第117夜 『兵隊の森』 後 ★
月が真上にあった。
密林の茂みから覗くそれは、日本で見るのと何の違いもない。
土の匂いも、草木の匂いも世界のどこへ行っても変わらないのだろう。
聞き覚えのない虫の声も、日本にいる虫たちの遠い親戚かもしれない。
だが、ここは異国の地だ。
いくつもの国境線の先だ。
――日本に帰りたい。
夏には風鈴が鳴って、蚊遣り豚が薄い煙を吐き出して。
秋にはダンゴを縁側に並べて、お月見だ。ススキが夜風に揺れて、耳障りの良い葉擦れを聞かせる。
冬には庭中を雪が飾り、熱燗を片手に古風に俳句でも。
春には……。
心を無にして歩いているはずが、ミシマの胸中は日本への郷愁に満ちていた。
しかし、それを振り払うには大きな勇気がいる。少しでも気をゆるめれば、悲しみに覆い尽くされれば、ナカジマやイノウエの笑顔がちらつくのだ。
「ここを抜ければ、川に出ます」
すこし開けた場所まで来ると、アツギがそっと言った。
見ると、密林が切り開かれ、広場のようになっている。地面一杯に雑草のような草が茂り、なにより空が広い。畑か何かの跡地だろう。
かなり川に近づいたせいか、空気はすっかり澄んで密林で感じていた淀みがまるでない。
「この畑を抜けて、先にある木々の向こうは川です」
しかし、アツギは立ち止まったまま動こうとしない。
「……どうした?」
「この耕地を抜けて良いものかと」
「いつも通ってるんじゃないのか?」
「いつもは回り道して、密林沿いに行きますから……」
ミシマは月明かりを頼りに周囲を見回してみたが、密林沿いに川へ向かうとかなりの大回りになる。
直線なら100メートルにも満たない距離であるが、密林沿いに行けばその10倍はかかりそうだ。
「なぜそんな面倒なことを」
「畑はね、農民にとって命です。踏み荒らされて気分の良いものじゃない。だからいつもは遠回りしてるんです。まだ芽の段階ですがソラマメも大豆も台無しになってしまう」
「今は仕方なかろ。敵兵がせまっちょると」
「イギリスを敵に回しても、アメリカを敵に回してもいいです。でも農民の敵にはなりたくない。大地を耕す人間ってのは、どこの国も変わらないものですから……。でも……」
「戦争が終わったら謝りに来ればいいさ」
そう言ってミシマが畑に足を踏み入れると、コガも深く頷き、「すまん」と呟いて畑に踏み出した。
極力被害が少ないよう、細心の注意を払って歩く。
「軍靴をはいていても、土の感触は変わりませんね。良いものです」
「国に帰ったら、好きなだけ耕すと良い。そのうち俺たちもお邪魔させてもらうから、それまでには美味いつまみを作ってくれよな」
ミシマの軽口に、ゆっくりと歩いていたアツギが足を止めた。首をかしげ、足元を見下ろしている。
「なんばしょっと?」
コガの反応に合わせて、ミシマも思わず敵襲を予測して姿勢を低くした。
しかし、アツギは応えず今度は膝を折りその場にしゃがみ込んだ。そして靴紐を結びなおすような動作で足元を探っている。
「アツギ! どうした!?」
不意にアツギが顔を上げ、情けない笑顔で言った。
「やってしまいました。地雷です」
ミシマは背筋が凍る思いだった。なぜ、こんな所に地雷が。思わず自身の足の裏に意識を集中してしまう。
「動くなよ、アツギ! そのままじっとしてろ」
「敵軍が仕掛けたのか……農民が仕掛けたのか……。あるいはこの畑自体がワナだったのかも知れませんね。腹を空かせて収穫の時期に来たら……」
コガが二歩ほど踏み出したところで、アツギが叫んだ。
「駄目だ! 駄目です軍曹! 動いては!」
「そっちに行かんと助けられん!」
「無理です。自分は駄目でしょう。少しでも踏む力を弱めたら、ドカンですよ。自分はここに残ります」
「置いてなど行けるか!」
「オイとミシマが軍靴を押さえて、その隙に足を抜けばよか!」
