第41夜 『火星の青い夜』 ★
クロムのプロポーズを、ミウは受け入れた。
火星の青い夜の下、少女の頬には涙がほろ苦く流れ、アゴのあたりで散っては冷ややかな火星風に溶けてゆく。
クロムは少女の手を握り、青年と少年の狭間にいる者特有の屈託のないはにかみを見せる。
「もうすぐ僕の18才の誕生日だ。待ちに待った地球移住資格がもらえるんだよ。そうなったら、君も……一緒に」
少女には身寄りがなく、少年の誘いを断る理由がなかった。
この頃の地球では増えすぎた人口を調整するため、各国政府が結託して人口調整政策をとっていた。規定数以上の妊娠した女性や基準を満たした高齢者は、移送ロケットによって火星に送られるのだ。
火星へ送られる妻に従い、火星へ連れ立ってくる夫もいたが、ミウの父親はそうではなかった。ミウの母親は、夫に捨てられたという暗澹たる思いを抱え火星の土となった。
ミウは孤児保護施設を出てすぐに、宇宙港の掃除係として働き、今に至っている。
クロムからの地球移住への誘い。ミウは即答しかねて、一晩の時間をおいた。
ミウにだって、地球への憧れはある。真っ黒な宇宙空間に浮かぶ、サファイアのような星。その星には大気があり、空が青いと聞く。
そこには白い雲が風にながれ、『家畜ではない動物』が沢山いると聞く。荒涼とした火星の大地からは想像もできない世界なのだ。
しかし、母親の墓がある火星を捨て、地球へ移住する。それが心の隅に引っかかるのだ。
地球に移住した者は、二度と火星に戻ってくることはない。火星にやってくる船には、追放者しか乗船していないのだ。むろん、定期船など運航しておらず、里帰りをすることは出来ないのだ。
もう二度と墓参りすらできない。
ミウは一晩悩んだ結果、クロムについて行く決心をした。
クロムが老いた母親にミウとの結婚を伝えると、ミウのことを幼少時代から知る母親は大層よろこんだ。ぼろ切れのような服で涙のにじむ目尻を何度もぬぐった。
「それでね、母さん。僕は地球へ行くことにする。ミウと母さんを連れてね。地球の豊かな環境で、家族の新しい門出を祝いたいんだ」
「こんな日が来るとは、思わなかったねぇ……。地球に捨てられた私たちが、大手を振って地球に帰れるなんて……」
人口増を抑制する地球としても、労働力は必要としており、資格を有する一部の人間の帰還を許している。
火星に住む男子は、満18才になると選択肢が与えられる。このまま火星で住まい続けるか、あるいは地球へ移住するか。人口統制局のデータに該当した男子に、一枚の紙が送付される。
地球への移住を希望する者は、用紙に必要事項を記入するのだ。その必要事項の最たるものは、『家族』だった。
一親等と姻族に該当する4人まで家族名として記入すると、その4人は家族として地球への随行を認められるのだ。
数日後、クロムは自宅の窓から見慣れた風景を眺めていた。
痩せた赤色の大地、その上には底知れぬ闇が空となって覆い被さっている。闇にぽつりと浮かぶ青い地球はいつ見ても美しい。輝く宝石のような星々の中で、ひときわ輝く宝石。
追放者ばかりで産業に乏しい火星の生活。母やミウに贅沢をさせることも出来ず、食べてゆくのがやっとだ。
だが地球は違う。あの青い星には金になる仕事も、自由もある。
地球火星間では、あらゆる一般の通信が禁止されており、地球の本当の状況はわからない。だが、火星よりはましなはずだ。
火星はある種のスラムと化していたのだ。
植民地などとんでもない。まるで開発は進まず、豊かにもなれない。誰もがボロをまとい、その日その日を崖っぷちで生きているのだ。
クロムは自分の机から希望用紙を取り出すと、ペンを走らせた。
クロム・クロード。
ミウ・クロード。
ハナ・クロード。
以上2名を随行家族として申請す。
