第13夜 『例のコトバは覚えたか』
ある青年が、バイト帰りに男に呼び止められる。
男は赤い外套をまとい、頭には黒いフードを眼深にかぶっていた。
怪しい。これは露骨に怪しい。今時、外套なんて――大正時代じゃあるまいに。これほどまでに怪しい人物をF夫は見たことがなかった。
今日は姪っ子の誕生日で、F夫は少しでも早く帰りたかった。それなのにこんな奇怪な男に絡まれるなんて……。警察は何をやっているのかと、憤る。
こういう人物を徘徊させないために税金を納めているのだ。
職務質問の一つでもすれば罪の一つや二つは簡単に出てくるだろう。男はF夫をそれほど警戒させる風貌をしていた。
赤いマントの男は、呆然とする青年に再度同じ事を訊いてきた。
「覚えてらっしゃいますね?」
「……ええ、ハッキリと」
「確認させていただいて……よろしいか?」
男は指先でフードを上げ、鋭すぎる眼光を青年に投げかけた。
切れ長で細い眼、確固たる意志を持った眼差し。それは青年に中学の頃、クラスの不良に見せられたポケットナイフを思い出させた。小さいが派手にギラギラ光り、小振りながらも人を殺せるのだという武器としての意思表示を感じさせたものだ。
青年は唾をごくりと飲んで、言った。
「む……」
「む?」
「……む、紫鏡」
男がマントを大きくひるがえし、現れ出でた両手で態とらしいほど大きく拍手をした。ぱちぱちと乾いた音が路地の闇に溶ける。
「素晴らしい! 素晴らしい貴方は! 本当に覚えてらっしゃったんですね! あなたはもう23歳だというのに、いまだに紫鏡を覚えてらっしゃる! 素晴らしい!」
男があまりにも大げさに誉めるので、F夫はなんだか気恥ずかしくなった。褒められるのは嫌いじゃないが、こうも大層にやられると申し訳なくさえ思えてくる。
「あなたは素晴らしい人だ! もしかして……他も?」
「イ……」
「イ?」
「イルカ島」
「素晴らしい! 23歳、立派な大人だと言うのに、あなたは紫鏡ばかりか、イルカ島まで覚えてらっしゃる! 立派な大人だと言うのに、貴方は!」
馬鹿にされているのだろうか。F夫はすこしムッとした。男は興奮冷めやらぬといった様子で、拍手を続けている。F夫は立派な大人らしく、紳士的に尋ねた。
「あの、もう行っていいですか?」
ぱたりと拍手の音は止まり、男は両手をマントにしまうと、フードも深くかぶった。
「それは、駄目です」
「え……どうして?」
F夫は背中にぞわっと悪寒を感じた。
――もしかして……。
F夫は心に浮かんだ言葉をそのまま口から垂れ流した。
「もしかして……僕、死ぬんですか」
男は無言のまま答えない。
「答えてください。僕、死ぬんですか!? 紫鏡を二十歳まで覚えていたから死ぬんですか!?」
「ちょっと、とある場所まで、ついてきてもらってよろしいか?」
質問に答えず、一方的に言い放った男。その言葉にはF夫に拒否の選択をさせない凄みのようなものがあった。
「ど……どこへ?」
「ついて来れば、わかります」
男はそう言うと、マントをひるがえし路地の奥へ進んでいった。心底逃げ出したい気持ちに駆られながらも、F夫は後をついて行った。反抗し、逃げ出したとしても、捕まるような気がしたからだ。
もし捕まれば、本当に殺されてしまうかも知れない。
男のはおる外套――マントの下には殺人や拷問につかう道具が沢山隠してありそうだった。それこそ、ポケットナイフどころではない。
――どこへ連れて行かれるのだろう。
人通りの少ない場所に連れ込まれ、殺されるのだろうか。男の思惑がまるでわからず、F夫は混乱していた。
――ああ、どうして僕は紫鏡など覚えていたのだろう。
