第20夜 『契約番号、Z8241号の叫び』
人生が終わってしまったので、F氏は保険会社に電話をかけた。
「はい、お電話ありがとうございます。こちらは新世界保険です」
電話に応じたオペレーターは、爽やかな声をした女だった。
「契約番号、Z8241の者なんだが、僕の人生が終わってしまった」
女は「少々、お待ちを」と通話を保留に切り替える。単調な保留音のメロディが、失意のF氏の気分をさらに滅入らせた。
「お待たせしました。ただいま確認が取れました。パーフェクト人生プランを契約しておられるF様ですね」
「ああ、そうだ」
「本日のご用件は、契約に関しての事ですね?」
「ああ、そうだ。僕の人生が終わってしまった。かけていた保険金を、すぐにでも受け取りたい。確か、人生に失敗したら保険金が支払われる特約があったはずだ」
「はい、当社の保険商品、『人生、一度じゃない特約』ですね。確かに契約しておいでです」
「人生をやり直すために保険金がいる」
「失礼ですが、『人生が終わった』ことについて、具体的な状況や失敗を教えていただけますか?」
「大学を卒業してから献身的に勤めあげてきた会社が、海外進出に失敗して、倒産した。退職金もでない」
「それは……お気持ち察します」
「妻は貯金を全額下ろし、子供を連れて姿を消した。たぶん、愛人と夜逃げでもしたんだろう」
「ひどい! 失礼ですが、ご住居のほうは……?」
「……終わったと言ったろう? 資産の事が気になるなら、登記でも調べるがいいさ。僕名義の家は、もう存在していない。いつの間にか名義を書き換えられていたんだよ。それを知ったのも、昨日だがね」
「やはり……奥様が?」
「ああ、そうだろうね。僕が人生で築き上げてきたモノ。その全てが崩れ去ってしまった」
「なんと、ひどい話でしょう」
「同情はいい。保険金をくれればそれでいいんだ。こんな時のために高い保険料を支払ってきたのだからね」
オペレーターは、F氏の窮状を本社に報告し、後日、支払いについてF氏に連絡すると説明した。
電話を切るとともに、F氏は肩を落とす。
ため息と一緒に魂が抜けてしまいそうな気がする。――魂までもが、僕を見捨てるのか?
出世街道を寄り道もせず猛進してきたエリート商社マン。美人の妻と、天使のような娘。誰もがうらやむ生活水準。男は神に愛されているハズだった。
しかし、今や男は公園暮らしで、携帯電話も週末には通じなくなるだろう。下校途中の小学生が、力なくブランコをこぐF氏を指さしては、笑う。夜になると、公園のアスレチック遊具に入り、身を丸めた。
保険金が下りたなら、どうやって人生を立て直そう。そんなことを考えながら、F氏は一日のほとんどを公園で過ごした。
保険会社から折り返しの電話があったのは、三日後の事だった。
ずっと眠るように黙っていた携帯電話が、悪夢にうなされるかの如く身もだえ、震える。F氏は素早く携帯を手に取ると、通話ボタンを押した。
「もしもし、Fです」
「F様、お世話になっております。新世界保険ですが」
電話の向こうの担当者は、先日と同じ女のオペレーターだった。ならば話が早いと、F氏は端的に本題を切り出す。
「なぁ。保険はいつ下りる?」
「その件なのですが……。現在、本社のほうで検討中ですので、いまは何とも……」
「なんだ! 何トロトロやってるんだ! 僕の人生が終わってしまったのは間違いないんだ! はやく金をくれよ」
「今日、連絡を差し上げたのも、その件に関してなのですが……。つかぬ事をうかがいますが……。F様、現在の所持金はいかほどお持ちですか?」
「スーツの内ポケットに入っている三万円。今、僕の全財産はそれだけだ」
「なるほど、三万円ですか」
「ああ、最後の金だ」
「大変、申し上げにくいのですが……。本社のほうで、『所持金が二百円以上ある場合は、人生は終わっていない』という意見がありまして……」
「なんでって!? 僕の人生が終わっていないというのか!」
「本社の意向を申せば……。そういうことです」
F氏は憤り、遊具を蹴りつけた。
二百円! 二百円だって? 僕の娘だって、五千円ぐらいは持っている!