クロムは綴りの間違いのないよう、何度も見返し白い封筒に用紙を戻した。
何の問題もなく随行は認められ、旅立ちの朝がきた。
ステーションには地球への帰還を望む人々が溢れた。それぞれの家族が不安そうにコンテナシャトルを見つめている。
人々でごった返す待合室には、クロムとその家族の姿があった。
「すごい人だな。こんなに活気があるところ、初めて見た」
「掃除していたときに聞いたんだけど、なんでも、50送られた希望用紙のうち、44組が帰還を希望したって」
待合室にその44組がすべて集められているのだろう。
幼い子供を連れた若い夫婦もいれば、たった一人ベンチで鞄を抱いている男もいる。子供の笑い声と雑踏がホールを満たしていた。
誰もが自分の名前の書かれた身分証明カードを握りしめ、希望への旅に出るのだ。
すると、係員らしき人物が両開きドアの向こうからあらわれ、マイクを手にした。
「皆さん。わたしは今回の帰還事業を担当する人口調整局のものです。今回帰還する人数は167名のはずなのですが、生体反応を調べると169名の反応があります。もし、鞄などに子供を隠して地球へ運ぼうとしている方がいるなら、警告します。隠れて地球へ戻ってもIDは当然ながら身分証明は発行されません。人権が与えられないのです。なにより、火星での人口データに誤差が生じますので、正式な手続きを踏むことをお願いします」
マイクの係員が指示を出し、宇宙船へのゲートを開放した。ゲートに近い家族から順に、おそるおそるゲートをくぐってゆく。
「あのゲートで、生体反応を調べているんだね」
「もし……バレたらどうなるの?」
不安そうに人々を見つめるクロムとミウを母親は笑った。
「あんたたち、なに怖がってるのよ。これから新しい生活が待ってるのよ。めいいっぱい胸を張って、不安でも怖くても、無理にでも笑いなさい。笑う門にはきっと福が来るからね」
そうこうしているうちに、待合室を埋めていた人々は次第に減っていった。
「さあ、僕らもそろそろ行こう」
「待って、あの人たち……」
ミウがクロムの袖を引っ張り、ゲートを指さした。見ると、ゲートをくぐったところで係員と誰かが言い争っている。
体格の良い短髪の男が『労働者』なのだろう。そして髪の長い女性は妻で、その女性を囲む2人の幼児は彼らの子供に違いない。
「なんだよ! さっさと行かせてくれ!」
「指示に従って頂ければ、すぐにお通しします。はやくその鞄を開けてください」
「そんな必要はない! プライバシーだ!」
「ではお通しできません。その鞄には生体反応がある。3人目のお子さんですか?」
短髪の男は狼狽し、係員の胸元につかみかかった。妻の悲痛な叫びと、夫の怒号が待合室に響き渡る。
「鞄を開けないと言うのなら、結構です。ただ、あなた方の乗船は拒否する。正式な手続きを踏んだ後、再度お越しください」
「きちんとした手続きだって!? バカらしい! 一人につき一回しか帰還機会を与えないくせによく言うものだ! これを逃したら、もう二度と戻るチャンスはないんだ」
「あなた! もうやめて! もう、無理よもう……」
妻は崩れ落ち、手にしていた鞄を胸に抱いた。中からは途切れ途切れに赤ん坊の泣き声がする。随行人は宇宙船の乗船限界に則って4人までと決まっており、5人目の乗船は決して許されない。
帰還を希望しなかった6組の家族にはそういった事情もあったのだろう。
妻らしき女性が胸の鞄をゆっくりと開き、丸まって泣いた。
「ごめんね、ごめんね。息、苦しかったね、ごめんね、もう大丈夫だからね」
子供たちが小さくなった母に寄り添い、不安そうに係員を見上げる。
「さて、どうしますか?」係員は乱れた胸元をただしながら、短髪の男に問う。
