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偽名仮名の住所録  作者: まつかく
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第54夜 『審判のとき』

極彩色の空に浮かぶ金色の雲が、川の水面に映っている。

遠くでハープが心地よい旋律を奏で、柔らかな時間が積み重なってゆく。


このところ、天国は平穏そのもの。


先の地獄事変により多少の混乱はあったが、今となってはそれも昔。住民の誰もが永遠の春を謳歌していた。


ある午後。長い昼寝から覚めた神が、小間使いの天使を玉座前に呼び出した。


「そろそろ……決断の時である。下界の人間たちはどうしているか?」


「相変わらず、混沌の時代に生きています。永遠ならざる平和に満足し、埋まらざる格差にあぐらをかいています。強者は弱者を笑い、弱者はさらなる弱者を笑っております」


「どれほど待っても、人間は変わらんものだな。やはり我々が介入すべきなのだ。不本意なことだが……」


「お察しします……」


「事ここに至っては是非もなし。全ての天使に告げよ。人類に、最後の審判を下す」


神が本格的に人間界への介入を決定すると、天国はにわかに慌ただしくなった。

下界にて生ある者は、これまでの行いに照らし合わせて善と悪に分類される。


そして善なる者は天国へ、悪なる者は地獄へと振り分けられるのだ。全ての死者も蘇り、再び裁きを受けることとなる。


つまり、天使は過去から現在までの全人類の所業を調べねばならない。

天国始まって以来の大事業だ。


天使だけでは人手がたりず、地獄の鬼たちも書類整理にかり出された。そのため地獄では、ほとんどの罰が休止された。

針の山をはじめ血の池、釜茹で、賽の河原。どの場所も閉鎖される。


オープンカフェは、天国で始まった大事業の噂で持ちきりだった。


「いったい、どうしたことだ? 太宰くん。鬼たちは何処へ行ったのかな」


「おや、知らないのかい芥川さん。最後の審判が始まるんだよ。全人類を裁くとかで天使だけではとても追いつかない。だから、鬼もお手伝いさ」


「なるほど。ウエイトレスさん、君は行かないのか?」


鬼のウエイトレスは、芥川のカップに珈琲をそそぐ。


「呼ばれたけど断ったのよ。あたし天使連中が大嫌いだし……。あんなイヤミな奴らの手助けなんて、死んでもゴメンね」


「ふうん。……しかし審判が下されれば、地獄は混雑しそうだなぁ」


ウエイトレスは空を見上げて、肩をすくめた。

――地獄は混雑していれば、混雑しているほど、地獄らしい。だけど、天国はどうかしら?



 *  *  *



当然の事ながら、天国の住民にとっても大事業は他人事ではない。

住民たちは声を潜めて噂し合う。


「近々、最後の審判が始まるらしいぞ」


「我々も再び裁かれるらしい。ヘタをすれば天国から地獄だぞ。たまったモンじゃない」


「大丈夫さ。我々は善行をつんで天国に来れたんだ。再審があっても、また天国さ」


「でも、下界のやつらが天国に殺到したら、嫌だな。どこもかしこも混雑して、シーズン到来の行楽地のごとしになりかねない」


「ああ、のんびりとした生活が台無しだ」


住人たちの誰もが内心に抱えていた不安を、誰かが口にした。


「天国に……定員はないよな?」


当然だが、誰もその疑問に答えることはできない。いままで人が溢れることはなかったからだ。

不安は疑心を呼び、はけ口を求める。誰だって安心して暮らしたい。


殺到した人々で、天国は暮らしにくくなるのか。

天国の居住権が見直され、天国から地獄へ落とされる者はでるのか。定員をこえた場合、誰が天国を去るのか。


住人たちは悶々としたまま、慌ただしい天使たちを見守った。



 *  *  *



やがて、審判の時が訪れる。

全ての人類が裁かれ、天国と地獄に振り分けられる時だ。地上から人間が消え去る時だ。


信仰心にあつい者は、それを救いだと歓喜に震え、不信心の者は世界の破滅だと恐れるだろう。

地上へと舞い降りる役目を担った天使たちは、光る槍と鏡の盾を身につけ、天国の門の前で号令を待っている。


神は失望感に憂鬱のまま、玉座で頬杖をついていた。自分に似せて創造した人間たちが、堕落し、罪を重ねている。

罰に近いかたちで審判に踏み切るなど、本当のところを言うと、不本意極まりないことなのだ。

ふと、人間を自分に似せたから彼らは堕落したのだろうかと不安にもなる。


しかし、このままではいけない。

いざ号令を出そうとした神の前に、天使長が歩み出た。


「神よ。ひとつお耳に入れたいことがあります」


「なんだね」


「天国のなかに反乱の機運ありという噂が」


「反乱だと?」


「はい。審判のために我々天使たちが下界に降りるのを機として、クーデターを企んでいると聞きました。不届きなことですが……警備が手薄になった天国を乗っ取ろうというワケですな」


「なぜそんなことを……」


「審判が下されれば、地獄だけではなく天国にも人が溢れ、いままで通りの生活とはいきますまい」


不満を感じる反乱分子が、天使たちの不在を狙い天国を乗っ取る。それは神にとって、笑い話とはなりえなかった。

つい先年も天国を我が物にせんと、地獄から罪人たちが侵攻してきたばかりだったからだ。


神はいささか腹を立て、天使長をにらみつけた。


「その反乱を企てた者を引っ捕らえろ。見せしめに地獄へと落としてやるのだ。それから最後の審判を下しても遅くはあるまい」


「はぁ。しかしながら、噂の出元はどことも知れず、危険分子が誰ともわかりませぬ」

天使長は声をひそめて続けた。


「どうも……天国の住人すべてが反乱思想を共有しているとの噂も出ておりますれば……全員地獄送りにもできますまい。天国に誰もいなくなってしまう」


「なんてことだ。天国にいるのは善人だけではなかったのか! これはゆゆしき問題だぞ!」


「そうですなぁ。これは社会問題です。ただ、考えてみれば善人たる彼らは地上では貧しかった。何も持たず、食に窮し……。その逆境に負けず、清貧に生きたというわけですが、いざ天国に入り、贅沢を覚えてしまうと……」


「既得権益を手放したくないというのか! 何という欲!」


反乱の企てに荷担した者を処罰しようにも、噂の真偽すら疑わしく、『疑わしきは罰せず』の原理が働く。

どうにも歯がゆい状況だった。

結局、神は反乱を恐れて審判を下せず、天使たちは天国の警備強化にかり出された。


かくして、人類は審判を免れたことにも気付かず、今日も繁栄している。


薄氷に乗ったような人類の運命。神と住人たちの冷戦に人類の命運がかかっているのだ。

天国の住人たちが、天国に固執しなくなれば、天使たちは地上に殺到するだろう。延期されていた最後の審判を下すために。


しかし、人類は安泰だ。人間の欲は、そう簡単に消え去るものではないのだから。


反乱の芽を摘み取るため、天使たちは今日も笑みを顔面に貼りつけ、住民を見張っている。

住民たちは、天使が通り過ぎると苦々しく表情をゆがめ、小さく悪態をついたりもする。


住民の誰かが言った。

天国で美しいのは、景色だけかも知れないと。



 《審判のとき 了》

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