紫鏡を教えてもらった当時、F夫は中学生だった。別段記憶力に優れているワケでもない自分が紫鏡をなぜ覚えていたのかわからない。
しかし、教えてもらった記憶は鮮明に残っている。
忌まわしい紫鏡のことを真剣に話してくれた同級生に当時好意を寄せていたからだ。
――S藤S子さん。
華奢な身体の彼女が、F夫の机に身を乗り出し、鼻と鼻が触れそうなほどの近くで紫鏡の話をしてくれた。
彼女の髪が、彼女の息が、爽やかな甘い香りだったのを、F夫は今も忘れていない。
さようなら、S子さん。僕は君のせいで死にます。きっと殺されます。
F夫の息が上がり始めても、男は気にする様子もなく路地を進んでゆく。
見慣れない道で方向感も乏しくなり、F夫は今、自分が街のどのあたりにいるのかさえわからなくなった。どうやら、大通りを避けて移動しているらしい。
大通りでF夫に逃げ出されれば、簡単に殺すことはできないからではないか――F夫はきっとそうだと思った。
「つきましたよ」
男がようやく足を止めたのは、古く汚らしい雑居ビルの前だった。
「ここが……目的地ですか?」
「さよう。さあ中に入りましょう。みんなお待ちかねですよ」
ああ、僕はこんな汚いビルの中で死ぬんだ。ああ、それはなんて悲しいことだろう。
男が先にビルへと入ったので、F夫はそれがチャンスの到来だと気付いた。今ならば、逃げおおせるかも知れない。
しかし、男の言葉が引っかかった。みんな待っている?
もしかしたら、これはまるっきりの悪戯で、バイト先の飲み会か何かかも知れない。びっくりパーティだか、サプライズパーティだかいうやつだ。
ここで臆病風に吹かれて逃げだした事を、後日笑うための企画じゃないか?
だが、バイト仲間の悪戯という保証はどこにもない。瞬間的にF夫の全身を恐怖が貫いた。やはり自分を騙そうとしても、恐怖には逆らえない。
身をひるがえし、やってきた方向へと逃げ出した。
しかし、首が絞まり逃げ出せない。突然の首への締め付けに、F夫はむせた。まるで見えない首輪に繋がれているようだ。気がつかない間に捕らわれていたのだ。
おそらく、最初の段階から、逃走できないように仕向けられていたに違いない。
逃げられない……。もう、行くしかないのか。
F夫は腹を決めてドアを開いた。
予想通り、そこにバイト仲間の姿はなかった。
どうやら内部は通路になっているらしく、黄色い天井の明かりに、くすんだコンクリートの壁が照らされているだけだった。通路のすぐ脇から、声がする。
「はやく、何をやっているのです」
マントの男だ。男はエレベーターのドアを手で開けたまま、F夫を急かした。
おそるおそるF夫が乗りこむと、男はコントロールパネルに刺さっていた小さな鍵を回した。重い駆動音とともにドアはゆっくりと閉まり、水に沈むかのごとく動き出した。下へ向かっているらしい。
どのぐらい乗っていただろう。
ようやくエレベーターが動作を止め、膝にがくんと重力がかかった。
ドアが開くと同時にF夫は息をのんだ。そこは大きな部屋になっており、飲み屋というよりも、英国風のパブといったところだ。
年齢も性別もバラバラな20人ほどの人達が方々で喋ったり、歌ったりしていた。
グラスとグラスがぶつかり合う音、ジュークボックスは一昔前の洋楽を柔らかく奏でていた。
――ここは、なんだろう。
秘密の飲み屋だろうか。こういうのが『大人の隠れ家』と呼ばれるのかも知れない。背後でドアが閉まると同時に、小走りで一番近くにいた中年が僕らのほうへ来た。
「やあやあ、新入りさんだね」
飲酒のせいだろう、中年の男はハゲあがった頭を赤くぴかぴか輝かせている。横にいたマントの男が返答した。
