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偽名仮名の住所録  作者: まつかく
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第19夜 『地獄事変』


今日も赤い川がゆるりと流れる。


陽光を反射して、薄衣のように輝く水面に、時折、蛇のような黒い生き物がうごめく。それは腹を空かせた龍である。

三途の川を泳いで渡ろうとする不届き者を、丸呑みにしようと待ち構えているのだ。


少年は石を積みながら、ため息を吐いた。すると、同じく隣で石を積んでいた少女が心配そうに覗き込んでくる。


「X太くん。どうしたの? 元気がないわ」


少年X太は、今日ばかりはいつものように取り繕う気になれない。もう一度、大きくため息を吐いて首を振った。


「うんざり。マジうんざり」


そう、少年X太は心底飽き飽きしていた。

毎日のように河原で石を積み、指や手のひらの皮膚は、すっかり硬くなってしまっている。


「この石積みが嫌になったの?」


「ああ、馬鹿らしくて。どうせ今回も……。この三日かけて積み上げた石も、完成間近になれば、あの鬼の奴に崩されちゃうんだぜ?」


「それはそうだけど……」少女は表情を曇らせた。「でも、これが親より先に死んだ、私たちへの罰じゃない」


「君はそうやって納得できるかも知れないけど、俺は違うんだ」


「どう違うの?」


「俺の親はな、無茶苦茶だったんだよ。俺のことを殴るし、食事だって満足に食わしてもらっていない。あげくの果てには、オヤジのタバコの不始末のせいで俺は焼け死んだ」


寄せられた少女の細い眉をみながら、X太は思い出す。両親はいつだって、自分本位だった。ろくに子供の世話もしないくせに、X太の成績が落ちれば学校に怒鳴り込み。

給食費を払わなくとも、配膳が停止される事がないと知れば、あっさりと給食費をパチンコ代に変えてしまった。

今にして思えば、自分の両親こそがモンスターペアレントというやつに違いない。そうX太は確信していた。そんな両親に育てられた自分はモンスタージュニアとでも呼ばれるのだろう。


「お父さんやお母さんが嫌いなの?」


少女は悲しそうに、X太の目を見つめてくる。

眼球を透かして脳味噌まで見られそうな、少女の真っ直ぐな視線に、X太は思わず目を逸らしてしまう。


「いや……他の人から見たら、ひでぇ親なんだろうけど……。一応、親だしなぁ」


「良かった。嫌いじゃないのね」


「ああ。無茶苦茶だったけど、逆にいえば、俺はかなり自由にさせてもらえたからなぁ」


自由すぎて、悪ガキになってしまった。なんてことは少女には言えなかった。


「さあ、頑張って石を積みましょ。積み上がったら成仏できるんですから」


少女は微笑みをX太に投げかけ、再び石を積みはじめた。しかし、X太はどうにもやる気が湧かない。

どうせ、また鬼が来て、積み上げたものは蹴り崩されてしまうのだ。

X太は大きくアクビをすると、三途の川へ視線を移した。

赤い血の川が、うねり、岩にはじけては朱色のしぶきを上げている。

船賃もなく。川に龍が潜んでいるとなると、泳いで渡ることも叶わない。


放任主義で育てられたX太にとって、ひとつの場所で延々と単純作業に従事させられるのは、耐え難い苦痛だった。生前のX太は学校はもちろん、夏休みのラジオ体操ですら続かなかったのだ。

しかし、賽の河原から抜け出すにしても、どこへ逃げれば良いのかわからなかった。


川の向こうには地獄の繁華街があり、美人のウエイトレスがいるオープンカフェや、ホラーばかり上映する映画館、PTAが卒倒するような残酷ゲームが置いてあるゲームセンターがあると聞く。

