ある女の人生 セックスレス夫婦 危機を乗り越えた 43歳の場合
ご訪問ありがとうございます。
ストーリー、登場人物、団体は架空です。
現在 私は都内在住の43歳です。
約1年前に自宅を改装して、生徒さんにお菓子を作る楽しさを教えている2児の母です。
息子が14歳、娘が11歳で何かと難しい年頃です。
パティシエールとして仕事に復帰しようか悩んだ結果、長時間拘束されると身動きが取れなくなるので、主婦の方を対象に昼間の時間帯にお菓子作りを教えることを選択しました。
1回の教室が、90分間コース(初心者向け)、120分間コース(中級者向け)、180分間コース(上級者向け)と3種類のクラスを開催し、そのコースによって作れる課題が異なりますが、お菓子を時間内に作り、仕上がったお菓子とそれに合う飲み物をチョイスして、生徒さんにティータイムを楽しんで頂いてから解散します。
それが口コミで好評になり、時々雑誌などにも紹介されるようにもなりました。
そのお陰もあり、希望する生徒さんが増えて予約がすぐに満席になります。
現在では安定した収入が得られるようになりました。
夫は、48歳で都内の某有名レストランのオーナーシェフとして毎日忙しく働いています。
以前は、そのレストランで私もパティシエールとして働いていました。
何とか無事に今年結婚16年目を迎えました。
『離婚の危機』が過去に何度かありましたが、何とか乗り越えたので仕事を始めました。
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私は、東北地方出身で地元の某専門学校パティシエ学科を卒業後、ワーホリビザを利用して1年間本場フランス・パリで下隅生活をした経験があります。
小さい頃からの夢がパティシエールで、お菓子を食べるよりも作る方が大好きでした。
5歳の時に父の日のプレゼントで母と一緒に型抜きクッキーを作った思い出があります。
母と一緒に生地つくりをして星形・ハート・丸型・魚型・花型などでくり抜いて焼成後にアイシングやシュガーボールなどでデコって楽しみました。
私が人生初めて作ったお菓子を父にプレゼントしました。父は喜んでくれたと思いますが、それを見た父が私の美的センスを心配したみたいで、その『父の日』以降から色彩感覚を養う為に絵画教室に通わされた記憶があります。
当時の私には、美的センスと云うか、デッサン力や色彩センスが無かったのだと思います。(まだ5歳児なので当たり前ですよね?!)小学校高学年にもなると、味の保証は出来ないけど一人でデコレーションケーキなどが作れるようになっていました。絵画教室のお陰?もあって様々なフルーツで彩りよくトッピングしたデコレーションケーキも美味しそうに見えたと思います。それは父に(味は別として)褒められました。
小学校の卒業文集は『将来に夢』について書くように課題が決まっていたので『将来の夢はお父さんのようなパティシエになりたい。』と書きました。
7歳下の弟も私と同じような夢を卒業文集に書いていたと思います。
『将来はお父さんのようなパティシエになりたい。』と、ね。
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父が地元では有名な洋菓子店を営んでおります。
過去に生洋菓子職人の父が作った商品が世界大会で入賞して生洋菓子部門○○賞を受賞しました。
その為、日本全国で話題になり一部の商品のみインターネットで全国販売を開始して、スィーツ部門・人気ランキングで毎年上位を獲得しています。
その影響もあり、私は地元の農業高校1年生の時に製菓専門学校の進学を希望している事と、ケーキ屋を継ぎたいと両親に伝えました。その数日後に、父から学習用PCとロゼッタストーンのフランス語教材をプレゼントました。そのフランス語教材で毎日寝る間も惜しんで勉強しました。
YouTubeでフランス語会話術を検索して毎日視聴して聞き流していました。
それだけでは飽きるので、時々フランス映画も動画サイトで視聴もしました。