「今日からこの集まりに参加することになったF夫くんです」
「ほうほう、F夫くんね。ぼくはD島だ。ひとつ、ヨロシク。……で彼の歴はいかほどかな?」
D島と名乗った中年は善良そうに思われた。ただF夫には彼の言う『歴』の意味がわからず、ただ首をかしげるばかりだ。困ったF夫に代わって、マントの男が答える。
「中学からと聞いていますから……10年前後みたいですね」
「10年かぁ。なんだ、まだまだじゃないかぁ。僕は25年だよ、君ぃ。大先輩ってワケだ。ま、それはそれ、これはこれ。ひとつ、ヨロシク」
ほとんど無理矢理にD島が握手してきた。F夫はワケがわからないまま、苦笑いを作って場を濁した。
「おーい、新入りだ。新入り」
D島はパブの面々にそう叫ぶと、上機嫌な様子で元のテーブルへ戻っていった。
「これ……どういうことですか」
「は、は、は。ビックリされたでしょう。ここは紫鏡同盟の本拠地なんです」
「紫鏡同盟?」
「誰もがすぐに忘れてしまう紫鏡。そんな、とるに足らない噂話を20歳を越えても覚えていた、誠実な人々の集まりです」
「もしかして、歴っていうのは……」
「紫鏡を知ってからの経過年数ですよ。あなたは10年、ヒヨッコですな。は、は、は。……ほら、奥にいる白髪の老人。あの方は歴が60年という、ベテラン中のベテランですよ。あとで挨拶なさったほうがよいでしょう」
「待ってくれ、僕はまだ入会するかどうか決めて――」
「君、F夫くんね。私のこと覚えてるかしら?」
突然女性の声で自分の名を呼ばれ、F夫は振り返った。見覚えのある華奢な身体、聞き覚えのある声。
S藤S子だった。
「もしかして……S子さん?」
「覚えててくれたんだ! 嬉しい!」
「お、覚えてるとも! 僕も嬉しいよ!」
マントの男がわざとらしくマントをひるがえした。
「お知り合いですか。は、は、は。再会とは良いものです。積もる話もあるでしょう。どうぞごゆっくり」
つぶやくように言うと、マントの男はエレベータに戻りドアを閉めた。
「懐かしいわね! 私が話した紫鏡、覚えててくれたんだ……なんか嬉しいな」
「うん。ほんというと、さっきまでは忘れたかったんだけど、今は覚えていて良かったと思うよ、ほんと」
「じゃあ、歴は私と同じ10年ってわけね。ふふ、ここじゃ下っ端よ」
F夫は久々の再会に舞い上がった。
記憶の中で美化されていると思い込んでいたが、目の前に存在するS藤S子の姿は、記憶の正しさを証明した。彼女は美しく、彼女が白い歯を見せて笑うたびに、F夫の心臓は鼓動を早める。
――なんだ、ここは素晴らしい集まりじゃないか。
「僕も、さっそくこの同盟に参加するよ」
F夫の言葉に、S子の表情は曇った。なにかマズいことを言ってしまっただろうか。
興奮の鼓動は、いっぺんに不安の鼓動に変わった。
「もう、手遅れよ……」
「え?」
「もう、手遅れなの。あのドアが閉まった瞬間、F夫くんはここの住人になったのよ……もう、逃げられない」
「それって……どういうこと?」
「死ぬまでここで暮らすってことよ。もう太陽はおがめないでしょうね」
「ばかな。そんな冗談はやめてくれ。今日は姪っ子の誕生日なんだ。早く帰って祝ってやらないと。M琴のやつプレゼントを楽しみにしてるんだ」
S子は深い溜息を吐き、首を振った。
「F夫くん、良く聞いて。ここからは出られないし、姪御さんの誕生日は祝えない」
「祝えるさ!」
苛立ったF夫はエレベーターの呼び出しボタンを押した。
しかし、ランプが点灯することはなく、すこすこと手応え無く音を立てるだけだった。
「エレベーターは来ないわ。そこに鍵穴があるでしょう。それを回してパネルを作動させないと反応しないの」
