第3夜 『昼下がりのオープンカフェ』
斜陽のオレンジに照らされるオープンカフェで、ある男が珈琲を楽しんでいる。
煎れたてのエスプレッソの香ばしい匂いが、男の鼻腔をくすぐる。
高台のひときわ高い場所にあるこの店は、当然のことながら見晴らしが良く、霞むほどの遠くまで見渡せる。遠くに緋色の湖が見え、小高い山に登山している人も、微かに確認できた。
登山者を引率しているのは鬼だろう、これは実に赤い。
永遠に沈まない太陽は橙の光を斜めに投げかけている。
『まさに』というのは、しっくりとする表現ではなかったが、ここは『まさに』地獄だった。男は、ぬるくなったエスプレッソを一気に飲み干し、席を立った。
会計を済ませるために、カウンターへ向かう。
そこで、男は自分が金を持っていない事に気がついた。
――無銭飲食? 地獄で?
やれやれ、男は可笑しくなり唇を歪ませた。毎日、朝の九時から夕方五時までをフルタイムで罰を受けている。
これ以上、罪を増やしたところでなんだというのだ?
悪意を滲ませ、ニヤつく男に、店員である鬼のオンナが話しかけてきた。
「どうかしましたか?」
鬼の男性というものは、粗野でガサツで不潔なのに、どうして鬼の女はこう『いい女』が多いのだろう。緩やかに波打つ褐色の髪、赤い肌に神秘的に輝く緑の瞳。この香りはバラの香水だろうか。
男はいっぺんにいやらしい目に変わり、鬼の女をじろじろと舐め回した。
鬼の美女は首をかしげ、再び尋ねてくる。
「どうかしましたか?」
「いや、コーヒーをいただいたのはいいが、実のところ金を持ってなくてね。まったくあの世ってのは不条理だ。俺の最後の仕事……強盗殺人なんだが、警官に撃ち殺される前にポケットに詰め込んでいた金がなくなってるんだ。なんのために命を張ったのかわからないよ」
男がこんな事を言うと、カウンターでコーヒーをすすっていた老紳士が口を挟んだ。
「なんだ、君は強盗殺人犯かね。そんな粗暴な人間がこのカフェに入れるなんて……まったく世も末だ。不愉快だ」
そういうと、老紳士は不快そうに新聞をたたみ立ち去ってしまった。
男だって不愉快な気分。
――自分だって、地獄に堕ちた悪人じゃないか。なんだよ、えらそうに。
表情を曇らせた男に、鬼の美女が肩をすくめた。
「もしかして、ここへ来るのが初めてなのね? システムが良く理解できてないんでしょ?」
「あぁ。いま食い逃げして罪を重ねたら、また閻魔の旦那の前に引き出されるのかい?」
美女はけらけらと笑い、眉を上げた。
「かもね。……でも私たち店員は、食い逃げの心配なんてしてないわ」
「どうして? 俺は現世では結構な凶悪犯だったんだぜ? 泣き叫び、命乞いする資産家の老婆を拷問して殺した事だってある」
「あなたがいくら凶悪でも、ここじゃ食い逃げは出来ないの」
「良くわからないな。オープンカフェなんだから、入り口はあんなに開けっぴろげだし、君だって俺を取り押さえられるほどの女丈夫には見えない。その美貌で客を逃がさないのかな」
男がすっと褐色の髪に絡ませた指を、鬼の美女はぱちりとはねのけた。
「いいえ。私は注文を取って、運ぶだけのウェイトレスよ。この店には料金を払えない人は、最初から入店できないの」
「でも、俺は金を持ってないぜ?」
「金なんか、なんの価値もないわよ? ほらあそこで飲んでるハンサム青年、彼は偽札作りの天才なの。もし地獄で貨幣が重要な価値を持つのなら……あたしあの人に抱かれたっていいわ」
「じゃあ、何を払えばいい? 身体か?」
「もう! 髪を触らないで! ここではね、『希望』が価値を持つの」
「希望だって? 希う望み?」
「そうよ。だからここでエスプレッソを楽しんだあなたには、少量の希望を払ってもらう」
男は思わず笑ってしまう。まるで意味がわからない。
「希望? 希望ね? はいはい払うよ、いくらでも払ってやる。はい希望を払うよ~お釣りは絶望をくれるのかな?」
「……いくらでも、ってわけにはいかないわよ。その『希望』ってのは善行だから」
「善行? それがどうして希望になるんだ?」
「あんた……ほんと何も知らないんだね。カンダタの話は知らない?」
「なんだよそれ」
鬼の女は店内を見回した。
