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偽名仮名の住所録  作者: まつかく
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第12夜 『黄昏が続くとき』

「あんな爺さんの言うことは信じるな」

父さんは不機嫌そうに言った。


「お婆さんが亡くなってから、少しボケはじめてらっしゃるみたいね」

母さんは興味深そうに父さんを見た。


「あんまり関わるんじゃないぞ」

父さんは念を押すように僕を睨むと、また新聞に目を落とした。


普段は『目上の人を敬え』とか言うくせに、あのお爺さんの話になると、いつもこうだ。僕はわざと返事をせずに、玄関へ向かい、外へ出た。

台所から母さんが

「夕食までには帰りなさいよ」と大声をあげた。


夕暮れの道は、そこら中の家から流れ出した夕飯の匂いに溢れていた。こっちの家からは甘いダシの匂い。これはきっと味噌汁だ。

こっちの家からは、香ばしい匂い。これは焼き魚かな。僕は色んな夕飯を想像しながらオレンジ色の空の下を歩いた。

お爺さんの家に到着した頃には、匂いだけでお腹いっぱいになっていた。もう大好きなソーセージだって入りそうにないと思う。


低い垣根の向こうには縁側があり、お爺さんがいつも通りに座っているのが見える。

お爺さんの家からは、夕飯の匂いはせず、木の柱や床に染み付いた線香の匂いがかすかに感じられた。


「やぁやぁK太くん。また来たね」


お爺さんが僕の名前を覚えてから三週間。

母さんはお爺さんを『ボケている』と言ったが、本当にボケているなら僕の名前は覚えられなかったはずだと思う。


お爺さんはボケていないのだ。大人はよく、わかってないのに、わかったフリをするのを僕は知っている。だから腹も立たなかった。


「K太くん。立ち話もなんだから、こっち来て座んなさい」


お爺さんが縁側へと手招きする。僕は垣根を回り込み、庭にはいるとお爺さんの横に座った。家の奥からは、やっぱり線香の匂いがする。


「お爺さん。晩御飯は食べないの?」


「一人で食うても、腹は膨れんでなぁ」


そういうと、縁側の奥に置かれていたクッキーの缶を引っ張り出してくる。

「お菓子、良かったらお食べ」


オレンジの光が缶の中を照らす。

缶の中にはクッキーは無く、海苔を巻いたおかきや、キャンディのような包みかたをされた小さなモナカが沢山入っていた。僕はモナカを一つ取ると、口に放り込む。柚子の甘酸っぱい香りで、口の中に沢山よだれが湧いた。


