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偽名仮名の住所録  作者: まつかく
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第29夜 『読まれなかったラブレター』

ある少女が手紙を受け取った。

しかし、彼女はそれが『手紙』である事に気付かない。


新緑があふれる庭園を望む、一階の部屋。そこが少女の部屋だった。

乱れつつある治安にあって、強盗や誘拐を心配し、父親は彼女に二階の角部屋をあてがおうとしたのだが、彼女が『どうしても一階の部屋が良い』と懇願したのだ。


朝には日光をすり抜けた清らかな空気が、テラスを通って少女の部屋にやってきたし、夜には庭園で鳴く虫たちの合唱が少女の子守歌となった。


少女はたいそう美しく、両親だけでなく使用人たちにも愛されていた。少女は幸福の意味を考える必要がないほど幸福な少女だった。


そんなある朝のこと。

少女がベッドから起き上がり、朝の空気を部屋に取り込もうと、窓辺へ歩み寄ると、わずかな窓枠の隙間に不自然なモノを見た。

二つに折られた真っ白な紙が、少女の部屋へと差し込まれていたのだ。


少女は訝りながらも紙を手に取り、開いた。


そこには絵が描いてあった。

白い紙をキャンバスとして暖色と寒色が乱雑に塗り込められ、絵の中央には人物が幼稚なタッチで描写してある。服装から推察するに、それが少女自身を描いたものであると少女はすぐに気がついた。


――使用人の誰かが悪戯したのだろうか?


ふと、そう考えたものの、少女はすぐに自分の考えを否定した。あまりにも絵が稚拙すぎたし、だいいち意図するところがわからない。


「気味が悪いわ」


少女は呟くと、机の引き出しに奇妙な絵を放り込んだ。少女がその絵の事を忘れていられたのは、次の日の朝までだった。

ベッドで半身を起こし、体を伸ばしながら何気なく窓を見ると、前日の朝と同じように白い紙が挟まっていたのだ。


かすかな不快感とともに紙を開くと、そこにはまた人物画が描かれていた。今度は見覚えのない人物だった。

瓦礫を背景とし、見慣れぬ人物と足下の犬が満面の笑みをこちらへ向けている。


当然ながら、書かれている人物は少女の両親でもなく、使用人の誰でもない。見覚えのない人物だった。灰色の上着に、茶色のズボン。そんな格好の人物は少女の身辺にいない。

少女はすばやく窓から離れ、使用人を呼びつけた。



少年は通りに面したビルの屋上から、豪邸の庭を眺めていた。


――少女は手紙に気がついてくれたのだろうか?


ビルの屋上からでは距離があり、屋敷内の細かい状況はわからない。今日の絵で、僕のことを思い出してくれるだろうか?


