第8夜 『君の知らないラブストーリー』 ★
ある男が雪原に犬ゾリを駆っている。
愛するフィアンセに、一秒でも早く逢うため。休むことなく雪原を進んでゆく。この極地調査が終われば、しばらく仕事はお休みだ。
その間に彼女と結婚式をあげ、ハネムーンを楽しむのだ。
男は昼夜を問わず移動を続ける。彼女への溢れんがばかりの愛情により、まるで疲労は感じない。
まつげを凍らせる吹雪も、感覚を失いかけた手足も、家路をいそぐ男の障害にはなり得なかった。
しかし、いくつかの昼と、いくつかの夜を越え、移動の速度はみるみる落ちた。休むことなく走りつづけていた犬たちがとうとう疲労のピークに達したのだ。
男は、私物、調査機材の順に荷を減らし、果てには食料まで雪原に捨てた。少しでも軽く、少しでも先へ。しかし、体力を失った犬たちは、氷の上にへたり込み、前脚を舐めるばかりだ。
犬に与えるべき食料は、とうに全てを投棄している。
横から吹き付ける吹雪は、じわじわと体力をも奪い、男の気力にまで絶望の影を落としていた。
――駄目かも知れない。
男の呟きに、犬が両耳をぴんと立てた。
彼女に――逢いたい。
息絶えるにしても、少しでも彼女の近くで――。
代わり映えのしない雪原、その純白の世界には魔物が潜んでいるのかも知れない。
きっと、その魔物が、吹雪の騒音にまぎれ囁いたに違いない。悪魔的な閃きが男の脳裡をかすめた。
まず男は手袋を投げ捨てた。続いて、ニット帽を。暖かい防寒着を。次には凍りついた長靴を脱いだ。最後には下着さえ脱ぎ捨て、男は全裸になった。
そして、犬たちに語りかけた。全裸の男に、犬たちの視線が突き刺さる。
「さぁ、僕の肉を、内蔵を喰うがいい。僕を腹に押し込んで活力を得て、港まで駆けるんだ」
よほど、腹を空かせていたに違いない。
犬たちはまず、内蔵を狙った。柔らかく、栄養価が高い。くわえられ、強引に引き出された大腸に、冷気を感じた。奇妙なものだ。
あれは肝臓だろうか? レバーも栄養たっぷりだと聞く。残さずちゃんと食べなさい。
一匹、要領の悪い奴がいて、凍傷でカチカチになっている脚にかじりついている。歯も通らないようで、上手く肉を食べられないようだ。
無性に愛おしく感じた。まるで我が子のように思えてくる。やれやれ。出来が悪い子ほど可愛いと言うが、まさしくそれだ。
やがて、全身の肉は食い尽くされ、男の意識は犬の腹に宿った。
さぁ、行こう。彼女のもとへ。
主人を失った犬ゾリは、格段に軽くなり、スタミナの戻った犬たちにどんどん引かれていった。しかし、方角が違う。
犬たちは気ままに足を進めた。男の願う方向とはまるで違う。
違う。違うんだ。
港へ。港から船に乗り彼女のもとへ行きたいんだ。
だが犬ゾリはどんどん港から遠ざかり、やがて遥か南方へと腹の男を運んだ。
そこで、さらなる悲劇が男を襲った。否、正確には犬たちを襲った。
白クマだ。食料となるものが少ない氷上で、クマは飢えていた。そこに現れた犬たちは、何物にも代え難いご馳走に見えたことだろう。ソリに繋がれた犬たちと、空腹のクマ。
勝負は最初から決まっていた。弱肉強食、神の摂理はただしく作用した。
母クマと小グマは、犬たちをおいしく頂いた。
あわや、憐れな男の旅は、ここで終わるかと思われた。
しかし、男には執念があった。素早く魂をクマに移動させたのだ。
そして、コグマの腹を、しこたま痛めつけた。
急変したコグマを心配し、母グマは急いで南の海岸へと向かった。コグマに草を食べさせ、胃腸を整えさせるのだ。
こうした熊の生態は、極地調査を長年続けるうえで得た知識だ。男は熊に勝利した喜びを腹の中で噛み締め小躍りした。コグマはまた痛がった。
極地の冬は、終わろうとしているのだろう。
南方の海岸は、氷も溶け出し、冬の間、氷の下で眠っていた草たちを目覚めさせていた。この場所、氷の下は島のようになっているらしい。
露がかった葉が、白の世界に栄え美しい。
そこで、クマは草を口にし、糞をした。溜め込んだ下痢気味のものを地面へと落とす。男の魂はそこでも執念を見せた。
クマに後ろ足で泥濘をかけられながら、男は草に魂を宿したのだ。
それから数週間は、じっと待つばかり。男は考えるのをやめて、じっと待った。
春になり、渡り鳥がやってきた頃、男に転機が訪れた。
渡り鳥が、地面をついばんだ際、草の葉を少し飲み込んだのだ。男は、罠を仕掛けた狩人のごとく、そのチャンスを逃がさなかった。
ほんのひと欠片の葉に魂を染み込ませていたのだ。
鳥は腹を満たすと、中天へ飛び上がった。男は鳥とともに南へ。
風と舞い。水面に遊ぶ。男は鳥の腹の中が、少し気に入った。
しかし、彼女への愛には代え難い。
はやく。かのじょのもとへ。
鳥は南へ。暖かい太陽のもとへ、男を運んだ。
しかし、世の中は思うようにはいかないもので、男に再び悲劇が訪れた。鳥は海上を飛びながら、糞をした。
男は、それはそれは憤った。なんという環境への配慮のなさ! 海を汚すな!