「靴はキツく結んであるし、運良く足が抜けたとしても、代わりに置けるものがないでしょう? 畑には石もなく、持っているのは突撃銃だけ」
ミシマは周囲を見回したが、たしかに適当な石など見当たらない。
「ありったけの弾薬を投げてよこして下さい。できるだけ敵を足止めしてみます」
「そんなこと……!」
刹那、銃声が夜空に轟いた。
「敵だ! 急いで! 芽を爪先で踏んで行けば、危険は少ない!」
乱暴にそう告げ、アツギは敬礼をみせた。
「……伍長に軍曹、さらばです。お元気で。日本を……頼みます」
アツギは柔らかい笑顔で言い、足元に圧力をかけて転身すると、銃座を肩にあてがい立射の構えをとった。
「早く! 行って」
アツギの銃が火を噴いたが、敵の姿は確認できない。密林に身を隠し、安全に狙い撃ってきているのだ。
「置いてなど!」
「『守る』戦争です! 自分だって、戦友を守りたい! 自分のせいで全滅なんて、死んでも死にきれない!」
「ミシマ! 行くぞ!」
コガが怒鳴り、川へと続く林へと駆け出した。
「伍長、軍曹! 早く行って! 狙い撃ちにされる!」
ミシマは叫んだ。喉が潰れるほどの声で吼えた。
自分の無力と、死への恐怖で胸が張り裂けそうなやるせなさだった。
大股で走り、作物の芽を踏んでコガの背中を追う。
爪先で踏む土は軍靴の先端を飲み込み、勢いを殺す。
叫びを上げて夢中で駆け抜けるが、たかだか数10メートルが永遠にも感じられた。
耳のすぐ側を銃弾がかすめ、肺が破裂しそうなほど痛む。
飛び込むように林に潜り込み、すぐにアツギを確認した。
アツギは依然として畑の真ん中に立ち、堂々たる応射を続けていた。
撃っては弾を込め、再び撃つ。逃げも隠れもせず応射する姿は、どこか神々しくもあった。
敵は密林に隠れ、姿を現さない。もとより地雷原に足を踏み入れる気が無いのかも知れない。
月の真下で、アツギがよろけた。
大きくバランスを崩しながらも、なんとか踏みとどまり、片腕を庇いながら撃ち返す。
「ミシマ! なんばしとる! イカダ早よう見つけんか」
コガの怒号に、ミシマは我に返り、すぐさま林を抜け大河へと出た。満月には足りない月が、空の中央にあり、広い川を照らしている。
背中にはひっきりなしに銃声がぶつかり、木々に銃弾がめり込んでゆく。
――敵は、畑を横断してこない。だとすると、数分は稼げるはずだ。
「ミシマ! これ、イカダたい! はよ川に出せ!」
腕ほどの折れ枝を、ツタで結びつけた粗末なイカダだ。コガが必死の形相で川に向けてイカダを陸から押し出している。
ミシマは迷う間もなくザブンと川に飛び入り、イカダを引っ張った。
「軍曹! もっと押して!」
「なんば引っかかっちょる」
二人のやりとりの直後、林の向こうから爆破音が聞こえた。
空に向かって真っ直ぐに昇るような爆発だった。
それは、アツギが力尽きたことを意味していた。必死の抗戦むなしく、倒れたのだ。
「ちくしょう! なんでこんな!」
「ツタが、川底にひっかかっちょる!」
川にイカダが浮いたまでは良かったが、岸から数メートルの場所でイカダが動かなくなった。
「敵が来る!」
「見ちょれ!」
コガは首までを川水に浸し、川底のツタを取り除こうと苦心した。
強引に引きちぎれば、イカダ本体の接合に影響してしまう。
コガは何度か罵声を空に浴びせた後、大きく息を吸って水に潜った。
林は不気味な沈黙を守り、月明かりの届かない木陰は完全な闇と化していた。
アツギに救われた命、アツギに稼いでもらった時間。それらが刻一刻と消耗してゆく。
焦りとも恐怖ともつかない感情のまま、ミシマはイカダを引いていた。
数秒後、ばしゃりとコガが水面に現れ、むせながら胸に空気を吸い込んだ。
「乗れ! ミシマ、乗れ!」
ミシマはイカダのヘリに腕を乗せ、自らを引っこ抜くように乗船した。
「押すぞ! お前は櫂でこげ!」
「櫂なんてないぞ!」