「そうやって、保険会社は保険金を払わないつもりだな!」
「誤解なさらないで下さい。けっしてそういうワケではありません」
「わかった。所持金が二百円以下ならいいんだな!」
F氏は親指の爪を突き刺すようにして終話ボタンを押すと、ふたたび遊具を蹴りつけた。
――ふざけている。加入させる時は、あれやこれやとウマい話で持ち上げて、毎月高額の保険料を支払わせていたくせに、いざ事が起きるとシラを切るつもりなのか!
F氏はトンネル型の遊具から這い出すと、遊具のすぐ側に穴を掘った。
児童たちに笑われながらゴミ箱を漁り、タバコの空き箱とコンビニのビニール袋を遊具まで持ち帰る。そして、空き箱の中に三万円を入れ、ビニールで包むと、掘った穴深くに所持金の全てを隠した。
そして、再び携帯電話を取りだすと、リダイヤルを押した。
「お電話ありがとうございます。こちらは新世界保険です」
また、例のオペレーターだ。
「契約番号、Z8241のFだ。所持金三万円を、不良高校生にカツアゲされた。もう金がない、人生終わりだ」
「カツアゲ! なんてひどい! 本当ですか!」
「ああ、本当だ。何なら今からそちらに出向いて、所持品検査を受けたっていい。あぁ……終わりだ、人生終わりだ。これ以上ないほど終わった」
多少、演技がかっているかと心配になったが、オペレーターは疑う様子もなく、「少々、お待ちを」と保留ボタンを押した。
その隙に、F氏は携帯電話を耳から離し、充電残量を確認した。あと、一目盛りしか残されておらず、焦りから胸が焼けるように苦しくなった。
「もしもし、お待たせしました」
「終わったろう? 僕の人生? 終わってると言ってくれ」
「それが……。秘密裏に録音させて戴いていたF様との通話内容を、本社に送ったのですが……」
「なんだって!? 勝手に録音していたのか!」
「はい。そういう取り決めになっておりまして」
「……じゃあ、本社の人間もわかってくれただろう? 僕にはもう二百円もないんだ。終わりだよ」
「……その二百円の件は受諾されたのですが、本社は電話口のF様の声の分析を、専門医に依頼しまして」
一瞬、嫌な予感がF氏の頭をよぎった。もしかしたら、嘘発見器にでもかけたのだろうか。カツアゲ事件を虚偽の報告だとして、支払いを拒否するつもりなのかも知れない。
オペレーターは続ける。
「分析の結果、本社の決定は、『電話口の契約者はじゅうぶん、健康体である。元気があれば、何でもできる。ゆえに人生は終わっておらず、支払いの必要性は認められない』とのことです」
「何だって! 健康を理由に、支払いを拒否するのか!」
汚い言葉や呪いの言葉をさんざん使い、F氏は電話口からオペレーター罵倒した。
しかし、オペレーターは無視するように、まったく反応を返さない。ハッとして携帯電話を調べると、すでに充電が切れていた。
F氏は、再び遊具から這い出ると、公衆電話を探して公園から飛び出した。
携帯電話が日本じゅうに普及してしまったためか、公衆電話を発見することは困難だった。
大通りを小走りに移動し、駅までたどり着くと、ようやく四角いガラスの小部屋を発見できた。しかし、ここにきてF氏は逡巡する。
――あいつら……保険会社の奴らは、僕を健康だと言った。健康だから払わないと言った。ここはひとつ、風邪を引いたとでも嘘をつくべきだろうか?