川向こうは、まさに不道徳の都として機能しているらしい。

しかし、X太のいる川のこちら側は、大小さまざまな石だけが転がる不毛の地なのだ。


X太がぼんやりと川を見つめていると、背後から怒号があがった。野太く、よく響く声。

「コラッ! X太っ! お前、またサボってんのか!」


ああ、またコイツか、とX太は気が滅入った。


「こんにちは。パープー鬼のお兄さん」


「俺はパープルじゃない、ムラサキだ! 勝手なあだ名をつけるな」


ムラサキ鬼がどれほど恐ろしい顔ですごもうとも、X太はちっとも怯えない。

ムラサキ鬼に与えられた権限は、子供が積んだ石を蹴り崩すことだけで、体罰やイジメは認められていない。定められた規則を破れば、ムラサキ鬼は上司鬼や閻魔様に罰せられてしまう。X太はそれを知っていたのだ。

凄むムラサキ鬼を尻目に、X太は小石を川に投げる。水平に投げられた石は、水面を数度跳ねて川に沈む。


「コラ! やめんか! 龍が嫌がるだろ!」


「嫌なら川から出ればいいんだ」


「鬼さんの言う通りよ、龍さんが可哀想」


「そうだ! 大人しく石を積め!」


「うるせぇ。下っ端のしがないザコ鬼のクセして」


ムラサキ鬼はX太の心無い発言に、唇をゆがめ、拳を振り上げた。


「殴るのか? 殴ってみろよ! お前の上司や凶育委員会に訴えてやる!」


X太が立ち上がり、逆に凄みをきかせると、ムラサキ鬼は悔しそうに背を向け、去っていった。


「ふん。ザコが」


「酷いわX太くん! 鬼さん泣いてたわ」


「考えてもみろよ。俺が石を積まないでいることは、あのムラサキにとっても良いことなんだぜ? 俺が積まなきゃ、あいつだって崩す必要がない。あいつは仕事をラクできて、俺は面倒なことやらなくて済む。二人とも得なんだ」


「おい! X太!」


また、背後から怒号があがる。その声はムラサキ鬼のそれを、遥かに凌駕する野太さだった。振り向いて見ると、赤色の鬼が立っていた。額から伸びる三本目の角を見るところ、指揮官クラスらしい。上司鬼だ。


「チッ……紫のザコめ。チクりやがって」


「おい、X太! お前の最近の素行は目に余る! ちゃんと罪人らしくせんか!」


「うるせー」


反抗的な態度をとり続けるX太。上司鬼の説教は数時間に及んだ。

少女は近くであがる怒声に怯えながらも、皆の眼がX太と上司鬼に集まっている今のうちに積み石を完成させん、と手を早めた。


しかし、完成が近づくとムラサキ鬼は「ごめんな、お嬢ちゃん」と、困り顔でしっかり仕事をし、積み石を崩した。少女もうんざりして、ため息を吐いた。

上司鬼の説教は続く。


「X太、お前は本当に困った奴だ。言うことはきかんし、小便で川の水を汚す。ワシの部下は困らせる。龍をいじめる……」


上司鬼は考えるように少し間をもたせると、ひとつの提案をした。

「X太。お前、鬼にならんか?」


「俺が鬼に?」


「そうだ。もしかしたら、お前は誰かを苦しめる天才かも知れん」


上司鬼はごほん、と咳払いをして続けた。「じつは地獄も人材不足でな。困っとるんだ。最近の罪人どもは妙に知恵付いておってな、取り締まる我々としても、優秀な人材を求めておる」


横で見ていたムラサキ鬼が慌てて口を挟んだ。

「ちょっと待ってください、Y村さん! コイツに勤まるわけないですよ! 飽き性だし、性悪だし!」


「逆に言えば、これ程の人材はめったに居ない。ワシだって、目が腐っとるワケじゃあないのだ。よく聞けX太、これは異例なのだ。鬼に転職できるほどの悪人など、百万人に一人も居ればよい方なのだ。ある意味では栄誉なことだ」