「今日は……来てないかな? 週末は良く来るんだけど……。まぁいいわ。彼ね、昔のことだけどお釈迦様から、『蜘蛛の糸』を垂らされた事があるの」
「蜘蛛の糸?」
「ほらぁ芥川龍之介が小説にしてたじゃない」
「どんな話だよ」
「悪人のカンダタが生前、たった一つだけ善行をしたの。目に付いた蜘蛛に慈悲を感じて殺さなかった。……で、それを知ってたお釈迦様が、地獄に蜘蛛の糸を垂らしてカンダタに脱出のチャンスを与えた――っていう」
「ふーん。でもカンダタはまだ地獄にいるんだろ? 脱出できてないじゃないか」
「んーまぁそうなんだけど、『善行』のおかげで『希望』が訪れたわけ」
「つまり、善行を君らに払うのか」
「そういうこと。地獄でもっとも価値があるのは『希望』ですもの。だから人によって、その総量に違いがあるの」
「俺は『希望』が沢山あるかな?」
「さぁ、ね。 でもその善行が仮に『偽善』でも結果的に他人が救われれば善行だから、もってる人は大量に持ってるわ。偽善者は得ね」
「自分じゃ確認できないって事か」
「そ。私はレジに表示される善行を、奪うだけ。今日は……『強盗に入った先で、赤ん坊をあやし寝付かせた』って出てるから、これを頂くわ。まいどあり」
硬貨もないのに、レジがじゃらりと音を立てた。
「善行がなくなれば、この店にも入れないという事か……」
「そ。自殺の人達は有利なんだよね。『自殺』の罪で地獄には堕ちたけど、本来気の優しい人達が多いから善行が多いのよね」
男は思索に耽りながら、外へ出た。
――俺の希望の総量はどれほどなのだろう。なにか思い出せる善行は……。
誘拐した幼女にアメをあげたのは善行だろうか?
しかし、その後殺害しているのでチャラかもな。
じゃあ、あれはどうだ。友人に格安で車を譲ってやった。まぁ……盗んだ車だったが。
* * *
次の日、男は作業に従事していた。
針の山を、痛みに耐え確実に登る。頂上に着いた頃には昼下がりになっていた。
そこに設置されているタイムカードを切らないと、今日の作業は認められない。
自分の名前のカードを探して、機械に押し込んだ。びびっと書き込みの音がきこえ、今日の罰証明はきちんと残される。あとは引き返すだけだ。下山した頃には、ちょうど夕方だろう。
慣れてきたせいか、最初の頃に比べ、上り下りにかかる時間も短縮され、最近ではめっきり残業もなくなっていた。
「なぁ、あんた」
突然背後から声を掛けられ、男は振り向いた。
そこには、見るからにチンピラといった風体の男と、薄汚れたスーツの男が立っていた。
二人とも、服が破れていないところからすると、針の山登山の上級者なのだろう。
チンピラが続ける。
「あんた、昨日オープンカフェ行ってただろ」
「あぁ。それが何か?」
「あそこのねぇちゃん、たまんないよな。スレンダーの体型にあの制服だろ、我慢できなくなっちまうぜ」
スーツの男がチンピラを制した。
「おい、さっさと本題にはいれ」
「あぁ、すまねぇ。あんた、『希望』が欲しくないか」
「欲しい……けど、どうして?」
「ここじゃ、『希望』がなくっちゃ話にならねぇ。『希望』さえあれば、カンダタの旦那みたいに――ミスらなきゃ――上の極楽へも行けるかも知れねぇしな」
スーツの男が補足する。
「我々は地獄に落とされた悪人だ。それがゆえに我々の行った善行などたかが知れている」
「そこで、一つ妙案があるワケよ」
「妙案?」
「聞くところによると、アンタ相当のワルだったってねぇ? それを見込んで計画に誘いに来たってワケさ」
「脱走か?」
「そんなわきゃねぇよ、俺たちはもう死んでるんだ。何所へ逃げるって言うんだ? 極楽には入りこめねぇし」
スーツの男が進まない話に苛立ったのだろう、チンピラを押しのけ前に出た。
「『希望』を増殖するんだ」
「なんだって?」
「だから、希望を……善行を増殖するんだ」
「そんな事できるのか?」
「おそらく……な」
「このスーツの旦那は天才だ。良く聞きな。……実は『善行をつむ』ってシステムは、不確かな部分が存在するんだ。せっかく積んだ善行が、閻魔帳に載らない場合があるんだよ。閻魔帳に載らない以上、それは『なかった事になる』」