「わたしにも子供がいる。あなたの気持ちは痛いほどわかります。だから、『お気持ち』によっては、密航しようとしていたことを黙っていてあげましょう。選択肢は二つです。出発を取りやめ、ここに残るか。その子をここに置いて地球へゆくか」
係員の言う『お気持ち』とはどれほどの金額なのだろう。あの短髪の男に係員を満足させられるほどの金銭があるのだろうか。
別室に連れて行かれるその一家を見つめながら、クロムはやるせなくなる。
彼らは、どうすれば良かったのだろう。このまま火星で極貧の生活を送り続けるべきだったのか。それとも子供を見捨てて新天地へ旅立つべきだったのか。彼らはきっと、子供たちを地球の豊かな環境で育てたかったに違いない。
密航が発覚すれば、どうなるのかクロムにはわからない。少なくとも、乗船前に密航が発覚した彼らには数年の禁固刑が言い渡されるはずだ。そして火星でもっとも過酷な労働に従事させられることとなる。
「駄目……。やっぱり私、行けない」
はにかんだような、それでいて泣き出しそうな顔でミウが言う。
「いまさらなにを言うんだ。怖くなったのか?」
何かを言おうとして、ミウが口をぱくぱく動かしたが、すぐに両手で顔を覆い、崩れ落ちた。
「違う……違うよ。私、きっとあのゲートで……引っかかるから。きっとあのゲートで、止められるから」
ワケがわからず、おろおろするばかりのクロムを母親が叱りつけた。
「しっかりおし! アンタは男だろ!」そう厳しく言葉を切り、ミウのそばに膝を落とす。
「ミウ。どうしたんだい?」
「私、私、きっとお腹の中に赤ちゃんがいる! 私、きっと行けないわ」
「ミウ! どうして黙ってたんだ!」
「黙ってたワケじゃない! 言おうと、言おうと思ってた! でも言ったらクロムに捨てられるんじゃないかって、私を置いて、どっか行っちゃうんじゃないかって思って」
「そんなことしない! そんなことしないさ! なのに、なぜ……」
待合室には、もうクロムとミウ、そして母親の3人しか残っていない。ゲートでは係員が訝しげに3人の方を見つめている。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。私、行けない」
「大丈夫さ、お腹の中の生命なら、あの機械だって気付きゃしない」
「無理よ! もし見つかったら……」
「ミウ、クロム」母親が優しく微笑み、言った。
「私が名付け親になっても、いいかい?」
「母さん! こんな時になにを言ってるんだ!」
「さっきも言ったろう! オロオロするんじゃないよ! 男ってのはこういう時こそしゃんとしてなさい!」
思わず口をつぐんだクロムを尻目に、母親はミウをのぞき込む。
「ねぇ、ミウ。いいかい? 私が名付け親になっても」
背後から、係員が呼びかけてきた。
「ねぇ、あんたら。乗るんだろ? もう出発するよ。さっさとしてくれよ!」
母親が笑顔で応対する。
「すまないね。ちょっと、名残惜しくてね。乗るのはこの2人だよ」そして素早く胸元から身分証明カードを取り出すと、ミウの手に握らせる。
「その子の名前は、ハナ・クロードだ。男の子だったら、すこし締まらない名前だけど、我慢しておくれ」
「母さん! 残る気か! そんなこと……!」
「仕方ないだろ! 帰還のチャンスは二度とないんだよ! ここで若いあんたらが帰らなくてどうする!」
「でも、そんな……私、そんなこと出来ません!」
「ミウ! アンタも母親になるんだろう! しゃんとしな!」
「やはり駄目だ。今回はやめておこう? またいつか、機会があるかも知れない」
「クロム、火星にどれだけ男がいると思ってるんだい。次の番なんて、ないんだよ」
「でも!」
「私はね、あんたたちに地球へ行ってもらいたいんだよ。自分の孫がこんな荒れた世界で育つのを見たかぁないんだよ。世界がこんなに暗くて、こんなに寂れたところだなんて、生まれてくる子供には酷ってモンさ」
