第117夜 『兵隊の森』 前 ★
あの日、空は一面の群青だった。
不定形の雲、その流れゆく白と黒とのコントラストが空の青をより一層際立てていた。
これは日本で見た空と同じ空。空は一つ。全てが繋がっている。端っこもなければ、隅っこもない。全てが同じ空なのだ。
しかし、この空はミシマ伍長の郷愁や懐古をくすぐりもしない。
もしかしたら、ここは異世界なのかも知れない。日本とは違う空なのかも知れない。ミシマ伍長はそんなふうに思う。
異世界、もっと言えば……自分は既に戦死していて、気づかないうちに幽霊になってしまったのではないか。だから……。
グウ、と鳴った腹が、伍長の思索や推測を全て無駄にした。
やはり自分は生きていて、遠く日本から離れた場所で腹をすかし、戦争をしている。
「駄目だ。腹が減った」
「わざわざ口に出すな、ミシマよ。余計腹が減るだろ」
そう言って、伍長をナカジマ上等兵が睨みつけた。
階級で言えば、伍長であるミシマのほうが上ではあるが、この崩壊しつつある小隊内ではもはや階級など大きな意味をもたない。
ゆえに、伍長自身も部下の不遜な言葉遣いを咎めようと思わない。
さして年齢差があるワケでもない若者たちの間では、これが当然の成り行きだと言える。
「ナカジマよ。古来より腹が減ってはイクサはできぬと言うが、ありゃ本当だな。やっとられん」
「知っとる。だがな、ありゃ『戦えない』という意味じゃないぜ。『どうせ戦って死ぬなら、満腹で死にたい』って意味だ」
「なるほどだな、たしかにだ。じつに切実だ。同感だ」
深緑の森の中、ふたりして大樹に背を預けたままウンウンとうなずき合い、ため息をもらす。
「……最後に食ったのは……なんだっけ?」
「そこで掘った酸っぱい芋」
「それは三日前だろう」
「じゃあ、アツギの釣ってきた魚だ」
「そうだったかも知らん。アツギの奴、まだ釣りをしてるのか?」
「たぶんな」
「釣れるかな」
「さあな。手作りの道具じゃ知れた釣果だろうよ。まぁ期待せずに待とう」
食料の供給が途絶えて、はや一ヶ月。先細りになってゆく補給にうすうす感づいては居たが、いざ供給が止まると戦争などしていられる状況ではない。
アツギ通信兵が受電した『現地調達』という言葉。聞こえは良いが、その四文字には『略奪』という意味も含まれていた。広い戦地に点在する村や集落から、各部隊が直接に食糧を集めろと言うのだ。
現状でこの小隊は略奪などに手を染めず、自給自足を貫いているが、もしも近くに集落があったならば……。村人を殺してでも食料を調達するかもしれない。
しかし、幸いなのか小隊の駐留する付近に民間人の集落など無く、ただ森が広がっているだけである。
ここに存在するのは自分たち日本兵と、敵兵だけなのだ。
アマギ伍長とナカジマ上等兵が、ライフルを抱いてじっとしていると、どこからかハツラツとした言葉が聞こえてきた。
「自分はイノウエ一等兵です。自分は大切な弾薬に水をこぼしてしまいました! 軽率な行動を深く反省し、今後は同様のことが無きよう細心の注意を払って行動し、軍紀を遵守する所存です!」
「自分はイノウエ一等兵! 自分は大切な弾薬に水をこぼしてしまいました! 軽率な行動を深く反省し、今後は同様のことが無きよう細心の注意を払って行動し、軍規を遵守する所存です!」
「自分は大切な弾薬に……」
その声はイノウエ一等兵のものだ。「またイノウエの奴、ポカをしたのか」
――『反省百唱』
自らの軍規違反を自戒し、百回の反省を大声で叫ぶ。
ミシマ伍長は『元気なことだ』、と思うし『無駄な消耗だ』とも思う。
しかし、この反省百唱があるがゆえに、この小隊は軍隊としての規律をギリギリ保持しているのかも知れない。
弾薬の事が気にかかり、ミシマ伍長が立ち上がると、ナカジマもそれに続く。
食料も大事だが、弾薬も貴重だ。
自分たちがここにいるのは戦争のためであって、弾矢が尽きれば戦はできない。