少年はビルの壁に渦を巻く螺旋階段を下る。高い外壁に囲まれた少女の家をのぞくには、ビルにのぼるしかないのだ。

螺旋階段を下りきると、大通りをぬけて廃材捨て場へと向かう。加工に適した金属やプラスチック製品を集めなければならない。

少女が学校へ行っている間、少年にはそうした仕事が待っていた。


貴重な金属などを廃材屋に買い取ってもらい、そうして得たわずかな金銭で日々の糧を得るのだ。


廃材捨て場でゴミをあさっていると、シルクハットをかぶった友人が来た。

年の頃は少年と変わりないのだが、拾ったシルクハットをかぶっているせいで、少年よりも少しばかり背丈が高く見える。


「おい。そこはもう何もないぜ。昨日おれが調べたばかりだ。それよりさっきどっかの金持ちがBブロックにゴミを捨てに来たらしい。一緒に行かないか」


少年が了承すると、シルクハットの奴はうやうやしく帽子を取り、貴族のように礼をした。


「では、まいりましょう」


Bブロックまで瓦礫の山を迂回しながら向かう。道中、シルクハットはずっと愚痴をもらしていた。


「なぁ。学校行きたいと思わないか? 綺麗な服きてよ?」


「学校に行きたいなら、親に言えばいいじゃないか」


「ばっか。そんな金あるかよ。殴られんのがオチさ。あーあ、新しいノートに字を沢山かいてみてえよ」


「新しいノートがあったって、字を知らなきゃ何も書けないよ」


「ばっか。だから学校で習うんだよ」


少年はうなずき、考えた。

――読み書きができたなら、少女にももっと上手く気持ちを伝えられたかも知れない。


次の日、まだ日が昇らないうちに少年はスラムの家を出た。

窓枠に手紙を差し込むため、ヒラリと邸宅の壁を乗り越え、少女の部屋の近くまで茂みに隠れて移動する。

すると、いつも少年が手紙を差し込んでいた窓に、紙が挟まっていた。


――昨日の手紙は気付いてもらえなかったんだろうか。


素早く紙を抜きとり、二つ折りのソレを開いて確認すると、それは自分の書いた絵ではなかった。

これは少女からの返信だ。

少年は新しく用意した紙をポケットから取り出し、窓枠に差し込むと、返信の紙を握りしめ壁を乗り越えた。

そうして大通りを横切り、ビルの螺旋階段を駆け上がった。


屋上の縁に背中を預け、少年は胸を躍らせながら紙を開く。

日の出を待たずとも、それが文字であることはわかる。


インクが流れるように紙を這い、びっしりと一面を埋めているのだ。


――嫌がらせをする人へ

あなたがなぜ私に嫌がらせするのかはわかりませんが、私は迷惑しています。すぐにやめてください。

気持ち悪いし、怖いです。今朝、警察に届けました。



少年は紙を横にしたり縦にしたり、斜めに見たり裏ものぞいてみた。

しかし、そんな事をしてもどんな事が書かれているのか、到底理解できるワケがない。少年は読み書きが出来ないのだ。

顔がムズムズして、両手でこすってみると、自分がニヤけていることに気付いた。


いったい、どんな事が書かれているのだろう?


少年は内容が知りたくて仕方ない。

字の読める誰かに読んでもらおうかと考えたが、すぐに断念する。

気恥ずかしさもあったが、勝手に誰かに見せたら少女に嫌われてしまうかも知れないからだ。


少女と、手紙のやりとりが出来た――。今はそれだけで満足だった。もしかしたら、絵を見て自分のことを思い出してくれたかも知れない。

少年は返信が書いてある紙を丁寧にたたむと、なくさないようポケットにしまった。


明くる日の返信も、相変わらず少年には理解できないものだった。


――嫌がらせの人へ

気持ち悪い。あなたはきっと、変態かなにかなんだわ。怖がる私を見て、どこかでほくそ笑んでいるのだわ。

昨日のは脅しだったけど、今朝は本当に警察に通報しました。庭に犬も放します。

気味の悪い絵なんてもう見たくもないわ。




――嫌がらせの人へ。

先日、逃げる貴方の後ろ姿を見ました。

あなたスラムの子ね。

もしかしたら、字が読めないのかしら?




――嫌がらせの人へ。

わたし、思うの。貴方はきっと字が読めないんだわ。

だから今日は私も絵を描いたわ。

伝わると良いのだけれど。



その日の手紙に、少女は絵を付け加えていた。

小さく書いた邸宅と庭と手紙に、大きくバツをつけたのだ。


目覚まし時計が鳴ると、少女はベッドから半身を起こし、いつものように窓枠へ目を向けた。しかし、その日は少年からの返信はなかった。

――絵の意味に気がついてくれたのかしら?


体を伸ばしていると、ドアが優しくノックされる。


「お嬢様、お目覚めですか」


「ええ、G田さん。良い朝だわ」


「今日は……例の手紙は……」


「返事はなかったわ」


「そろそろ、旦那様や警察の方に事の次第を伝えておいた方がよろしいのでは?」


「駄目よ、こんなことお父様に知られたら、せっかく認めさせた一階の部屋が駄目になっちゃう。私この部屋が気に入ってるの。二階なんていやよ」


G田は「はぁ」と気の抜けた返事をして、唇を結んだ。

――やれやれ、なんと自分勝手なお嬢様だろう。ここで何かあれば、私の責任にもなりかねない。こんなワガママ娘のせいで減給や首なんて、死んでもごめんだ。何とかしないと。しかし……。



――嫌がらせの人へ。

貴方が描いてくる女の子の絵は私ね?

灰色の上着の子はあなたかしら?

膝のあたりが赤いけれど、出血してるの?

