あなたが見えない
【前編:三人称】
何かがおかしいと感じた時には、その違和感は予感から現実へと変わっていった。千歳は己の目元に触れ呆然と呟く。
「あなたが、見えない」
彼女にとって世界の終末とも言える絶望がそこにはあった。
千歳が片思いを実らせ雅之と結婚したのは二年ほど前のこと。実業家で背の高い雅之と資産家令嬢の千歳は美男美女の夫婦だと周りに持て囃され、それに満更でもなく笑い返していた彼女はこの時ー世界で一番幸せなのは間違いなく自分だと思っていた。
元々ものに恵まれていたこともあり欲に疎い性質だった千歳が初めて自ら望み手に入れたのが雅之だった。
箔をつけるために入れられた大学にて出会ったのが二人の始まり。これまで女学院で周囲に女性ばかりな生活を送っていた千歳にとっては見るもの全てが目新しく刺激的なものだった。しかし物慣れていないことも丸わかりで、よくない出会いも齎した。
「あんた、冬白千歳だろう? ちょっと俺に付き合ってくれよ」
「ど、どちら様ですか」
「いーから、いーから。こっちこいよ!」
「ヒッ」
目鼻立ちの整った千歳は入学時より目を引く存在であり、下心を大いに含んだ輩に絡まれたのだ。世間知らずで家族以外の男性との関わりも限りなく少なかった千歳は、自分より大柄な相手に怯えながらも逃げることも躱すことも出来ないでいた。
「彼女、俺のツレなんだけど。何か用があるなら俺が聞くよ?」
「……ッケ、男連れに興味ねーよ!」
そこを助けたのが雅之である。
「大丈夫? 怖かったね。もう安心して。あいつ、ここじゃ有名なナンパ男なんだけど彼氏持ちには手を出せないから」
「は、はい……ありがとう、ございます」
紳士的にかつスマートにナンパ者たちを追い払ったその姿を見て千歳は恋に落ちた。初めての恋だった。
いくつかの物事を経て、二人の交流は深まり、その頃には千歳は最高学年になり一つ上の雅之は学生起業を果たし卒業後はそのまま起業家として働いていた。
「頃合いではないか」
と言ったのは、千歳の父だった。既にお互いの家族にも紹介し合い公認の付き合いとなっていた二人の関係を一歩進めるべきではないか、と。
千歳はその言葉をずっと待っていたし、将来は当然雅之と歩いていくものだと考えていたのでようやくと言っていいほど、待ち焦がれていた。それは雅之も同じだと。
けれど期待に反して雅之は「少し、時間をください」と千歳の父に言った。
同じ気持ちだと思っていた千歳にとってそれは非常に大きなショックを与えた。どうしてと叫びたかった。しかし生まれの良い千歳には、そんなはしたないことと、取り乱すことも出来ず、ただ拳を固く握り口を結び耐えるしかなかった。
一方、雅之の態度を千歳の父は同じ男として何か感じるものがあったらしく、一言「わかった」と告げ、前向きな返答を望んでいると伝えた。
「ありがとうございます」
と困り眉で笑う雅之に千歳は不満を抱きながらも、彼の返答を待つことになった。
「……不満か?」
「いえ、そういう訳では……」
「私はお前の父親だぞ。お前の考えていることくらいわかる」
「っ、では何故雅之さまは婚姻を先延ばししたのでしょう」
「お前にはわからないだろうが、男にとって家族を持つというのは人生を決める大事なんだ。一朝一夕に決められるものではない」
「雅之さまは私を好きではないと?」
「そうじゃない。お前の人生まで担ぐ覚悟があるかどうか、考えているんだろう。愛だけでは生きてはいけないからな」
愛だけで生きていけると思っていた千歳には父の言葉があまりよくわからなかった。
そんな傲慢にも似た純真さを持っていた千歳だったが、物欲はあまりなく似たような令嬢にありがちな支配欲なども持ち合わせていなかったために、誰かに恨まれたり憎まれたりすることとは縁遠い生活をしていた。
