母の生原稿の束を持ち上げると、行方は続けて
「たしかに、私がゲーム感覚でこの探索に参加しているのは否定できないし、非難されるべきことなのかもしれないけれどさ。それを言うなら魚くん、君がこの件に探偵気分で臨んでいることだって、同じくらい非難されるべき行いなんじゃあないかな?」
と言った。
互いに背中を向けながら作業をしているので、顔を見ることはできないけれど、その表情が悪戯っぽく笑っているのであろうことは、口調から想像がついた。
さっきもそうだったけれど、自分が責められた際にのらりくらりと論点をずらし、まるで相手の方に非があるように話を持っていくのが、彼女の常套手段なのだろうか。物書きよりも詐欺師の方が向いてそうだ。
「別に……僕は探偵気分なんかになっちゃいないさ。ただ、ひとりの甥として、叔母さんを探すために──」
「それは警察の仕事だろう。いくら合鍵を持っているからといって、一般市民である君が、身内とはいえ住人が不在の部屋に侵入して、あまつさえその中身を嗅ぎ回るのは、あまり褒められない行いなんじゃあないかな?」
僕が言い終わるよりも前に被せてきた。
たしかに、警察に捜索願を出してはいるけれど、全国で発生している失踪事件の途方もない件数を思えば、現状事件性が見られない叔母の件がどうしても軽視されるのは(実に腹立たしいことだが)仕方のないことだった。売れない小説家という叔母の不安定な身分を思えば、世間にとって彼女は『いつ消えても不思議ではない人物』なのだろう(腸が煮えくり返る思いになるが)。
そういうわけで、捜査に本腰を入れない警察機関に我慢ならなくなった僕は、こうして叔母の部屋へと突撃していたのである。
その行動は浅慮で褒められないものだったかもしれないし、他にもっといいアプローチがあるんじゃないかと言われたら返す言葉もないけれど、だからといって、ゲーム感覚で失踪事件に関わる不法侵入未遂の不審者の同類にはなりたくない。
断固として抗議させてもらう。
「抗議って……喧嘩腰だなあ。最近いやなことでもあった?」
「僕がこの部屋を訪れている理由がまさにそれだよ」
ついでに言うと、得体の知れない超説家とやらと同じ空間にいるのも、『いやなこと』である。
「別に、わたしは君と敵対したいわけじゃあない。さっきの発言だって、君を責めるというよりも「大した違いのない似た者同士仲良くやろうぜ」っていう友好の意味の方が強いんだよ。君は私のことをゲーム感覚と評したけれど、ゲーム感覚が適当や杜撰とイコールで繋がるとは限らない」
ゲームに本気になる大人は、たいして珍しくないだろう? と彼女は語る。
「私は結構マジで、叔母を探す君と同じくらい、いや、それ以上の心意気で、『世界最高の小説』を探しているんだぜ?」
なにを馬鹿なことを、と否定しそうになったが、しかし、室内に積み重なった紙束を捌く行方の動きは、決して適当ではなかった。
むしろ適切であり、立錐の地なく並ぶ紙の山に次々と目を通している。行方は先ほど僕を指して探偵気分と言ったけども、そんな彼女の行動こそ探偵っぽかった。詐欺師に探偵と忙しい女である。
「…………」
『口よりも行動で示せ』という言葉があるけれど、それに則れば、行方は己の本気を十分示していた。
ひょっとすると、僕よりも作業のペースが早いかもしれない。
……なるほど。信頼できない性格をしているけど、少なくともこの探索においては信頼してもいいのかもしれない。
だが、完全に信頼するよりも前に、これだけは確認しておきたいことがある。
僕は振り返り、行方の背中に向かって問いかけた。
「……ひとつ、聞いてもいいかな」
「オフコース。なんなりと」
散歩に出かける時についでの買い物を頼まれたかのような気軽さで、彼女は答える。
「君は超説──あらゆる物語を超越した物語を執筆するための準備として、『世界最高の小説』を探しているけど、それを手に入れたら具体的にどうするつもりなんだい?」
「どうするって……そりゃあ、読むに決まってるじゃん」
「それは知ってる。僕が知りたいのはその後だ──叔母さんが書いたかもしれない『世界最高の小説』を読んで、君はその体験を自分の作品にどう活かすつもりだ?」
