【第36話】Summer⑩(先生・玲奈視点)
当作品は女子生徒と女性教師の二人の視点から交互(1〜2話毎)に話が進んでいきます。
なおサブタイトルの見方は、
Spring①(生徒・菜美視点)
その話(内容)における大まかな季節
通し番号
生徒と先生どちらの視点(語り)か
視点(語り)側の名前
という構成です(第1話を例にしています)。
また時折挟まる『Coffee Break』は、本編で出てきたエピソードの詳細や本編には出てこない彼らの日常を会話主体で描いた小話です。飛ばして頂いても差し支えありませんが、本編と一緒にお楽しみ頂けたら幸いです。
「麻生さん、百瀬くん。」
早々に帰ったと思っていた二人が教室に戻って来たので、思わず声を掛けてしまった。その瞬間、麻生さんの肩がビクッと大きく揺れる。
「あ…っ、ごめんなさい。えっと、先程鳴海先生が仰った通り今日の放課後は理科準備室を開放するから、もし勉強で分からない所があれば二人とも…。」
「ありがとうございます。…でも今回は大丈夫です。」
眉を八の字にして困惑したような笑顔を浮かべながらも麻生さんはきっぱりと告げる。
「そう…百瀬くんは?」
「んー、俺も今回はパスで!…麻生ちゃん、帰ろっか。じゃあまたね、小牧ちゃん!」
「失礼します。」
「えぇ、また…。」
私もぎこちない笑顔で二人を見送る。やっぱり気のせいではないようだ。
どうやら麻生さんは私を避けているようだ。こうして挨拶こそはしてくれるけど、ホームルーム中などに何度か目が合ったものの見事に逸らされた。上手く言えないけど、最初の頃の麻生さんに戻ったような感じだ。相手に壁を作り、決して自分の中には踏み込ませない。
少しずつ心を開いてくれる様子が嬉しかった。色々な表情を見せてくれた。終業式の日までは。
それ以降は顔を合わせていない(今日が最初で最後の夏休み登校日)。その間に何かあったのだろうか。その事情も百瀬くんは知っているのだろう。だって先程の「麻生ちゃん」には大切な人を労わり、守るような慈悲深さを感じられたから。
…もしかしたら私が何かしてしまったのかもしれない。無意識に彼女を傷つけたのかもしれない。でも聞けない。今の彼女がそう簡単に話してくれるとは思えないし、もし本当にそうだったら…と思うと真実を知るのが単純に怖い。自分の臆病さが情けない。
「はぁ……。」
「どうしたのさ、溜め息なんかついちゃって。久しぶりだから疲れた?」
最後の生徒を見送り一段落着いた後の理解準備室。千尋先生がコーヒーを淹れ、白とピンクのマグカップをそれぞれの手に持ちながら席に着く。ピンクのマグカップはコーヒーブレイクが習慣化した頃に図々しいながらも自分専用のものを購入し持ち込んだのだ。
結局この日は他のクラスの生徒を含めて6名がやって来た。補習はほぼ全科目で行い全クラスに告知しているので、うちのクラス以外の生徒も含まれている。
「いえ、実は…。」
思いきって今日の麻生さんのこよ、そして心当たりはないけど自分が原因かもしれないという推測を伝える。千尋先生は自分の分のコーヒーに口をつけながら必要以上に私に視線を向けなかったものの、きちんと話を聴いてくれていることは伝わって来た。
「…お嬢さんもだったか。」
そして全てを聴き終えた後、独り言のように呟いた。そしてその表情はどこか寂しさと悔しさを思わせるようなものだった。
今度は私にきちんと視線を向け、千尋先生が口を開く。
「正直俺にも原因は分からない。というより情けないけど心当たりが見つからない。ただ麻生が何かを抱えていることは多分事実だと思う。とりあえず新学期になっても続くようなら、俺から声を掛けてみるよ。…あいつ、だいぶ心を開くようになったとはいえ、まだまだ一人で溜め込んじまう所があるからな。…心配だよ。」
千尋先生も同じような対応を受け、同じような思いを抱いている。何より同じように私達は二人とも麻生さんの“先生”であり、麻生さんは私達の“生徒”だ。
そう、同じはずなのだ。それなのに何だろう、この違和感は。この何とも表現し難い気持ちは。
「……独占欲、ですか?」
何故こんな言葉が零れたのだろう。もしかしたらこれが違和感の正体なのだろうか。
「……麻生さんを自分だけの特別にしたい。自分だけが麻生さんの特別になりたいって。」
終業式前に百瀬くんもこんな話をしていた気がする。
誰かの、特別な誰かにとっての特別になりたい。勿論その特別は恋愛とは限らない。
百瀬くんの特別な人は麻生さんであり、麻生さんの特別な人も百瀬くんなのだろう。
一方千尋先生の特別な人も麻生さん?その麻生さんにとっての千尋先生もやっぱり特別なの?