そんな男の叫びは、声にもならず、ただ海中に沈んでいった。
どれぐらい――時間が経ったのだろう。
フランスの柔らかな陽光を浴びながら、男は久々に考えた。
海に落とされて、海底にいたせいで、日付感覚がまるでない。
――たしか……。
海賊キッドの財宝と共に海中から引き上げられ、サザビーズのオークションにかけられた。
落札した大富豪は、地下に宝を保管し、時おり見に来て眺めては、ニヤニヤしたっけ。その財宝を盗み出したのは、誰なんだろう?
財宝から、札束に魂を移し替えたのは失敗だった。
それが偽札で、まさか燃やされるとは思わなかった。灰になって、空を飛んだ。
それから……
それから……
男は思い出せない。
――まぁ いいか。
男は深く考えるのをやめた。
いまは、フランスのボルドーにいる。太陽をたくさん浴びて、立派なブドウになっていた。
隣の房は、N村と名乗った。彼は交通事故で亡くなり、無念から魂を移し続けているのだという。独り残された息子が心配なんだと言っていた。
二人は風に揺れ、日の光を浴びては時たまそんな事を語り合った。
そして、収穫の時期が訪れ、男は樽に入れられワインになった。
N村さんは、どうなったのだろう? 干しぶどうだけは、嫌だと言っていたっけ。
男は熟成の時を、ただぼんやりと過ごした。
数年後、綺麗なビンに積められ箱詰めされた。今はきっと船に乗っている。まるで揺りかごのように箱は揺れ、男を眠りを誘う。
男が目をさますと、瓶が置かれているのは白いクロスが敷かれたテーブルの上だった。なんたる幸運だろう。
彼女が――そこにいた。
ワインボトルの中からでも彼女が微笑んでいるのがわかる。しかし、それは自分へ向けられた微笑みではない。
テーブルの向かいに座る、別の男への笑みだ。
なんてことだ! 男は激しい嫉妬に、ワインを濁らせた。
酸化してやる!
俺は彼女のために、何年も苦労して!
何年も。何年も……。
――何年も……?
男はふと、考えた。もしかすると自分は何年も……。何年も、彼女を苦しめたのかも知れない。
ワインの栓が抜かれ、外の会話が聞こえる。
「ようやく、決心がついたんだね。よかったよ」
「ええ。ごめんなさい……本当に……」
男は耳をふさいだ。えもいわれぬ恐怖心と動揺に、それ以上会話を聞く気になれなかった。
やがて、彼女はグラスに注がれたワインを舌で転がし、ゆっくりと嚥下した。
男は胃の中で「少し酸っぱいわ」という声を聞いた。
* * *
それから数年後、男は少年の中にいた。
何ができるわけでもない。ただ、生まれてからずっと少年の魂に寄り添い、その成長を見守っていた。
少年は濡れたランドセルを机に投げ捨てると、急いで階段を下る。
長雨にやられた靴下が、ぴかぴかの床に点々と足跡を作る。彼女は、ダイニングで夕食の準備を前に、テレビを見ていた。
「ねぇママ。何を見てるの? ドキュメンタリーかな?」
少年の声に彼女は振り向き、不思議そうな顔をする。
「あなた時々、大人びた喋り方になるわね。ちゃんとランドセルは机に掛けたの? 雨で濡れたなら着替えなさい?」
「ちゃんとしたさ。ねぇ、この白いのはどこ?」
「極地の特集よ」
彼女の目は潤み、精一杯に作られた笑顔が悲しい。男の魂は少年の中から、何ができるわけでもなく彼女を見ていた。
「どうして泣いてるの?」
「ううん。なんでもないのよ」
男には少年の心が、直接伝わってくる。……どうしてママは泣いてるんだろう。
……嫌な事があったのかな。……ママが悲しいと、僕も悲しいよ。……悲しい 悲しい 悲しい。
「泣かないでママ。どうして泣いてるのか言って」
少しの間を持たせた後、彼女は言った。
「ママにはね、昔、大好きな人がいたの。とっても好きだった」
「その人はどこに行ったの?」
……その人を連れてくれば、ママは喜ぶかな?