しかし、風邪だと嘘をついたところで『本社に出向いて、医者の診断を受けろ』と言われれば、すぐにばれてしまう。どうすれば……。
ふと、轟音に前方を見ると、数台の改造バイクがローリング走法をみせながら、駅前ロータリーに侵入してくるところだった。
暴走族は割れたマフラーの排気音を不快に響かせながら、駅前ロータリーを回り、F氏のすぐ近くまでやって来る。
F氏は、ハッと閃いた。
そうして今まさに通り過ぎんとしている暴走族を睨み付け、けばけばしい濁流の道路にパッ! と身を投げた。不安定な走行をしていたバイクは、急に踊り出してきたF氏を避けきれず、あっさりと、跳ね飛ばした。
飛ばされ、倒れたF氏を、他の単車が次々に轢いてゆく。
何台かのバイクが通り過ぎたのち停車したが、F氏はピクリとも動かない。
「やっちまった! 轢いちまった!」
「ヤバス! タクちゃん! 逃げろ!」
遠ざかってゆくバイクの音を確認すると、F氏はカエルのように腹ばいで歩道へと戻り、公衆電話に十円を投入する。
「お電話ありがとうございます。こちらは新世界保険です」
「ぜ……Z8241のFだ。死にかけてる」
「えッ? 大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫じゃない……。暴走族に轢かれた。足は折れたし、出血もしている……。片目は……失明したようだ。今度こそ、終わりだ。もうヤバイぐらい終わってる」
「そんな、酷い! すぐ病院に行ってください」
「言った、ろう……? おれ……二百円しか、金がないんだ。その二百円も、いま電話に使ってる。……治療費も、ないんだ……。く、くれよ、保険金……。その金で治療する……から、さ。た、頼むよ、ほんと……」
保留音を聞きながら、F氏は次々に十円玉を投入する。小銭が、二百円がなくなる前に、支払いの確約を得なければならない。
焦りからか、それとも肺に肋骨が刺さったのか、息が苦しい。
保留音が突然に途切れ、オペレーターの呼びかけが聞こえた。
「もしもし、F様!?」
「……ほ、本社は……本社の意向は? どう……なんだ?」
「緊急ですので、本社の意向を端的にお伝えします。『電話してきてると言う事は、ボタンを押す指もあるし、話す舌もある。人間、指と舌があれば世界を制覇することだってできる。君の人生は始まったばかり。これからさ!』だそうです」
電話は切れた。
F氏は怒り、握り拳でガラスをたたき割る。そしてナイフのように尖ったガラス片に指をあてがい、十本全てを切断した。
鮮血を受け、真っ赤に染まったガラス。それを舐めるようにして舌も切断する。
噴き出した血液が、電話ボックス内に霧散し、上部に据え付けられた蛍光灯の光に透かされモヤをかける。
血を浴び、朱色になった電話機は、神社に置かれたの神具のように、神秘的な怪しさをはなった。
もはや、無我夢中だった。
指のない両手の掌底で、挟むようにして、残る小銭を投入し、割れたガラスを口にくわえてダイヤルを押してゆく。
「お電話ありがとうございます。こちらは新世界保険です」
「あうあうー」
「え? なんです?」
「あうあう、あぇあ。あう……」
F氏は動転した。どれほど自分の契約番号を言おうとしても、舌がなければ喋れない。もしや、これが狙いか!
保険を支払わないで良いように、契約者を誘導し、舌や指を切らせたのか!
舌がなければ状況を伝えることすら叶わない!
しかし、続くオペレーターの声がF氏の勘繰りを否定する。
「もしかして……F様ですか?」
「あう、あー。あー」
――そうだ、僕だZ824169のFだ!
少し前まで、不愉快と言い換えて良いほどウザったく感じていたオペレーターの声。その声が今は天使か、聖女の囁きに思える。
「F様……舌を失ったのですね……もしかしたら、指も……」
「あう、あー。あー」
――伝わった。わかってくれた。
保留音を横耳に聴きながら、感動から溢れ出した涙が、頬を流れゆく。渇き始めた血に混ざり、張っていた顔面の皮膚をやわらげてゆく。
保留音が終わった瞬間、いつもに増して元気なオペレーターの声が飛び込んでくる。
「やりました! 本社が納得しましたよ! やった! やりましたねF様! 保険金が下りるんです! 嬉しい! 私も嬉しいです! よかった! ほんとに良かった!」
オペレーターは我が事のように電話の向こうで歓喜の声を上げ、途中からは涙声に変わった。
「あーあーあぇあうー」
