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偽名仮名の住所録  作者: まつかく
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第55夜 『忘却の国』 ★

一流を自称するバイオメック技術者をもってしても、原因は究明できなかった――そう街頭テレビが報じている。


一流技術者でもわからないことが、ただの警備員である男にわかるはずはない。ただ、不安と焦燥感だけが胸をこがす。明日は我が身かも知れないと。


原因不明の難病が報告されてから半年。世界は恐怖に萎縮していた。

治療法はおろか、原因の究明すら遅々として進んでいないのだ。


その症状から直接死に至るワケではない。ただある日を境に『記憶が消えてゆく』だけなのだ。アルツハイマーなどに近い症状ではあるが、決定的に違うのは病状の進行速度だった。


全記憶、自分が人間であることを忘れるまでに、発症から半年足らずとかからないのだ。原因は修復細胞だと同僚の誰かが推測を得意げに語っていたが、男は信じる気になれなかった。


どんな細胞にも変化する修復細胞。それが原因なのだとすると、男はおろか、その同僚、いや全世界の人間が罹患りかんする恐れがあるのだ。

怪我や病気の治療に修復細胞を使っていない人間など、よほど僻地へきちに住んでいる仙人ぐらいのものだろう。



自宅のマンションに帰ると、男は静かにドアを開ける。胃の底をくすぐるような香ばしいにおいが、鼻先に触れた。

妻が夕食の準備をしているのだろう。驚かせてやろう――と男は幼稚な思いつきのまま、忍び足でゆっくりと台所へ近づいた。

近づいてくる夫に気付かず、妻はシンクに向かたまま上機嫌に歌を歌っていた。


――命かけてと 誓った日から

  すてきな想い出 残してきたのに


柔らかに伸びる高音域が、忍び寄る男の気配までを掻き消す。


――あの時 同じ花を見て

  美しいと 言った二人の

  心と心が 今はもう――


「かよわない!」


背後で突然あがった声に、妻はぎゃあとわめき、手にしていた野菜をぶちまけた。


「ちょっと! もう! びっくりするじゃない!」


「とんでもなく古い歌だな。君はもうすこし流行というものに敏感になったほうがいい」


「なによ! ひどいわね……でも、もし私が流行に敏感だったなら、例の奇病にもかかるかも知れないわよ」


「それは困るな。しかし何百年も前の歌なんて。ほとんどクラシックじゃないか」


「時代は巡るのよ。良いものは残るし、輪廻は原点に戻るものよ。それに私、この歌が好き」


あの素晴しい愛をもう一度。男もこの歌が嫌いなワケではない。

しかし、妻とのコミュニケーション欲しさに、わざとからかってみたのだ。


料理の邪魔をするなと怒られ、男はダイニングに向かった。壁に埋め込まれたテレビモニターをつけ、ソファーにどっしりと腰を落とした。

このところ、ニュースは奇病関連のものばかりで、世間の関心が一点に集中している事がわかる。


CMも時機に便乗した健康食品ばかりだ。飲めば脳に良いだの、長期間摂取した人がまだ一人も奇病にかかっていないだの。真偽はともかく、たくましいものだと思う。


妻ができあがった夕食をダイニングのテーブルに並べ、男を呼んだ。

妻も奇病に強い興味を持っているらしく、ときおりフォークを止めては画面に見入っている。


「ねぇ。病気にかかった人は最終的にどうなるの?」


「最後まで覚えているのは言語だと聞いたが……」


「そうじゃなくて、全部忘れちゃったら、どうなるの?」


「そんなこと、僕が知るかよ」


「あなたは、一番に私のこと忘れそうね」


「いや、仕事のことを忘れたいよ」


このまま治療法が確立されなければ、ますます世の中は混乱するだろう。

信販会社が、ローンの事を忘れてくれれば、楽になるのだけれど。


 *  *  *



それから半月ほど経過しても、奇病の勢いは止まらなかった。


ますます患者が増え、男の同僚にも被害者が出始めている。休職する同僚が増えれば、それだけ仕事はきつくなる。

しかし、患者を隔離施設に入れなければ、世の中はもっと混乱するだろう。奇病は感染するかも知れないからだ。


そんな国の隔離政策に否定的な者もいたが、安全管理としては仕方のないことだった。

テレビに映し出された政治家が、隔離政策への理解を求め、何度も頭を下げている。


膨れ上がる患者数の前に、隔離施設はどこも満員となり、国は苦肉の策として市内の病院を建物ごと買い取るという。病院をそのまま隔離施設として流用するのだろう。


「まぁ。また増税ですって。いやになっちゃう」


「仕方ないさ。患者が増え続けているのに、隔離施設は足りていない。経済は停滞してしまっているし、税収も減っている。国の財政が危機なんだよ。僕が元首でも増税するだろうさ」


「そうは言っても、ウチの家計も破綻寸前よ。いっそのこと、貴方が元首に立候補すればいいのよ。……だいたい私、この元首が嫌いだわ。裏で悪さをしてそうだもの。この人……えっとこの人……名前なんだったっけ?」