「じゃあ手で水をかけ! オイは流れの速い場所まで押す」
端的に指示を出し、コガがイカダのヘリに手を当てばた足で押す。ぐい、とイカダは前に進み、ミシマは二の腕まで川に浸し水を掻いた。
「あと少しで本流だ!」
「よし!」
瞬間、小さな水しぶきが上がった。
カエルが小川に飛び込んだような、取るに足らない跳ねっ返りだった。
ミシマが振り返ると、30メートルほど離れた岸に数人の敵兵が見て取れた。
「見つかった! 撃って来たぞ!」
「本流まで……」
言いかけて、コガが絶句した。
電撃にやられたようにビクリと体を痙攣させ、顔を歪めた。
「軍曹!」
「はよう漕げ!」
怒鳴りつけられ、ミシマはすぐに船縁へ取りすがり、水を掻いた。
銃声とほぼ同時にピチャ、ピチャと水しぶきがあがる。
かすめた銃弾がイカダに直撃し、飛び散った木片がミシマの頬を切った。夢中で漕いでいると、唐突にフワリとした推進力を感じた。
――本流だ!
「軍曹! 本流だ! 乗れ!」
イカダの速度はぐんぐん増して、敵兵のいる岸もみるみる遠ざかってゆく。
「もう大丈夫だ! くそったれめ。軍曹、はやく上がって……」
ミシマがコガのいる船尾を見やると、コガは船縁を掴んだまま、水に顔を浸していた。
水流に全身を洗われ、右に左に体を揺らし、そのたびにヘルメットがずれ、やがて外れると鉄兜は流水に消えていった。
「軍曹?」
ミシマが四つん這いでイカダの上を這い、軍曹の手を掴もうとした瞬間、コガの手は力なくイカダから剥がれ水流に取られた。
「軍曹!」
素早く手を伸ばすが、死したコガの体は、うつ伏せのまま小さく浮き沈みを繰り返し、イカダから離れていった。
「コガ!」
すっかり涙の枯れた瞳で、声の枯れた喉で、ミシマは軍曹の姿を見つめ、その名を呼び続けた。
* * *
星を、見ていた。
連絡補給船の甲板で寝転がり、真っ白な心で、ミシマ伍長はただ星を見ていた。夜明けの近い空の片隅に、星たちが追いやられている。
幾分かの食料を口にし、安心に包まれていると、心地よい無気力が全身を弛緩させる。
しばらくののち、甲板を小気味よく靴底で鳴らし、誰かがミシマのそばにやってきた。
「君がミシマ伍長だな」
呼ばれ、半身を起こそうとすると、声に制される。
「そのままでいい。確認に来ただけだ」
深く落ち着いた声だった。
軍人特有の堅さは感じさせるが、不快ではない。
「私はこの船の最高責任者、ナガイ中尉だ」
「ありがとうございます。助かりました……」
「助けるつもりはなかったんだがね」
言葉の意味が解りかね、ミシマは黙っていた。
「君の話によると、君は第254陸戦小隊に所属している」
「はい……」
「そして第254陸戦小隊は軍部からの撤退命令を受諾し、この船に回収されるよう指示を受けた、と」
「間違いありません」
夜明け前の空からおぼろげな光が溢れ、甲板を橙だか朱色だかに染める。ナガイ中尉はしばらくの間を持たせて、ムウと唸った。
「腑に落ちない点が、2つばかりあってね」
なんでしょう、と受け答える気力もなく、ミシマはじっと中尉の顔を見つめた。
「まず、君たち第254陸戦小隊に撤退命令など出ていない。今しがた確認が取れた」
「……」
「そして、この船がここに停泊している事実。そして本日明朝まで待機している事実は軍部でも一部の人間しか知り得ない。つまりは重要機密というわけだ」
ナガイ中尉は胸元から取り出したる数枚の紙を、手の甲ではたいた。
「これは、どうにも疑わしいことだ。発令のない命令に従い、知るはずのない船に近づいた。これはどういう事だろうな」
「それは……」ミシマはいささか考え、いささか思い起こし、いささかに悩んだ。そして、甲板に仰向けのまま両手で顔を覆った。
「どういう事かね。第254陸戦小隊は君しかおらず、君の発言を正当立てる者もまたいない。だからこそ疑わしい。君が私の立場でもそう思うんじゃないか? さぁ、2つの疑問点に納得のゆく説明をしてくれたまえ。これは、どういう事だろう」