「うっせー! 勝手に決めんじゃねぇ。俺は鬼になんてならねぇぞ!」


X太の言葉に、ムラサキ鬼は安堵の表情を作った。一方の上司鬼は、針金のようなアゴヒゲを撫でながら、ニヤニヤ笑うだけだ。

「まぁ、返事を急ぐ必要はない。その気になればいつでもワシのところに来ると良い」


二人の鬼が去ってしまうと、少女がX太の袖を引っ張った。


「どうして断ったりするの? 私、X太くんは罪人より、鬼の方が似合っているように思えるわ。それに、鬼になれば、給料は出るし、こんな石積みなんてする必要が無くなるのよ?」


「これでいいんだよ。あんなザコどもの下で働くなんてゴメンだね……」


「でも、地獄に罪人多しと言っても、鬼になれる人はほとんど居ないのよ? よっぽどの極悪人じゃないと……」


「俺に考えがある。まぁ……見てな」


少女は不敵な笑みを漏らしたX太に、背筋がぞくりとする。生まれて初めて男に……それも『悪い男』に魅力を感じたのだ。その日から、少女は自分の一人称を『アタイ』に変えた。



次の日はあいにくの雨だった。

極彩色の雲から、暖色の雨粒がひっきりなしに降っている。先ほどから何度も同じ場所に落雷している。あの場所は雷地獄なのだろう。

X太が、河原じゅうの子供を集めるよう少女に指示を出すと、少女は喜んで従った。

雨を嫌気して、鬼たちの巡回は極端に少なくなってなり、児童たちは続々とX太のもとに集結していった。


X太は自分の意志に従う者を使い、計画を開始する。

児童たちをグループ分けし、各グループに細かく指示を出した。少女は副官としてX太を補佐した。


「さくら組の動きはどうだ?」


「ちゃんと、もみじ組の運んできた石で基礎を作ってるよ」


「見張りのうめ組からの報告は?」


「鬼たちはまだ気付いていないみたいだね。順調だよ」


計画は雨の中、粛々と遂行されていった。石は次々に積まれ、昼前までに、城壁が出来上がった。高さにして十メートルはあろうかという壁が、小学校の敷地ほどの広さをすっぽりと囲んでいる。

普段の石積みで鍛えられていた児童たちの働きに、X太は感心した。


「よし、さくら組から八人を選抜し、城壁各所に配置しろ。鬼に発見された場合、ただちに投石による防衛だ。さくら組は計画通り、塔の建設に従事せよ」


鬼たちが気付いたとき、石の塔はすでに上空百メートルの高さまで積み上げられていた。地獄の河原に立ち上がる石の塔は、斜めの陽光に悪魔の角のように輝き、鬼たちを震え上がらせた。

慌てた上司鬼の命令により、様々な色の鬼たちが塔の破壊に向かい、城壁をはさんで数日の攻防戦が続いたが、ほとんどの鬼は高い壁と、間断ない投石攻撃により、ボロボロに傷つき、撤退を余儀なくされた。