「P岡だよ」


「あ、そうね。P岡さん。嫌いな人の名前って、おぼわらないものね」


初めはこんな風に、ちょっとした有名人の名を忘れる程度だった。

やがて料理も失敗が増えた。調味料が入っていなかったり、肉が生のまま出てくることもあった。


ひと月もすると、病状は顕著にあらわれる。

同じことを何度も尋ねてきたり、一日に何度も買い物に出掛け、同じものを何度も買ってくるのだ。


ある夜、妻はテーブルに伏して、泣いた。

自分は例の奇病なのだと、怖いのだと。声を上げて泣き続けた。

明日が今日で、昨日が今に思えると言う。頭の中で時間軸すらあやふやになっているのだ。


うすうす気付いていた男は、通信販売を利用して、奇病に効果があるとうたう商品を買い漁った。仕事も休み、買い物に出るときをのぞき、ずっと妻のそばにいた。

貯金はみるみるうちに減ってゆくが、妻を放っていくわけにもいかない。


サプリメントや食品を妻に与え続けたが、病状は良くなるどころかひどくなる一方だった。

妻は食べ終えた食器を洗いながら食事の準備を始めるし、男が止めるまで延々と部屋の掃除をする。

どこから掃除を始めたかが分からないのだ。


ほとんど軟禁状態になった妻を不憫に思い、せめて退屈はしないようにと様々な映画ソフトを買ってきて見せる。


しかし、妻は何度も同じ映画を見て、同じ場面で笑い、同じ場面で泣く。


外に連れ出せば、何かしらの刺激になるかと考えるが、そうもいかない。


もし世間に妻の奇病が知れれば、妻は隔離施設に送られる。そうなれば、離ればなれであるし、離れた時間をおけば、妻は自分のことも忘れてしまうかも知れない。


ずっと側にいれば、大丈夫。ずっと側にいれば、自分が忘れられる事はない。


そう考えた男は献身的に妻を介護した。


目覚めた朝には、不安になる。妻にキスをして自分の存在を確認させる。

眠る夜には不安になる。おやすみのキスをして、自分の存在を認知させる。


そんなある日、呼び鈴が鳴った。

応じて玄関へ向かおうとする妻を制し、男が玄関に向かう。


玄関のモニターには、隣家の夫婦が映っている。話があると言うのだ。

用心のため、ドアチェーンをかけ、男はそろりとドアを開く。


瞬間、ワイヤーカッターが隙間から侵入し、ドアチェーンを切断した。

素早くドアが開かれ、差し込む陽光が室内を照らす。


マスクをした男たちの向こうに、隣家の夫妻の姿が見えた。これは密告だ。

政府職員が遠慮もせずに大挙して室内に押し入り、妻を囲む。


「やめろ!」


男は叫び、政府職員に飛びかかる。妻を引き渡すわけにはいかない。

一人の政府職員ともみ合いになったが、すぐさま背中に痛みが走った。

落雷を一身に受けたかのような電気刺激だ。

男はフローリングに転がった。電気銃のせいで、筋肉が硬化し叫びすらあげられない。


妻が幼子のような泣き声を上げる。状況が判断できないらしい。

ソファーの上で身を小さくして、政府職員たちを見上げている。


「先生。この女……どうですか?」


「この段階で断定はひかえるべきでしょうが、まぁ患者でしょうな。かなり病状が進んでいるとみえる。この様子だと海馬は当然ながら、大脳皮質もやられている」


「よし、確保だ。連行しろ。先生はあの男の診察をお願いします。患者と密室で一緒にいたんだ、罹患していてもおかしくはない」


泣き叫ぶ妻は、両脇を政府職員に挟まれ、無理矢理に玄関へ連れて行かれた。

男は弛緩した筋肉を必死で動かそうとするが、体は痙攣するばかりだ。空きっぱなしの口からはヨダレが垂れる。


《《先生》》と呼ばれた人物が、男の側に膝をつくと、なにやら調べ始め、しばらくすると、話しかけてきた。