その結果、高校を卒業するまでには日常会話程度のフランス語は理解が出来るようになりましたが、フランス語は発音が難しいので独学でフランス語を学ぶには限界がありました。
専門学校1年生の時に、親に相談して専門学校とは別で語学留学を目的としているプログラムを探し出して、プチ留学コースを申し込み、夏休み期間を利用して初めてフランスへ行きました。
滞在期間は15日間でパリ郊外のホームステイ先に滞在しながら、語学学校に通って会話を中心的に学びました。都心から離れた郊外だったので、緑豊かで歴史がある建造物や、広大な敷地に野菜農園や花畑があり、町並みはヨーロッパ独特の風情がありますが、私の地元の方が余程都会に見えました。
そして、専門学校2年生の時に海外研修旅行に参加しました。滞在期間は8日間で学生団体で市場見学やレストランでのマナー研修・フランス郊外の3つ星レストランでの研修などがありました。又、パリ市内観光が1日あったので、パリの中心部の街並みに感化されて帰国後パリへの憧れが強くなり、「絶対にパリに戻ってやる!」と決意を固めました。
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『菓子製造技能士』と『製菓衛生士』を取得後、フランスへ行く準備を始めました。
ワーホリビザの申請をして、ビザが下りるまでは父の下で働きました。
とは言っても、キッチンには入れて貰えずウエートレス兼販売スタッフで、出来上がったケーキ類をショーケースに並べたり、レジ、店内のお客様の対応、フロアー掃除、ネット注文受注の商品の確認と梱包等だけでした。
バイトスタッフと同じ様な事を毎日繰り返していました。
社会人1年目にして、初めてクレジットカードを作ったのですが、それは家族カードでした。
フランスに1年間行く事を念頭に置いていたので、父の主要のクレジットカード会社に家族カードの申し込みを父がしてくれて数週間後に手元に届きました。前回の海外留学と海外研修の時はクレジットカードを持っていなかったので何かと不便でした。今回は心強い見方が出来たように感じました。
ワーホリビザ申請後受給されるまで2~3か月間は掛かったと思います。無事にビザが下りて渡仏することが出来ました。
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パリ在住の父の知人(フランス人)を頼りに行ったので、到着後は仕事場から近い下宿先のアパートで共同生活をしました。父の知人は、ミシュランガイドにも掲載された2つ星レストランのオーナーです。
そこのレストランには、オーナーシェフのエリック氏の下には、スー・シェフ(2番手の料理人)、 コミ・ド・キュイジーヌ(料理人)、ロティスール(肉担当の料理人)、ガルド・マンジェ(食材管理人)、プロンジュール(皿洗い)、 シェフ・トゥールナン(臨時のシェフ)、ディレクトール(支配人)、シェフ・ド・ラン(主任)、ソムリエ、コミ・ソムリエ(ソムリエ見習い)・・・等々。
レストランで働いている人達が本当に多い中、
パティシエ(デザート担当)フランス人のルカ氏でした。
キッチンで働いている補佐係は、総勢約8~10名程いました。
その中には私以外の日本人も2~3名程いました。
諸先輩方はスタージュと云う無休で研修を受けている人や、スタージュ(研修)を得て実力を認められ正式に雇用されて有給で働いている人も居ました。正式に雇用されたとしても給料は多くは貰えないみたいです。「下宿先から出ていけない」と嘆いていたので。
でも、現地人よりも日本人の先輩達の方が、仕事の段取りや、衛生面、技術面、センスの良さが際立ってました。フランス人に学ぶより日本人の先輩に質問した方が的確なアドバイスを貰える場合もありました。
(意地悪な日本人の先輩も居るのでその点は考慮しないとなりませんでした。)
補佐係の先輩方の中で私が1番の下っ端だったので、誰よりも早く1番に仕事場へ到着し、先輩方が出勤するまでに掃除を済ませて、届いた材料を倉庫や冷蔵庫へ運んだり・・・。勤務時間に入っても、在庫管理や洗い物、型やトレイなどといった道具の準備、材料の下ごしらえ(計量、果物も皮むき、卵割りなど)、ゴミ捨てを来る日も来る日も同じことの繰り返しでした。先輩方が営業後の掃除をしてからの帰宅でした。