前線基地といえば格好がつくが、実際は取るに足らない岩屋のような洞窟。奥行きにして三メートルもないような小さな横穴だ。
その入り口に布を垂らし、体面を整えている。
洞窟の前にはイノウエが直立不動で反省百唱を続けており、その横ではコガ軍曹が木箱に座って腕を組んでいた。歳の頃はやはりミシマやナカジマと変わらない。
「軍曹。弾薬は大丈夫なのか?」
「大丈夫たい。じゃが、こいつ弾薬をワザと濡らしよったと」
弾薬が無くなり、補給もないとなれば戦闘の続行は不可能。よって、作戦本部からの撤退許可が下りるかもしれぬ。
イノウエはそう考えて、残り少ない弾薬に川の水をかけたのだという。
「自分はイノウエ一等兵! 自分は浅はかな考えから大切な弾薬に水を……」
「イノウエ。いまので何度目だ?」ミシマが問う。
「自分はイノウエ一等兵! 99回目であります!」
「この期に及んで、まだ嘘をつくとか! まだ12回目であろー!」
銃座で頭をポカリと叩かれ、ヘルメットが鼻の根あたりまでずり落ちた。
「自分はイノウエ一等兵! 訂正します! 17回目でした!」
「せからしか。まだ17もいっとらんじゃろうが。まあよかよ。続け」
イノウエ一等兵の反省百唱を横耳にしながら、三人が地面に腰を落としてグッタリしていると、ようやくアツギ一等兵が帰ってきた。
お手製の釣り具以外なにも持っていないところを見ると、当たりは引けなかったらしい。
ナカジマに手ぶらを茶化されると、アツギは苦笑いで肩をすくめた。
「ボウズでした。どうも、この土地の魚は誘惑に強いです」
「ナカジマと大違いだな。しかし……このままじゃ、餓死してしまう。なにか新しく食えるものを考えないと……。あれから指示に変更はないのか?」
「ええ。『戦線を維持せよ。食糧は各員自主調達のこと』ですよ」
「言うは易したい。ここに居るオイをふくめた小隊員5人のメシ。弾薬も貧窮。戦線の維持が出来てるだけで奇跡やけんな」
元は12人いた小隊も、今や5人。
最後の一兵まで戦ったとしても勝つ見込みはない。
唯一、希望とともに伝わっているのは南方での『神軍』の噂だ。
南方戦線にて活躍する第0322陸戦小隊。その働きは神軍に呼ぶにふさわしく。その戦果をならって各小隊も奮起するように――。
たしかに、各部隊が0322陸戦小隊ほどの働きが出来たならば戦局はひっくり返るかも知れない。ミシマ伍長はそんな風に考え、うなだれる。
しかし、現実は0322陸戦小隊のように上手く戦えず、被害と疲弊はますばかりなのだ。
――俺たちは、いつまで持つのだろう。
「自分はイノウエ一等兵! 自分は大切な弾薬に水を……」
「57」
「なぁ、アツギよ」ナカジマ上等兵が問う。「この小隊で通信機器を使えるのはお前だけだ。少尉も行方不明だし、機械に詳しいものもいない」
「はい」
「どう言えばいいのかわからんが……本部に掛け合ってくれないか? 撤退か……せめて後退の許可を」
アツギ一等兵は、視線を落とし、眉をひそめた。
「実は……何度もやってるんですが、どうにもなりません」
「でも、このまま戦ってても仕方ないだろう? 仮に十分な補給があったとしても、この人数じゃ……」
「申し訳ありませんが……」
「アツギを責めるなよ。もともと無謀な戦争だったんだ。先細りは目に見えてたさ。負けは必然」
「65。なにをいうちょるか。オイたちはニッポン人ぞ? 弱腰になってどうする。こうして精一杯戦っちょるのも明日の日本があればこそたい」
「軍曹は勝てると思ってるのか?」
「んー。見込みは薄かろう。しかし、ここで頑張れば少しでも有利な条件で講和に持ち込める。5:5は無理でも、6:4いや、7:3でもよか。本土を接収されんかぎり、日本は残る。日本人は偉大だけん、100年かかろうが、200年かかろうが、本土さえあればなんとかなろうよ。何にしても世界の真ん中のニッポン人やけんね。今はパッとせんでも、元気にわろうて、真面目にやっちょりゃ陽はまた昇るちゅう寸法たい。日本人は逆境にこそ強くなるのだ」