お爺さんは僕専用の湯のみに茶を注ぎ、クッキーの缶の横に並べる。僕専用の湯のみは、お爺さんの湯のみとは違い、一回り小さい湯のみだ。


お爺さんの湯のみと同じサイズの湯のみが、いつも縁側に置かれていたがそれは使わせてくれない。それが亡くなったお婆さんが使っていた物だということを、僕は知っている。

お爺さんは毎日、自分のぶんとお婆さんの分をちゃんと用意しているのだ。

きっと、こういうのを習慣と言うのだろうと思う。


僕は軽く頭を下げ、口に茶を近づけた。熱くて唇を戸惑わせていると、茶に何か浮いているのに気づいた。


「あっ。これが茶柱?」


「ほぉ。K太くん。今日はいい日になるぞ」


「ほんと? でももう夕方だ。今日はあと少ししかない」


お爺さんは垣根の向こうの空を眺めながら言った。


「あと少しでもいいじゃないか。いい日は、ずっと記憶に残る。明日でも明後日でも思い出せば、その日もいい日になる」


「ふうん……よくわかんないけど」


僕は茶の水面に唇の先をつけて、茶柱を倒さないように少しだけすすった。


「お爺さん。昨日の続きを聞かせてよ」


「昨日はどこまで話したかなぁ」


「ほら、魔法のランプをぶっ壊したとこ」


「あぁ、そうだ、そうだ魔法のランプをぶっ壊した」


「お爺さんは、どうして壊したりしたの? ランプを壊さなきゃ何度でも使えたかも知れないのに」


「魔法のランプはなぁ、一人につき三つしか願いを叶えてくれんのだよ」


「三つお願いをしたから壊したの?」


「いんや。そん時は一つだけだった」


身を乗り出した僕に、お爺さんは続けた。ランプから出てきたランプの精霊は、お爺さんの二つの願いを受け入れたそうだ。


『幸せになりたい』

ランプの精はあっさりと『はい、わかりました。その願い、すぐには効果はでませんが、そのうち叶うでしょう』と言った。

若かったお爺さんは、その時、ひどく腹を立てた。

すぐ、今すぐだ――と。

二つ目の願いを『一つ目の願いを今すぐに』にしようかとも考えたらしい。


当時のお爺さんは、若く、『幸せ』こそが究極の願いだと信じて疑わなかった。愛や金、名誉、その全てを叶える究極の願いだと信じていたのだ。

しかし、精霊は首を横に振るばかりで、内容が内容だけに、すぐには無理だと言った。


お爺さんは近くにあった石を持ち上げ、金ぴかに光るランプの上に石を落とした。ランプは石の重みにひしゃげ、原形がわからないほどに潰れてしまった。

お爺さんにとって、それはちょっとした嫌がらせに過ぎなかったのだという。


何でも願いを叶えるというランプの精ならば、自分の住処であるランプを元通りに直すぐらい、ワケのない事だとおもっていたのだ。

しかし、精霊は動揺し、泣いた。


「あれには、困ったよ。うずくまって、めそめそと泣き続けるんだ。精霊とはいえ、女の子を泣かせるのはバツが悪くてなぁ。自分の乱暴を悔やんだのは、あれが最初で最後だったな。――申し訳なくて何度も、何度も謝って、なだめたんだが」


お爺さんは静かに笑った。

残った願いで、ランプを元通りにしようとしたが、精霊はそれは無理なのだと言った。自分のランプに関わる願いは、受け入れられない――と。


「悪さをな、しようとする奴がおるかも知れんからな」


――ランプに関わる願いで悪さをする。

僕は、それがどんな悪さなのだろうかと考えたが、たいしたものは思いつかなかった。ランプを増やしたり、願いを増やしたりする事だろうか。


お爺さんは続けた。

じゃあ、残る願いで他のランプの精を呼び出そう。そうすればこのランプを直せるかも知れない。しかし、精霊は首を振るばかり。


『他のランプも、ランプの精霊も呼び寄せることは不可能です』

じゃあ他のランプを自分で探す――と、お爺さんは精霊を連れて各地を旅した。

インドにも行ったし、アフリカにも行った。

しかし、他のランプはどこに行っても見つからなかった。


「探し回る内に、すっかり歳をくってしまった」


僕はお爺さんに向き直し、尋ねた。

「他の願いはどうなったの?」


僕の質問に、お爺さんは寂しそうな顔で遠くを見たまま答える。

「まだ……だ。一つは使ったが、最後のは……叶っているかどうか……わからん」


お爺さんが二つ目に願ったことは、僕にはまるでわからなかった。でも黙っていた。

「K太くん。幸せって……なんだろうな。なんだったんだろう」


僕に聞かれたって、そんなことわかるはずがなかった。たくさん好きなものを食べたり、好きなだけ寝たり。欲しいものが思うように手に入れば、幸せなのかも知れない。


「あいつは幸せだったろうか……」


お爺さんが、お婆さんの湯飲みに目を落としたので、お爺さんのいう『あいつ』がお婆さんだと言うことが、僕には理解できた。

「幸せじゃなかったの?」


「わからん……よ。一度だって聞いたことはなかった」


「聞けば良かったのに」


お爺さんは笑い、言った。


「なら、K太くんは幸せかい?」


「ううん。わかんないよ。幸せなのかなぁ」


「そうだ、誰にだってわからんもんだよ。誰かが『幸せだ』って断言しても、わしにはそれが不幸なことに思える」


「どうして?」


「それを幸福だって知ってしまっているからさ。人生は長い。その幸福がいつまで続くか誰にもわからない。十年後、一年後、あるいは明日には消えてなくなってしまうかも知れない。それがやり直せる幸福なら、もう一度やりなおせばいい。だが……」


「だが?」


「自分一人で作り上げる幸福なんて、この世にはないんだ。きっとどんな幸福にも自分以外の誰かが必要に違いない。そして、失った時には手遅れなんだ。大事な人というのは」


「お爺さんにとっての、お婆さんのような?」


「そうだね。わしには、婆さんが必要だった。でも……あいつはどうだったんだろうなぁ」


「でも、ずっと一緒にいたんでしょう?」


お爺さんは、珍しく黙り込んだ。

遠く夕暮れの空を、鳥が編隊を組んで斜めに飛んでゆく。近くの、あるいは遠くのカラスが仲間を呼んでいるのを聞いた。

口に残っていた柚子の香りを洗い流そうと、僕が湯飲みを取ると、お爺さんの口がようやく開いた。


「一緒にいた。ずっと一緒にね。わしはそれを望んでいたが、あいつは望んでいただろうか?」


「嫌だったら、一緒にいないよ。僕ならキライな奴と、一秒だって一緒に居たくないもの」


「そうかもしれんね。でも。あいつは……あいつには帰る場所がなかった。仕方なくわしと居たんじゃないかなぁ」


帰る場所がない?

