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あなたを攫ってしまいたい

【後編:弟の一人称視点】

 


 ずっと好きだった相手が義理の姉になり、俺は逃げるように海外へ留学した。見送りは断ったのにわざわざ夫婦でやってきた思い人になんとか作り笑いを見せるとその人は何も気づかないまま俺を送り出した。


 それから一年半。俺は久しぶりに日本に戻ってきた。乾燥したヨーロッパとは違う湿気た日本の空気を感じて俺は帰ってきたのだと自覚した。

 ここにはあの人がいる。でももう大丈夫なはずだ。あれから何人かお付き合いもしたし、こんなに時間が空いたんだ。もう好きでもなんでもない、ただの義弟の顔が出来る。そう思っていた。


 彼女に会うまでは。



「ただいまー」


 一年半ぶりの実家に帰る。ここで同居している兄夫婦もいる。そんなことはわかっていた。でもまさか出迎えに来るのが彼女だとは思っていなかった。


「おかえりなさい」


 可愛らしいエプロンをつけたまま、彼女……千歳さんはにっこり笑って言った。

 その拍子に胸がどくんと弾み、それからずくりと疼いた。……なぁんだ俺、全然忘れられてないじゃん。

 一目見だだけであの頃の思いが蘇る。優しくてちょっとおっちょこちょいで、実は気の強いところがある二つ上の先輩。隣接する男子校と女子校の共同文化祭で出会ってからずっと高嶺の花だと思っていた人。出来のいい兄貴に横から掻っ攫われてすきだと告げることも叶わなかった。思いを隠したままそばにいるなんてできなくて、でも幸せそうな表情を壊したくなくて、忘れたくて距離を置いた。

 だけどやっぱり、ダメだった。俺はまだ千歳さんをすきなままの俺だった。


『心はままならないものよ』


 そう言ったのは何番目の彼女だっただろうか。付き合っているのに決して心を開かない俺に、好きだと言い続け、もうやめようと言った俺に彼女はそう言ったのだ。その気持ち、俺にもよくわかるよ。

 嫌いになれたらどんなに良かったか。あの子を幸せに出来たならどんなに良かったか。

 無為な思いだけが積み重なっていく日々を終わらせることが出来たら──どんなに良かったか。


 わかっていてもどうにもならないのが心なのだと。


 結局ままならない心を抱えたままの俺たちがうまくいくはずもなくて、別れを告げた。彼女は諦めたように笑って「いいよ」と言ってくれたのだ。

 それから彼女は風のうわさで地元の幼馴染みと結婚したらしいという話を聞いた。彼女には彼女を愛してくれる人の元で、幸せになってほしいと、俺は自分の残酷さを棚に上げて願った。


 過去に思いを馳せかけて、現実を思い出した俺は、変わらないままの笑顔につられるように笑って。


「すっかり“奥さん”になってるね、千歳さん……いや義姉さんって言った方がいいかな?」


 なんて揶揄った。千歳さんはきっと砂糖菓子みたいに甘い表情をして『からかわないで!』と怒るんだろうなと思っていた俺に返ってきた反応は想像と違った。


「あ、うん……そうかな? そう見えるなら良かった」

「……千歳さん? どうかした?」


 嬉しそうな顔をするはずが少し顔を引きつらせて無理やり笑ってみせている千歳さんに違和感を覚えないはずもなく。心配になって尋ねた。まさかとは思うが兄貴と喧嘩中だったりしたんだろうか。


「え? ど、どうしたって何が?」

「なんか、なんていうか……ちょっと変だよ。今の千歳さんあんまり幸せそうに見えない。……兄貴となんかあった?」


 義理の弟がズカズカと夫婦の間に踏み込むのもどうかと思ったけど。俺にとって千歳さんはただの義姉ではない。男としての俺が本能的に踏み込ませていた。


「……えっと、あの。……うん。どうせそのうちわかると思うから、今言っておくね」


 千歳さんは少し躊躇って、視線を揺らすと覚悟を決めたらしくまっすぐこちらを見た。


「私、今、雅之さまのこと、見えなくなっちゃったの」

「…………え?  どういう意味?」


 まず、意味がわからなかった。俺の困惑顔に千歳さんは慌てて付け足しの説明をする。


「原因は心因性のものらしいんだけど私にも理由がわからなくて、ただ、雅之さまのことだけが私の視界に映らなくなっているの」

「そんなことって……」

「おかしいでしょう? 私も馬鹿みたいって思うんだけど、本当なの。声は聞こえるし手も触れるのに、姿だけが見えなくて……」

「どうして……、どうしてそんなことに」

「さっきも言ったけど原因はよくわからないの」

「思い当たる節は?」

「……さあ、どうかしら」


 誤魔化しの下手な千歳さんの言い訳は思った以上に手強くて俺は二の句が告げない。もし彼女を傷つけるようなら聞けるわけがらなかった。


「……そうなんだ。不便なことはない? 良かったら俺手伝うよ」


 話を変える弱い自分と下心のある醜い自分が同時に現れる。己の生臭さに反吐が出そうだ。


「ありがとう。でもそれ以外おかしなところはないから平気。英二くんもちゃんと見えてるよ」


 嬉しいはずの言葉は、鉛のように重く俺の心に残る。

 ──彼女にとって兄貴だけが、特別なんだと再確認させられた。






 俺と両親と兄貴と千歳さんで、千歳さんの作った料理を囲む。俺の帰国祝いらしいそれらはとても目に異常がある人が作ったとは思えないほど立派なものだった。しかし彼女の目がおかしいのは確かなようで目の前にいる兄貴とは違う方に器を差し出している。