「私の言っていることが理解できるかね? 理解できるなら、無駄な抵抗は止めたまえ。電気銃で撃たれたんだ。どのみち30分はまともに動けないよ」


男が暴れるのを止めると先生はうなずき、男の喉のあたりに何かの注射をした。


「これで喋ることはできるだろう」


「妻を連れて行くな!」


「仕方ないだろう。彼女は病気だ。君にもその疑いがある」


「隔離施設になど、入れさせないぞ。妻のことは僕が介護するんだ。部屋から出さなければ僕以外にはうつらないだろう!」


「君も感染したら? そして自分が病気であることを忘れたら? もしかしたら、良い天気の日には、部屋を出て散歩したくなるかも知れない」


先生は肩をすくめ、政府職員の方へむき直し「この男は大丈夫だ」と告げ玄関へ向かった。政府職員たちもぞろぞろと部屋から出て行く。

男は硬直したままの体で泣いた。


床と頬をぬめらせているのが、涙なのかヨダレなのか、わからなかった。



 *  *  *


政府機関に電話をかけ、妻の収容された隔離施設を探し当てるのに半日は要した。


そこは市内の病院を改築した比較的新しい隔離施設で、現在における新規発病者のほとんどがそこに収容されているらしい。

タクシーの運転手は、敷地内に入ることを拒否し、男は正門から病棟まで走らざるを得なかった。


広大な敷地が、感染するかも知れないという市民の恐怖感を如実に表しているように思える。

受付でたっぷり2時間は待たされる。

薄暗いロビーには発症者の家族らしい人々が憔悴しょうすいしきった表情で座っていた。


ようやく係員に呼び出されたが、安全管理のため直接面会することはできないと説明された。ガラス越しの面会ならば、許可できるが、それも週に一回だけだという。

溢れかえる患者に、病院側も手を焼いていると見える。



面会室に通されると、すでに妻がいた。

急ごしらえで設置されたであろう分厚いガラスの向こうで、水色の服を着せられちょこんと座っている。男は駆け寄り、ガラスに手のひらを当てた。


「おい、大丈夫か!? 僕だ!」


妻はきょとんとして、首を傾げた。不思議そうに男を見つめてくる。

――わからないのか……! もしかして……。

男が息をのむと、妻の口がゆっくりと開いた。


『あなた? なぜ私はここにいるの?』


その声は、上部のスピーカーから聞こえてくる。空気はもとより音すら遮断されているのだ。


「大丈夫だよ、大丈夫。僕がなんとかするからな。大丈夫」


妻はぽかんとしたまま、こくりとうなづいた。男はぽろぽろ涙を流し、ガラスを平手で打つ。どん、どん、とガラスが振動した。


――ちくしょう、ちくしょう。


男はふと、自分の指に輝く銀色の結婚指輪を見た。


――結婚式での誓いは果たす。


握り拳を作り、指輪をガラス面に当てる。カツ、カツ、と金属とガラスが触れ合う冷たい音がした。


「結婚の誓いは果たすよ。君を独りにはしない」


精一杯の笑顔を作り、妻を見つめる。妻はぱっと少女のような笑顔に変わり、自分の指輪を確認した。

そして、男と同じように握り拳を作り、ガラス越し、男の指輪に重なるようにガラス面にそえる。


カツ、カツ、と音が二倍になる。


涙で視界がぼやけた。妻の手の、なんと小さなことか。

男の拳の半分ほどしかない、弱々しい握り拳だ。


様々な過去が、脳裏をかすめる。


――あの小さな手をからかった事、覚えている。妻は不機嫌になって僕の手をゴリラの手みたいだと言ったっけ。


指輪をはめた日も鮮明に覚えている。細く白い薬指に、指輪をはめた日を。

君は、覚えているかい? まだ、忘れちゃいないだろう?


