第5夜 『忘れえぬ美に』
ある口裂け女が一人遊びに興じている。
「私、キレイ?」
呟き、右手に持った人形を揺らしては、腹話術をする。
「キレイですよう」
素早くマスクを外し、オンナは裂けた口を露わにする。
「これでもかっ!」
口裂け女は首をうなだれ、大きく溜息を吐くと、物言わぬ人形に話しかけた。
「昔はよかったわ……」
口裂け女が一世を風靡してから、どれほどの年月が経ったのだろう。
美容整形に失敗した――。『ポマード!』と3回叫ぶと逃げる――。べっこう飴を投げつけると食べる――。
「なんなの、デタラメばっかり!」
……当時はそのデタラメが、酷く疎ましく感じたものだった。
しかし、今ではインターネットのオカルトサイトでも、冗談めかして対処法が掲載されていれば良い方である。
正直なところ、口裂け女だって嫌われるのも、怖がられるのも好きではなかった。
しかし、現状のように自身の存在を忘れられることほど悲しいことはない。
いっそ殺人鬼に殺されてしまおうかしら、なんて考えたりする日もある。そうすれば、少なくとも殺人鬼の記憶には残されるから。
一人、また一人と自分のことを忘れる人がいるたびに、自分の体が消えてゆくような気がするのだ。
「取り戻さなきゃ!」
「そうだよ、クッちゃん!やればできるよ」
人形を力強く揺らす。
「そうよね、もう一度カムバックできるわよね」
「クッちゃんならできるよ! がんばって!」
自室ではあったが、誰かに見られたら、気味悪がられたかも知れない。
ちょっとばかり口が裂けているよりも、人形に話しかけるほうが『怖い』とされる時代だ。
口裂け女はゆっくりと立ち上がると、応募用紙を取り出した。べっこう飴を口に放り込み、ほっぺでコロコロやりながらボールペンを握る。
『アイドルオーディション参加申込書』
それは拾った雑誌の一ページを切り取ったものだ。丁寧に間違えないように項目を埋めてゆく。
名前はどうしよう。
――奥地鮭子。よし、これでいいや。
――ええっと、特技なんて私。
たかが半ページの項目を書き込むのに2時間もかかってしまった。年齢欄に20才と書いたのことに心が痛む。これは詐称として、後で問題になるかも知れない……。
しかし、本当の年齢なんて、本人すら把握していないから仕方がない。
封筒に応募用紙を包むと、大事に抱えてポストへ向かった。
「大丈夫……大丈夫」
何度も呟きながら投函すると、とたんに不安が押し寄せてくる。
しかし一度食べてしまった封筒を、ポストは二度と返してくれなかった。
* * *
時代は美が飽和していた。
次々に出ては消える美形アイドル……人々は定型の美に飽きを感じていたのだろう。
奥地鮭子。
半面を隠した、正体不明のアイドル。事務所が考えた目論見は、見事に当たった。
マスクを着用したアイドル――マスドルは、人々に好奇の目で迎えられ、その好奇が好意と変化するのにさほど時間はかからなかった。
オーディション以後、まったく実感の掴めないまま立ち位置が確立し、各方面からお呼びがかかった。
その几帳面で繊細な性格と、現場スタッフへの心配りも好感され、奥地鮭子は着実にスターダムを上がっていった。
口説いてくる若手芸能人たちとのロマンスに目もくれず、スキャンダルとは無縁。それがゆえに事務所にも可愛がられた。
忙しい毎日。
芸能界の暗部に触れ、辞めてしまおうかと悩む日もあった。
しかし
『鮭子ちゃんがいると、現場の雰囲気が和らぐよ』
『鮭子ちゃん、いつも差し入れありがとうね』
『鮭子さん、大ファンです。応援してます!』
そういったスタッフやファンたちの言葉に、鮭子はいつも励まされ、一歩ずつ前へ進んだ。
そんなある日、3枚目のシングル『マスクの上からキスをして』の収録を終えた鮭子の所へ、プロデューサーがやってきた。
業界内でも屈指の敏腕プロデューサーとして知られる折田に、鮭子はいっぺんに背筋を伸ばした。
「よぅ鮭ちゃん、今回も良かったよ」
「あ、ありがとうございます! 折田プロデューサー!」
「いやぁ、鮭ちゃんの人気は陰りがゼンゼン見えないわ。うちの息子2人も大ファンでねぇ」
「き、恐縮です」
「改めて聴くと、鮭ちゃんの声はいいね。どこか憂いを秘めてるっていうか、切ないっていうか。誰にも言えない内なる心を秘めてるって言うか」
「ありがとうございます! どの歌詞も精一杯気持ちを込めるようにしています」
「うん、そういう真摯な態度も人気の秘訣なんだろうね。ファンたちもそんな人柄に惹かれてるって話だし。……まぁ、マスクしてちゃあ、顔だけでアイドルを評価する軽薄なファンがつかないから当然か」
折田はカラカラと笑い、鮭子も照れに頭が下がった。
「……んでさ、本題だけど、日武が決まったから」
「えっ?」
「日本武道館だよ。コンサート、コンサート」
鮭子はその言葉を受け止めるのに、十秒、いやもっと多くの時間を要した。意識が白く移ろい、脳内は折田の言葉に満たされた。日本武道館――!