「それは……」ミシマは顔を覆ったまま言った。
「それは、通信手であるアツギ一等兵が、部隊を生還させるために、虚偽の報告をしたから……でしょう」
「嘘を?」
「戦友は無線を傍受し、飛び交う暗号を解読し、この船の停泊と予定を知り得た」
ミシマは両手の下に涙を流して言葉を絞り出した。
「撤退命令が出たと戦友たちに嘘をつき、この日のために作ったイカダまで誘導し……」
「部隊を全滅から救った……か」
ミシマのあげる閉じ込めたような嗚咽の隙間に、中尉は言葉を紡ぐ。
「しかし、これは重大な軍規違反だな。軍法会議モノだ。こんな事を……一個人の感傷や独断を許していては、軍が立ちゆかない。勝てる戦争も勝てなくなってしまう」
ミシマは両手で顔を覆ったまま、やるせない気分を押さえるのに必死だった。間違っているのかも知れない、正しいことでは無いのかも知れない。
だが、命を賭して仲間を救おうとしたアツギや戦友たちのことを否定されたくはない。
「軍法会議には自分がでます。自分はアツギの上官であり、管理責任がある」
「結構なことだ。しかし、我々としても困ったことに、機密がたかだか一兵士に露見したというのは大失態でね」
「その責任も……自分がかぶります」
「それも結構なことだ。だが、最善の選択ではない」
ミシマが中尉のはいた言葉の意味をはかりかね、じっと黙り込むと中尉が『わからんかね』といった具合に肩をすくめた。
「つまりは、こうだ」
言うが早いか、中尉は手にした数枚の紙を二つに切り裂き、みるみるうちに細切れにしてしまった。
「単純な話さ。第254陸戦小隊はミシマ伍長を残して壊滅。たまたま近くにいた我々が、偶然に君を回収した。それだけさ」
中尉は細切れになった紙を風に乗せて散らした。
「くだらない戦争だ。君の部隊の者が知り得たぐらいの暗号だ、敵もすでに知るところだろう。こんなくだらない戦争で死ぬことはない……」
「日本は負けるんですか?」
「時間の問題だ」
「負けるとわかっていて、どうして撤退命令を下さないのでしょうか」
「撤退したときが負けだと考えてるからさ」
「我々の命は……そんなに軽いのですか」
「人命が重いなら、有史以来、戦争は起こっていないさ」
「間違ってます中尉、こんなこと間違ってる!」
「君はまだ若いな。戦争が間違っていない場合などない。どこかもっと時間軸の先の部分で間違ったから戦争になるのだ。国家が未成熟のゆえか、外交が稚拙なゆえかはわからんが」
中尉は軍帽を深くかぶり直し、静かに続けた。
「戦争が間違っている――などとは誰でも言えるし、誰でも知っている。幼稚な意見だ。要は誰もが間違っていると知っていながら、止まらない無くならない事のほうが問題だと思わんか? 双方が正義を唱えれば、正当性を競って争うしかない。客観的な正義など存在しないにも関わらず……。人間はどうしょうもない生き物だよ。本当に」
中尉は口角を歪め、苦い顔を作ると仰向けのままのミシマに敬礼を見せて踵を返した。
にわかに、霧雨のような雨が降って、伍長の汚れた肌を削るように洗う。
やがて、それはスコールに変わった。
雨雲の向こうに夜明けが訪れて、軍船のスクリューが回り始める。
複雑に変化し、めくるめくばかりの空を見つめ、万感の思いが伍長の胸を締め付ける。
日本への途上――太平洋の片隅、補給連絡船の上で伍長は終戦を迎えた。
良く晴れた、初夏の日のことだった。
* * *
あの日と同じ、群青の空だった。
雲がノイズのように薄くかかり、向こうには永遠の青があった。
シワだらけの手で、甲板の手摺りを握りミシマは遠い記憶に思いを馳せていた。
大河から見ゆる密林は、開発も進まないまま、あの日と同じ緑を鮮やかに投げかける。
記憶、感情、情動。
