第7夜 『ダ・ヴィンチによろしく』
「これは酷いわね」
彼女は頷く。
「これは酷いな」
彼氏も呟く。
ある普遍的なカップルが今、様々な宇宙人の絵を見ている。
それは宇宙人に誘拐された! ……と主張する人々が描いた絵で、宇宙人に捕らわれる瞬間やUFOの見た目、内部を描写している。
どれも好意的に評するならば『味がある』絵だったが、否定的に評するなら『本気で描け』と言いたくなる出来だ。
「やはり、噂は本当だったのよ」
「噂って?」
「『絵が上手い人はUFOに遭遇できない』っていう噂よ」
「なるほど。その話を僕はてっきりジョークだと思っていたけど、知らない間に都市伝説みたいになってたんだね」
「間違いないわ。ほら、どの絵を見たって上手いとは言えないわ」
「たしかに」
とたんに女が泣き出した。
「やっぱりそうだったのね、私は一生、宇宙人に遭遇できないのよ! 私のような美大生には第四種接近遭遇――宇宙人にさらわれるなんて、夢のまた夢だったのよ!」
「まって、そんなに悲観しないで。もしかしたら、みんな……絵が下手ではないのかも知れないよ?」
「どういうこと?」
「目撃者達は、ちゃんと描いたのかも知れない。『下手』なんじゃなくて、宇宙人の造形、デザインそのものが、あんな感じなのかも」
女が涙も拭かずに、一つの絵を指さした。時折、声が裏返るのを気にしている様子だ。
「でもこの宇宙人は、完全に頭がひしゃげちゃってるわ。腐ったジャガイモみたいよ! ジャガイモ! こんなのジャガイモよ! メークインよ!」
「実物もそうなんだよ、きっと」
「この絵は? ダンボールで作ったロボットみたいよ?」
「実物もそうなんだね、きっと」
「こっちの宇宙人なんて、ギョーギョー言ってるザカナクンそっくりよ?」
「実物もそうなんだよ、きっと。……いや……そもそも、ザカナクンが地球人だなんて、誰が保証できる? もしかしたらテレビに出ているザカナクンは……宇宙人なのかも。これはすごい発見かも知れないぞ」
「そういえば、何かの本に『宇宙人は人間の身体を乗っ取って、すでに人間社会に紛れ込んでいる』って書いてあったわ……」
「つまり……ザカナクンはすでに……」
「でも、このザカナクンそっくりの宇宙人の絵。矢印で『身長5メートル』って描いてあるわよ」
「それは、でかいな」
「ええ、でかいわ」
こうして二人は黙り込んだ。
二人の沈黙を待っていたかのように、開け放した窓から、犬の遠吠えが丑三つ時に溶けた。ふけた夜は、しったりとした風を闇の奥から投げかけてくる。
灰色の雲の向こうには、銀月が覗き、宵闇の中にあっては、まるでこちらが井戸の底から見上げているような錯覚すら感じさせる。
男は話を切り出すべきか迷っていた。
それは決して、ザカナクンの話ではない。
今日この部屋に彼女を呼んだ、本来の目的――。彼女との別れ話だ。
しかし、ザカナクンの余韻に邪魔され、彼女に別れ話を切り出すタイミングが掴めないでいる。
――宇宙人がザカナクンだって?