彼女の世界は綺麗なものだけで成り立っていたのだ。
数日が経って、雅之が「お嬢さんを僕にください」と申し出た。千歳は待ってましたとばかりに喜んで、父もそんな千歳の様子に嬉しそうに、「娘を宜しく頼む」と答え、二人は婚姻への道を歩み始めた。
それからはトントン拍子に事は進み、結婚し幸せの絶頂に上り詰めた千歳。不幸はなく、ただただ幸福に満ちた甘い世界で夢のような生活を送っていた。
──だが幸福とは往々にして壊れるものである。
「雅之さま……?」
夫婦揃ってとある資金集めのパーティに参加していた千歳は、お手洗いに行くために別れた夫の姿を探していた。
するとロビーに続く曲がり角で夫の白いジャケットの背を見つけた。どこへ行くのか、不思議に思いながら後を追いかける。
アイボリー色の円柱の影に、千歳の探し人はいた。
そこで千歳が見たものは、情念の篭った切なげな眼差しの雅之が白いドレスの美人に縋り付いてる姿であった。雅之のそんな切羽詰った顔を千歳は今までに一度も見たことがない。
しばらく千歳には目に見えるものが理解できなかった。
二人のいる柱の一つ手前に身を隠した千歳の耳はその先から聞こえる話し声を、集音器のように拾う。聞きたくないと塞ぐこともできたのにそうはしなかった。知らないままでいる方が怖いと思ったのだ。
「すまない、行かないでくれ」
「もう二度と会わないって言ったでしょう……!」
「わかってる今日のことは偶然なんだ」
「いいえそんなはずない。耳聡いあなたがそんなミスをする訳ないじゃない。知っていて、来たのよ」
「……ッ、だって、」
──愛してるんだ、君を。
その声は銃弾のように千歳の胸を貫いた。
千歳にとって雅之は年上で包容力のある大人の男であった。いつも優しい眼差しで自分を見守ってくれる余裕のある人。
必死に懇願する、いっそ惨めにも見える子供のような姿など、全然知らなかった。
何も考えられず、しかしそれ以上聞くことも耐えられなかった千歳は静かにその場を去ると、一人で家に帰った。
身につけた和服を乱暴に脱ぎ去ってベッドに入り夢の中へ逃げるように眠る。
雅之は、その日、帰ってくることはなかった。
翌朝、目が覚めるとまぶたに違和感が走り千歳は目を擦った。泣きながら眠ったせいだろうか、腫れているのかもしれないと覗き込んだ洗面台の鏡の中にはしたままの化粧がよれた酷い顔の自分がいる。
慌てて化粧を落とし、いつもより少し乱暴に顔を拭う頃には違和感は薄れ千歳は気にするのをやめた。そんな些細なことは昨日のアレに比べれば大したことではない。
──昨日、と思い出して、俯く。空いたベッドの片側だけ綺麗なさまを見てさらに落ち込んだ。
(……浮気、していたのよね)
千歳は妙なことに旦那が不貞を働いていたという点についてはあまりショックを受けてはいなかった。母親から「浮気は男の甲斐性。最後に家に帰って来ればそれでいい」と言い聞かせられていたからだろうか。いつかそういうことが起きても仕方ないと思っていた。千歳にとって最高の男である雅之なのだから、仕方がないと。
では何故ショックだったのか。それはきっと、自分の知らない雅之の姿を見てしまったこと。完璧だと信じて疑わなかった夫が、自分には見せない姿を、誰かも知らぬ女性に見せていたことが、千歳に裏切られたと感じさせていた。
(でもいいの。彼が帰ってくる場所がここであるならば)
それは一縷の希望、藁にもすがる思いだった。
「ただいま」
かくして千歳の望み通り、雅之は日の昇りきった頃、帰宅する。
「ごめんね昨日は一人で帰らせて。パーティで久しぶりに会った友人がいて朝まで付き合わされたんだ…………千歳?」
