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偽名仮名の住所録  作者: まつかく
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第21夜 『蛍光奇談』

ホタルは誰かの願いを背中に抱えて、今夜も光る。

大きすぎる願いや、ちっぽけな願い。川辺は数千、数万もの願いによって輝き、小さな銀河を形作っている。

男がホタルの秘密を知ったのは、数日前だった。


人気のない山奥、一メートルにも満たない細い小川のほとりにベンチが設置してあり、男はそこにずっと腰掛けていた。

誰がこんなベンチに座りに来るのか、と不思議に思ったが、よくよく考えて見ると簡単なことだった。少し道を下ったところには集落があり、その自治体がホタルを観光資源として活用しようとしたのだろう。


誰も訪れない所を見ると、その自治体の目論見は見事に失敗したようだが、少なくとも男はこの場所が気に入った。途絶えそうな小川のせせらぎを、草に隠れる虫たちの合唱が繋ぐ。


夜が深くなると、草むらがぼんやり輝き、一匹、また一匹と飛び立ち、燐光のような光点が紺色の世界に溢れる。

ホタルたちは小川のせせらぎにかき消されてしまいそうな、頼りない光を抱きながら、遙か山奥を目指す。目指す先には、千年を生きたフクロウが宵闇を祝って歌っており、たどり着いたホタルは千年フクロウに誰かの願いをそっと告げる。


なぜ、ホタルたちの仕事を理解できたのか。男にはわからない。だが、疑うまでもなく、そういうものなのだと受け入れることができた。

きっと、世界中で同じ事がひっそりと行われているのだ。


願いを一生懸命に届ける奴もいれば、ホタルの中にも、出来の悪い奴がいて、川辺で休んでばかりの奴もいる。怠け者のホタルに限っておしゃべりで、男の座るベンチや、男の肩に止まっては何かを囁く。


しかし、どれほどホタルが話しかけてこようとも、その言葉を男は理解することができない。そんなとき、男はゆらゆら揺れるホタルの触角を見つめる。

きっと、愚痴や、質問なのだろう。そう思う。


「お前の背負ったもの。誰かの願い。早く届けてやりなよ」


男は怠け者ホタルに、いつも決まって同じ言葉をかける。ホタルはしょげた様子で触角を二、三度動かすと、柔らかく飛び立ってしまう。

川のせせらぎや、虫たちのオーケストラ。遠く、森から聞こえてくる千年フクロウの独唱。


にぎやかといえば、にぎやかなのかも知れない。しかし、そのにぎやかさは、ある種の静寂にも似た静けさがあり、ゆったりと流れる時間があった。天国と地獄の間にいるような、安息と焦燥があった。

ひときわ大きなホタルが、男の手のひらに止まると、瞬間、凄まじく発光する。雷が手のひらに落ちたかのような発光だった。


光に包まれると、男の脳裡に映像が浮かぶ。古い映画のような、コマ落ちの画像は、ザラザラとして、音声もくぐもっている。


少女だ。

少女と母親が、どこかの街のショーウィンドウの前に立っている。


指紋のひとつも付いていないようなピカピカのガラスに二人の姿が映っている。少女が何かをねだっているのだろうか。


ショーウィンドウの向こうには、おめかししたマネキンがいた。

柔らかそうなフリルのスカートに、チェックのブレザー。胸の辺りに輝くのはブローチだろうか。

オシャレなマネキンは、両腕でサキソフォンを抱いている。


――なるほど。と、男は理解した。

(少女は、オシャレな服か、サックスが欲しいに違いない)