そう言って、コガ軍曹は豪快に笑う。その笑い声の隙間をぬって、アツギ通信兵が申し訳なさそうに言った。
「しかし、他部隊の通信を傍受しましたが……どこも酷い状況のようですよ。負傷、マラリアに始まる感染症、死者。淡々と報告していましたが、声の奥には静かな怒りが感じられました」
「酷いモンだ……」
「自分はイノウエ一等兵! 自分は大切な弾薬に水を……」
「84。おいらの部隊は例の『神軍』ほど優秀じゃあなかろうが、こうしてなんとか生き残っちょる。少尉から部隊を引き継いだオイの任務は、全員生き残らせること……勝つことじゃなく、死なないことたい。全員が生きてお国の土を踏めた日にゃあ、焼酎をば一杯やろう。なぁナカジマよ」
「軍曹のおごりなら」
「自分はイノウエ一等兵。自分は焼酎苦手なので、甘酒がいいです」
「なんでも好きなモンば飲めばよか」
「それなら」アツギ通信兵が言う。「僕の実家で飲みましょう。田舎だけに家だけはでかいんです。1個中隊まるごと招待できますよ。月見にも最適で、秋にはコオロギや蛍がたくさん遊びに来ます。畑で取れたキュウリや、茄子の田楽をつまみにして……」
「98。食いモンの話はやめてくれよ。空きっ腹を思い出しちまった」
「99。そうでしたね。すいません」
「100! 反省百唱終了ッ!」
コガ軍曹の号令とともに、イノウエ一等兵が直立不動の姿勢を解いた。その場にへろへろと崩れ落ち、だらしなく仰向けになる。
「つかれた……」
なにを笑うでもなく、誰かの口から気怠い笑いがしみ出し、異国の空に溶けた。
* * *
夜、密林では様々な虫が会合を始める。
鬱蒼としげる葉の裏や、スコールの残したぬかるみ、水たまり。そのあちこちで虫たちがチロチロと奇妙な言葉でお喋りだ。
コガ軍曹は本部洞窟の奥へ引っ込み、イノウエは軍靴を枕に雑魚寝をしている。
洞窟の側ではアツギ通信兵がヘッドフォンを耳に、通信機器をいじくり回していた。
ミシマ伍長とナカジマ上等兵は、周波数を合わせるノイズを横耳に、大樹の麓で座っていた。動かなければこれ以上腹が減る事もない……そんな事を期待しながら。
「昼間。軍曹が言ったケドよ」
「ああ」
「俺、この戦争は負けると思うわ」
周波数を合わせる音が、ピタリとやんだ。ミシマは大樹の隙間から見える星空を眺めたまま、そっと頷いた。
「……ああ」
「物資も戦意もまったく足りてない。にもかかわらず、敵は多くて強大で……」
「そうだな」
「アメリカ、イギリス、中国……俺たちは何と戦ってるんだろう」
「いまはイギリスだ」
「いや、そうじゃなくて。何を目標に、何を理想に戦ってるのかって」
「端的に言えば、欧米による植民地支配の開放。本音で言えば、戦わざるを得ない。日本がこれ以上の発展を望むなら、石油に始まる各種資源の重要性は増すばかりだし、その首根っこの資源って奴を輸出してくれないとなると……」
「いや、そうじゃなくて。そういうことじゃなくて……。いま戦ってるこの場所も、俺たちが勝てば日本になるのか?」
「占領地か植民地……どうなんだろうな」
「それって、そんなに良いことなのか?」
「そりゃあ、国土の小さい日本としては、良いことだろうよ。資源も手に入るし、大陸内に足がかりが……」
「いや、そうじゃなくて。ここの民間人たちが寿司を喜んで食うのか? 正月には美味くもないオセチを笑顔で囲めるのか? お盆には先祖の霊を弔うのか?」
「何が言いたいのかわからないよ」
「俺にもわからない。ただ、ここは日本じゃないし、日本にする必要も無いとおもうんだ。ここに住んでる奴にだって、ここの文化があるんだろ? 正月みたいな家族が集まる風習があって、お盆のように死者に祈る風習もあるんだろう」
言いたいことが理解できないわけでもないが、ナカジマ上等兵の言葉は要点がぼやけてあやふやだ。
感情的になっているのか、とミシマはナカジマを見やるがナカジマは呆けたように空を見上げているだけで、怒っているようにも見えない。