千歳に不貞の事実を知られているなど露ほども思わぬ雅之は頭を掻きながら妻のご機嫌を伺う。怒っていれば詫びの印になんでも……ケーキだろう、花束だろうか、それとも指輪か装飾品の類だろうか、与えようと考えながら。今までそうしてきたように。
しかし千歳からの返事はなく彼女は呆然とどこか焦点の合わない目で雅之の方を向いていた。
「………………ない………」
「どうした? 千歳」
あまりにか細い声で聞こえなかった雅之は聞き返す。千歳は目をその華奢な両手で押さえるともう一度、同じ言葉を吐いた。
「あなたが、見えない」
静かな声は悲痛な叫びのように聞こえて、雅之は言葉を失った。
夫である自分のへの好意を隠すことなく顕にしていた妻が、突然自分を見えないと言い出したことにもすぐには理解が追いつかなかった。
何故、と。ただ、そう思った。
これまで彼女からの愛は絶対だと、雅之は信じて疑っていなかった。それほどまでに盲目的に愛されていたことを理解していたし、利用してきたのだ。
それがまさか、こんなことになってしまうなんて。その盲目さが現実に、我が身に返ってくるなど想像もしていなかった。
以降、千歳は雅之の姿を見ることが叶わなくなった。声も手のひらの感触もわかるのに、見ることだけができない。
──千歳の深層心理のなかに生まれた「自分が知らない雅之を見たくない」という強い思いに影響されて。
人知れず病んだ心に、当人さえも気づかずにいるために、誰にも治せないまま、誰にも救えないまま、歪な結婚生活は続く。
*
雅之にとって千歳との結婚はとどのつまり打算と惰性であった。資産家の彼女の父はベンチャー企業の社長である雅之の後ろ盾で、千歳自身は綺麗なお人形のようなものだったのだ。
わかりやすく素直で扱い易い、何より雅之の自尊心を満たすことが出来る美人でしかも自分にゾッコン。
こんなに都合の良い相手はいなかった。結婚前から他に付き合っている女がいることにも千歳は気づかない。甘い蜜を吸うことのできる人間だった。
雅之の思いは千歳ではなく、別の女にあった。けれどその本命は自分が日陰者になることを嫌い、不誠実な雅之に愛想をつかして逃げていった。そのことが雅之のプライドに火をつけ、ますますのめり込んでいくきっかけになる。
雲隠れしていた相手をようやく見つけると雅之は事もあろうに妻の千歳を連れてその場を訪れたのだ。いくら同伴必須のパーティと言えど、常識では有り得ない判断だ。
下手をすれば浮気相手と妻の対面という最悪の事態になるかもしれないのに。
雅之は油断していたのだろう。もしくはもし鉢合わせたとしても乗り切る自信すらあったのかもしれなかった。
妻が少し離れた隙に雅之は本命に接触した。結局一番見つかってはいけない相手に見つかるとも知らず。
彼を油断たらしめていたのはようやく会える本命の存在だった。彼は浮かれていたのだ。耳ざとい自分から逃げ仰せた賢く聡明で一枚上手な愛しい女に会えると思い。
しかし本命にはその場では逃げられてしまったが、その尻尾を掴んだ雅之は先に帰った妻のことなど忘れて、パーティに出ていた男の友人と朝まで御機嫌に過ごしたのだった。
そうして帰った昼下がり。
妻は知らぬはずの二心を責めるように、雅之が、雅之だけが、見えなくなったと告げた。
すぐさま眼科医のもとに連れていったが目の異常は見つからず、勧められた心療内科でも原因はわからずじまいだった。
雅之が見えないだけでほかのものはきちんと見える千歳の生活はさほど変わりはしなかった。
二人の関係はどこかチグハグでそれでも体裁を整えようとする表面張力みたいなものが働いて、かろうじて繋がっていた。
そんな折、海外留学に行っていた雅之の弟が帰国するという知らせが二人の元に届くのだった。