「こいつの言うとおり、『載らない善行』があるのはなぜか? それはその善行を見たものが、閻魔に報告するシステムだからだ。ゆえに見た者……『天使』や『悪魔』、『釈迦』……冥界に従属するいずれかの者が、『目撃』しなければならない。逆にいえば、見られなければ、その善行は無駄ってわけだ」
善行を無駄と言い切るスーツの男は、生前にどんな悪事を行ったのだろう。
男は興味を惹かれた。
「そんな……いい加減なシステムなのか」
「いい加減と言うよりは、冥界において善行はさほど重要じゃないんだろうな。天使も悪魔も、人間の悪い部分だけをよく見ている。天国へ行けるか否かは、おそらく減点法だからだ。一定以上の減点がある者は、みーんな地獄とわけさ」
「そんな……。じゃあ善行なんて意味がないじゃないか」
「あぁ。だからその救済策として、『善行』でわずかばかりの贅沢ができるようにしてあるんだろう。お小遣いみたいなモノさ」
男は頭を抱え込んだ。
「なるほど……ね。で、計画というのを聞こう」
「カフェのある大通りで騒ぎを起こす」
「どんな?」
「チンピラ君が、君に因縁をつけて暴力を振るうんだ」
「俺は殴られるのか」
「あぁ、それを私が助ける。大通りには、現世監視と地獄監視を兼任する鬼が沢山いるんだ。そいつらに私の『君を助けた』善行を見せる、おそらく少しは『善行』として加算されるはずさ」
「そんで、スーツの旦那の次は俺だ、アンタがスーツの旦那にイチャモンをつけ、俺が助ける」
「ぐるぐると回すワケか……。しかしそんな単純な事で善行は増えるのか?」
スーツの男は不敵な笑みを漏らした。
「加算されるさ。間違いない。ただ同じ鬼に見られないように回さなければならんがな」
男は計画に荷担する事を約束した。どうせ、他にやる事もない。
その後は、お互いの身の上話で盛り上がった。
チンピラは婦女暴行の常習犯で、スーツは詐欺師だった。
様々な犯罪者が、同じ所に寄せ集まっているにも関わらず、地獄が秩序を保っているのは、鬼の手腕によるものだろう。
そうこうしているうちに、一日は終わった。
* * *
翌日、針の山から下山するとすぐに、大通りへと向かった。
一緒に行動すると怪しまれるというスーツの提案から、全員がバラバラに通りへ足を向ける。男はオープンカフェの前に行き、店内を見渡した。
例の美人が、誰かと楽しげに談笑している。
軽い嫉妬心を覚え、会話している男の顔をよく見ると、教科書か何かで見た事のある顔……あれは芥川龍之介だ。
一緒にテーブルに座ってカップを傾けているのはカンダタだろうか?
いや、どうも違うようだ。こいつにも見覚えがある……。
――ふん太宰治か。
「なるほどね。二人とも……自殺だったな。自殺も大罪ってワケか」
肩をすくめ、唇を歪めていると、背後から突然怒鳴られた。計画通り、それはチンピラ君だ。
「おう、ダボ! 希望もってんだろ!? ちょっと貸してくれや」
「希望なんてありませんよ。やめてください」
一生懸命に演技するが、どこか棒読みになってしまう。
「そんなキラキラした綺麗な瞳のくせに、希望をもってねぇわきゃねえだろ! 嘘つくんじゃねぇ! 嘘つきは地獄に堕ちるぞ!」
「持ってないものは、もってません! 今まで嘘なんてついた事もないです」
チンピラに何度か頭をはたかれながら、男はスーツの登場を待った。早く止めてもらわないと、まるでコントのようになってしまっている。
かくして衆目が集まりだした頃、ようやく背後から怒号が響いた。
「そこまでだ!」
――まったく何をやってたんだ、遅すぎる。
男は振り返ったとたん、唖然とした。そこに立っているのは、スーツの男でなく、赤い肌をどす黒く変色させた鬼だった。
――ううむ。計画に面倒なのが混ざってしまったな。
男は奥歯を鳴らし、仕方なく演技を続ける。
「鬼のオニいさん。助けてください! このチンピラが、僕の希望を奪おうとしているんです」
チンピラ君もドモりながら、慌てて言葉をかぶせてきた。
「お、おう。おうおう、やっぱ希望もってんじゃねぇかよ。この嘘つき野郎め」
すると鬼が大声で怒鳴った。大地を揺るがす響き。
「黙れ! 小悪党どもめ! 貴様らの企みは全部耳に入っておるわ!」
男とチンピラは即座に硬直した。
――バレているのか!