私の場合は、週35時間勤務と決められていたので、時間的には少し余裕がありました。
(私のビザがワーホリだったからかも知れません。)
アパートに帰ってからノートに今日見たことを書き留めたり、デッサン帖にその日に提供された(コース)料理とデザートの組み合わせが一目でわかるように一皿、一皿の絵を描きました。
休みの日は、パリ市内のスィーツ店やパン屋さんなどに行き、スィーツ類とパン類を食べ歩いていました。
食べ歩きの中でもパリのショコラティエが作ったチョコレートがすごく美味しくて今でも思い出します。
スィーツ店では、シュークリーム専門店も人気ですが、フランスの伝統的なお菓子、エクレア専門店が宝石のようにカラフルでフレーバー(味)が豊富でお気に入りになりました。日本人の味覚にも合うと思います。
それと、街の外れに何件か露店があって、焼き栗や新鮮なオイスターをその場で安く食べれたました。
焼き栗は日本で売られているような感じの石焼風で栗の粒が大きめで甘くて美味しかったです。
新鮮なオイスターは、少し小さめの生カキでしたがミルキーな味わいで美味しかったです。
兎に角、パリのレストランでは先輩方がしている事をみているだけだったので、私の1年間は無駄に終わりました。
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日本へ帰国する約2週間前に、エリック氏が「東京の○○○○レストランでパティシエール見習いが欲しいって連絡があったから、君を推薦して置いた。」と言われました。
父が頼んだのか、本当にエリック氏の所に東京のレストランのオーナーが連絡したかは不明でしたが、この1年間何も成果がないまま地元に帰るのも癪だったので、そのままエリック氏の言う通りにお引き受けしました。
その後、日本に帰国しましたが、そのまま紹介された都内レストランの近くのシティーホテルに滞在し、指定された○月○日の○時にスーツ姿で伺いました。
履歴書持参で面接のような形式ではありましたが、その場で採用が決まりました。
来週から来て欲しいと言われたので、取り敢えず両親に電話で報告を済ませました。
今度の勤務先では下宿先が無かったので、自分で賃貸物件を探し、勤務初日までに賃貸契約を済ませ、取り敢えず身ひとつで1Kの賃貸マンションに住み始めました。
徐々に最低限必要な家具や、寝具、食器類、家電製品を家族カードで購入して、快適な一人暮らしの部屋になりました。(支払いはもちろん父にお願いしました。)
初めての一人暮らしに、少し浮かれ気味だったのは事実です。
実際は、そんなに買い揃える必要はありませんでした。
パティシエール見習い=補佐なので、フランスで1年間経験した事と何も変わりませんでした。
最初の半年間は、調理場では無く、店内で販売兼ウエートレスをさせられました。
レストランの店内には、スィーツの店舗販売もしている為、毎日ショーケースに並ぶ可愛いケーキ達でお客様の笑顔が何よりも励みになりました。
約半年後からようやくキッチンに入れて貰えましたが、作業は下隅生活の時と差ほど変わらなかったです。
先輩達が帰らないと帰れなかったのは、結構しんどかったです。
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自分の部屋には『寝る為だけに帰宅する』の生活でした。
そんな生活で1番辛く感じたのは、やはり入社1年目です。当然な話、私と同い年の人が私の先輩になるんですから、自分がフランスで1年間下積み生活をしてきた事を少し後悔しました。
4月にパティシエ見習いの新入社員1名が入ったけど数か月で自己都合で退職をした為、私がその人の穴埋めで、中途採用されただけなんだ・・・と私は思いました。
フランスで単なる下積生活経験だけでは、その作業が新入社員よりも容易になるだけの話で、自分にプラスになった事などありませんでした。それでも必死に頑張って1年が経過し、新入社員がシェフ見習い1名とパティシエ見習い1名が入って来ました。
