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偽名仮名の住所録  作者: まつかく
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第56夜 『無感動カタルシス』 ★

ある男の退屈がとうとう限界に達する。


食うには困らなかったし、遊びを知らないワケでもない。

だが、男の人生には決定的に刺激が欠けている。少なくとも、本人はそう感じ、不満に思っていた。


いつしか『つまらない』『くだらない』が口癖となり、ついには、そんなさめた態度に嫌気して友人たちも去っていった。

一人になれば傾向は顕著となり、退屈は荒れる波のごとく男に打ち寄せる。


「世の中、珍しいこと、新しいことは何一つない。陽の下に奇跡などありはしないな」


男がアクビをしながら摩天楼の間を歩いていると、突如、左手の甲にかすかな痛みを感じた。見ると、小さな何かが皮膚に突き刺さり少し血が出ている。


「ふん、つまらない。どうせガラスか何かが落ちてきたのだろう」


空に向かって立ち上がるビルを見上げるが、建築中の建物はおろか、ガラスが割れた様子もない。

もしかすると、遙か上空を横切る飛行機が、なにかを落としたのだろうか?

あるいは宇宙からの隕石か?


しかし、男はそんな空想を好まない。想像など、時間の無駄なのだ。非生産的だし、暇潰しにもならない。


「なんだ。つまらない。事件が起こったなら退屈しのぎになるかと思ったが、これはどこかで切っただけかも知れない。だがせっかくだから、このビルを調べてみよう」


男は一番近いビルに目をつけた。

古い貸しビルらしく、各階に入っているテナントの下品な看板が目にまぶしい。


中に入り、ビルの中をうろつく。意外と空き部屋が多く、景気の悪さを象徴している。

ぶらぶらと歩きながら最上階まで来ると、男はひとつの空き部屋に入ってみた。


その部屋からは男の歩いていた通りが見下ろせる。会社帰りの人々や、遊びに繰り出す若者たちが見て取れた。


「ふん。くだらないね。人間ってのは時間を無駄遣いしすぎる」


通りから視線を空に視線を移すと、空の色がオレンジに変わっている。

どら焼きの形をした雲が浮かんでいた。美味そうだとも思わない。


「もう、こんなに日が短くなったのか。季節の移り変わりなんて、くだらないね。季節ってのは何回繰り返せば気が済むんだ。つまらないオレンジ色め」


ぼんやり景色を眺めていると、突然隣の部屋から物音がした。ドア一枚で繋がった隣室だ。


誰かいたのだろうか。男は少々のスリルを感じる。空き部屋とはいえ自分は不法侵入しているのだ。

すると、ドアが開き高そうなスーツを着た中年が姿を現した。中年が男を訝しげに見つめる。


「おや……貴方はどなたですか?」


「通りすがりの者です。ビルから何かが落ちてきたように思い、調べていたのですが、どうやら勘違いだったようです」


「それはそれは……」


「勝手に入ってすいませんでした。僕はもう行きます」


「そうですか」


男は階段で階下へと向かう。


「つまらないな。なにか不備があれば、ビルの所有者を訴えて暇潰しにしてやろうかと思ったが……」


男の去った部屋では、中年の男が安堵のため息をついていた。


「やれやれ、敵国のスパイを始末するのに、ちょうど良いボロビルだと思ったが、人がいてびっくりしたぞ。さっさとコイツの歯に仕込んであるマイクロチップを回収せねば。すこし焦ったが、死体も発見されなかったし、あの男を始末せずに済んだ。まったくスリリングだ」



男は大通りに戻ると、何気なく人気のない路地に入った。

シャッターを下ろした小さな商店が並び、自動販売機の光だけが夕刻に映えている。


「ふむ、どこへ行っても、つまらん。いっそのこと怪奇植物でも生えて、人間を飲み込んだらおもしろいが。それとも冷酷な殺人鬼に追いかけ回されるのも楽しいかもな」


ふと見ると、地面のマンホールがずらされ、道路にぽっかり穴が空いている。

気をつけないと、穴に落ちてしまいそうだ。


「まったく、水道局の職員め。閉めるのを忘れやがったな。しょうもない仕事をしやがって」


男は穴を避けて通り、路地を抜けた。

男が去り、再び人けのなくなった路地では、マンホールから声が響く。


「やれやれ、地上人に気付かれるところだった。もし見つかっていたら、地底人の秘密を守るため、殺さなくてはならないところだった。しかし、隠密をむねとする偵察としては、気付かれなかったことを喜ぶべきか」