僕には意味が良くわからなかった。

でも、考えてみれば、不思議だった。僕のお爺ちゃんやお婆ちゃんは、どこに帰るのだろう?

お爺ちゃんやお婆ちゃんの家は、息子である父さんの帰る場所だ。母さんだって『実家』と呼んでいる場所がある。

お爺ちゃんやお婆ちゃんは、いったいどこに帰るのだろう。


「K太くん。あいつの帰る場所――魔法のランプはわしが壊してしまったままだ。あいつはその瞬間から精霊からただの人間になってしまった」


「精霊も歳をとるの?」


「ランプの魔法が切れてしまったんだなぁ。でも、わしの願い……『幸せ』と残り二つは残っていた。それを叶える魔力はずっと残るらしい。それを果たせば本当にただの人だ」


「だからお婆さん、死んじゃったんだね」


「それは、違うと思うな。寿命なんだと思う。げんに最後の願いは婆さんが死んだ時まで願わずじまいだ。婆さんが死んだ時に、最後の願いで生き返らせようかと考えたが……」


「生き返れなかったの?」


「いや……婆さんは天寿を全うした。きっと天国で幸せにしているに違いない。それを呼び出すのは、わしの自分勝手というものだ」


「そういうものかな」


「仮にわしだって、死んでも生き返りたくはないよ」


「どうして?」


「そのうち、わかるさ」


お爺さんは湯飲みを見ながら続けた。

違うランプを探しながら、お爺さんは二つ目の願いを使った。

『精霊に幸せを』

精霊は戸惑いながらも、それを受け入れた。


ランプは見つからないまま季節は巡り、年月は積み重なった。

やがて無理な捜索がたたって、女精霊は体調を崩したという。精霊を家に残し、若き日のお爺さんはランプの捜索を続けようとした。

しかし、精霊が側にいて欲しい、ランプの捜索をやめよう――と懇願したという。


以来数十年、お爺さんは仕事を見つけ、働きに出た。

精霊は家事を覚え、夕飯を作ってはお爺さんの帰宅を待った。子宝には恵まれなかったが、とても充実した日々だったという。

戸籍のない精霊とは、入籍すること叶わず、二人だけでつましい結婚式を挙げた。入籍書類も白い紙に手書きで書いたもので、書類の文章も二人で考えた。


書類が完成した日を結婚記念日とさだめ、その日がくると毎年ごちそうで祝った。やがて二人は歳を取り、縁側で茶をすすっては、過去の思い出を語り合ってきた。

お爺さんは言う。


一つ目の願いを――『幸せになりたい』って漠然とした願いを、婆さんは叶えてくれたと思う。婆さん自身によって。

自分は、何かできただろうか?


二つ目の願い――『精霊に幸せを』という願いに、自分は貢献できただろうか?

お爺さんの定年が決まってすぐに、二人は旅行の計画を立て始めた。若き日、二人がランプを探して巡った世界各地を、もう一度二人で巡る計画だった。

しかし、それはお婆さんの突然の死によって、果たされることはなかった。


「今でも思うよ。毎日思う。もう少し、早く計画するべきだったよ。細かく計画を練りすぎたんだ。無念に思う、毎日、毎晩……」


僕は何か胸にモヤモヤしたものがあって、それを無理矢理に言葉にした。


「お爺さんの二つ目の願い、きっと叶ったと思う。いや、一つ目の願いも、二つ目の願いも、きっと叶ったんだよ」


どう言えばよいのか、まるでわからない。しかし、生まれくる気持ちのままに僕は言葉を続けた。


「だって……お婆さん、死んじゃったんでしょ? 悲しい。でもそれはきっと、願いが叶ってたから死んじゃったんだよ。二つ目の願いの『幸せ』になってたから死んじゃったんだ。だって精霊は願いを叶える力は残ってたんでしょ? 不幸せならまだ生きてるよ」