ようやく、私にも後輩が出来たのでその時は嬉しかったです。
補佐係の仕事を引き続きするだけですが、それでも後輩に教えながらするのでは気分的に違います。
後輩がいることで、自分もしっかり仕事をしないとならないと思えました。
ようやく一段階づつステプアップしました。
2年目でカスタードクリームやムースなどの仕込みを教えて貰えるようになりました。
ナッペ(クリームをケーキに塗り付ける作業)は、テストがあり無事に合格しました。実践を重ねているうちに上達して、クリスマスケーキの予約時期になると、メインでやれせて貰いました。
レストランでのウエディングプランも扱っていたので、ウエディングケーキのナッペもやらせて貰いました。
3年目で焼き菓子担当になりました。
パイ生地や、クッキーなどを中心に色々とやらせて貰いました。
4年目で、釜にやっと携われるようになりました。
5年間も掛かってようやく1人前と認められた気がしました。
(私の場合は、フランス修行1年間を含めると計6年も掛かってしまいました。)
レストランでは無くて、洋菓子店や工場勤務を選んだ専門学校時代の同期だと、私よりももっと早い段階で1人前になった人も多数いました。
みんな同じように経験をして頑張っている人も居れば、仕事が長時間勤務の重労働でキツイ・ツライなどの理由で途中で投げ出してしまった人も少なくありません。専門学校を卒業しても、就職後 最初から自分でオリジナルケーキを考案製作しお店のショーケースに並ぶことは決してありませんから、夢も希望も見失って鬱状態になってしまった人もいます。
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入社5年目からの1年間パティシエールとして経験を積ませて貰ったこのお店を辞めて、私はそろそろ地元に帰ろうと思い、オーナーに相談しました。
そしたら、辞めないで欲しいと止められました。
そして事実を告げられました。「君がこの店に来たのは、君にとっては偶然かも知れないけど・・・君が修行したエリックのレストランで俺も修行した経験があるんだよね。実は、あのレストランで君が居た1年間に俺は2度程フランスに行ってあのレストランの調理場で懸命に働いている姿を見掛けていたんだ。それで、エリックから素性を聞いて、是非ウチのレストランで働いて貰いたいと思って、エリックに頼んで置いたんだよ。彼から色々と君に関する事を聞いているうちに1人の女性としても興味を抱くようになって気になっていたんだ。」って言われました。
採用後に様子をみて途中で逃げ出した場合は諦めたそうですが、私が最後まで頑張ったので、結婚相手としても不足は無い・・・みたいな感じで言われた気がします。
地元に帰ろうと思っていたけど、気が付いたら私も既に27歳になっていました。
だから、この機を逃したら『結婚出来ないかも?』と気持ちが焦って・・・「交際からお願いします。」と返答をしました。
交際期間は3か月間だけで、私達はスピード結婚をしました。
結婚後約1年間は、家庭と仕事との両立をしていましたが、長時間の立ち仕事で体力が必要不可欠なパティシエールとして仕事をしていた為、妊娠初期に自然に流産してしまいました。
それで、体力的な限界を感じて仕事を辞めて妊活へと切り替えました
もう、子供は無理かも知れない・・・とあきらめかけていたのですが、無事に1男1女を授かり、育児に専念しました。いつかは仕事に復帰したいと思う反面、再びあの厳しい世界に足を入れる覚悟や度胸も気力も以前より減ってしまって、子供を保育園に預けてまで働きたくないと心の底では思っていました。
子供達が小学校へ通うようになっても、私の気持ちは一向に『仕事に復帰する』という意志は固まらず、余計に遠ざかっていくばかりでした。
徐々に、主人との関係がギクシャクしてしまい、夫婦の夜の営みが全くなくなってしまったのです。
主人も仕事で大変なのは知っていますが、私が仕事に復帰しないのが気に障るのか、他に女性が出来たのか・・・夫婦関係が冷めてしまった感じがありました。