その全ては風化し、ぼんやりとした薄衣をかぶったようだ。鮮明なのは友の声とその最後ばかり。
自分だけが生き残ってしまった。従軍者の多くが抱えるその感情を、ミシマも共有していた。
多くの仲間が死んでしまったのに、自分だけは生き残ってしまった。
そんな自分が、やれることを探し、見つけられないままただ老いさらばえた。
「なぁ、兄弟。遅くなってしまったが、酒を持ってきたぞ」
呟きは上流からの風に飲まれて、下流へと流れてゆく。
――奴らの骨が残っていたなら、本土に持って帰ってやろう。
新緑の密林に思い出を重ね、ミシマは目を細めた。
色あせたいくつもの痛みがぼやけた過去の映像を脳裡に結ぶ。
お前たちの守った日本は、お前たちの愛した日本は、今日も快晴だぞ。
あれから……混乱のときがあって、苦渋のときがあった。光が見えないときがあり、渇いたときもあった。
けれど、今日も日本はしっかり海に浮いているぞ。
国を愛すると言えば、顔をしかめられてしまう時代になってしまったけれど。誇りや、矜持が軽んじられる時代になってしまったけれど。
それでも、今日も、日本人は涙をこらえて、額に汗して頑張っているぞ。
安心しろ、だなんてとても言えはしないが、それでもささやかな平和が続いているぞ。世界の真ん中ではないかも知れないけれど、日本は頑張ってるぞ。
追憶に語りかけるミシマに、現地ガイドが不服そうに言う。
あの森に上陸する気なら、追加料金をもらわないと。倍以上の追加料金をもらわないとワリに合わない。そんなことを言う。
交渉にもならなかった。
ガイドは呪われるだの、取り殺されるだの身振りを交え、金をもらえないなら引き返すとまで言うのだ。
あの森は怪物の森、亡霊の森だと。
仕方なく、ミシマは束ねた札束をガイドに手渡し、上陸を指示した。
ちょうど、ミシマがイカダに乗った地点の近くだった。
接岸し、ミシマが降船するがガイドは険しい表情のまま船から下りようとしない。
ワタシはこの森へは入らない。オ客サンが戻るまで、岸から離れます。
「おいおい、それでは約束が違うだろう」
しかしガイドは首を縦には振らない。
仕方なく、ミシマが一人で森へ入ろうとすると、船を転回させながらガイドが言った。
オ客サン、聞こえないのか? 怖くないのか? 聞こえたらすぐに帰って来ないと取り憑かれるよ。
それだけ言うと、ガイドは安っぽいエンジン音を唸らせ岸から離れた。
* * *
森の匂いはあの日と変わらない。
照りつける陽光が大小様々な葉に遮られ、柔らかい照明となって密林内を満たしていた。
あの日と違うことと言えば、今が戦時下ではないという事だけだ。
日本兵も、敵兵もいない、ただ静かな森だ。
足元には朽ちた樹木が積み重なり、半分が地面に埋まっている。やがて腐葉土となるのだろう。
見ると、錆びた水筒が大樹の根に絡まっていた。
朽ちた止め紐を払いのけ、水筒を拾い上げ、ミシマは朽ち木に腰を下ろした。
水筒を振ると、ちゃぽちゃぽと内容物が鳴る。何十年経っても、その役目に忠実だ。
あの日、ナカジマとイノウエを座らせた大樹はどれなのだろう。しっとりとした空気を頬に感じながら周囲を見回していると、ミシマの耳に何かが聞こえた。
それは誰かの声だった。途切れそうな、消え入りそうな囁き声。それでいて大声で叫んでいるような奇妙な声だ。
森の奥から聞こえるような気もするし、そぐそばのような気もする。
汗がすっと引いた額に手を当て、ミシマはその声に耳を澄ます。
「……は……等兵……で……。……哨戒を……し……軍規を……」
どこかで聞いたような、懐かしい感覚がミシマの時間を止めた。
目を閉じて全神経を聴力に集中する。
「……自分は……ナカジマ上等兵であります。……は周囲の哨戒を怠り、みすみす敵兵の接近を許し……仲間を危険にさらしました。……同様のことが無きよう……て行動し、軍規を遵守……」
――ナカジマ!