今日の絵はお母様よ。いつも不機嫌で、紅茶ばかり飲んでるの。



――嫌がらせの人へ。

貴方は悪い人じゃないのかも。

でも、貴方が忍び込んでいることがわかったら、私は二階の部屋へ戻されてしまうわ。

それに使用人のG田さんは、私を寄宿学校へ入れようとお父様に働きかけてるみたい。憂鬱だわ。

字の読めない貴方にこんな事話しても無駄でしょうけど……。

でも誰かに知ってもらうだけで、少し気が晴れるわ。

今日の絵は、昨日見た夢よ。最近怖い夢ばかり見るの。




――嫌がらせの人へ。

昨日の雨はすごかったわね。雨粒が小指ほどもあったわ。

さっき、お父様とお母様がケンカしてるのを見たの。お父様はわたしを寄宿学校へ入れたいみたい。そんなの絶対にいや。

友達もいない学校へいったら、わたし寂しくて死んでしまうわ。

あなたは来てくれるのかしら……?

今日の絵は両親のケンカよ。最近いやなことばかり……。




少年は文章の意味は理解できなかったが、添付された少女の絵を見るたび、落ち着かない気分になった。

初めのうちは暖色などをふんだんに使用していた少女の絵は、次第に寒色が中心となり、いまや暗く陰惨な絵になってしまっているからだ。


貰った絵を一つずつ見比べては、想像する。

これは、少女のお母さんだろう。この怖い絵は、なんだろう。

この怒った人たちはなんだろう? 泣いているのは少女だろうか。


言葉で伝えられぬもどかしさ。少年は努めて明るい色彩の絵を描いた。見ただけで彼女の気持ちが晴れるような、そんな明るい絵を描いた。


しかし、彼女の絵は日に日に暗くなってゆく。

言葉を、伝えたい。少年は意を決し、廃材置き場へと向かった。


廃材置き場では、廃車となったバスの上でシルクハットが寝転んでいた。そこが奴の特等席なのだ。


「よう、どうしたんだ血相を変えて。金塊でも掘り当てたか」


「字を教えてほしいんだ」


「んぁ。なんだおまえ、バカとちがうか。字を知らない俺が字を教えられるはずねぇだろ」


「誰か教えてくれる人を知らないかい?」


「ここに夕方頃遊びに来る市街地の奴らなら学校にも行ってるし、字を知ってるだろうな。まぁまだ昼過ぎだ。それまで廃材でもあさってようや」


「わかった」


少年は伝えるべき文面を考えながら、廃材の山を崩した。

しかし、長い文章では上手く書けるか不安だったし、短すぎては伝えきれない。思考の堂々巡りを体感しているうちに夕方になった。

考え事のせいで仕事もろくに手につかず、今日の成果はゼロに等しい。


やがて、夕暮れが近づいた頃、小ぎれいな服を着た三人組が少年の前にやってきた。

中央の少年が腕を組んで、偉そうに言う。


「おう。おまえ、俺を捜してンだってな。何の用だよ」


「あ、えっと。字を。文字を教えてほしいんだ」


予想外だったのか、三人組は少年のことを指さして笑った。あり得ないだの、無意味だの、さんざん罵倒される。三人組は明らかに年下であったが、スラム出の者に対して敬意は払わない。少年はポケットに手を入れ、少女の手紙を握りしめた。


「G田くん、こいつ、俺たちを先生だと勘違いしてるよ」


「そうだよ、教えてほしいなら月謝を払え、月謝を」


一番偉そうにしている中央の子供が半笑いで言った。


「まぁ、暇つぶしに、教えてやらんこともないぞ。お前、アルファベットは知ってるのか」


「……知らない」


「数字は?」


「ちょっとだけ」


「何だよ、赤ん坊と一緒じゃないか。手取り足取りなんて、面倒でやってられるか」


「文章、一文だけでいいんだ。その書き方を教えてほしいんだ」


「んぁ、どんな文章だよ?」


「……。『怪我の手当、ありがとう。元気を出してください』」


「なんだそりゃ。詳しく話せよ」


「1年ほど前に、大通りで大人に絡まれたんだ。スラムの奴が街をうろつくなって。ゲンコツで血が出るほど殴られた。そのとき、あの大屋敷の女の子に助けてもらったんだ。怪我の手当もしてもらった。お礼が言いたい、一言で良いからお礼が言いたいんだ」