上手く言えたかどうか、まるでわからない。お爺さんに、とてつもなく失礼なことを言っているようにも思えた。


「ありがとう。K太くん。少なくとも……婆さんは一つ目の願いは叶えてくれたよ。ありがとう」


「旅行だって残念だけど、お婆さんはそれでも良かったんだと思う。きっと、家でゆっくりお爺さんと計画を立てるのも楽しかったハズだよ? 精霊……お婆さんは、きっと幸せだったって、僕は思う」


お爺さんは無言で頷き、そのまま遠い空を見上げた。オレンジ色の雲が幾層にも重なり、ゆっくりと流れてゆく。

人肌ほどの温さになったお茶を、僕が一気に飲み干すとお爺さんは言った。


「K太君。わしは思うんだ。婆さんは――あの精霊は実のところ、願い事なんて一つも叶えてくれなかったのかも知れない」


お爺さんは、自分の言葉に頷いて続けた。


「一つ目の願いも、二つ目の願いも、実際はわしや婆さんの努力で勝ち得たのかも知れない。婆さんはそれを手助けしてくれたに過ぎないのかもな」


「じゃあ、お爺さんの願いはまだ残ってるのかな?」


「いや、残ってるとしても、もう十分だ。わしは幸せだった。願いは叶ったんだよ」


僕は黙っていた。それは叶ったんじゃなくて、叶えたんじゃないか。

でも、そうであるなら精霊なんて必要ないじゃないか。


「しめっぽい話になってしまったね」


「ううん。いいんだ。聞きたかったし」


「ずいぶん遠回りしてしまったが、最初の話に戻ろうか」


お爺さんは僕の方へ身体を向け、ゆっくりと言った。


「さあ、三つの願いを言うが良い。わしが叶えてしんぜよう」



「本当に……叶うの?」


「さあなぁ。わしがランプの精になろうと決めたのは、婆さんが死んでからだ。婆さんが死んだあとで、残った三つ目の願いが叶うかどうかはわからない」


「なんで精霊になったの?」


「知りたかったんだよ。精霊の気持ち、婆さんの気持ち。誰かの……人の願いを」


「なんでも叶えてくれるの?」


「本当に君のためになることなら、なんでも」


「ふうん。なんか、今日は……疲れちゃった。また明日でもいい?」


「かまわんよ。明日にしようか。じゃあ気をつけてお帰んなさい」


「お爺さん、お茶ごちそうさま」


僕は軽く挨拶を済ませ、家路についた。

夕暮れは、訪れる夜にすっかり負けてしまい、街は濃い青色になってしまっていた。

僕は――なにを願おう。

家について、母さんの愚痴を聞かされている間も、布団に入った時も、ずっとそればかり考えていた。夢の中でも考えていたと思う。


次の日、学校が終わると、そのままお爺さんの家に向かった。

願いは結局、何一つ決まらないままで僕はお爺さんと相談して決めようと思っていた。


普段通らない道というのは、色々発見があって楽しい。

途中、野良犬を見つけ、しばらく遊んでしまった。

僕は千切れんばかりに振るしっぽを押さえたり、ポケットの駄菓子を食べさせたりした。


気付いた頃には、夕暮れが始まっている。

僕は慌てて犬に別れを告げると、お爺さんの家に向かって走った。

ランドセルの中身をリズム良く揺らしながら先を急ぐ。

お爺さんの家の前につくと、オレンジ色の風景の中に、赤いライトが回っていた。


救急車に――パトカーだ。険しい顔をした大人達が、家の周囲を取り囲み、めいめいに好き勝手なことを口走っていた。


「心臓発作ですってよ」


「昨日の夜には亡くなっていたって……」


「そりゃあ、身寄りもいないしねぇ。まだ発見が早かった方だと思うわ」


「お婆さんが亡くなられてから、ボケ始めてらしたから心配していたんですけど……」


大人達の噂話は途中からほとんど僕の耳には入らなくなっていた。

――お爺さんが……死んだ。

背伸びして垣根から庭を覗くと、縁側にはいつも通り茶菓子の入ったトレイと、三つの湯飲みがあった。


昨日まで、笑って話していたのが嘘のよう。

僕が帰ったすぐ後、お爺さんは湯飲みを洗い、今日再訪問する僕のために用意していてくれたのだろう。湯飲みはお盆の上に逆さに並んでいる。

僕にはそれがお墓に見えて、思わず目を逸らした。


「おい、坊主! 覗くんじゃない!」