 兄貴は気にした風もなく「ありがとう」と言って受け取る。けれど彼女はその声の位置で自分が明後日の方を向いていたことに気づいたらしく、少し視線を落としてちいさく「ごめんなさい」と言った。

 俺はそんな千歳さんを見ていられなくて振られてもいないのに留学していたときの失敗談を大仰に誇張して話した。その場に流れるなんとも言えない居心地の悪い空気を笑い話でぶち壊してしまいたかった。


 食事後、千歳さんが声をかけてきた。


「英二くん……さっきはありがとう」

「ん? なんのこと」

「ううん、わかってないならいいの。お礼言いたかっただけだから」


 ──わからないなんて、嘘。さっきのフォローのことだと気づいてる。でも俺は義弟で、義姉に見せる好意以上のもを出してはいけない。あれも俺が空気を読んだのではなく、空気を読んでいないからだと思われなければならない。


 すきだなんて、気がつかれた日には。



 俺はきっとあの人を攫って逃げてしまうから。




 だから俺のためにも、家族のためにも、そして彼女のためにも、気づかれてはならないのだ。




 奇妙なパントマイムのような生活は続く。そんなある日の事だった。


(あの人って……)


 所用で出かけた先で見覚えのある女性を見つけた。ピンと伸びた背筋、高いヒール、プライドの高そうなキツめの目、髪は記憶にある時よりも随分短いけれど彼女らしい格好のいいショートカット。

 ──兄貴が結婚前に付き合っていたはずの人。


「佐々木さん!」


 俺は思わず声を掛けていた。二、三度あたりを見回した佐々木さん──佐々木里香子さんは俺の姿を見つけると目を丸くする。


「英二じゃない! こっち帰ってたのね」


 赤を刷いた唇は蠱惑的に笑み随分と魅力的な人に見せる。事実彼女は引く手数多の才媛だ。俺はてっきりこの人が兄貴と結婚するのだと思っていたものだ。


「お久しぶりです。お元気でしたか?」

「……まあね」


 まあねと言いながらも浮かない顔に、「……兄貴と揉めました?」なんて聞いてしまう俺はやっぱりデリカシーのない男だ。


「んー……揉めたっていうか、あっちが裏切ったくせにまだ好きだとかしつこいからちょっと迷惑してた。最近は諦めてくれたのか、なくなったんだけどね。……ってこんなこと身内に聞かせる話じゃないわね、ごめんなさい」


 思ってもない話に狼狽える。


「あの、その話もう少し詳しく教えてくれませんか」


 気がつけば、そんなことを言っていた。





「千歳」

「雅之さま?」

「俺と一緒に逃げよう」

「え? それにこの声は英二くんね、いつもと呼び方が違うから間違えちゃったわ、ごめんね」

「そんなことどうでもいい。とにかくこの家から出よう」

「どうしたの急に。そんなこと言うなんて」

「あんた気づいてたんだろ? 知ってしまったんだろ? ──だから見えなくなった」

「なに、を……」


 しらを着るその細い肩に縋りつくように腕を回す。片腕でも回ってしまうような華奢さに目眩がしそうだった。今からいう言葉の残酷さに折れてしまいそうなか細い肢体。


「──あいつに、他の女がいるって」


 それでも言ってしまったのは、彼女に、傷ついて欲しかったのかもしれない。そうすればあいつ……兄貴を捨てて俺と逃げてくれる、そんな幻想をいだいて。


「……ええ、知っているわ」

「なら!」

「でもいいの。最後に私の元へ帰ってきてくれるのなら。私が、最後の女になれるなら、それで」

「嘘つくなよ、じゃあなんで千歳はあいつが見えないんだ! 見たくないからじゃないのか!!」


 言われたくないことを言われた子どものように彼女は耳を塞いで俯く。


「……それでも。例え雅之さまに愛されてなくても、私はあの人が好きなの……。それにあの人は私を捨てられない。私自身は愛してなくても会社は愛してる、だからその背後にある私の家を捨てることは出来ない」


 無垢な人だと思ってた。利害とか損得とかしがらみなんて関係ないところに生きている人だと思っていた。

 それはどうやら俺の思い違いだったらしい。この人はこんなにもしがらみまみれだ。そして、そのことにちゃんと気づいてる。


「あんた、それで幸せなの?」


 負け惜しみだった。彼女がいう答えもわかっていた。


「……私は幸せよ」


 俺に、彼女の幸せを否定なんて出来るはずもないのだから。





 ──これからも俺や彼女、もしくは兄貴も、歪な箱庭のなかで、何かを求め何かを諦め、生きていくのだろう。




 end

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