子育てと家事に毎日追われて、気が付けば私はもう36歳になってました。夫婦の寝室で一緒に寝ていても、夫は私の体を求めて来なくなりました。私からアプローチをしようと試みましたが、夫は私に背中を向けるように寝返りをし「今日は疲れているんだ。」と言って眠った振りをするようになりました。
そんな夫のセルフを私は何度聞いたことか・・・実際に数えた事はありませんが、恐らく40~50回は聞いたと思います。
挙句の果ては、夫婦の寝室に夫は来なくなりました。
朝、気が付くと夫は書斎のソファーやリビングのソファーで眠っていました。
それを見た私は、腹立たしくて『離婚してやる。』とか『荷物をまとめて実家に帰える。』と思い、子供達を連れて何度か実家に帰省したこともありました。
実際に子供達を連れて帰省し、実家で1週間ほど過ごしてから頭を冷やしてから、東京の自宅に帰ります。
実家の洋菓子店を7歳下の弟が継いでいた為、私の居場所は既に無かったし、子供達の事もあるので取り敢えずは戻りました。
弟は専門学校卒業後のパリにあるエリックのレストランで5年間も修行して、その後エリックの紹介で洋菓子店で3年間働き、コンクールで賞を貰ってから凱旋帰国している為、私は太刀打ちできない状態でした。
弟は私よりセンスがあり、根性もあり、父親譲りの個性的な発想の持ち主で食材の持ち味を生かして独創性溢れる一品を作ります。そして味覚バランスも抜群です。
それを目視すると余計に自分の不甲斐なさを思い知らされます。
仕事への熱意も、情熱も失われて、ひたすら家事をこなしている専業主婦なんですから・・・。
自宅に戻ると、いつもと変わらない時間に戻りました。
弟が作った試作品と食べさせて貰ったので、私は模倣しながら作ってみたりもしました。
大抵は弟のように上手く出来ない為、弟に電話してレシピを聞いて、その通りに作ったりもしました。
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実家に帰省中は、地元の友人数名と会う約束をして自分の子供達を母に頼んで出掛けることが時々ありました。父(弟)のお店のお菓子を手土産に友人の家にご主人が不在中にお邪魔して、友人3~4名の子抜きで集まりお茶をしながら、気晴らしにお互いに夫の愚痴を溢して帰ります。
その際に色々と話題が持ち上がる中で、ある友人が「セックス(体)の相性が悪いから自然とセックスレスになる場合がある。」と言ってた事がありました。
その当時は、私自身では思い当たる節が無かったので、あまり気にしていませんでした。
ただ夫は疲れているから、夜の営みを避けているだけだと思っていました。
私も別に夫婦でセックスがなくても、2人の心が通じていれば大丈夫だと思っていて、あまり気にしていませんでした。
でも、そんな期間が3年も過ぎて、すでに私は39歳になり、セックスレスが解消するどころか、私なりに欲求不満が募っていくだけでした。
私は母親でもあり、妻でもある...だけど女として見て貰えて無い、と現実を直視しました。
一般的に40歳代の女性は、女盛りで性欲も増幅し、魅力も増すということが言われている世の中で、実際に40歳目前の私はどうなんだろう?と鏡に自分の姿を映し出してマジマジに見てみました。
普段は、子供達の世話や家事に追われていたから、マジマジとチェックした事がありませんでした。
結婚する前の若い時の体型とは違い、下腹部には脂肪が付き、二の腕は弛み、足も少し太くなってました。
顔も少し浮腫んでいて、二重顎も気になりました。
専業主婦で家庭に長く入っていると、自分の容姿をあまり気にしなくなると友人から聞いていました。
だから、結婚しても仕事を辞めないで工場で働いている地元の友人も居るし、結婚後はパティシエールを辞めてレストランでパートで働いている地元の友人もいるし・・・
そう思ったら、私は女としての魅力に欠けると再確認しました。
それからは毎日、自宅で出来るエクササイズを行いました。