縁側に出てきた警察官が、凄い形相で僕を睨んだ。

負けじと僕もにらみ返す。そこはお前みたく、怖い顔の奴がいて良い場所じゃない。そこは優しい笑顔のお爺さんがいるべき場所なのだ。

しかし、背後から違う警察官に肩を押さえられ、僕は垣根から引き離された。


「やめてよ!」


「覗くな! 悪ガキが!」


「悪ガキじゃない! 僕はお爺さんの友達だ!」


「友達? 嘘つけ。あのボケ老人には友達はおろか、身内だっていないんだ。帰れ帰れ!」


警官は僕を家の遠くまで引き摺ってゆくと、僕を近寄らせまいと腕を組んで道をふさいだ。何度か駆け抜けようとしたが、そのたびに警官に押し戻された。

僕はすっかり気を落とし、とぼとぼと家路につく。

お爺さんが――死んだ。


名誉が失われたまま、お爺さんは死んだ。

ボケ老人、嘘つき老人。みんな、あのお爺さんの話を、ちゃんと聞いてみれば良かったんだ。誰もが鼻を鳴らし、有り得ないことだと苦い笑顔を作る。

なぜ老人と子供の話は、馬鹿にされるんだろう。

悔しい、とても悔しい。


僕は溢れる涙をシャツの袖で拭った。口の中は塩っ辛い。

そうだ。お爺さんは最後の願いでランプの精になったと言っていた。

ランプがないから精霊の不死はかなわなかったけど、願いを叶える力はまだ残っているはずだ。

僕は必死で考えた。


お爺さんの名誉を回復する方法。お爺さんの言葉をみんなに信じさせる方法。

でも、なにも思いつかない。


僕はもっとよく考えた。

そんなことをして、なんになるんだろう。


お爺さんの名誉が回復したって、誰ももう馬鹿にしたお爺さんに面と向かって謝ることはできないのだ。墓に花を持ってくる人もいないと思う。


僕はもっと良く考えた。


お爺さんを生き返らせてはどうだろう。

だめだ、お爺さんは……生き返りたくはないと言っていた。どうしてだろう。なぜだろう。真意がまるでわからない。

でも、お爺さんを生き返らせたら、きっと僕に怖い顔を向けるだろう。


それに、死んだばかりで死体があるお爺さんと違って、お婆さんの死体はもうない。お爺さんだけ生き返ったら、また寂しい思いをするんじゃないか。


でも願いは――お爺さんと……お婆さんのために願おう。

僕は近くのビルの屋上に上った。空にはオレンジの雲がいっぱいにひろがり、溶けるようにして四方に散らばっていた。

僕は空に一番近い場所で祈った。


『あの湯飲みを、天国にいる二人の場所へ』

僕は必死で願った。何十回も心の中で唱えた。にわかに吹いた風が、僕の前髪を揺らす。叶ったのかな?僕は急いでビルから下りると、再びお爺さんの家に向かった。

見物客はおろか、救急車も警察官もいなくなっている。


僕は急ぎ垣根に張り付くと、縁側を見た。すると、お盆に乗せられていた湯飲みが二つきっかり無くなっている。

お爺さんと、お婆さんの分だ。ひとつ残ったのは僕の分。


願いが――叶った。


僕はいっぺんに嬉しくなり、その場で飛び跳ねた。こんなに嬉しいことはない。

お爺さんの言葉はやっぱり本当だったんだ。

そして、僕はお爺さんとお婆さんのために、なにかできたんだ。

僕は決めた。精霊になろう。

僕はすぐに次の願いを念じた。


『世界中に幸福が溢れますように』

そして


『僕も精霊に、誰かを幸せにできるような――お婆さんや、お爺さんのようなランプの精に』

そうだ、願いなんて、ある程度は自分で叶えられると言うことを、みんなに気付かせるような。そんな精霊に。力を使わず、願いを叶える手助けをする――そんな精霊に。

また、にわか風が吹き、涙が乾いた僕の頬をくすぐっていった。


空を見上げると、オレンジの雲の一つが凄い勢いで南に流れてゆく。きっとあの雲に、お爺さんとお婆さんが乗っているに違いない。

あの雲に乗って、二人は予定通りの世界旅行に出かけるのだ。


若い頃に旅をした、インドやアフリカ、南の島から北極まで。雲の上から世界見物だ。


きっと、昔話に花が咲くに違いない。

お気に入りの湯飲みを、二人仲良くかたむけながら。




  《黄昏が続くとき 了》




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