「閉じ込められたのか! そんな、監禁じゃないか、犯罪じゃないか! バーのみんなにも知らせないと!」
「みんな知ってるわ。ずっと、ここに閉じ込められているから」
F夫は目の前が真っ白になった。それは貧血の症状にも似た絶望の白幕だった。
「ずっと……ここに」
「ずっと……ここによ」
「死んでしまう。飢え死にしてしまう」
「その心配はないわ。食料品や嗜好品、酒類は頻繁に補給されるから」
S子の後ろのほうで乱痴気騒ぎをしている人たちを見た。たしかに酒はおろかつまみにだって、不自由している様子はない。
「なぜ……こんなことを……」
「紫鏡のためよ」
真面目な表情でS子が言った。あの日、紫鏡をF夫に教えた時と寸分違わない表情だった。すくなくともF夫にはそう思えた。黙るF夫に、S子はあの日と同じように顔を近づけ、囁くように言った。
「都合が……悪いの。私たちがいてはね」
「どういうことだい?」
「わからない? 私たちは紫鏡を20歳まで覚えていた。なのに生きてる。これはつまり……」
「……つまり?」
「紫鏡が、なんてことはないホラ話。子供だましのインチキという事になってしまうの」
F夫は急に可笑しくなった。
「だから、紫カガミを覚えてる人間を隔離してるって言うのか? 馬鹿げてる。それこそインチキじゃないか」
「でも、これが事実よ」
「僕らを隔離して、どうしようと言うんだ?」
「紫鏡の復権よ。私たちが消えれば、『伝説はほんとうだ、紫鏡を覚えていると、死ぬ!』ということになるわ。そうして紫鏡伝説はふたたび子供達を恐怖のどん底に突き落とすの。奴の――赤マントの狙いはそれ」
なるほど、赤マントという都市伝説も聞いたことがある。子供を襲い、内蔵を取りだすとか、なんとか。紫鏡伝説も赤マントが裏で暗躍していたらしい。F夫は妙に納得したが、その一方で素直には頷けなかった。
「伝説の復権ねぇ……。でもそれなら誘拐、隔離なんて方法をとらないで、直接殺した方が確実じゃないか?」
「それは、わからない。覚えていてくれたことへの感謝もあるのかも。殺してしまうには忍びない……って。あるいは赤マントに他の思惑があるのかも知れないけど……」
「思惑……か。都市伝説の復権なんて、今さらだと思うけど」
「今さら……でもないみたいよ? 赤マントの他にもカシマレイコが、同じように活動してるらしいもの。カシマさんにさらわれた人は、別の場所に入れられてるって噂だけど……カシマさんは、きっと別のキーワードね。イルカ島とかじゃないかな?」
――噂、噂、噂。また噂だ。紫鏡にイルカ島。そんなことはどうだっていい。
F夫は大きく溜息を吐いた。このままここで死ぬなんて、まっぴらゴメンだ。
テーブルのほうから聞こえてくる騒ぎや会話の内容は、ほとんどが過去の話だった。
長く閉じ込められれば、過去の昔話に執着するしか娯楽が無くなるのだろう。酒が入ればなおさらだ。
あんなふうに思い出話だけをして死んでいくのは、F夫にとって耐え難いことに思えた。自分にはまだ未来がある。
「僕は、逃げる。脱出する」
「ふふ。どうやって?」
「入り口はエレベーターだけなのか? 部屋の奥にある、あのドアはなんだ?」
「私も一ヶ月前に来たばかりだから、詳しくはわからないけど。あの先は倉庫になってるわね。食料や衣料品が山積みで置いてあるわ」
「倉庫から他へはいけないのか?」
「倉庫の一番奥にドアがあるけれど……」
F夫は最後まで話を聞かずに倉庫へと駆けだした。
走るF夫にテーブルの人々はまるで興味を示さなかった。相変わらず大声で笑ったり、歌ったりしている。