普段から私は和食中心で東北地方出身と言う事もあり、味付けは塩辛く濃いめが好きでしたが、和食中心でも味を薄口にして、野菜を多く摂るようにしダイエットをしました。
その結果、体重8キロの減量に成功し、64キロあった体重が1年間で56キロになり、結婚前の体重に戻りました。40歳にしてこの体型は、自分的には上等だと思いました。
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自分に自信が持てる様になったので、今度はセックスレスに関する特集があった週刊誌を買って読んでみたました。
セックスレスになる夫婦の関係が箇条書きにありました。
それをチェックし、合計点数でセックスレスになる人、ならない人の結果がわかると言った記事がありました。
それを試しにやってみたら、私の結果は案の定『セックスレスカップル』とでました。
思え返せば、私は主人が初めての男性だったし、性行為には疎くて夫に体を委ねていただけで、私から夫の性感帯を探ったり、夫が喜びそうなことをしていませんでした。
私がマグロ状態だったから、夫も私との性行為が嫌になったのかも知れません。
そう思った私は、夫と2人きりになった時に、今までの自分の行為や仕事に対する姿勢など、心の中で秘めていた事を思い切ってぶちまけました。
①パティシエとしての実力を持っている弟との差が有り過ぎて、私はパティシエールとしての才能が無いと自覚したこと。
②体力が必要な仕事にウンザリし、大好きだったお菓子作りを楽しいと思えなくなってしまったこと。
③仕事よりも家庭で子供達と一緒に過ごしていたいと思っていること。
④私は妻でもあり、母親でもあるけど、女としてあなたに認めてもらいたくて必死にダイエットしたこと。
などを伝えました。
夫はびっくりしていました。
暫くの間、険悪な空気が流れて気まずくなりました。
私が「離婚したいの?」と聞いたら、夫は「別に離婚したい訳じゃない。」と言いました。
そして、夫も抱えていた不平・不満などをぶちまけてくれました。
「俺は、君をエリックのお店で見かけて、エリックに君の素性を聞いた時に、この娘ならデザートを任せられるようになるまで育てられると思ったし、実際に君はそれに応えてくれた。そして、俺自身 君の将来性を買っていたんだ。それなのに君は妊活を理由に仕事を放棄した。だから、君と云う人間性を信じれなくなっていたんだ。でも、君の気持を全く考えなかった俺も悪いよな・・・すまん。」と言ってくれました。
そして、2人で相談して、私は自宅でお菓子教室を開業することになったのです。
自宅を改装するのに資金を工面しないとなりませんでしたので、時間が掛かりました。
改装プランを夫と相談し、(シェフをしている)夫のアドバイスを尊重して自宅のキッチンに手を加えて庭を少し削り、キッチンとダイニングルームを増築をしました。
改装前は、カフェテリア風の大きいキッチンだったのですが、お菓子教室が出来るようにカウンターテーブルを無くし、メインのキッチンカウンターとは別に、収納付き作業台を1列に間隔をあけて2つ並べて設置しました。作業台にはそれぞれ流し台とIHコンロ、電子オーブンレンジ、小さい冷蔵庫があり、生徒さん達が使い易いように工夫しました。調理後の待ち時間には、生徒さん全員が座れるような大きいテーブルと椅子を置いてお互いの顔を見ながら会話が楽しめるように工夫しました。
セックスレス解消法は、久し振りに夫婦の寝室で2人で居た時に、私は夫が喜びそうなことを恥ずかしさを隠しながら試してみました。
そしたら、夫も喜んでくれて、色々と教えてくれました。
私はもうマグロを卒業しました。夫婦で楽しみながらセックスをする時間を過ごせるようになりました。
だから、もうセックスレスではありませんよ。
週に1~2度夫婦仲良くセックスを楽しんでます。
そして、普段の生活にも変化がありました。
夫婦の会話が増えて、子供の前でもチューしますし、外出時はいつも2人でデート感覚で出かけます。
周りの友人や知人にも『仲が良い夫婦だね。』って羨ましがられます。
最後まで読んで下さいましてありがとうございました。