最後の言葉
口移しで渡された彼女の飴は、薄い抹茶の味がした。官能的な瞬間だったが、飴を渡した後の、幼さの残る彼女の笑顔を見ていると、こちらまで少しだけ照れ臭くなった。
口に残る甘い香りが、そのまま彼女の口内の匂いだと思うと、たまらなく抱き締めたくなってしまう。
距離を取るように離れていく僕と彼女の間は、当然のように開いていく。
ビルとビルの間の道路だったので、積もった雪もなんだか味気なく見えてしまう。
赤い外灯がそれらを淡く紅く染めているのを見た。
当たり前の光景を見ているだけなのに、まるで何かの記念日のような特別感がある。
彼女は言った。
「私が明日死んだら、君は泣いてくれるかな?」
黙っていたのは、なぜ今その話をしたのか疑問に思ったからだ。
しかしその気持ちは彼女に届くことなかった。
大きくため息をついて、「やっぱりねぇ…」と訳知り顔で微笑んだ。とても悲しそうな表情で、今にも心が音を立てて崩れてしまいそうだったので、僕は彼女の手を取った。そして歩き出した。
本当は怒っていたのかもしれない。
人を試すようなキスを道路の真ん中でしたり、唐突に『自分が死んだら泣いてくれるか』なんて、縁起でもないことを言われたことに。
でもその時気が付くべきだったのかもしれない。
だってそれが彼女の最後の言葉になってしまうだなんて、この時の僕には推し量れるわけがなかったのだから。
※※
彼女の遺体は海岸で見つかった。死因は不整脈による心臓発作。
まるで地面に手足をへばりつけるように投げ出して、青空を見上げていた。
まばたきをしないことを除けば、彼女の体は生きているような美しさを保っていたそうだ。
まぶたを下ろしてあげることが、彼女にとっていいことなのか分からなくて、そのままにしておいた。
この快晴の空を見上げて、彼女は息が出来なくなるような胸の苦しさに襲われたのだ。
涙は出てこなかった。
泣いてくれるかと問うた彼女の予想は当たってしまった。
だってそうだろう?
泣いて何かが変わるなら、僕は無理矢理にでも泣いてあげられる自信くらいはある。だけど、死んだものは蘇らない。これは絶対のルールなのだ。
どれくらい愛していたとか、どれくらい大切にしていたとかは一切関係ない。平等に死は訪れる。情け容赦なく命を刈り取っていく。
※※
彼女の自宅は木造二階建ての古い家屋だ。海からそう遠くない場所にあり、遺体との距離も直線でたった数キロほどだった。
最初は誰かに襲われたのではないかと疑われたが、体には争った形跡はなく、暴行を受けた様子もなかった。
ただ、遺体の近くにポラロイドカメラが落ちていたのだ。今時デジタルカメラではなく、型の古いそれが、まるで彼女のあの世への渡り賃みたいに置かれていた。
彼女の所持品かと思われたが、カメラからは男性のものと思われる指紋が発見されており、死亡前に一緒にいたのではないかと思われている。
復讐心なんかは一切なかった。死ぬ前に、あの海の快晴の空を見上げた時、一人ではなかったというだけの話だ。
それが一体誰だったのかは分からないが、遺体には特別触れていないというなら問題はない。
ただ、彼女が胸を押さえて倒れた時、その男性はなぜ救急車を呼ばなかったのか、それを直接聞いてみたかった。
愛していた人が死んだ日。雨が涙のようにしとしとと降っていた。
まるで彼女の声のように紡がれる雨音は、僕を憂鬱にさせた。
ねぇ、君はどうして助けを求めなかったんだい?