「ずっと、遠くよ」
男はふっと、重量を感じた。
――なんだこれは。
鼻先には夕食に使われる、スープの匂いを感じる。男が鼻先に手をやると、少年の手も動いた。
彼女が寂しそうな目をして続けた。彼女の目が、男を見ている。
「ママね、もし、その人が、ママの事を忘れてたら、悲しいなって思うの」
身体が自由に動く、男の魂が、少年の身体を乗っ取ったのだ。
気付いた瞬間、男は叫んだ。
「忘れるもんか!」
彼女は驚き、目を見開いた。
「忘れるわけない!」
男は叫んだ後、しまったと口を閉じた。今、自分が再び彼女の前に姿を現して、何になるというのだ。
彼女は幸せな結婚生活を送り、子供だっている。その子供が、突然、『昔の婚約者だ』と言い出すなんて――。
彼女を困惑させ、苦しめるだけじゃないか。
男は続けた。
「忘れるわけないよ、ママ。その人もちょっとした事で、きっとママの事を思いだしてる。楽しかった事、悲しかった事、ママと過ごしたどの一つだって思い出せるよ」
男は迷いながら言葉を選んだ。あくまでも少年らしく、息子らしく振る舞った。
「そうね、そうだといいね。ありがとう」
「ママ、きっとその人はママを見守ってるよ。きっと。ママが喜んでたら、世界のどこにいてもわかると思う。ママが悲しんでたら、世界のどこにいても悲しいと思う」
男の感情は昂ぶり、少年の瞳に涙を溢れさせた。
「その人も、きっとママに会いたいって思ってるよ。その人だって大好きだから……その人だって忘れられてるんじゃないかって心配するほど、ママの事が大好きだから」
彼女が涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、微笑んだ。
「そうね、いつか逢えたらいいな。そしたらパパとあなたを紹介して、最高の家族だって自慢してやろうかしら」
少年を頷かせるのを最後に、男の魂は軽くなった。意識がフワリと宙に舞い上がり、部屋の天井近くに漂った。
少しずつ上へ上がっていくのがわかる。男の耳に彼女の言葉が聞こえる。
「ありがとう。ママ元気ださないとね。さて、泣いてばかりじゃ夕食が作れないわ。今夜はパパの好物のミートチョップにしようか、手伝ってくれる?」
男の魂は屋根の上にあった。瓦が、通り過ぎた雨に濡らされ、でたらめに輝いている。
男は少し心配になった。
この子は、俺がいなくてこれから大丈夫だろうか。この子はいつまでたっても九九の七の段が怪しい。俺が囁かなくてもテストを頑張れるだろうか。
帰り道、寄り道して道に迷っても、ちゃんと家へ帰れるだろうか。
ぐいぐいと空に引っ張られ、屋根が小さくなってゆく。
やがて垂れ込めた雨雲を抜け、一面の空に漂った。透き通る青に包まれ、男は最後の執念を燃やす。もっと、高く、もっと、上へ。もっと。
家の屋根は見えず、流れてゆく雲だけが眼下に広がる。
もっと。
男はやがて、太陽に到達した。燃え上がる天体に飲み込まれる。
そして男は、太陽に魂を宿した。
男は思う。
雲が流れ、地上が見えたなら、暖かい陽光で君の世界を照らそう。
雨上がりに虹を架け、水滴を宝石のように輝かせよう。
植物を育て、季節が巡れば花々に祝福を。
朝には鳥を目覚めさせ、夜には月を照らそう。
冬には彼女たちを暖かく照らし、夏には肌を健康的な小麦色に焼く。
彼女が眠る、その日が来たら……。その時はさすがに陰ってしまうかも知れない。
その日は悲しみに月を呼んで、日食になろう。
金環日食となり、その輪を彼女に捧げよう。渡せなかった……エンゲージリングのかわりに。
「ほらママ見て、雨雲の隙間から、光が差して光線みたい」
「あの光の帯は『天使の階段』って言うのよ」
「ふうん。天使は空に住んでるの?」
「そうよ、空のずっと上から、みんなを見守ってるの」
そんな2人の会話は、もう男に届かない。
雨雲が去って、鳥たちが戻ってくる。どこまでも青い空のてっぺんから、彼は柔らかな陽射しを送る。
その陽光は、雨上がりの世界を七色に輝かせるだろう。
彼女が知りえなかった永遠の愛を込めて。
《君の知らないラブストーリー 了》