――この手は、この指には、たくさんの思い出がある。忘れっこないよな。


この手が僕に料理を作ってくれていたんだ。この指が僕のネクタイを直してくれたんだ。


「大丈夫、きっと何とかする。きっと大丈夫だからな」


妻は少女のように微笑んだままだった。



 *   *   *


 *   *   *



隔離施設から帰宅して3日が経過した。

仕事に復帰する気力などなかった。こうしている間にも、妻の病状は悪化の一途なのだ。次々に失われる記憶。依然として治療法は確立されず、社会不安は拡大を続けている。


男はようやく決断した。

このまま、じっと待っているなど、まっぴらごめんなのだ。妻の側に行こう。


男は再び隔離施設を訪れ受付の女性に言った。

自分は、発病者である。他への感染の危険があるゆえ、自分もここに隔離して頂きたい。

受付の女性は顔色を変え、アゴに掛けていたマスクを慌てて正した。


防護服を着た職員がすぐさま駆けつける。慌ただしく感じるのも無理はない。

ほとんどの発病者が摘発によって施設に連行されてくるなか、男は自発的に名乗り出たのだ。


男は検査のため、別病棟に連れて行かれる。検査待ちの人々の最後尾に並び、自らの順番を待った。

おそらく、検査だけではなく、データの採取も同時並行におこなっているのだろう。一晩が明けても男の順番は回って来なかった。


検査を行う部屋に導かれたのは、出頭から丸3日が経過してからだった。男は記憶障害を装いながらも、つぶさに情報を収集する。

どうやら綿密なデータをとってはいるが、まるで成果はあがっていないようだ。

治療のメドは立ちそうもない。


しかし、ある仮説がまことしやかに囁かれていた。


それは最先端医療である修復細胞が原因であるとの説だ。

老朽化した細胞にとってかわり、必要な細胞へと変異する修復細胞が、大脳皮質のおこした電気刺激を異常とみとめ、勝手にすり替わってしまうという説だ。


男は似た仮説をどこかで、聞いたことがあるように思う。

しかし、今はそんなことを考えても仕方がない。重要なのは治療法確立まで、妻の記憶がもつかどうかだ。


結局、男の発病が認められ、隔離病棟に送られた。

騙したのは気が引けるが、これで妻と同じ建物のなかで生活できる。

妻が収容されてから、何日が経過したのかは忘れたが、病状が進行していなければ良いと思う。


大病院を改築しただけのことはあって、施設内は広かった。

ある程度の自由は与えられており、朝と夜に行われる二度の点呼の際にベッドにいれば良い。それ以外は自由に動き回ることができた。


男は施設内を歩き回り、妻の姿を探す。

しかし、広い施設内だ。世間と同じように施設内も混乱しており、案内などない。


誰がどの部屋に収容されているのか、わからないのだ。

廊下では死んだ目をした少年が、毎日のようにガラス玉を数え、通路に三角座りしている女性は、ずっと体を前後に揺らしている。


行動を見ていれば、誰がどのくらいの進行具合なのかわかる。

前日の記憶はあるのか、前々日はどうか。病状が進めば、10分前程度の記憶しか保持できないのだ。


男は1階の端から、順に部屋を調べてゆく。各部屋には8人ほどが生活しており、男は丁寧にひとりひとりを確認してゆく。

寝ている者を覗きこみ、不在のベッドはネームプレートを確認する。


1日で調べられる限界は、だいたい3階までだ。最上階の5階までは点呼の時間までに調べられない。


そうやって妻が見つからないまま、虚しく日々は巡る。カレンダーのバツ印を数えてみたら、いつの間にか、ひと月が経過していた。

男は毎朝、今日こそは気を引き締めて病室をでる。


一階の端から、順に病室を調べ、妻を探す。だが夜の点呼までには3階までしか行けない。

明日こそは……。

明日こそは……。


男は毎日、同じ事を繰り返す。

同じ人のベッドを覗きこみ、同じ人のネームプレートをチェックする。