※※
彼女が見つかってから三日目の朝、僕は家中を探した。もしかしたら、彼女が生き返っているからかもしれなかったからだ。
キリストは三日目に復活する。
誰が決めたのか分からないが、僕にとっての彼女も、キリストのような存在だったからかもしれなかった。
多分この時の僕はまともではなかったのだろう。血眼になって彼女を探す僕は、きっと客観的に見て『普通』ではなかったはずだ。
ただ、家中を駆け回る僕に対して向けられる視線は痛々しかったと、今では思う。
その時の僕には『普通』であることの大切さだとか、貴重さについて考えている余裕などなかった。
僕がおかしくなって彼女が帰ってくるなら、それはもうけものだ。
ポラロイドカメラが落ちていた場所の周辺をウロウロしながら、そんなことを考えていた。
『私が明日死んだら君は泣いてくれる?』
そこで僕は気が付いた。
彼女は自分の死を予見していた。
明日という日付通りに彼女は死に、遺体が見つかった。
彼女は自分が誰かに殺される事実を知っていた。だから、死んだ時に泣いて欲しがったのだ。
それが唯一『愛している』という言葉に置き換えられる行動だったのだ。
どうして彼女に普段からその気持ちを伝えなかったのか、遅すぎるタイミングで僕は自覚した。
遺体の見つかった場所は白線が引かれていた。それも波に流されて消えかけていたけれど、僕にはそこに彼女が横たわっているのが見えた。
なんでかなぁ…。
真っ当な思考に戻っていたのかどうかは分からないけれど、彼女の遺体を見下ろしている犯人が、屈んでいる僕の上にあった。
どうしてカメラで、何を撮影したのかは分かっている。
ただ、それを引き受けた人間が誰で、どうして良しと出来たのか。
きっとその犯人の心境は僕には分からない。
だって、死にそうな人間を死ぬまで待って、死んだあとにカメラで撮影したのだ。
そんな心のあり方は僕には理解できないし、しようとも思わない。
だから直接あって話さないと。彼女の最後の言葉を写した写真を、彼はきっと持っている。
※※
「田宮…」
彼女の遺体の傍らに花を置く男に話しかけた。
「どうして君だったんだ」
彼は自重的に笑って、一枚の写真を渡してきた。
「彼女の最後の顔だ」
よく見ると、その瞼は黒ずんていた。
彼は彼女の小学生の頃からの付き合いで、自宅は一件隣だった。
「君に伝言がある。
『愛してくれてありがとう』だと」
「どうして救急車を呼ばなかった?」
「彼女がそれを望んだんだ」
「嘘だ!!」
はち切れんばかりの声が出た。
「お前が殺したんだ」
「いや、自殺だよ」
逃れるために言っているのではない。
「彼女は突然苦しみだした。苦笑い浮かべて『大丈夫、大丈夫』って言われてみろ。他に返す言葉なんてないだろ」
そこで仰向けに倒れた彼女は晴々しいほど笑顔で、「私は頑張ったよね?」と彼に聞いてきたらしい。
小学生の時から、心臓が悪いことは知っていたそうだ。だから、記念に一枚撮ってくれないかと頼まれたのだそうだ。
そのあとに一言書いておいてくれとも。
写真の余白に視線を合わせる。
『大丈夫?』
最後まで他人の心配をして死んでいったのだ。
そこに写る笑顔の彼女の心の中は、不安で一杯だったに違いない。
「お前には何もなかったのか?」
彼は首を横に振った。
「最後にこんなことを押し付けて申し訳ないですって言われたよ」
俺たちの仲だろ?最後くらい看取らせろよと田宮は言ったらしい。
ポラロイドカメラは彼の兄が昔、バイト代で買ったものを譲り受けたものだった。
話は終わった。これで何もかも解決だ。でもそれでよかったのか?
まるで風化していくように、彼女の顔が崩れていく。
涙が出た。
消えていく彼女のあとを追いたくなった。
歯を食い縛っていないと、情けない声が、海辺に響くような気がしたのだ。
田宮はしばらくその場にいたが、枯れた木のような危なっかしさがあった。
彼女の死が辛いのは、僕だけではなかった。それだけでも彼女がむくわれる気がした。
「なぁ、俺の気持ちは伝わってたよな?」
初めて田宮という人間が苛立ったと思った。
「そこに書いとろぉが」
僕は膝を折って、泣いた。
食い縛った歯の隙間から、情けない息がヒューヒューと漏れた。
ならどうする?
彼を殺して、僕も死ねば、彼女は満足だろうか?