こんな事を言い出す僕も、どうかしてる。そもそも宇宙人なんていようが、いまいが、僕にとってはどうでも良いんだ。そんなオタク臭い話はまっぴらだ。
男は本来、そういったオカルト話に懐疑的、否定的な見方をしており、今日までこうして彼女に話を合わせて来られたのが、不思議なぐらいだった。
何度『どうでもいい』と怒鳴りそうになったか……十から後は数えていない。
先日も、妙なニュースで口論となった。
ニュースの伝える所によると、イタリアにレオナルド・ダ・ヴィンチにそっくりの老人がひょっこり現れ騒ぎになったそうだ。
老人は『自分はダ・ヴィンチで、宇宙人に誘拐され、今ようやく戻ってきた』と主張しているらしい。
男にとっては昼食で話題になる程度の荒唐無稽なバカニュースであっても、彼女は重大事件――真実として受け止める。
この子はそのうち、詐欺にでも引っかかるんじゃなかろうか……。
彼女は美人で、気立ても良い。絵描きの女と、写真家を目指す男……というどこか通じる部分もある。今となっては引っかかりを感じるが、付き合い始めた頃は、結婚を念頭に置いていた。
しかし、この度を超えたオカルトマニアぶりだけは、どうしても我慢ならないのだ。
女のそれは、情熱よりも苛烈で、信奉というより信仰だった。
「ざかなクン……」
彼女がうわごとのように呟きながら立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。遠い目で闇と対面し、厳しくも、憂いを秘めた表情で彼女は言う。
「ねぇ? 本当に5メートルのザカナクンがいるなら、それはもう……クジラくんよね?」
これは、笑わせようとして言っているのだろうか……。うんざりと溜息を押し殺し、男は応えた。
「むしろ、越前くらげクンじゃないか」
突如、彼女が振り返り怒鳴った。
「クラゲは魚じゃない! 別のモノよ!」
「クジラだって、ほ乳類さ」
男の正論に、彼女は両手を振り上げ髪をくしゃくしゃにした。
「違う! 違うの! クラゲは違う! アレは宇宙から派遣された海洋偵察仕様を施した生体ロボットなのよ! あのデザインを見て気付かないの!?」
突っ込みどころを探す男は、彼女の背後――窓の向こうの宵闇に何かを見た。それは流れ星のように輝きを放ち、遠い空を滑ってゆく。
彼氏の視線を追ったらしく、いつの間にか女も窓の外へと顔を向けている。
「きた……きたよ! きた。UFOきた、きたよ!」
少なくとも流れ星ではなかったようだ。
でたらめに直角や鋭角に方向を変えている。やがてそれは一点に止まると、夜を背景にふいと姿を消した。
「見たでしょ!? あれは絶対UF……」
振り返った彼女の叫びは、突然の閃光に押しとどめられた。窓から入りこんだまばゆき光が部屋を照らし、視界が真っ白だ。
まるで警察に追われる大泥棒のように、男は手をかざして視界を確保する。
しかし、状況の確認もままならぬまま、男の意識は白いモヤに包まれていった。
* * *
うっすらと薄目を開けた男の視界に、銀色の天井が飛び込んできた。状況が掴めず、混乱に半身を起こそうとするが、凍ったように身体が動かない。
どうやら診察台のような物の上に寝かされているらしい。
彼女は何処にいるのだろう? あの状況なら一緒に連れてこられているはずだ。
無事なのだろうか。
頼るべき視覚器官は、照明のない銀天井を見せるばかりで、まるっきり情報が不足している。
男がしばらくの間、自由のきかない身体をモゾモゾと動かしていると、なんとか首だけは回るようになった。そうして首を横にむけ、男は自らの目を疑った。
3メートルばかり向こう、全面銀色のキッチンのような台で、大小様々な影が並んでいる。
ダンボールロボット……。
腐ったジャガイモ……。
ひときわ大きい影は、ざかなクン……。
しかし、ピクリとも動かないところを見ると、着ぐるみか何かのようだ。
話し声の元はその着ぐるみの近くで、輪になって話していた。1メートルほどの身長に、細長い腕……短い足……。灰色の小男。一番ありふれた――つまらないデザインの宇宙人……グレイと彼女が呼んでいたタイプだった。
どうやら、仕事を忘れて談笑しているらしく、漫才のツッコミのような仕草が見て取れた。
彼らは会話に夢中になっているうちに、男への処置を忘れてしまったのだろう。
金縛りが解けている事に気付かれてはまずいと、男は上を向き直し瞼を閉じた。彼らの会話だけが聞こえる。
「マジッスカ、マジッスカ」
「ヤバイヨーヤバイヨー」
――なんだ、こいつら……!出川か!
男は一瞬、取り乱してしまいそうになるが、なんとか冷静を保った。
いや――早トチリはいけない、これは気のせいだろう。宇宙人が出川のモノマネなんて、荒唐無稽じゃないか。
人知れず逡巡する男に気付く事もなく会話は続く。
「ヤバイヨー……タモサン」
――タモサン!
いまタモサンって言った! やっぱ出川じゃねぇか!
それとも、奴らタモリと繋がりが!?
出川風の掛け合いが交わされるたびに、笑い声が巻き起こる。ウケているのか?