倉庫へのドアを開けると、ひんやりとした空気が鼻先に触れた。規則的に積まれたダンボールの山が、ビルのように立ち並んでいる。
「S子さん、ドアはどこにある?」
「雑貨ダンボールの奥よ。でも……」
ダンボールにはラベルが貼ってあり、中に何が入ってあるのか一目しただけでわかるようになっている。この一角は……『酒類 ビール』
次の一角は……『酒類 ウイスキー』もう少し先のようだ。
内部は思ったより広く、ビルのように林立するダンボールのせいで見渡せはしない――が、小学校の体育館ほどの広さはありそうだった。
『衣料 長袖 女性』
『衣料 長袖 男性(子供)』
分類が非常に細かい。これも赤マントの仕業かと思うと、その繊細かつ丁寧な仕事ぶりにF夫の背筋は凍り付いた。
食料品から嗜好品のダンボールを過ぎ、F夫はようやく雑貨と書かれたダンボールのビル群に突き当たった。
『雑貨 工具 丸ネジ』
『雑貨 工具 皿ネジ』
細かすぎる。F夫は奥歯を鳴らした。
丸ネジも、皿ネジも、こんな監禁状態では必要ないに違いないのだ。しかし丸ネジには丸ネジのダンボールビルがそびえ立ち、皿ネジも同様にビルになっている。
F夫には確信があった。絶対に、絶対にこれほどの量のネジは必要ない。飲んで歌っているだけの人々が、なにかを修理したり改造するワケがないのだ。
「クッ! 万が一ということかッ!」
念には念、その用意周到さ。
まるで、遠足に向かう小学生の息子に、ワケのわからない物まで持たせようとする――お母さんのその温もりにも似ていた。
そんな赤マントの念の入れようと温かさに、F夫は戦慄を覚えずにはいられなかったのだ。
『雑貨 食器 スプーン』
『雑貨 食器 フォーク』
『雑貨 食器 スプーンの先にフォークがちょっとだけついたやつ』
「スガキ屋にあるようなやつかッ! あの食べやすいのか食べにくいのか評価に困るやつか! それとも給食でつかうやつか! あれは『先割れスプーン』って言うんだ! ちくしょうめ!」
F夫はもはや、自分が何を叫んでいるかもわからなくなっていた。
でも、優しい。赤マントの不器用な優しさが、F夫の心に痛かった。
ようやく行き止まりまで来ると、コンクリートの壁にぽつりとドアが設置されていた。鋼鉄製だろうか。不自然なほど銀色に輝いていた。
「それよ……それが……もう一つのドア」
S子はすっかり息を切らし、両肩を揺らしている。
F夫はゆっくり近づき、把手に手をかけた。しかし、引けども押せどもドアはピクリとも動かない。
「無駄よ。ロックしてあるの。開いたところは見たことがないわ。そこのパネルに解除キーを入れないと」
S子の指し示した操作パネルは、壁から迫り出していた。
長方形の台座のようになっている。まるっきりパソコンのキーボードだった。これを使って解除キーを入れるのだろう。
「解除キーは?」
「知るわけ無いでしょう? 知ってたらすでに開けてるわよ」
F夫は適当なキーワードを入力してみた。
『紫鏡』――ビーッ、無効です。
『開けゴマ』――ビー、無効です。
『先割れスプーン』――無効です。
「駄目だ! わかるわけがない!」
「言ったでしょ? ここに救いなんて無いのよ」
そう言ってS子がフッっと影のある笑いを見せる。だが、そんなS子の言葉がF夫の心に小さな引っかかりを作った。
『救い』――ビーッ、無効です。貴方は本日すでに4回パスワードを間違いました。あと1回間違うと、直後から百時間の入力凍結に入ります。
――あと、1回。
心の隅に生まれた引っかかりを、F夫は必死で手繰っていた。
――『救い』この単語に妙に引っかかる物があるのだ。
救い、救い。救い……。
救い?
