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偽名仮名の住所録  作者: まつかく
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第103夜 『黄泉比良坂ハイキング』

夜が明けようとしていた。


遠く山の稜線が、ぼんやりと輝いている。掴みどころのない緋色の光が紺碧の空に滲み、霞んだ雲に明暗を強調する。


ふたり、手を繋いで歩いている。男は少年の無邪気が消えないまま。女は少女の純真を残したまま。

そんなふたりが手を繋いで歩いている。


荒涼とした場所だ。

足元は露に濡れた草が広がり、剥き出しの岩と朽ちかけた樹木ばかりが点在している。それらは一様に緋色の朝焼けに彩られ、伸びる影だけが青い。


朝が来れば何か変わるかも知れない。太陽が昇れば何かわかるかも知れない。

そんなふうに確証も確信もないまま歩き続けている。


しかし、見上げる空は夜と朝がずっと競い合っており、陽光は柔らかな片鱗だけを雲に投げかけるばかりで実態を見せない。

――せめて鳥がさえずれば。彼はそう思う。


しかし閑散とした世界は沈黙したままだ。

風が、ぽつりと佇む樹木を撫でるも、葉ずれの音さえしない。


どのぐらい歩いただろう?

どのぐらい歩いたかしら?


繋いだ指先の温もりだけが現実的で、確か――だった。

頬を撫でる心地よい涼風も、緋色から群青、群青から紺の空も、まるで誰かの夢に迷い込んだかのよう。

彼は彼女を心配させまいと、微笑を絶やさず言う。

――大丈夫だよ。


彼女は頷き、指を強く握る。ふたりは歩き続けた。

どこへ向かっているのか自分たちにもわからない。

ただ広がる薄紫の草原を光に向かって歩いた。



途中、幼子を見た。

頭からすっぽりと黒い布をかぶった誰かに手を引かれ、光へと歩いていた。

幼子が淋しそうな瞳で、ふたりをじっと見つめてきた。


声をかけようにも声がでない。まごついているうちに、幼子と黒布は滑るように草原を先行し、遠ざかっていった。

彼は不吉な雰囲気を肌に感じる。


どれほど時間が経過しても、太陽は昇らず、薄明かりのままだ。

それに、あまりにも静かすぎた。



やがて、草原の果て、大河に突き当たった。

草原のはるか向こうから水がやってきて、緩やかな流れを見せては下方へと続いてゆく。


水面はまるで水銀でできた鏡のように未明の空や、ふたりを映している。

ふたりは川縁に腰を下ろし、大河の流れを見つめたり、楽しくおしゃべりしたりした。


代わり映えのしない風景。

全てを映し出すような水銀の鏡であったが、彼の胸中に渦巻く、様々な感情だけは反射しない。それは穏やかな焦燥感であったり、安らかな不安であったり、騒がしい寂寥感であった。

矛盾した秩序があった。


彼女はそれを見越したかのように微笑むと、大河の中程を指さした。

そこには小さな蒸気船が浮いている。


手漕ぎボートほどの船体だ。乗せられた蒸気機関が、モヤのような白蒸気を吐き出している。蒸気が溢れ出すたび、船体の両側に取り付けられた櫂がくるくる廻る。


蒸気ボートは船首をふたりのいる岸に向けると、水銀の鏡を割ってゆっくりと近づいてくる。

立ち上がり、彼女は言った。


――じゃあ、行くね。行かなくちゃ。


立ち上がり、彼は尋ねる。


――どこへ行くの。


彼女は、わからないけれど、と寂しそうに微笑む。

にわかに吹いた強風が、彼の被っていた黒い布をはためかせた。

それはカラスの羽のように広がり、地面や水鏡に青い影を落とした。


接岸した蒸気ボートから、白い髪の老婆が顔をのぞかせる。

さあ、お乗り。


彼女は水銀に足を浸し、広がる水面に波紋を作る。そして、そっと蒸気船に乗り込むと、じゃあねと言った。

彼には言葉の意味がわからない。


船上の彼女の手を握り、彼も蒸気船に乗り込もうとする。

しかし、不思議な力で体が押し返される。

まるで見えない無数の手が、彼の侵入を阻止しているよう。


老婆がカラカラ笑う。これはアンタの船じゃない。アンタに乗船資格は無いんだよ。


いくな。焦り、彼は言った。


駄目なの、じゃあね。彼女は取り合わない。


見送りは、ここまでだよ。老婆は厳しい表情だ。


彼が問うと、老婆は古びたオールを取り出し、先端を彼に向けた。

そしてシワの寄った唇を小刻みに動かす。

黒布は生者の着るものだ。死者を送り出す生者の正装だ。


アンタは頭から膝まですっぽり布をかぶってるじゃないか。アンタはまだ生きてるのさ、だがこの娘は死んだ。これから冥界に赴くのさ。

ハイキングはおしまいさ。

ヨモツヒラサカは遊び場じゃない、アンタはさっさと帰りな。帰るところがあるうちに。


彼は彼女に懇願する。いくな。


彼女はさめざめと泣き、首をふる。駄目なの。


彼は怒鳴った、駄目だ。


彼女は叫んだ、駄目よ。


繋いだ指先を離し、彼は彼女の腕を掴んだ。行かせない!


彼女は涙に濡れながら笑い、悔しそうに顔をそむけた。


煙突から、モヤが吐き出され、汽笛が鳴った。


老婆が櫂を握ったまま、言う。

さあ、時間だよ。名残惜しいね、名残惜しいさ。でも時間だよ。その手を離しな。


しかし、彼は離さない。行かせるわけにはいかない。

――離さない。絶対に。


もう一度、汽笛が鳴る。


老婆は顔中のシワを歪めて、なにか怒鳴った。

老婆は両手に握った櫂を振り上げる。

そして頭上高く掲げた櫂を、彼女をつかむ彼の右手へ振り下ろした。


水を掻くための薄い板は、彼の右手をあっさり切断した。

彼に痛みは無かった。ただ鮮血の代わりに、切断面から黒い霧がパッと飛散した。

切断された右手は、そのまま彼女を掴み続けていた。


――まて、まってくれ!


