第31夜 『愛を知る男』
原始時代の春は、二人の男に柔らかな眠気をもたらしている。
二人して川辺に寝そべって、獲物が通りすがるのを待っているが、どうやらマンモスやイノシシたちも昼寝でもしているらしい。
「眠くなるね」
「ああ、まったく。まったく眠くなるよ」
「なにか話をしようよ」
「なんの話がいい?」
「そういえば、きみは愛を知っているかい?」
「愛? 愛だって?」
「ああ愛だ。恋人や家族、いやもっと広い対象でもいい。愛を知っているかい?」
「……君は愛を知っているのか?」
「ああ、知っているさ」
「……教えてくれないか?」
「教えるようなことじゃないよ」
「もったいぶるなよ。教えるぐらい、いいじゃないか」
「ははは、君は本当に愛を知らないんだな」
楽しそうに笑うボンゴに、ぺぺは苛立ちを覚えた。まるで無知を見下されたかのように感じたのだ。ぺぺはおもむろに立ち上がり、ボンゴを睨みつけた。
「教えろよ! 愛を教えろ! 自分だけで知識を独り占めするのは、部族の掟に反することだぞ!」
非難されたボンゴも立ち上がる。
「無理だよ。教えるなんて……できない!」
「じゃあ、力ずくだ!」
ぺぺは地面に置いていた棍棒を手に取り、威圧するように高くかかげた。
「教えろ!」
「やめろ!」
「言え! 愛とは何だ! 愛を言え!」
瞬間、ボンゴは身をひるがえし、一目散に逃げ出した。
「逃げるのか! 待て卑怯者!」
ぺぺは素早く反応し、ボンゴの背中を追う。
草原を割り、山を駆け上る。川へ飛びこし、沼を泳いだ。
「待て! 逃がさないぞ」
やがて集落が近づくと、ぺぺはボンゴを追いながら、大声で呼びかけた。
「みんな! ボンゴが! ボンゴが愛を知っているぞ!」
すると、集落の中から沢山の仲間が顔を出し、青ざめた顔をしては口々に叫んだ。
「なんだって! 愛を知っているだって!?」
「そんなハズがない!」
「でも、知っているって!」
長老が真っ白な眉を動かし、杖をかかげた。
「追え! ボンゴを追うのだ! 愛を知っているぞ!」
何十、何百人もの村人たちが集落を飛び出した。
ボンゴは必死で走り続けた。草原を割り、山を駆け上る。川へ飛びこし、沼を泳ぐ。
しかし、遂には集落一足の速い青年がタックルの要領で飛びかかり、ボンゴをひっ捕らえた。
ボンゴは集落へと連れ戻され、集落の中心にある広場で縛られたままハリツケにされた。足元の薪に火をつけられたらイッカンの終わりだ。
長老が人の波を割って、最前列へと現れ言った。
「ボンゴよ。愛を知っておるのか?」
「……知っています」
周囲にはどよめきが起こり、人々は何かをささやき合った。
「では問う。愛とはなんだ?」
「言えません」
「火あぶりにされても、言えんかね?」
「長老、では逆に問います。あなたは愛を何だとお考えですか?」
長老は白い眉を二、三度なでると黄色い歯を見せた。
「さあな。ワシには到底説明などできぬよ。だからこうして問うておるのだ」
「そうです。そうだからこそ愛なのです。つまり長老も愛を知っている」
とたんに群集からヤジがあがる。
「ごまかそうとしているぞ!」
「そうだそうだ! あいつは皆に黙って愛を知っていた裏切り者だ! 騙されるな!」
ぺぺが一歩前へと進み出し、手に持った松明をかかげる。
「ボンゴ! 教えろ! 愛とは!」
「ぺぺ。問われて答えられるたぐいのモノじゃないんだ」
「でもお前は知っている!」
「ああ、知っているよ。知っているけど、『愛とはかくあるべし』という概念などないんだ。なにか定義をさだめた途端、それは軽薄なものになってしまうんだよ」
「愛は薄ぺらいのか?」
「例えば、僕がぺぺに感じる愛。それは友愛だろう。でもそんな定義に当てはめて、枠を定めていいものじゃないんだ」
「愛には枠がないのか?」
「いや、枠がある人もいる。でも枠があるからって、それが愛じゃないワケではないんだ。人には人の愛があって、僕には僕の愛があるんだ」
「僕には僕の愛!? こいつ、愛を独り占めする気だ!」
「独り占めさせるな!」
「俺たちにも愛を!」
「火をつけろ! 愛を取りもどせ!」
ぺぺがボンゴの足元に松明を投げ込むと、それを皮きりに次々と炎が投げ込まれた。
乾いた木材を舐めるようにして炎が広がり、それはボンゴを中心として火柱に変わる。
数分でボンゴは炭となった。
* * *
――そして輪廻は巡り、時代は変わる。
人々が松明を懐中電灯に、棍棒を携帯電話にかえた頃、人々はボンゴの名前など知るところではない。
しかし、あの日の記憶は遺伝子情報の片隅に、かすかな断片を残している。
愛に疑問を覚え、愛に答えを探し、愛に絶望して、愛に希望をみる。
形の無い愛を永遠と呼んで、一方ではその形を求めて宝石や指輪にキスしたりもしてみる。
ボンゴを焼いたあの日から、あなたも、その前のあなたも、そのずっと前のあなたも。遥か以前の前世から連綿と答えを探し続けているのだ。誰だってそうだ。
人類は誰だってあれから答えを探し続けているのだ。
言わずして、あなたに愛を感じさせる人物がいれば、そんな時、あなたの選択肢は二つ。
黙って微笑むか。あるいは、炎をもって問いただすか。だ。
ただ一つ、確実な事がある。炎がミサイルに、棍棒がライフルに変わっても、ボンゴは笑って死んだだろう。
言葉にできないことは、結局のところ言葉にならないのだから――。
作家はそう文章を締めくくった。こりゃあ、ボツだな、と一気に疲労感を味わった。もう少しキチンと名前を考えるべきだった。ボンゴだって?
温くなったカプチーノを飲み干し、オープンカフェの手狭なテーブルの上のノートパソコンを閉じた。
疲れた背中を椅子に預け、目を閉じる。すると隣のテーブルに座っていた若いカップルの会話が聞こえてきた。
「ねぇ、愛してる?」
「ああ、愛してるって。……んなこと何回も言わせんなよ」
「だって、不安になるんだもん。聞かなきゃわかんないじゃん」
「俺が嘘ついてたらどうすんだよ?」
「え、嘘なの?」
「いや嘘じゃねーけど、さ」
「嘘じゃないなら何度でも聞きたい、もっかい言って」
聞いても仕方がないこと、でも聞かずにはいられない。――誰だって、きっとそう、か。作家はかすかに笑って席を立った。
《愛を知る男 了》