帰宅してからもぼんやりとしたままで、まるで現実感が湧かない。
鮭子は鏡の前に座り、目を閉じた。
私が……日本武道館で……公演。黒だかりとなった客席。
スポットライトが肌を焼く。響きわたるギターのノイズ。
想像するだけで、少し恐怖を覚えた。
鏡のそばに、ちょこんと座っている人形を手に取る。
あの日……。再起を誓ったあの日から、どれほど季節は流れたのだろう。
あの日、ここに座っていた私には名前もなく、友達といえばこの人形だけだった。
誰でもない、ただの口裂け女……。でも今は……。
同じ場所に座っているにも関わらず、どこか、ものすごく遠くへと来てしまった気がする。
鮭子はうつむき、人形に語りかけた。
「私……キレイ?」
人形に喋らせる台詞が、浮かんでこなかった。それが……無性に悲しかった。
私は……。きっと、誰かに気付いて欲しかった。
ここにいるよ、忘れないで……。ここにいるから……消してしまわないで。
なのに……私自身が自分を消してしまっていた。気付かない間に、大切な友達まで失ってしまって……。
……私を。取り戻そう。そうだ……武道館で私を取り戻すんだ。
みんな……。
集まってくれたみんなを、怖がらせるんだ。とびっきり怖い思いをさせてやるんだ。
鮭子は人形と額をあわせて呟いた。
「大丈夫、もう大丈夫だからね。私ならやれるよね?」
「大丈夫さ! クッちゃんならやれるさ! がんばって!」
* * *
鮭子は大歓声に手を振り、舞台の袖へと下がった。舞台袖、椅子の上にちょこんと置いた人形に目配せをする。セットリストはすべて終了した。
今まで以上に心を込めて歌いきった。これがファンの人たちへの心ばかりの恩返し。
それは……奥地鮭子として最後の恩返し。
あとはアンコールだ。
でも、やまないアンコールに舞台へと戻るのは奥地鮭子じゃない。
口裂け女だ! 怖い怖い口裂け女だ!
鮭子は人形に向かって深く頷くと、まばゆいばかりの光の中へ駆けだした。
下から上から照らしつけるライト、渦を巻く歓声。前列のファンたちが垂れ幕を掲げている。『奥地鮭子』
あの日、思いつくままに付けた漢字の羅列。
女性ファンの透き通るような声援。男性ファンの雄々しい叫び。
ステージを這い回る蛇のようなシールドをまたぎ、フットペダルやエフェクターを飛び越えた。
中央のマイクスタンドを手に取ると、アンプがキンと鳴り武道館のすべてに反響する。
「みんな、聞いて!」
鮭子の言葉に会場はシンと静まり、次の言葉を待つ。
「ねぇ? ……私、キレイ?」
間を置かず『キレイ』の大合唱が返ってくる。その音圧が血管の隅々まで伝導する。
瞬間、鮭子はマスクを取り去った。精一杯の大声で叫ぶ。咽が潰れたってかまわない。
「これでもかっ!」
鮭子の声が、スッと会場に通ってゆく。肌を焼くスポットライトの前を、かすかに熱気が遮るのを見た。
いつか見た下校時の生徒達。その驚いた顔と、照らす夕陽を思い出す。
私は! 口裂け女だ!
さあ、逃げるがいい! さあ、怖がるがいい!
鮭子の脳裏には、あの日鏡に映った自らの姿が鮮烈に蘇った。
私は、あの日の私に。ただの口裂け女に戻ったんだ。
頬を伝うものが、汗なのか涙なのかはわからない。ただぼやけた視界に瞳を閉じた。
これで良かったんだ。私は……恐怖の口裂け女。
刹那、爆音と呼ぶに相応しい圧倒的な音圧が、鮭子の鼓膜を振動させた。
大歓声に会場が揺れている。
拍手と歓声がマイクに拾われ、さらに大きな反響となり会場にうねる。
状況を把握するのに数秒を要した。まさしく《《開いた口が塞がらない》》。
観客たちは恐れ、逃げまどうどころか、身を乗り出して歓声を上げている。
口々に叫ばれる言葉はわからない。しかし、鮭子に注がれるその目は、一様に暖かさを感じさせる。
鮭子はふっと、意識が途切れそうになった。
逃げられたいワケじゃなかった。怖がらせたいワケじゃなかった。
ただ、存在を認知されたかった。
どうすれば好かれるのか。どうすれば愛されるのか。
そんな事、考えもしなかった。
自分は恐怖でしか誰かと繋がれないと思っていた。
それでも繋がっていたかった。
鮭子は上半身をめいいっぱい、くの字に曲げ観客たちにお辞儀をした。
頬を流れたのは、汗ではなく涙だとわかった。止まることのない感涙が何度も何度も床へ落ちていった。
その後、奥地鮭子はマスクを外した姿での初のテレビ出演を果たした。
様々な番組で、秘めてきた悲しき身の上話を語り、その孤独な半生は人々を涙させた。
街では口紅を耳まで引くメイクが流行し、カラオケでは4枚目のシングル『マスクを外してキスをして』が歌われている。
彼女の人気を支えた、その生き様、気高さ……勇気。ファンたちはそれを『美しい』と言った。
そして、熱狂的な人気の絶頂にあって、奥地鮭子はひっそりと引退した。今となってはその行方は、ようとして知れない。
もしあなたが、彼女に出会う事があったなら、恐れずに言ってあげて欲しい。
「キレイだよ」と。
だが、きっともう、奥地鮭子や口裂け女が人々の前に現れることはないだろう。
人々が彼女を忘れる事はないのだから。
《忘れえぬ美に 了》