これは、『何かを伝えるための言葉』ではなく、ナカジマ上等兵の心が発する、熱病のような呟きなのだろう。
「この戦争の先には、流した血に値するものがあるのか」
「そもそも、俺たちの血に価値はないさ。軍人だもの。血を流すのが当たり前で、死ぬのは日常だ」
自分で斜に構えた言葉を吐きながら、ミシマは虚しくなった。
濃紺の星空に、死んでいった戦友たちの死に様が思い出される。熱病に苦しみ、傷口にウジをわかせ、空腹に身もだえながら死んでいった仲間たち。
どうしょうもない死とは、こういうものだろうとミシマは思う。
恨み、怒りに満ちた死なら生命の活力を感じさせるが、悲しみ、故郷の事ばかりを口にして涙とともに寂しく死んでゆくなど、あまりにも悲しい。
「軍曹がね」アツギが機器をいじりながら言った。「この戦争は『守るための戦いだ』って言ってましたよ。日本人としての矜持、誇り、文化……少なくとも自分たちが最前線でそれを支えている、守っているという自負が今のオイの活力たい。って言ってましたたい」
「守るためたい……か」
ミシマ伍長の脳裡に、様々な人たちの顔が浮かんでは消えた。家族、友人、知人。
しかし、我々軍人は誰が守ってくれるのだろう。日々消耗しつつある命を、誰が大切に思ってくれるだろう。
「俺さ、ミシマは知ってるだろうが、父親なんだよ。3歳になる息子が国にいる」
実感も、自覚もないまま父親になっちまったけど。そう言ってナカジマは静かに笑った。
天皇がどんなに偉い人かは知らないが、俺にとっちゃあ一人息子が天皇みたいなものだ。死ぬなら……息子のために死んだと、胸を張りたい。
ぼんやりとした言葉でナカジマはそう言った。
「いつだったか、息子がさ。ブリキのオモチャで遊んでたんだよ。兵隊のオモチャだった。……最近、そのことばかり思い出すよ。ぴっちり軍服を着てさ、突撃銃を肩にかけてさ、格好いいんだ、コレが」
「オモチャ……か」
「なぁ、ミシマよ。オモチャの兵隊は……何と戦ってるんだろうな」
ナカジマはぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
俺たちは、こんなに腹を空かせて、こんなにミジメで、こんなに不格好なのに。
あのオモチャの兵隊は、勇ましくて格好良くて、戦う前から勝利を確信したかのような威厳、自信に満ちていた。
全部が違う一方で、何が違うか分からない。近いようで遠く、似ているようで別物だ。
「勝てないかも知れない、って思うからミジメなんだろうか」
「違いますよ、きっと」アツギが静かに言う。「きっと、死ぬのが怖いからです。死を意識して戦ってるから、ミジメなんですよね。兵隊だって、軍人だって、死ぬために生まれてきたわけじゃない」
アツギは、静かに続ける。
今、こうして笑っていても、あの暗闇から狙撃されて、数秒後には死んでいるかも知れない。小便をしに草むらへ行って、地雷を踏んでしまうかも知れない。
マラリアにやられて、高熱の夢の中から帰ってこられないかも知れない。栄養足りず、あえなく餓死してしまうかも知れない。
そんな不安に囲まれた生命が、ミジメじゃないハズはない。
「だから考えるわけです。じゃあ、自分はなぜここで、こんなことをしているのか」
「アツギはどうしてここにいる? お国のためか?」
「やっぱり『守る』ためですよ」
そう言って肩をすくめると、アツギは再び通信機をいじりはじめた。
* * *
それから1週間、敵との遭遇もなく、被害は出ていない。
しかし、口に出来るものは日に日に減少し、飢えは限界にまで達している。
夜になると虫たちの囁きが死神の歌にも思えてくる。
「あのカエル……うまかったな」
「国に帰れたら、完璧な調理法を確立してカエル料理店でも始めるか……」
虫を口にしたミシマ伍長やナカジマ上等兵、コガ軍曹アツギ一等兵はまだマシかも知れないが、虫食を断固として拒絶したイノウエ一等兵の衰弱は凄まじかった。
肋骨はくっきりと浮き、眼は黄色く淀んでいる。
