坂本さんの旅立ち
坂本さんの居宅訪問サービスは、今日が最終日だった。
わたしはいつものように挨拶してから坂本さんの家に入った。
床の間にゆくと、坂本さんは居間の鏡台の前で、正装をして、出かける準備をしていた。年齢のわりには、元気そうな様子だった。数年前まで日本舞踊の師範をやっていたという。芯が通っていた。
隣接する床の間では、お坊さんが仏壇の前でお経を上げていた。
この家にヘルパーの仕事に入ることも、今日かぎりなのだな。
——そうだ、ちょっと仏壇にご挨拶してゆきますね。
わたしは坂本さんに言って、立ちあがった。すると、
——あら、あなた、靴を脱がなきゃね。
坂本さんはわたしをみて笑った。
わたしは靴を履いたまま、居間に上がり込んでいたのだった。
——まあ、なんてこと。すみません。
わたしはあわてて靴を脱いだ。幸いなことに晴天がつづいており、靴底には泥もなく、畳もそれほど汚れていなかった。でも、なんとなくばつが悪くなり、わたしは居間にゆくことは止めた。
——終わったんで、帰りますね。
——おや、早いね。ちょっと食べてゆかないのかい。お膳があるよ。
坂本さんはにこやかにわたしを誘った。
最終日なので、ねぎらってくれるつもりなのだろう。
——いえ、悪いですよ。こっちも仕事ですし、……
そう断ったが、いっぽうでは、長いつきあいのある老婦人の厚意をむげにするのもはばかられる気持ちもあった。
——せっかくだのに。いろいろお世話になったから。
坂本さんは繰り返した。
どうしようか。わたしは決めかねて言葉を失っていた。