「貴様らが、『善行』を捏造しようとした事は、すべてこの男の『勇気ある告発』により、明るみに出ておるのだ!」
鬼の後ろから、スーツの男がひょっこり顔を出した。
「へへ。あいつらは極悪人です。善行を捏造しようだなんて……許しがたい悪党だ。ほらここに彼らの計画書もあります。私は利用されたんです。詐欺師としての頭脳を利用され――計画をバラしたら、酷い目に合わせる、と脅迫されたのです、あの人達を早く隔離してください!」
――騙された!
スーツは『勇気ある告発者』としての善行をつむため、男とチンピラを売り渡したのだ。重大な背信行為だ。
現世でいうところの、『偽札製造』同様、善行捏造も重い罪となるのだろう。そして、その悪徳を告発したスーツは僅かばかりの『善行』を獲得するのだ。
チンピラが悔し紛れに叫んだ。
「ちくしょう! 裏切りやがった! 鬼のオニいさん! 俺たちはそいつにハメられたんです! そいつだって計画に荷担した! それに……よくよく考えたら、もう怖いものなんかないぜ! 俺たちはすでに地獄に堕ちてんだ!」
鬼がゆっくりと口を開く。
「そうだな、ここはもう地獄だからもう下はない。それにお前ら罪人に苦行を与えたってすぐに慣れてしまう。血の池はプール代わり、針の山はハイキングだ。慣れとは恐ろしい」
スーツが鬼に媚びを売る。
「鬼のオニいさん、奴ら極悪人だ。地獄にある全ての苦しみを休む暇なく回らせましょうよ、エヘヘ」
「だまれ! 処遇はワシに一任されておる! 口を挟むな、なにが、エヘヘだ」
鬼はゆっくりと二人の方に向き直し、にやりと笑った。
「まぁ、処遇は決まってるんだがな」
男はその不敵な笑みに、背筋が凍るかと思った。地獄に堕ちてから、鬼の鬼らしい表情を初めて見た気がする。
「貴様らの処遇は、全『善行』の没収だ。お前らは二度と希望を持つ事は許されない」
男は目の前が真っ白になった。
――希望を、全て奪うだって!? それじゃ地獄じゃないか!
チンピラが気勢をそがれ、膝から崩れおちた。人間らしい楽しみはもう二度と味わえないのだ。
スーツ男が伺いを立てるような口調で、鬼に尋ねた。
「あのう? 僕の『告発』は善行としてカウントされるんでしょうか?」
鬼がゆっくりと振り向いた。
「安心しろ。すでに閻魔帳に記載しておいた」
スーツ男の表情は、ぱっと明るくなり、白い歯を見せる。鬼が続ける。
「まず、『詐欺』、次は『虚偽の報告』……当然ながら『裏切り』と『奸計』。……あと『勇気ある告発』ではなく『卑劣な密告』だな」
スーツの表情が固まる。
「貴様も、こいつら同様、善意の没収と凍結を処遇する。もう死んでるが、希望なく死ぬまで苦しめ」
部下の小鬼にあとの処分を言い渡すと、鬼は笑いながら去っていった。
「あら……あの人達、終わっちゃったみたいよ」
鬼のウエイトレスが眉をひそめた。
「全く持って浅はかだねぇ……。地獄についての考察が足りなすぎるなぁ。ここで持たされる『希望』は鬼達に『奪われるため』に存在するというのに……。希望は、こうして美人に煎れてもらった珈琲でも飲みながら、ちびちび使うのが正解だよ。そうは思わないか芥川さん?」
「ああ、まったくだ。そもそも、なぜ地獄で希望を持たされるのか――少しは考えるべきだよ。地獄の役割ってものを勘違いしているな。減点法の世界で『善行』を増やそうなんて。……しかしあの愚かしさ、浅はかさ、人間の本質にせまるモノがあるね……余りにも文学的だ」
「今度は彼らを題材にして、書いたらどうだい? タイトルは……『蜘蛛の糸』ならぬ『蟻地獄』でどうだろう?」
「はは、じゃあ太宰君も書くといい。『罪人失格』というタイトルで」
ウエイトレスは文学談義にすっかり退屈し、大きくあくびを見せる。
斜陽のオレンジを褐色の髪に透かしながら、来期に流行りそうな髪の色を考えていた。
遠くにそびえる針の山が、斜めの陽光を乱反射させ、きらきらと輝く。オープンテラスを通り過ぎるそよ風が、釜茹での蒸気を柔らかく運んだ。
きょうも地獄の午後は、ゆっくりと流れている。
《昼下がりのオープンカフェ 了》