じゃあ私にとっての特別は……?
「トリップしている所悪いけど…」
そう前置きした上で、千尋先生が私を真剣に見つめる。千尋先生の“特別な人”はこの視線をいつでも、何度でも受け止めることが出来るのだろうか。ぼんやりとそう考えている私はまだ自分の空想世界に入り込んでいるのかもしれない。
「…そうだ、って言ったらどうする?」
一瞬何が「そうだ」か分からなかったが、ここに来て一気に現実世界に呼び戻される。
「そう…なんですか?」
何とか言葉を絞り出す私に対し、何故か千尋先生はいつもの飄々とした態度で返す。
「…本当にそうだとしたら俺がこんなにもあっさりと言うわけないでしょ。ましてや学校内で。」
「そう…ですよね。」
「しかもお嬢さんなんかに。」
「……そうですよね。」
結局千尋先生というのはこういう人なのだ。本心を読み取れない。読み取らせない。それが何だか悔しくて悲しい。
「…ま、心配なのは本当だよ。でもその半面麻生なら多分大丈夫だろうとも思う。繊細ではあるけど何だかんだ芯は強そうだからな。…多分この時期の生徒達は多かれ少なかれ色々なモンを抱えているんだよな。時には友達や親に言えないようなこととかもさ。だから道しるべになることと同じくらい、黙って見守ることも必要なんだと思うよ。俺達大人には、さ。」
「でも…本当に私が原因だったらちゃんと謝りたいです。」
「うん、その素直さがお嬢さんの良い所だよね。仮に自分が悪くても絶対に認めない人間も少なくない中でさ。ただ麻生の場合謝ったら謝ったで怒りそうなんだよなー。『謝らないで下さい!』って。」
「…今麻生さんの声で脳内再生されました。」
「…次に会った時に戻っていたら俺達も普通に接してやろう。その代わり引きずっているようならちゃんと話を聴いて、もし俺やお嬢さんに原因があるとしたらその時はきちんと謝ろう。」
「…はい。」
麻生さんも百瀬くんもたった数ヶ月の間にたくさんの表情や感情を見せてくれた。勿論多かれ少なかれ他の生徒達だって同じだ。
自分はもう通り過ぎてしまった子どもから大人へと変わっていく時期。子どもというには人生を知り過ぎていて、大人というには人生を知らな過ぎる。
あの時の私は何を思い、何を大切にして生きてきたのだろう。同じく今の彼ら彼女らは何を思い、何を大切にして生きているのだろう。計算式などは存在しない。これは国語の問題なのだ。
視線を落とすとマグカップの中にまだ半分程残っている黒っぽい液体がゆらゆらと揺れている。その中に高校生の自分が浮かび上がる。それは幻と分かっていても、思わず心の中で問い掛ける。
(人生にも計算式があればいいのにね。)
幻の私がちょっと生意気そうに答える。
(でもそれがないから人生は面白いんでしょ。)
嘘だ!この頃の私は絶対にこんなしっかりとした返答なんて出来ない!悔しいけど。
「お嬢さんどうしたの?またトリップ中?」
違います!…と言えない所が悔しい。
「…人生って、計算式がないから面白いのでしょうか。」
「そうだね。…でも自分だけのオリジナルの計算式を作るのは面白いかもしれないね。」
千尋先生が目を細めて笑う。決して初めて見る表情ではないのに、一瞬だけ見たことのない高校生の千尋先生が浮かび上がった。
千尋先生の高校時代のお話をいつか聴いてみたいと思った。そしてもし私達が同じ高校で先輩後輩という間柄だったら、私は“鳴海先輩”と“千尋先輩”どちらで呼んでいたのだろう。それとも…。
「こーら、もうトリップは禁止。久しぶりの学校で疲れただろうから、今日は早く帰って休みなさい。これは先輩デス。」
私の心を読み取ったのかそれとも偶然なのか、自分を“先輩”と称する千尋先輩。さすがに現実と空想の狭間が怪しくなって来たので、残りの仕事を急いで片付けることにした。
まだコーヒーの中に残っていたらしい幻の私が、声を上げて笑ったような気がした。