蒸気が一気に噴出され、船は離岸した。

船体両脇の回転体がぐるぐる廻るたび、水面をぐいぐい滑ってゆく。

慌てて船を追い、彼は大河へ侵入する。


しかし、やはり不思議な力に足を掴まれ……髪を引かれ、押し戻される。


――まってくれ!


彼女は千切れた彼の腕を胸に抱き、船上で膝から崩れ落ちた。

上流から流れてきた川霧が、蒸気を飲み込んで、よりいっそう白くカーテンを引いた。やがて、周囲には何事もなかったかのように静けさが戻り、水面を乱していた波紋は消え去った。


水鏡に映しだされた未明の空に、朝は依然として訪れていなかった。



 *  *  *



意識を戻した彼が、一番最初に目にしたのは、白い天井だった。

次に、涙目の家族だ。両親は彼の頬を撫で、良かった、良かったと何度も繰り返した。

列車事故から2週間、彼は昏睡からようやく目覚めたのだ。

彼女の名をつぶやくと、ベッドを囲む人たちは一様に視線をそむけた。


――ああ。


彼は瞳に涙が滲むのを感じる。


――わかってるさ。知っているさ。


許容するつもりはない。受け入れたくもない。だが、朝の来ない世界で別れは済ませてしまった。

目頭に集まった涙が、行くあてもなく頬に広がってゆく。


どうして、こんな事に。なぜ、こんな事に。

どうして、自分だけが。どうして、彼女だけが。

涙に濡れた顔を、両手で庇おうとするが、片手がついてこない。


まさか、とシーツをめくって確認すると、右腕の肘から先が無かった。


――腕が……。


大変な事故だったの、母が唇を結んで泣く。

接合できるかと救助隊が必死で右手を探してくれたが、事故現場のどこにも見つからなかった。すまない。

厳しい表情を床にむけ父が呟いた。


――ああ。


彼はさほどショックを受けなかった。

右手は、彼女に預けてある。見つからなくて……当然だろう?


母も父も、助かって良かった。と何度も繰り返した。


――本当に?

彼は思う。本当に助かって良かったのだろうか。僕は右手なんかより、はるかに大事なものを失ってしまった。

たしかに、もう楽器は弾けないし、利き手に絵筆も持てない。

両手で何かを抱きしめる事もできないし、文字だってちゃんと書けるかどうか。


だいいち、弾き語りを聴かせる彼女はもういない。

描きたい絵のモデルももういない。抱きしめる相手だって……。


彼の絶望は、優しさとなって発散された。

大丈夫だよ、大丈夫だから。心配してくれて、ありがとう。

心配かけて、ごめんなさい。僕は大丈夫だから。

そう言って、気丈に振る舞った。真っ暗な心の底からは、いくらでも悲しい嘘が湧き出した。


包帯を分厚く巻かれた腕に、母親がシーツをかけようとすると、彼の指先に何かが触れた。


彼は母を制止し、切断された腕を見つめる。

肘から先は無くなっている。何かに触れるワケがない。しかし、確かに感触が、感覚があった。

彼は目を閉じて、神経を研ぎ澄ませた。


――何だろう。温かい。


指先から手のひら全体に感覚が広がり、ようやくそれが人肌だということに気付く。

すべすべしていて、柔らかい。これは頬だろうか。


手のひらと頬の隙間に入り込む温水は涙だろうか。

頬に添えた幻の彼の手に、そっと手のひらが重ねられる感覚。

彼はそれが彼女の手だと確信する。


――ああ、夢じゃなかったね。僕の手は君のもとに……。

触覚ははっきりとはしていない。途切れ途切れで頼りない感覚。今にも消えてしまいそうだ。


手が頬から離れた。

手のひらいっぱいの涙が乾きはじめて、冷ややかな冷気に触れる。

そして、手のひらに点の感触を感じる。彼女の指先の感触。


それは手のひらの表面に、流れるような文字を描いた。


――あ、りが、とう。


――ご、めんね。


――がん、ばって。


――さよ、うなら。


慌てて彼が手を閉じると、彼女の手が掴めた。

ほんの数秒、ふたりは手を繋いで強く、強く握り合った。

やがて感覚は薄れ、彼女の手が……握った手のひらの中からスッと消えてゆく。


彼の手がただの握り拳になり、やがて、その感覚すら失われていった。

幻肢の感覚は消えたのだ。

涙に濡れた彼が呆然としていると、父親が病室のカーテンを開いた。


遮られていた朝の光が、真っ直ぐに病室内を照らし、様々な白を輝かせる。


――朝が……来た。

彼は眩しさに、そっと目を閉じた。



朝が訪れるたび、彼は生を実感するだろう。

やまない雨はなく、過ぎない午後も、明けない夜もない。


彼の人生には、これから夜が来る。

明かりを掲げる腕もなく、寒さに肩を寄せ合う伴侶も失われて、その夜は長い夜になるだろう。

だが、夜は必ず明ける。ここは、朝が来る世界だ。

恐怖を投影する宵闇、不安を増幅させる暗闇、孤独を再確認させる闇。

だがそんな闇も、長い夜が明ければ光に駆逐される。


生きとし生けるもの、その全てに朝が来るだろう。


当たり前だけど、何気ないけれど、こんなに素晴らしい事はない。



  《黄泉比良坂ハイキング 了》

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