思えば、行方の目的が叔母の作品にあると分かった時点で、このことを聞いておくべきだった。彼女の流れるような会話術に圧倒される形で、肝心な部分を今の今まで確認しそびれていたのだ。
果たして行方が返した答えは、
「自分の超説の糧にするよ」
だった。
これが叔母の作品からの盗作、あるいは引用という意味だったら、その時はすぐに部屋から叩き出していたが、行方は続けて、
「優れた物書きにありがちな特徴を知っているかい?」
「……知らないな。叔母さん以外の物書きについて、知ろうと思ったことさえないから」
「読書家なことだよ」
「読書家?」
「そう。本をたくさん読む人だ」
行方は僕の方を振り返り、動かしていた手を止めて、紙の山の上に置いた──その中には当然、結構な量の本も含まれている。
「多読だからと言って、必ずしも優れた作家になれるとは限らないけど、優れた作家はそのほとんどが多読だ。充実したアウトプットには充実したインプットが欠かせないというわけだね」
多読どころか叔母以外の文章については無読に等しい僕にとってはイマイチぴんと来ない話だけれど、ようはコンピュータが十全なパフォーマンスを発揮するにはそれなりのアプリケーションをインストールする必要がある、みたいなものだろうか?
「偉大なる先人の名作を吸収することで、読者は己の中の想像力を刺激され、インスピレーションを得て、作家となれるのさ。無からの創造なんて不可能だよ」
そんなことができるとしたら神様くらいだろうね──と行方は言う。
「まあ、小説内に限られるとはいえ、ひとつの世界を無から創造しているという意味では、小説家全員が神様って見方もできるのかもしれないけどね──そして、優れた作品というのは、優れた刺激を生む。ある名作の発行を境に、次々と名作が出てくるのは、なにも珍しいことじゃあない。文学史を紐解けば、そんなムーヴメントはいくらでも散見される」
とはいえ、寿命に限りがある人間が生涯で読める小説には限界がある。
その上、インプットする作品は玉石混交であり、その全てが読み手に素晴らしいインスピレーションを与えてくれるとは限らないのだ。
つまり、行方が何を言いたいのかというと、
「最高の刺激を与えてくれることがわかりきっている『世界最高の小説』を踏み台にして、さらにその上にある超説を書いてやる」
だった。
最高の小説で最高のインスピレーションを得て、超説への糧とする。
なるほど、そんな御大層な目的があるなら、僕が疑っていた叔母の作品からの剽窃なんて、絶対にしないだろう。なにせ、行方が目指しているのは、『世界最高』ではなく、更にその高みにある作品という、矛盾しているように思える概念なのだから。
『世界最高の小説』からそのままパクってしまえば『世界最高』に留まってしまう。
最高を超えられなくなる。
そんなことになれば、超説家の名折れだ。
「だから心配することはないよ、魚くん。私はたとえ『世界最高の小説』を見つけたとしても、それよりも余裕で面白い作品を書いてみせるから」
自信満々に断言する行方の姿は、とてもではないが、今まで一度も小説を書いたことがないようには思えなかった。
叔母の小説を踏み台程度にしか考えていない態度に、それはそれで不満を感じないといえば嘘になるけれど、そんな細かい部分にまでイチャモンをつけるほど、僕は我儘ではない。
得体の知れなかった超説家の真意の一端を知れて、ひとまず安心だ。
「お、安心してくれたかい? ふふ、嬉しいなあ。それじゃあついでに、もう一安心させちゃおうかな」
行方はそう言いながら、手を挙げた。
それは今まで作業を中断していた手だった──否。
作業は中断されていたのではない、終わっていた。
雪枝行方は、あの僅かな時間の間に、雑な雑談を話しながら、己の仕事を完遂していたのである。
挙げられた手には一枚の葉書が握られており、彼女はそれを僕の眼前に突き付けた。
そこにはこれまで幾度となく目にしてきた叔母の筆跡で、『東京都』から始まる住所らしき文字列が記されていた。
東京都。
日本の首都にして、出版業の中心地である。
「インクと紙の状態を見たところ、おそらくこれが一番新しい文章だ──ここに何かヒントがあるんじゃないかな」
そうだ。東京都、行こう。