母親は胸を張って、どんと叩いた。
「あたしはね、年取っても母親さ! 子供の重荷になる母親が、どこにいるってのさ。地球へ行って、あんたの父さんやミウの父さんを頼りな。きっと、悪いようにはしない。もし……死んでたら……墓に花を供えて……蹴りを入れてやりな」
別れの時がきて、母親はいっそう元気になった。クロムとミウの背中をゲートまで押してゆく。出発を告げるシャトルが、ボウボウと汽笛を上げる。
「こら! 言ったろ! ミウ、こういう時こそ笑いなさい。笑って、胸を張りなさい」
「母さん、きっと、きっと迎えに来るよ! 地球に戻って、世界を変えてやるんだ。そしたらきっと迎えに来るよ! そしたらまたみんなで暮らそう」
「クロム!」母親は厳しい視線に変わった。
「そんな、約束するもんじゃない! 守れないかも知れない約束は、男として最低だよ! 待ってる方は……淡い希望だけ抱いて、絶望することもできないんだ。そんなつまらない約束はするもんじゃない!」
母親は首を落として、虫の鳴くようなこえで付け加えた。「でも、ありがとうね。あんたは優しい子だ。ほんとうにありがとう……さようならクロム、私の優しい息子」
乗船予定者全員が席に着くと、箱形のコンテナは滑るように敷地内を移動した。簡素なコンテナそれ自体には宇宙航行機能はなく、別のシャトルによって動力を得るのだ。
滑走路が近づくと、コンテナの上部に平べったいシャトルが取り付けられる。
かくして、コンテナは火星を出立した。
クロムはミウの肩を抱きながら、次第に遠ざかる火星を見つめた。
――いつか、母を迎えに来る。必ず。
虚空の黒い宇宙に、孤独に浮かぶ火星が血を流しているかのように赤い。地球の人口調節のために利用された天体。腫れ物のように地表に貼り付くシェルターが、銀色に発光している。
コンテナの中で様々な思いを胸に火星を見つめる乗客をよそに、シャトルのブリッジでは、機長と副操縦士によるのんびりとした会話が交わされていた。
「167名。ちょうど新出生者の人数と折り合いますね」
「ああ。因縁めいたものを感じるな」
「では、そろそろ準備を始めますか」
「まだ切り離し予定宙域には5時間以上ある。まずは珈琲だろ」
副操縦士がオートパイロットに切り替えて席を立つと、機長は椅子に深くもたれた。
「しかし、嫌な役回りですよ。何度やっても吐き気がする」
「仕方ないだろ。人類全体のためだ」
「でも、地球に帰りたいっていう感情が、本当に危険思想なんですか? 誰だって火星の環境は嫌でしょう」
「言いようによっては、どうとでもとれるさ。このまま地球への望郷が募れば、あるいは火星でのテロや反政府活動に出る可能性も否定できない。危険思想の排除と人口増の抑制、一石二鳥、一挙両得。これが政府にとって一番金がかからず効率的なのさ」
「でもですよ? なんで開拓地であるはずの火星が、慢性的に物資不足なんですか? 鉱石も沢山取れるし、火星自治区は金を持ってるでしょう。それなのに、火星の人口も実は限界に達しているだなんて、おかしいですよ」
「しょうがないだろう。食料には生産限界がある。その上限を引き上げるため火星を開拓しようとしたのに、火星の大地は農地に向かなかった。結局は、地球が火星を養わなきゃならんワケだ。本末転倒ってやつでね。そうなると、政府にとって火星は手持ちぶさた。送る食料も惜しくなるって寸法さ」
「なるほどなぁ……。だから火星から逃げ出したいと思ってる奴らを太陽に投げ込んで処理するわけですか」
「地球には帰れない! と本音を言うわけにもイカンからな。地球に椅子は足りないが、作る木もないのさ」
クロムはミウの肩を引き寄せ、じっと窓の外を見ている。ビー玉ほどの大きさだった地球が、いまやソフトボールほどの大きさに見える。