『国に帰れたら』この言葉がありとあらゆる場面で乱用され、どんな些細な事であれ、ある種の見果てぬ夢のように語られる。
もはや、限界だった。
精神は荒廃し、肉体もやせ細っている。昼夜を問わない豪雨が残り少ない体力を容赦なく奪い、血を求める羽虫が右へ左へ飛び交った。
誰しもの脳裡にハッキリと言葉が浮かぶ。――ここは地獄だ、と。
現状報告なのか、アツギは通信機と向かい合ったままで、時折ため息とともに頭を垂れる。ミシマ伍長はほとんどの時間を眠って過ごした。
空腹で眠れなかったのは、最初の数日だけで、体力が限界に達すると人は生命なき人形のように眠る。
夜半、ミシマが物音に目を覚ますと、ナカジマが立ち上がっていた。背が曲がり生気無く、まったくもってミジメな風体だ。
ミシマの視線に気がついたナカジマが、力なく笑って言う。
「何も入れて無くとも、ションベンだけはでるな……」
「国に帰ったら……」
瞬間、光の線が夜の闇を切り裂いた。
暖色の鋭い一筋の光弾が、森の奥からナカジマ上等兵の首にスッと線を引き、そして抜けていった。
ナカジマはゆっくりと膝を折り、正座のような格好でへたり込んだ。
「敵だ!」
にわかに、空気が凍る。
「ナカジマが、ナカジマがやられた!」
「起きれ! 応戦すると!」
こちらの叫びに呼応するように、森の奥から再び光の線が大挙してやって来る。蛍のように微かに火薬の残光が尾を引き、ミシマ伍長の耳の側を抜けてゆく。
そんな銃弾飛び交う中、ナカジマ上等兵は正座の格好のまま両腕をだらりと垂らしたままだ。
「ナカジマ!」
ミシマ伍長が姿勢を低くして駆け寄り、ナカジマの肩と首に手を当て傷の状態を素早く検分した。
首筋を斜めに貫通した銃弾。その凶悪な蛍に抜かれた穴は小さな泡を無数にはき出していた。
「ミ、シマ、ミ、シマよ」
ナカジマが切れ切れに言葉を吐いた。言葉とともに溢れ出した空気が、首の穴からも泡となって噴出する。
ミシマはナカジマを正座の体勢から仰向けに寝かせ、傷口を親指で押さえさせた。
「大丈夫だ! ちくしょう、大丈夫だ! なんてことはない! 蚊に刺されたようなモンだ! ちくしょう、マラリアにならないぶん、こっちの方が幸運だ。大丈夫だ!」
ミシマ伍長のすぐ側を銃弾が音を立ててかすめてゆく。
「アツギ! 何しとると! 応戦せんかッ!」
その声にミシマ伍長が振り返ると、アツギ一等兵は身をかがめながらもまだ通信機と向かい合っている。
コガ軍曹は勇敢にも低い姿勢で前進し、銃弾のやって来る最前線に陣取った。そして木陰に背中を預けながら指示を出す。
「イノウエ! 敵はあっちたい! 全弾うち尽くせ!」
衰弱の著しいイノウエ一等兵も必死で応射し始めた。
――敵は多くない、十名、あるいは二十名程度の小隊。しかし、こちらは……。
ミシマ伍長も弾を込め、愛用のライフルを片膝の姿勢で構える。そして、銃撃の光が発せられる場所を見定めて、応射を開始した。
「ナカジマを、ナカジマを後方へ!」
しかし、遭遇戦のさなか、余裕のある者などいない。怒鳴り声と、銃声だけが密林を満たしていた。
「ミ、シマ、ミ、シマよ」
「どうした!」
「ミ……おれ……」
消え入りそうなナカジマの声に、ミシマは耳をナカジマの口元に添える。
「どうした!」
「ミシマよ、俺だめだ。いたいよ、とてもいたい。息も……」
「大丈夫だ! 敵も小隊ほどしかいない、すぐに追い払って治療してやる! 大丈夫だ、弱音なんか聞きたくないぞ! 大したことのない傷なんだからな!」
「ああ、そうだな、でも、きいて、くれよ」
「なんだ」
「もし、お前が、帰れることがあったらさ……帰れる時が来たならさ……おれの嫁や、小さい坊主に、伝えて、欲しい。お前の親父は、そのオモチャの兵隊みたいに、勇ましくて……格好良かったって。ちっともミジメじゃなかった、って」
「そんなこと、お前が自分で言うんだ! 国に帰って、家に帰って、メシをたらふく食いながら、親父の偉大さを教えてやれ!」
頭上には銃弾が飛び交い、ナカジマの声はますます小さくなった。