男がじっと聞き耳を立てていると、出川風の声に混ざって、かすかに『コマネチ』と聞こえた気がした。さすがにこれは気のせいだろう、いくらなんでも古すぎる。
それにウケていなかった。
「ジャア、ソロソロ帰サナイト」
「女ノホウハ、ドウシチャウ感ジデスカ~? ウケル~」
どうやら柳原K奈子のモノマネらしい。彼らのお笑いへの造詣は深いようだ。その見識の深さに男は戦慄を覚えた。
「連レテ行コウ」
「ジャア、男ダケ帰シチャウ感ジミタイナ」
「ウン、コイツ絵ガ下手ダシ」
何か機械の稼働音が響き渡り、男の意識は白いモヤに飲まれていった。薄れゆく意識の中、男は何度となく決意を繰り返す。
――帰ったら、彼女に絵を描かせる!
――帰ったら、彼女に絵を描かせる!
世界初の『上手な宇宙人画』だ!
世界……初の……上手な……。
やがて白く燃え上がる炎のように、男の意識は失われた。
* * *
男は目を覚ました。
部屋にはなんの変化もなく、時間だって進んでいない。
そぐ側で横たわる彼女に気付き、男は彼女を乱暴に揺り起こした。
「おい、起きてくれ!」
彼女はうっすらと眼を開き、じっと男を見つめた。
「わかるか? 覚えてるか? 僕たちは宇宙人に誘拐されたんだよ」
彼女がゆっくりと口を開く。
「マジスカー」
0.1秒もかからず、男は気付いた。こいつ中身、出川宇宙人じゃねぇか!
「お前! 彼女じゃないな! 彼女はどこにやった!」
「ヤダ、超ウケルー。あたしハあたしダシー」
男は不意に、彼女の言っていた事を思い出した。
――『ねぇ? 本当に5メートルのザカナクンがいるなら、それはもう……クジラくんよね?』
違う!! そんな事はどうでもいい!
――『宇宙人は……人間の身体を乗っ取って、すでに人間社会に紛れ込んでいる』
そうだ、これだ!
彼女はさらわれてしまったんだ! 《《奴ら》》は身代わりに彼女に化けた宇宙人を……。
「おい! 俺は全部覚えてるぞ! お前宇宙人だろ! なぜこんな事をする」
「仕方ナイ説明シマショウ」
物わかりの良い宇宙人で良かった、男は返事もせず話に耳を傾ける。
「我々ノ星デハ、イマ空前ノ漫画ブームナンデス。ダセバ売レル、売レルカラ出ス……ミタイナ」
「漫画? コミックの事か」
「エェ。ソウデス。デモ我々トテモ絵ガ下手ナンデス。ダカラ絵ノ上手イ地球人ト入レ替ワッテルンデス。ホラ見テ? コンナニ下手」
彼女を装った宇宙人が紙に宇宙人を描いた。腹が立つほど下手だった。ちゃんと描けと怒鳴りそうになる。
「ダカラ、チョットダケ……1年ダケノ契約デ中身ヲ入レ替ワッテルンデス」
「契約!? アイツがそんな契約を?」
「イエ米国政府デス。大統領ニ『change』シテイイカ? ッテ聞イタラ『Yes we can』……トカ言ッチャッタリシテ、ウケルー」
「……1年経てば戻って来るんだな」
「ハイ、契約デスカラ。彼女さんモ了承シテマスー」
男は窓辺に歩み寄り、空を見上げた。宵闇の星空に薄く雲がかかり、ゆるりと南へ流れてゆく。
別れようと考えていたが、そばに居ないとなると妙に恋しく感じられた。
オカルト話だって、ちゃんと聞いてやればよかったと思う。
彼女の言うとおり、宇宙人は存在した。彼女は正しかったのだ。
しかし……彼女にとっては幸せなのかも知れない。好きな絵を描いて、宇宙人に囲まれる。
――でも、僕にはやはり彼女が必要なんだ。それに今やっと気づいた。
彼女を待とう。そして一年後に帰ってきたら沢山謝って、沢山キスをして、プロポーズもする。彼女と結婚するんだ。
男は決意を心に秘め、拳を強く握った。
背後の物音に振り返ると、宇宙人彼女がテレビをつけている。
「コノ星ノオ笑イモ、輸入シタイナー。ウケルー」
「出川はやるよ。持ってけ」
一年の我慢だ、一年なんて一瞬さ。男は深く頷いた。今度は彼女の話をバカにしないで、ちゃんと聞こう。
死が……二人をわかつまで。
あの時、ちゃんと彼女の話を聞いていれば、男はすぐに気付いたかも知れない。そう男は気付いていない。
地球の1年と、かの星の1年が遙かに違うことを。
ダ・ヴィンチが地球に帰って来るまで、ゆうに500年は要したことを。
《ダ・ヴィンチによろしく 了》