ハッとして、ミシマは周囲を見回す。しかし、人の気配などどこにも無かった。ただ、消え入りそうな声だけが風に乗って流れていた。
「……自分は……ナカジマ上等兵であります。……は周囲の哨戒を怠り、みすみす敵兵の接近を許し……仲間を……」
――反省百唱。
「ナカジマ! ナカジマ!」
ミシマは叫んだ。しかし、返事などない。
森はシンとして、どこか遠くで鳥が啼いた。
そして、再び風が囁いた。
「……自分は……ナカジマ上等兵であります。……は周囲の哨戒を怠り、みすみす敵兵の接近を許し……仲間を……」
ミシマは泣いた。
苦い涙が次々に溢れ、汗と混じってはアゴ先から落ちた。
――まだ……まだ終わっていないのか。
「……自分は……ナカジマ上等兵であります。……は周囲の哨戒を怠り、みすみす敵兵の接近を許し……仲間を……」
「悪くない! ナカジマ! お前は悪くない! 反省などする必要があるか!」
さらには、ナカジマとは違う声も聞こえた。
「……自分は……イノウエ一等兵で……。自分は軍人にあるまじき弱音を……小隊の士気を下げ……さらには……足手まといに……軍規を遵守……」
涙をぬぐって、ミシマは叫んだ。
「イノウエ! 違う! お前はよく頑張ったんだ! 足手まといなど誰にも言わさん!」
ガイドが森に入ることを拒絶した意味が、ここにきてようやくミシマには理解できた。
きっと、こんなふうに、反省百唱が延々と風にながれ続けているのだ。
日本語の意味が分からねば、怪物の囁きと勘違いしても仕方あるまい。
「……自分は……アツギ一等兵で……。……通信兵である立場を利用し……仲間に……偽報を……自分勝手な正義感から……敵前逃亡を引率し……多大な……。軍規を遵守し……」
「……はコガ軍曹……。自分は自分の不甲斐なさから……多くの優秀な部下を……みんな、良い奴だった……くやしか、ほんとうに……くやしか……すまん……」
ミシマは両目を腕で覆い、声を上げて泣いた。
戦後、仲間たちはずっとこうやって反省を繰り返してきたのか。
自らを愛してくれない国を愛し、かけがえのない命と取り返せない青春の日々をすり減らし、忘れ去られて感謝もされず、墓もなく、ただこうして……ここで……。
来るのが遅れて、すまん。すまんかった。本当に。
背負っていたリュックサックから、酒瓶とお猪口を取り出し、ミシマは森に並べた。
円陣を組むように並べ、その一席にそっと腰を下ろす。
4つのお猪口に、順だって透明の日本酒をそそぎ、パックの甘酒も一つ開ける。そして日本酒のおちょこを一つを指先につまんだ。
涙が日本酒に波紋を作り、複雑に波立っては消えた。
ナカジマよ。
イノウエよ。
アツギよ。
コガよ。
ありがとう、すまんかった、ありがとう。
様々な反省百唱を聞きながら、その一つ一つを胸に刻みながら、ミシマはぐいと杯をかたむけた。
そうしてゆっくりとした動作で立ち上がると、肺の容量限界まで空気を吸い込む。
「100!」
ミシマは喉が枯れるほどの大声で叫んだ。
「反省百唱終了!」
終了の号令が、こだまを聴かせながら深緑の森に伝播した。
そうして生まれたささやかな余韻が、森の隅々まで染みこみ、敬礼をしたままの老人だけを残して、消えた。
かくして、誰も知らないある日のこと、森は、数十年ぶりのあるべき静寂を取り戻した。
もう誰も、亡霊の声を聴く者はいない。
《兵隊の森 了》