突然の閃きが、F夫の脳の奥を白く焼いた。途切れかけた灰色の脳細胞が閃きとともに急速に繋がっていった。
深呼吸をし、心を落ち着かせると、再びキーボードの前に立つ。
……し
……ろ
……い
……す
……い
……し
……ょ
……う
変換。
『白い水晶』――ピー、キーワード認証しました。
圧力が抜けたような音が響き、それとともに、ドアが小さく動いた。封印は解かれたのだ。
「えっ!? どうして!? なぜキーワードがわかったの!?」
F夫は把手を引き、ドアが開くことを確認すると、ゆっくりと振り返って、言った。
「忘れちゃったの? コレも君に教えてもらったんだよ?」
呆然とするS子にF夫はウインクした。あの日、S子がしたのと同じように。
「S子ちゃん。紫鏡を怖がる僕に、君は言ったんだ。『白い水晶』この言葉を覚えておくと、呪いは降りかからないよ、救済措置だよ――ってね」
「そういえば……そんなことあった……かも」
「ちゃんと呪いは退けられたね。ありがとう」
かくしてF夫たちは脱出した。
倉庫の奥には物資運搬用であろう大型エレベーターがあり、地下に監禁されていた紫鏡同盟のメンバーほぼ全員が一度に乗ることができた。
地上へ出ると、久々の地上に多くの者が感動し、中には感極まって泣き出す者もいた。
そうして帰路についたF夫は電車の窓から、流れる夜景を眺めた。地下にいた様々な人の顔が、浮かんでは消える。
一部の人、D島や老人を含めた数人は脱出を拒否した。
「思い出の他には、何もないんだよ。ここが私の居場所なんだ」
そういったD島の悲しそうな目を、F夫はずっと忘れられないだろうなと思ったし、実際にそうだった。
彼らが過去ではなく現在に――現在よりも未来に。
回想よりも創造に喜びを感じることができたなら、何と素晴らしいことだろうか。
しかし、一度ドロップアウトした彼らには、現代社会に居場所がないのだ。彼らは砂糖菓子のごとき甘い過去に浸り、ぬるま湯の中で死んでゆくのだ。未来へ何も繋ぐことなく。
それはなんと悲しいことだろう。そして、こうやって心を砕いたところで、F夫の小さな手では彼らを救えはしないのだ。
ようやく家の玄関をくぐり自室へと戻ると、帰りを待ちかねていた姪っ子がF夫の部屋に飛び込み、元気いっぱいで抱きついてきた。
この子も、自分の守るべき未来なのだろう。F夫は懐から誕生日プレゼントを取りだすと、それを輝ける未来に手渡した。
姪っ子はプレゼントを見て目一杯の笑顔を作り、もう一度抱きついてくる。
そうしてひとしきり礼を言ったあと、姪っ子は急に神妙な表情に変わった。
「血まみれのコックさん!」
「え? なんだって?」
「血まみれのコックさん!」
「血まみれのコックさん?」
再び姪の顔に最高の笑顔がもどる。
「この言葉を覚えてたら、F夫お兄ちゃんは20歳までに死んじゃうよ」
「でも僕はもう、23だぜ?」
「死ぬの! 呪いをとくには『ダイヤルM』ってことばを覚えてればいいよ。忘れちゃ駄目だよ? M琴も忘れちゃわないように、いっぱい言うんだ。ダイヤルM、ダイヤルM、ダイヤルM……」
「わかった、わかったから」
突如として、玄関のほうから母に呼ばれた。
「F夫ぉ。お友達が来られてるわよー。カシマさんですって。聞きたいことがあるそうよー」
やれやれ、またか。
F夫はまとわりついた姪を引き離しながら、忘れないよう「ダイヤルM」と呟いた。
《例のコトバは覚えたか 了》