本当は、それだけじゃなかったが、自分の気持ちを誰かに知られるのが気恥ずかしく、淡い感情のことは隠した。


「ねぇG田くん、その女の子ってもしかして……」


G田と呼ばれたリーダー格の少年は、半笑いを崩さず、頷いた。


「……ふうん。スラム人のくせに良い心がけじゃん。面白いから教えてやるよ。で、文章はなんだった?」


「『怪我の手当、ありがとう。元気を出してください』」


G田は近くにあった木片に、さらさらと文字を書いた。


「ほらよ。うまくやんな」


その夜から、少年は教えられた文字の練習を繰り返した。

絵を描くのとは違い、文字というのは繊細で、何度描いてもうまくいかない。

模写するように、丁寧に文字の流れを追い、形を覚えた。


紙いっぱいに文字を書き写し、気がつけば次の日の夜になっている。丁寧に紙をたたんで、家を出た。



 *   *   *



夜があけて朝になると、ちょうど螺旋階段から下りてきた少年のところに例の三人組が駆け寄ってきた。


「いた! いたよG田くん!」


「廃材置き場にいないわけだ! 逃がすな!」


何が何だかわからないうちに、少年は捕まり、ポケットの中に手を突っ込まれる。


「何をするんだ」


「うるさい!」


ポケットにしまっていた少女の手紙が次々に路地裏に投げ出されてゆく。両腕を押さえられた少年は、手紙を拾おうと必死でもがいた。


「おとなしくしろ!」


G田が少年の顔面を殴りつけたのを引き金に、暴行が始まった。少年も必死で抵抗する。蹴りつけてくる足にすがりつき、噛みつく。

タックルの要領でG田へ体当たりした瞬間、背中に激痛が走った。意志に反して全身の力が抜け、痙攣する。

背中を刺されたのだ。


「くそ、血がついた! 汚ねぇ!」


「あったよG田くん。これだ、紙いっぱいに教えた文章が書かれてる! 気持ちワリィ」


「よかった。面白がってやったけど、親父にバレたらあぶねぇトコだった」


「学校も始まるよ、さっさと行こう」


少年が奪われた紙は、練習用の紙だった。清書した手紙は、すでに窓辺に届けてある。

しかし、なぜ手紙を奪われたのか、少年にはわからなかった。


 *   *   *



少女は目覚ましの金属音と共にベッドから飛び起きると、窓辺へと走り寄った。

そこには真っ白な紙が挟まっている。三日ぶりに届いた少年からの手紙だ。


少女は嬉々として紙を引き抜いた。

近頃は、誰とも知れない誰かとの絵のやりとりが楽しくなってきたのだ。

しかし、今日は様子が違い、開いた紙には色彩がなかった。

いつもなら稚拙ながらも極彩色の美しい世界がそこに描かれているはずだ。


だが白いキャンバスにはたどたどしい一文が書いてあるだけだった。文面を目で追い、少女の息は詰まる。


『せっくすさせろ』


おぞましく、吐き気がした。

少女はすぐにその手紙を破ると、机の引き出しに駆け寄り、今までに受け取った絵を一枚ずつ破り捨てる。


一番下にあった絵。最初に受け取った絵の番になると、不思議と破るのが戸惑われた。だが、思い切って破ってしまえばただの紙だ。


「気持ち悪い!」



 *  *  *



かすれゆく視界。ただ少年は考えていた。

少女は今頃手紙を読んでくれただろうか?

元気を出してくれただろうか?


もっと、沢山練習して、もっと沢山文字をおぼえたなら。もっと、沢山伝えられるかもしれない。

這いつくばりながら、震える指先で、路地裏に散らばった少女からの手紙をかき集める。

上等な紙の質感が、指先に柔らかい。手紙を血で汚さないよう気をつけながら一通、また一通と胸元にしまう。そうして少年は胎児のような格好で体を丸めたまま、地面にうずくまった。

紙を詰め込んだ胸元が暖かい。

やがて、宝物のぬくもり抱いたまま、少年は動かなくなった。


その日から、少女の庭には番犬が放たれ、警官が巡回した。

少女は寄宿舎の窓を見ながら、あれは何だったのだろう、誰からだったのだろうと、ふと思い出すことがある。

しかし、その疑問は永遠に解消しない。


一枚目の絵に描かれた自分の姿が、鮮烈な印象だけを残し、記憶の中で柔らかく風化してゆく。

やがて、少女はすべてを忘れてしまうだろう。

もう二度と、手紙が届くことはない。




  《読まれなかったラブレター 了》

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