路地を抜けて住宅街へ入ると、男は公園に入った。

缶コーヒーを購入し、一人ブランコに座る。


「ああ、退屈だ。いっそのこと死んでしまいたい。天国、いや地獄でもいい。なにか刺激が欲しいのだ」


すると、夕日を背にして誰かが男に歩み寄ってきた。髪が長いところをみると、どうやら女性らしい。

女は男の前までくると、おもむろに話しかけて来た。


「ねぇ……わたし……キレイ?」


男は思う。くだらない。


「失礼ですがね。そんなマスクを着用しながら自分の美醜を問うなんて、僕を馬鹿にしてるのですか?」


「じゃあ――」女がマスクを取ろうとすると、男はそれを素早く止める。


「取る必要はありません。言ってしまえば、僕は貴方が美しいかどうかなんて興味がないのです。くだらないことだ。仮に貴女がキレイだったとして、どうだというのです? 月並みな意見ですが、人は見た目ではありませんよ。そんなことより内面を磨きなさい」


「ちゃんと見なさい! これでもか!」


女がヒステリックに叫び、マスクを取るが、男は気怠そうに目をそらしたままだ。


「興味ないと言ってるでしょう。僕は退屈しのぎを探すのに忙しいのだ。自分の顔を批評されたいなら、誰か他をあたってください」


そう言って、そのまま男は立ち去った。

公園にぽつり取り残された口裂け女は、再びマスクをつけて呟いた。


「個人主義の時代が憎い……。人間がここまで他人に興味を無くすなんて……。わたしはどうやって存在意義を確立すればいいの?」




自宅へ帰る気にもなれず、そのまま街をぶらついていると、今度は老婆が話しかけてきた。


「若い人、ちょっと良いですか」


「なんでしょう」


「この鞄を拾ったんですが、私のかわりに警察へ届けてくれませんか? 私ぁ腰が痛くて警察までの道のりが苦痛なの」


面倒だと思ったが、老婆の必死な姿にしぶしぶ引き受けた。まぁ、ちょっとした退屈しのぎにはなるかも知れない。

しかし、なんとなく用事を引き受けたモノの、老婆と離れ二百メートルほど歩くと、やはり馬鹿馬鹿しくなってくる。


「ふん、どうせこんなボロ鞄だ。警察に届けたところで誰が取りに来よう。くだらないことだ。この川に捨ててやろう」


男は鞄を隣に流れていたドブ川に投げ込む。


そして、ある決断を胸に森へ向かった。

そのころ、老婆はほくそ笑んでいる。


「馬鹿な男だよ。あの鞄には爆弾が仕込んであるのさ。警察についた頃にはドカンさ。国家権力へのテロはやめらないねぇ、まったく。革命バンザイ」



時を同じくして、川では捨てられた鞄が爆発した。

のんびり川底で眠っていたカッパは大迷惑だ。


「ちくしょう、やりやがったな! 川を汚すだけじゃ飽き足らないのか! 人間め、仕返ししてやる! 妖怪大戦争だ!」



男は森で具合の良い紐を見つけると、太い木の枝にそれをくくりつけた。

退屈に絶望し、自殺するつもりなのだ。


丸い輪っかに頭を通し、ぼんやりと梢に見える夕暮れ空を見上げる。


「ああ、退屈な人生だった。世の中ってやつは、まるで刺激がない。一度で良いから波瀾万丈というやつを経験してみたかったが、それも無理だ。どうやら僕は無味無臭な運命に生まれたらしい」


悔やんでも悔やみきれない。

少しの刺激があれば、人生にメリハリが出たものを。男はなんの変化もない世の中を呪った。


「さよなら、退屈なる世界よ。もう少し騒がしい時代に生まれたかった」


男は足場を勢いよく蹴った。

瞬間、柔らかい首に、紐が食い込むのを感じた。


男の体は樹木に実った果実のように揺れ、数秒ののち、絶命した。



その頃、都市部ではパニックが起こっていた。


夕暮れ空に浮かんでいたドラ焼き型のUFOから、小型のUFOが無数に飛び出したのだ。

人々は空を指さし、逃げ場無く逃げ惑う。

青光のレーザーが雨のように降り注ぎ、夕立に舞い上がる土埃のごとく、火の手が上がった。


時を同じくして、河川部から緑色の生き物が飛び出し、街や村を襲う。

カッパの襲来だ。妖怪大戦争だ!


都市部の悲鳴や、轟音が届かない森の中。

風に揺れる男の死体に、ある変化が起こっていた。


その変化は左手の甲、とるに足らない小さな傷口に起こっていた。

傷口から緑色の細く、長いツタのようなものが伸び、男の体を這うようにして伸びては少しずつ体を覆ってゆく。


やがて自重で紐が切れると、男の死体は地面に落ちた。

緑色のツタは今や男の全身を覆い隠し、触手を器用に動かしては地面を移動しはじめた。


この星――地球で繁殖するためには、様々な栄養と、広い場所が必要になることを、植物の本能が告げている。


日光が当たる場所、あるいは人肉を捕食できる狩り場を求めて、怪奇植物はゆく。




   《無感動カタルシス 了》

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