「ああ、そうだな、でも、約束……してくれよ。安心、できるから、さ」
「わかった、必ず伝える。でもな、お前も俺の親父とお袋に伝えてくれ、アンタたちの怠け者の息子は、戦場では立派な下士官だった、ってな! 交互伝達だ、わかるな、俺がお前の家族に伝えて、お前も俺の家族に伝えるんだ、いいな、約束だぞ!」
「ああ、やくそくだ。ありがとう、ミシマよ。ありがとうな、本当に」
「よし、じゃあ、じっとしてろよ。こんな敵、すぐに追っ払ってやるから」
「ああ、たのむよ。おれは腹が減って動けないから……」
そう言って、ナカジマは微かに笑った。
ミシマは、すぐに肩に銃座をあて、応戦を再開する。
しかし、多勢に無勢という不利は否めず、少しずつ敵の包囲体勢が広がりつつあるのを感じる。
正面から飛んできていた銃弾が、いまや右や左からも飛んでくるのだ。
――完全に包囲されれば、勝ち目はない。
銃声の間隙に、なにか重い響きが混じった。重量のあるなにかが地面に着地したような……。
「マズい!」ミシマは叫んだ。「手投げ弾だ! 伏せろ!」
直後に光が森林に溢れた。爆風が空気の固まりと金属片を放射線状にまき散らす。直後、空から腐葉土と小石の類がぱらぱらと降ってくる。
鼓膜は爆音にやられて金切り音を聞かせ、胃の底が熱い。
すぐ側で上がった嗚咽にミシマがみやると、イノウエ一等兵が突撃銃を地面に落とし、前のめりにうずくまっていた。
「イノウエ!」
名を呼んで腹ばいで近寄ると、イノウエは地面に吐いていた。胃液だけの嘔吐物が粘性の高い糸を引いている。
「無事か!」
「なんか、よくわからない、よくわからないっす」
見ると、イノウエの右腕が肩から無くなっている。手投げ弾で消し飛んだのだろう。
「よくわからないっす、気持ちわりい、吐き気が、すごく」
「イノウエ、お前……腕が……」
イノウエ一等兵は自分の腕を確認して、始めて悲鳴を上げた。
――駄目だ。このままじゃ全滅を待つのみ……。しかし、逃げ出す先も、進む先も……。
『世界の真ん中、日本人』この言葉を吐いたコガ軍曹は、依然として最前線で応射を続けている。まるで、日本という国そのものを肩に背負い込んでいるかのような姿だ。
「ミシマ! イノウエを後方に下がらせろ」
「しかし! うしろも時間の問題……」
「ちくしょう! やったぞ! 見つけた!」ミシマの言葉を遮ってアツギが叫んだ。負傷かと一瞬心配するが、そうではなかった。
アツギは通信機の配線を引きちぎり、暗号表を細切れに破いていた。
「退却です! 退却の許可がようやく下りました! こんな所、さっさと引き上げましょう!」
神の福音でも、こんなにありがたくはないだろう。魂を揺さぶる救済の手がようやくさしのべられたのだ。
ミシマは全身の力が抜けるのを感じた。
応戦しながら、コガが叫んだ。
「よし! 名誉ある撤退たい! 最小限の弾薬だけを持って、引く!」
「アツギ! イノウエを頼む、背負ってやってくれ! 俺はナカジマを……」
「馬鹿! ナカジマはもう死んどる!」
「知ってるよ! でも置いていけん!」
「部隊長代理の命令たい! ナカジマの死体はここに置いてゆく! 貴様が生き残らんでどうする!」
「僕がナカジマ上等兵を担ぎます!」アツギが銃に弾を込めながら続ける。
「伍長はイノウエを担いで、軍曹は先頭で道案内を頼みます! 僕の釣り場までの道を知っているのは軍曹だけだ!」
反論を許さない勢いで、アツギが指示を下す。
「僕の釣り場に、急ごしらえのイカダを用意してます。それで川を2キロばかり下れば海に出る。夜明けまでは、そこの湾内に補給連絡船が停泊してる。それに乗れば、日本まで一直線だ」
「よし! 弾薬はオイがかつぐ! お前らついてこい。退却だ! 帰れるぞ、日本に! 帰れるんだ、日本に!」
先だって軍曹が後方へ引き、部隊の先頭に立って川のある方向へと道を切り開く。
ミシマはイノウエを担いでその後に続く。最後尾はナカジマを担いだアツギだ。