そこで一瞬のためらい、困惑が現れた。
僕はどうして彼を殺すことを前提に物事を考えていたのだろう。
彼がいつ死ぬか、僕は勝手に決めていたのだ。
しかし、最もらしい答えはありきたりで、最も反射的に生まれる感情だった。
僕は彼女を愛していた。
だから、助けを呼ばなかったこいつを殺したいのだ。
そこに人の尊厳を重んじる気持ちは一切ない。
彼が彼女にしたことが、人の尊厳に食い込んですらいないように思ったからだ。
人の尊厳ってのは、その人を形造っている心の在り方だ。
考えたり、影響を受けたり、再考したり、悩んだり、そういう思考そのものを彼は奪った。
いや、奪ったというよりも、失わせたに近い。奪うという行為には、他者が得られるものがないといけない。
しかし、彼はなにも得なかった。単に、お隣さんの幼なじみを死に追いやったのだ。
「殺したいなら、殺して良い。彼女のように、手を尽くせば助かる状態で、僕を放置すれば良いだけのことだ」
そこで彼女の声が頭に反響した。
「君は明日私が死んだら泣いてくれるかな?」
まるでエコーのかかった、広がるような声に、僕は当惑した。
こいつが死んでから、泣く人間がいるだろうか?
少なくとも、家族は泣くのだろう。
そうして僕は捕まり、矛先をこちらに向けられるのだ。
お前なんか死んで当然だと言わんばかりに。
その負のサイクルが延々に続く。
「難しく考えなくていい。お前はお前のしたいように振る舞えばいいんだ。
それともお前は、人一人殺す覚悟もなく、彼女を愛していたのか?
誰かを想うってことはそういうことだろう?
他人のために、自分の理想を切り崩すんだ。お前はそうしてこなかったのか?」
疲れきった発生で、彼はすらすらと言ってのけた。まるで、自分を殺せと言わんばかりに。
彼はきっと疲れてしまったのだろう。幼なじみを殺したあの日から、後悔と罪悪感にさいなまれて。
死にたかったのだろう。だから、僕は彼を殺そうという気持ちが萎んでしまった。
彼は自分のしたことがはっきりと分かっている。
だから殺さなかった。
生殺しにしてやろうと思った。
彼女は心臓が悪かったけど、人一倍生きることに必死だった。だから、それを彼にも分かってもらいたかった。
**
数日後、彼女の近所の家で、男性の死体が発見された。見つけたのは家族だった。
宙に浮く爪先は、ゆっくりと部屋の中央で回転していたそうだ。
僕はその現場を見たわけではない。噂話程度に小耳に挟んだだけだ。
遺書はなかった。
彼はなにも主張せず、自分の中で解決策を見つけたのだ。
だけど、なんだろう。
この釈然としない気持ちは。
まるで僕が彼を死に追いやったような感じすらある。
あいつは彼女のように強くなかった。
追い込まれて、簡単に死を選択した。
**
数日後、彼の葬儀がとりおこなわれた。
お焼香の匂いと坊さんの声が、僕に現実を突き付けてきた。
僕の番がまわってきた時、棺桶の中で眠っているあいつに苛立ちを覚えた。
彼女を死に追いやり、犯人は自殺して、決着がついたけど、何もめでたくもない。
胸の中にモヤモヤと燻る煙を、あいつの棺桶に詰め込みたかった。
お焼香なんかいらないだろ、お前なんかに。
お前は成仏せずに、ずっとあの場所で、漂うべきなんだ。
それでも僕の指は、お焼香のために動いていた。
涙が流れてきた。周りの人達のような悲しみを含んだものじゃない。
悔し涙が、涙腺から出てきたのだ。
色を足せるなら、きっと鮮やかな赤だっただろう。
鮮血のような涙が、棺桶にシミを作ればいいと思った。
**
彼女の墓の前で、手を合わせていると、あの時の彼女の言葉蘇る。
何度も何度も、僕の鼓膜を震わせる。
後悔が押し寄せてきて、頭の中をかき乱す。
この墓の中から彼女が蘇るなら、どんなに腐敗した姿でも、抱きしめてあげられる。
そして耳元で囁きたい。
君がいなくなって、僕の世界は色を失ったよ、と。