そうしたある日のこと。

1階から2階へ上がる階段を上っていると、窓から柔らかな夕日が差し込んでいた。

懐かしいような、切ないような、不思議な気分になる。


男は何気なく、2階を素通りし、どんどん階を上がってゆく。やがて、階段を上がりきると、屋上のドアを開いた。

ハイフェンスに囲まれた広い屋上は、橙色の西日が降り注いでいた。


遠く、山の稜線に陽が輝き、見渡す街はオレンジと黒の二色に染まっている。


にわかに、風が吹いた。

髪が風に流れ、思わず風上へ顔を向ける。


すると、風に乗って誰かの声が聞こえた。よく耳をすますと、それは歌声らしい。

良く通る高音域が、風に乗って男に届いた。



――赤とんぼの歌を 歌った空は

  なんにも変わって いないけれど


見ると、女性が街並みを眺めながらベンチに座っていた。

ながい髪が風になびき、メロディーとともに優しく舞う。


――あの時 ずっと夕焼けを

  追いかけていった 二人の

  心と心が……今はもう、通わない


男はそっと近づき、一緒に歌を重ねた。女性は驚き、男の方を向く。


「びっくりした。恥ずかしいわ」


「驚かせて、すいません。つい……なぜか懐かしくて。いい歌ですね」


「ええ、古い曲だけど……本当にいい歌。私の夫は、クラシックだと笑うのだけど。……隣、座りませんか?」


女性は少女のような愛らしい笑顔を見せた。

男がベンチに腰を下ろすと、女性は、街並みに顔を戻し、歌を続けた。


――広い荒野に ポツンと居るよで

  涙が知らずに 溢れてくるのさ


男も一緒になって歌う。


――あの時 風が流れても

  変わらないと言った二人の

  心と心が今は もう通わない


歌い終えると、女性は肩をすくめた。


「大好きな歌だけど、タイトルが思い出せないの」


そう言って、照れくさそうに笑う。


「タイトル……。なんだったかな。僕の妻も好きだったんですよ。良いものは時代が巡っても、ずっと残るって。――あなたも結婚してらっしゃるのですか?」


「えっ?」


「ほら、その指輪」


女性はじっと自分の指輪を見つめ、悲しそうに笑う。


「きっと、そうなんです。でもわからない。私には夫がいる。でも……思い出せない。心配してるわね、きっと。――でも私は夫を……」


女性の表情から、聞いてはならないことを聞いてしまったと、男は後悔した。

少しの間が空いたあと、女性が言う。


「でもね、全部忘れたって、この指輪は外せないんです。なにか不思議な……力があるような気がして。思い出が無くなってゆくのが怖くて、眠れない夜だって、この指輪を触れば安心できるんです」


「わかりますよ。その気持ち。気持ちは記憶じゃない、脳に蓄積されるものじゃない。ずっと胸に残るものだ」


「そうね、きっとそう。タイトルを忘れた歌も、同じように胸に残っているものなのよね」


「そうあってほしいものです。では僕は行きますね。妻を捜さないと、きっと心配している」


「ええ、楽しかったわ。奥さん見つかると良いわね。さようなら」


「こちらこそ」


男は屋上のドアの前で、振り返った。

つかみ所のない感覚が、胸を締め付ける。


しかし、それが何故なのか、こみ上げる感情が何なのか――男にはわからない。ただ不思議な出会いだったと思う。


男と妻は、その出会いを毎日繰り返す。

同じ歌を歌い、同じ会話に胸を焼く。


気付くこともなく、夫は妻を捜し、妻は夫を待つ。

二人の中からタイトルだけではなく、歌詞やメロディーが失われるまで、どれほどの時間があろう。

願わくば、せめて、名曲が永遠でありますよう。


忘却の国の静かな黄昏、うつろな日々が二人に巡る。



   《忘却の国 了》

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