それが、願いとなってホタルに宿ったのだろう。そして、ホタルがその願いを男にみせているのだ。


幻影の中の少女は、母親の袖を引っ張った。


「ママ。私の肌は、どうしてこんなにただれているの? 私もキレイな肌が欲しい」


母親を見上げた少女の顔は、全体が赤く、薄く火傷をおったかのようにただれていた。一見して、それがアトピー性皮膚炎なのだとわかる。


男は自分が勘違いしていたことに気付く。

少女はガラスの向こう側を見ていたのではない。ガラスに映る自らの姿を見つめていたのだ。


彼女の願い。切なる願いは、子供が願うものにしては悲しすぎるように男には思えた。


ホタルは発光をやめると、貴族がやるような優雅な動作で羽を広げ、紺色の闇に飛び立った。


無性に、切なくなった。何が何でも、千年フクロウの元へたどり着いて欲しい。男は祈る。


広げたままの手のひらに、またホタルが止まった。


今度の奴は、先ほどのホタルより、発光が弱い。すぐ近くにいるにも関わらず、まるで遠くの灯台のように点滅している。


男の脳裡にふたたび幻影が映し出された。


暗く、汚れた部屋が見える。どれほど掃除を怠ればこのような部屋になるのだろう。

部屋の隅には男がいた。

三角座りで自らの両膝に、顔を埋めている。


閉ざされたカーテンの隙間から、光芒となった陽光が差し込み、右から左へと動いては、消える。何度も繰り返す光の動きが、一日をあらわしているらしい。

陽がのぼり、暮れる。また、陽がのぼり、暮れる。

何日間も、男は動かない。


やがて、何度目かの夜、男は両膝を抱いた手を動かす。


傍らにあった、注射器を持ち上げると、どす黒くなった左手に注射する。


その男の目は骸骨のように落ちくぼみ、まるで生気がなかった。

部屋の汚れ具合が、男の精神状態を如実に表しているように思われた。


注射が終わり、男が身震いした。恍惚とした表情の奥に、どこか悲しい光が見えた。


自分は、願いなんて叶わない。神なんていない。そう思っていた。

しかし、願いはこうして毎晩、ホタルたちによって運ばれてゆくのだ。どんな小さな願いも、どんな切実な願いも。生者の希望も、死者の祈りも。

千年フクロウであろうと、ホタルであろうと、その願いを知っていてくれる誰かがいるということは、何と心強いことだろう。


一晩で、どれぐらいの願いが叶うのか。どれほどのホタルが千年フクロウの元にたどり着くのか。男にはわからない。

男は願う。誰かがこの場所の存続を願ってくれることを。



男の遺体が見つかった夏。

自治体は再開発の書類に判を押した。観光地にするはずが、自殺志願者を呼び寄せてしまったと、開発業者は笑った。金を受け取りながら政治家も笑った。


周辺地区の開発が始まると、この毎夜の秘め事も終わった。

草のなくなった小川からホタルたちは姿を消し、森を失った千年フクロウはいずこかへ去ってしまった。

世界中の小川は次々と汚れ、消えてゆく。ホタルたちはどこへ行ってしまったのだろう。


果たされなくなった願いは飽和し、世界を息苦しく変えた。人々は、原因のわからないフラストレーションを抱え、笑顔を減らした。

小さな希望も、願いも、もうホタルは運ばない。誰も知ることのない、秘め事は終わったのだ。


草むらのなくなった用水路を眺めながら、男は思う。


社会は、自分と同じように原因のわからない閉塞感に負けたのだ。あてはずれのものを原因として、それを修正しては一時の満足感、達成感に浸る。

きっと、ほんとうの原因に気付いた時には手遅れで、自分の生命と同じように、戻ることはない。文明は緩やかに自殺していると。


こうして誰もが、不安に道を誤り、立ち止まる。

戻ることはできないし、修正も、やり直しもできない。選んだ進路を淡々と進んでゆくしかないのだ。そこには正解も不正解もない。


ただ、小さく願う。上手くいくように、幸せになれますように、と。

誰だって、きっとそうだ。

その小さな願いだけは、ホタルたちに運ばれますように。男はそう願う。


世界のどこか。誰も知らないホタルの溢れる小川が残っている。

男は、そう信じている。男は、そう信じたい。


男は夜空を見上げるたび、あの小川を思い出す。やがて、季節は巡るだろう。

誰かの願いは、今日も輝いているのだろうか。




   《蛍光奇談 了》


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