飛んでくる銃弾に身をかがめ、応射しながら川へと向かってゆく。
軍曹が密林を銃剣で切り開くたび、青臭い臭いとともに羽虫のたぐいがフワリと舞い上がり顔に張り付いてくる。
ぐったりとしたイノウエを担ぎ、両手が塞がったままではその不快を振り払うことさえままならない。
「イノウエ、日本に帰れるからな、もうすぐだからな」
そう言って励ますが、イノウエは「ええ」だか「ああ」だか唸るだけだ。
背後からは敵兵の怒鳴り声が聞こえ、みるみる距離が縮まってゆくのを感じる。
軍曹に続いていたアツギが足を止めて言った。
「もうすぐ……このまま西に進めば川に突き当たります」
「そこにイカダがあるんだな」
「ちょうど小さな川との合流点に隠してあります。釣りをしながら作ったので、あまり良い出来とはいえませんが」
「なんでもよか。とりあえず浮けばよかと」
「では、案内はここまでです」
そう言って、アツギは背中に背負ったナカジマを下ろそうとする。
「追っ手にイカダを見られてはまずいです。水上で狙い撃たれ、最悪、補給船まで発見されてしまう。自分は追っ手を撹乱してきましょう。軍曹はナカジマさんをお願いします」
アツギは弱々しい笑顔で敬礼をみせた。
「馬鹿を言うな! 全員で脱出するんだ!」
「馬鹿を言っているのはミシマ伍長です。誰かが足止めするのは逃亡戦の基本ですよ」
自分はまだ体力もあり負傷もしていない。負傷や衰弱に苦しむ他の隊員ではこの責務に耐えられぬ。
アツギはそう言ってミシマ伍長をたしなめた。
「アツギ一等兵! 小隊を代表して、その勇気に感謝する! だが許さん!」
コガ軍曹が厳しい語調で言う。
「部下を犠牲に逃亡など、日本男児にあるまじきことたい! なにがあろうと脱出は全員で行う!」
アツギは不服そうに眉を寄せ、頭を下げた。
「……わかりました」
「どんな崇高な決意があろうとも、死ぬと言うのはな、格好いいことじゃなかとよ。無様でミジメなことたい」
どれほど美化されても、死は終幕でしかない。
無様でもミジメでも、今は生きて、祖国の土を踏もうじゃないか。
情けない生でも、死んでしまうよりは百万倍いい。生きている犬は、死んだ獅子に勝るのだから。
コガ軍曹はそう言って皆を鼓舞した。
* * *
川が近くなると、汚れた肌にもその存在を感じる。
木々の隙間を通り抜けてくる風が冷ややかな湿気を帯び、踏みしめる地面は柔らかい。
ミシマの体力もとうに限界に達していたが、背負ったイノウエ一等兵を下ろすわけにもいかず、ただ気力だけで行軍していた。
一歩踏みしめるたび腰から膝に鈍痛が走り、疲弊しきった肺が呼吸を浅くする。
「どうして……」イノウエが小さく呟いた。
「どうして……おろさないんですか? 伍長も限界でしょう」
「……くだらんことを聞くなよ。さっきのコガの話を聞いてなかったのか? 俺たちはな、なにがなんでも生還するんだ」
「おれ、きっと駄目です。麻痺してきましたよ。肩の感覚だけじゃない……腰も首も……。血が足りないんでしょう。痛みも感じないんです。すごく怖い……すごく」
「補給船までたどり着けば、きっと薬がある。頑張れ」
「なんで……なんで腕が千切れてるのに痛くないんですか? 怖い……とても怖い……死にたくない……死にたくないよ」
声をかすれさせ、イノウエが泣き出した。
かける言葉が上手く見つけ出せず、ミシマは軍曹の鼓舞に倣った。
「泣くな、世界の真ん中の日本男児だろう。弱音は軍規違反だぞ。笑って、なんでもないフリをしてろ。月に笑われるぞ」
伍長は歯を噛み合わせ、やるせない感情を押し殺して続ける。
「こういうのを知ってるか。――『男子決して貧窮を口にすることなかれ。風は吹けよ。浪は荒れよ。希望は近づけり』」
途中から、自らに言い聞かせるように言葉を噛み締めた。
――希望は近づけり。
「ねぇ……伍長……おれ、どうしてここにいるのかな?」
「……」
「おれ、郷里に好きな子がいてさ」
「美人か?」
「言ったら……伍長とるでしょう」