F氏も喜びから、言葉にならぬ喃語を吐き、顔中を涙とヨダレでベトベトにした。
――ありがとう。本当にありがとう。君のおかげだ。ありがとう。これで人生をやり直せるんだ。
会話にもならない言葉を交わしながら、二人は泣き続けた。
最後にこの契約の担当者から、『今から説明のためF氏の元へ向かうので、最初にいた公園で待機しているように』と要請されたところで、電話は切れた。
ちょうど、手持ちの小銭も底をついた。
F氏はカエルのように腹ばいで、公園へ戻る。遊具の側まで来ると、埋めた金が掘り起こされているのに気付く。きっと、児童たちに盗まれたのだろう。
しかし、保険金が下りてしまえば、三万円などはした金。腹を立てるまでもない。
ゲームでもお菓子でも、好きなものを買うといいさ。気にもせず、F氏は遊具の住み家に滑り込むと、身を丸め、担当者を待った。
これで、人生をやり直せる。今度こそ、失敗しない。今度こそ栄光の道を歩むんだ。
数日前まで、F氏は保険金がおりたならば、その金で妻に復讐しようかとも考えていた。
弱ったF氏にトドメを刺したのは憎き妻だったからだ。
しかし、今となっては、その気持ちは微塵にも残らず、消え去っていた。人生は、やり直しがきくんだ。そうだ、やり直しがきく。なら、復讐なんて、企てている時間が惜しい。
「あうあ(そうさ)」とF氏は呟く。――『本社の人間』も言っていた。どんな状況でも、人間は希望をいくらでも持てる。今を生きよう。
「F様ですね? 私、担当者でございます」
担当者は、高級そうなスーツをスマートに着こなし、余裕のある微笑みを浮かべていた。以前の自分はこんなふうだったに違いない。F氏は落ちぶれ、無様になった今の自分の姿を、恥ずかしく思った。
「あう、あー」
「大丈夫です」
「ああう、あう。あぇあ」
「ええ、決定したことですから」
担当者は、F氏の言葉を全て理解した。『できる男』の見本のような男だ。
「では、本日中に振り込む手筈でよろしいですね。総額は一億五千万。これはF様が生涯稼ぐ予定だった収入の、約三分の一になっております」
「あうあうあー」
「ええ、ご満足いただけると、信じておりました。では、本日中に奥様の口座に振り込む方向で」
「あー! あう!」
「どういう事です? 契約書によれば、受取人は奥様になっていますよ?」
「あー! あうえ!」
「しかし……変更はできません。いったん奥様の口座に振り込まれた保険金を、のちほど奥様から受け取っては?」
「あー! あうあう、あぇ、あぼぉ」
「そう言われましても……私はただの担当者であって、弁護士ではありませんから。……では、私はこれで」
* * *
F氏は、公園のゴミ箱を漁り終えると、駅前のビル群を見つめた。
あのビル群に、昔は新世界保険の本社ビルも並んでいたハズだ。しかし、それも過去の話。今や新世界保険本社ビルは取り壊しが始まっていると聞く。
F氏の受け取るハズだった保険金は、きちんと妻の口座に振り込まれたらしい。しかし、それはまるっきりの罠で、新世界保険は後日、妻を告訴した。
保険金詐欺の容疑者と言われた時、妻はどんな顔をしたのだろう。想像するたび、F氏の唇は緩む。
新世界保険の言い分としては、『人生が終わった』というF氏の言葉は虚偽で、F氏やその妻は共謀し、新世界保険を騙し保険金を略取した……ということだった。
F氏は保険金を受け取るため、わざと所持金を紛失し、わざと事故に遭い。そして、わざと指や舌を切断したというのだ。
契約上の受取人だった妻は、新世界保険との裁判に負け、『違約罰則金』として受け取った金の全てだけでなく、F氏の元から持ち去った財産の、ほぼ全てを失った。
その後、大々的に商売をしていた新世界保険が『保険違約金詐欺会社』として地検の調べが入り、倒産したのは記憶に新しい。人生保険なんて、最初から機能していなかったのだ。
支払いを渋り、契約者に『自作自演』を引き起こさせ、いったんは保険金を支払う。
のちに、その自作自演を理由に、違約金の発生を告げ、支払った保険金を回収したあげく、違約金まで巻き上げる……という手口だった。
その日は、事件を報じた新聞紙を布団にして、F氏は寝た。
いい夢が見られるだろう、と期待したとおり、幸せだった頃の夢を見た。
娘も妻も微笑んでいた。
F氏は明日も、自販機の下や、ゴミ箱を漁るだろう。
履歴書を買うための、二百円を求めて。
《契約番号、Z8241号の叫び 了》