――地球。美しい星だ。
目を閉じれば、クロムの脳内に緑溢れる世界が広がる。木とはどんなものだろう。海とはどんなものだろう。あの星で、必死で働いて、母を迎えに行ければいい。そう思う。
船内アナウンスが、クロムの物思いを断絶させる。
「地球の重力圏が近づいて参りました。周回する宇宙ゴミが窓を割る危険がございますので、すべての窓のシャッターを下ろします。地球到着まであと8時間です」
とたんに窓を灰色のシャッターが覆い、外の様子がわからなくなった。それと同時に空気圧力が抜ける音がかすかに聞こえる。
不安そうなミウの頬をなで、クロムが天井を見上げると、船体が揺れた。
「きっと、重力圏内に入ったのさ」
シャトルから切り離され、遺棄されたコンテナは、スイングバイによって推進力を得ると太陽へ向かう。宇宙空間をぐんぐん速度を上げて、燃える天体に吸い込まれてゆく。
「暑いわ」
「船体の熱だ。きっと、大気圏に突入したんだよ」
「とても……あついわ」
「あついね。でも、少しの我慢だよ。大気圏を抜ければ、そこはもう地球だ。コンテナをでたら、きっと色んな匂いがするよ。海や山、緑木と花……」
「楽しみね」
「でも、あついな」クロムは汗まみれで微笑む。
「うん。とても……あつい」目に入った汗をぬぐい、ミウもつぶやく。
「あつい……」
「とても……」
「すごく……」
* * *
ハナ・クロードはどれぐらい、大きくなったのだろう?
母親は自分と同じ名を持つ孫を想像しては、笑みをもらす。
母親は火星港の見送り展望台に、週末ごとに訪れていた。あれから、もう5年にもなる。火星の青い夜、展望台に設置された双眼鏡に、金色の硬貨を投入しては地球を眺める。
深い青の上を、滑るように白いもやが走ってゆく。
幸せにやっているだろうか。
火星法により、連絡手段のない母親には、想像することしかできない。
孫であるハナが、男の子か女の子かも知らない。しかし、知らなければ知らないで、二倍想像することができる。男の子ならクロムに似て優しい子で、女の子ならミウに似ておっとりしているに違いない。
そうやって想像しては、楽しい気分に浸る。
三人は胸を張り、笑って暮らしているだろうか?
あの美しい地球の緑に、癒されているだろうか? 仕事は? 食事は?
心配事ばかりが脳裏をかすめては、消える。
がちゃり、と唐突に視界が暗くなった。
有料双眼鏡が時間切れになったのだ。
母親は急いで体中のポケットを探るが、もう、金貨はない。
ため息を吐いて、自分をたしなめる。金貨一枚は週の稼ぎの半分に相当する。もし、あわててもう一枚入れていれば、生活費がなくなってしまうところだった。
毎週末の密かな楽しみは、わずか5分の地球鑑賞だ。来週、また来よう。すっかり老いた母親は、ボロの肩掛けを首筋まで上げる。
火星の夜は冷える。体中のシワから染みこんでくるかのような冷気。
地球は、夏だろうか。冬だろうか。風邪を引かないで、頑張っているだろうか。
老母はすっかり乱視の入った肉眼で、地球を見上げた。遠く宇宙の闇に何重かの残像を見せて、青い宝石が浮かんでいる。
自分のことを、息子たちが忘れてしまってくれていれば良いと思う。
約束も、存在も、忘れてしまってくれていれば、良いと思う。
幸せにやってくれてるなら、それでいいと。
希望をもって、老母は生きていた。
温かい思い出だけを何度も反芻し、老母は誰もいない展望台を後にする。
孤独が影となって、寂しさが足音となって、ずっと背後まで伸びていった。
あの日、シャトルが発した旅立ちの汽笛が、いつまでも耳の奥に残ったままだ。老いにすっかり丸まった背中を、うつろな青い光が包む。
希望の星 地球は、今夜も青く輝き、火星の夜を静かに照らしている。
《火星の青い夜 了》