「お前が死んだら俺のモノにしてしまおうかな」
イノウエは力なく笑い、衰弱しきった声で言う。
「駄目ですよ……。出兵してくる時、千本針の手ぬぐいを貰ったんです。……ほら千人に一針ずつ縫ってもらう……」
イノウエの言葉が途切れた瞬間、ミシマは背負ったイノウエを揺らした。
「オイ! 話の途中だぞ! 寝るな!」
「ひと……一針ずつ……。伍長ね。そのうちね……。ひと縫いはその娘の……」
「美人のあの娘だな!」
「……ええ、そう、いい……でしょう? でもね――もっと嬉しいのは、少なくとも……千人は、俺の無事を祈って……。でも、無駄になっちまった。おれ、不甲斐ないから……みんなの願い無駄に……」
「イノウエ! 話の途中だぞ! イノウエ!」
背負った若者の体から、すっと力が抜けるのをミシマは感じた。
呼び掛けに返事もなく、ただポツリ、ポツリと千切れた腕からしたたる血液の音だけが夜の森に染みいった。
肉体の重さ。その重さの何割かは、魂の浮力によって相殺されていたのではないか。
そう考えてしまうほど、魂の抜けたイノウエの体は重たかった。
顔の中央に向かって苦味が走り、緊張の糸が切れたかのようにミシマは泣いた。
漏れそうになる嗚咽を飲み込み、泥だらけの顔中にしわを寄せて泣いた。
立ち止まり、ずり落ちんとするイノウエを背負い直し、軍服の袖で涙をぬぐって気丈に振る舞う。
「……コガ軍曹。イノウエ一等兵、いましがた戦死しました」
コガも足を止め、振り向かないまま頭をたれる。
「……そうか」
立派な最後だった、いい奴だった、コガは振り返らないまま呟き、それからしばらくは黙祷を捧げるように黙り込んだ。
遠く、森のはるか遠くで銃声が鳴り、驚いた月が雲に隠れた。
白光の月明かりが途絶えると、熱帯の森は銃声を吸収して闇を肥大化させる。
――あの銃声。追っ手か、あるいは別の戦闘か。
ようやくコガが振り向き、暗闇のなかで端的な指示をだした。
「ミシマ伍長、アツギ一等兵。ナカジマとイノウエはここに置いてゆく」
情にあついミシマであったが、コガの命令を拒否することなどできなかった。自分より人情に厚いコガが下した決断なのだ。
表情は凛としていたコガであったが、その両眼には苦渋を乗り越えた者特有の静かな悲しみがあった。
ここで全滅したら、ナカジマもイノウエもきっと怒るに違いない。
生きている我々の責務は生き残ること、生きて故郷の土を踏み、死した仲間の最後を伝えること。
コガの言葉に頷き、アツギがナカジマを、ミシマがイノウエを近くの樹木に下ろした。背を預ける格好でもたれかからせ、突撃銃を斜めに立てかける。
「なんだよナカジマ。お前格好いいじゃないか。オモチャの兵隊なんか目じゃないぜ」
ミシマは冷たくなったナカジマの頬に手を当て、ヘルメットからこぼれる髪を一房切り取った。
アツギも同様にイノウエの髪を切り取り、千針の布にくるんだ。
「他の部隊じゃ……死んだ仲間が土人形になって蘇って、一緒に戦ってくれたと聞きます。でもイノウエ一等兵もナカジマ上等兵も、無理せず休んで下さい……。この戦争はもうすぐ終わりますから……。その時はすぐに迎えに来ますから……いまは……」
途端にコガ軍曹が泣き出した。
髭面の顔をクシャクシャにして、野太い声で嗚咽を漏らす。
こらえてきた何かが一気に放出されたような叫びだった。
すまん、すまん、ほんとうに。
墓もなく、戒名もなく、こんな異国の地に置き去りにしてほんとうにすまん。
こんな場所で死なせてすまん。
骨も持って帰れずすまん。
許してくれ、ほんとうにすまん。
お前たちの死は、絶対に無駄にさせん。お前らの守った日本は、オイたちがなんとかする。
悔しかろう、悲しかろう。でも、すまん。
墓もなく、戒名もなく、こんな異国の地に置き去りにしてほんとうにすまん。
そう言って、コガは顔を涙まみれにした。
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