ただ一人、城壁を乗り越えた鬼がいた。あのムラサキ鬼だ。


しかし、決死の努力もむなしく、ムラサキ鬼は待ち構えていた児童たちにあっさりと捕縛され、塔の上層階に連れて行かれる。

塔の上層階、そこには反逆児童たちの統率者であるX太の玉座があった。


「久しいな。パープー」


「エックス太ッ! お前自分が何をやってるのかわかってるのかッ!」


怯えとも、怒りともつかない表情でムラサキ鬼が叫ぶと、玉座の脇に立っていた少女がムラサキ鬼を諫めた。

「控えな! 閣下の御前だよ!」


「よい、よい。昔のなじみだ。せっかくの歓談がたのしめん。一時工事を中断させよ」


「はっ、御意に!」


ムラサキ鬼はゴクリと咽を鳴らした。――もはや、自分の知っているX太ではない。

玉座に頬杖をついて見下ろしてくるX太は、すでに王たる威厳に満ちている。

わずか数日でX太は凄まじい変貌をとげていたのだ。


「X太ッ! こんな事、もうやめろ! もう反逆する必要なんてないんだ! お前はもう、河原で石積みする必要は無いんだ!」


「なぜかね?」


「さっき連絡が入った、お前の両親が火事で亡くなったんだ! お前はもう、石積み供養をする必要が無いんだ! 石積みから解放されたんだ!」


ムラサキ鬼の必死の説得に、X太は乾いた笑い声を返した。

「ははは。なんと愚かな事よ。いまさら投降せよと?」


「そうだ! すでに普通の地獄へ行けるよう手配してある。俺のコネでカフェのイイ女も紹介してやる! だから、な?」


「もう、その話はよそうではないか。パープー。余は昔話がしたいのだ」


「お前……いったい何をする気だ……?」


X太は優雅な動きで、玉座から立ち上がり、窓へと歩み寄った。

「見よ。パープー。上空から眺むれば、この地獄も美しいものではないか。地獄でこれ程美しいのだ……天国となれば、これ以上の美しさであろうな」


「お前! まさか天国まで!」


「神の玉座とは、さぞや座り心地のよいものであろうな」


「貴様ぁぁ! そんな大逆ッ、そんな自分さえよければいいという身勝手ッ! 許されると思っているのかッ!」


「もうよい。下がれ」


ふわりとX太が手刀を振ると、待機していた近衛兵ローズ組がムラサキ鬼を羽交い締めにし、退室させた。

ムラサキ鬼は城壁の入り口から蹴り出され、這々の体で上司鬼の元へと帰って行った。


X太の噂は瞬く間に地獄じゅうを駆け巡り、その塔には次々に罪人が集まってきた。

三途の川を渡る前の者。川向こうの地獄から舟で乗り付ける者。X太は、ほぼ無条件にその全てを受け入れた。

そんなこんなで作業人員が増えたこともあり、塔はどんどんと高くなってゆく。



やがて塔は、川向こうのカフェテラスからも見えるようになった。


「なんだい、あれは。太宰君」


「おや、知らないのかい芥川さん? あれが噂の『X塔』だよ。小学生の革命家が住まうという」


「はぁ。なるほど。しかし不格好なものだな。まるで逆さにしたダイコンじゃあないか」


「は、は、は。その表現は文学的ではないね。しかし、まさか賽の河原の児童が反乱を起こすとは、思いもよらなかった」


おかわりのカプチーノを芥川のカップに注ぎながら、ウエイトレスはうっとりした。

「でも、ロマンチックだわ。石の塔を建てて天国を目指すなんて」


「人はどこにいたって天を目指すものさ。バベルの塔しかり、アポロ計画しかり……。しかし、『天を目指す者』は誰一人として神を目撃できなかった。天国を知るものは、天国にしか居ない」


「その表現は、文学的だね」


「しかし、罰を拒否して反逆を企てるとは……。誰か、ちゃんと彼らに地獄の役割を教えたのか? 親の顔が見たいものだ、まったく。教育がなっとらんよ」


理屈っぽい二人にうんざりしながら、ウエイトレスは呟いた。

「反逆……か。ご両親は心配してるんじゃないかしら」


物騒な話だと眉をひそめながらも、ウエイトレスは思う。極彩色の空に立ち上がる灰色の塔。この風景、嫌いじゃないな。



ときを同じくして、塔の下から、X太を呼ぶ声が上がっていた。


「X太ー。いるのー?」


聞き覚えのある声に、X太は玉座から飛び跳ねるように立ち上がり、窓際まで走り寄った。

「かぁちゃん!」


「そうだよー! X太、かあちゃんだよ! エッちゃんに相談があるんだけどー」


「なにー?」


「エッちゃん、天国に行くんだってねー。かぁちゃんも行きたいんだけどー」


X太は、思う。参ったな。

「連れて行きたいのは、やまやまだけど。かぁちゃん、ちょっと見ないうちに鬼になってるじゃないかー」


「なんだかすごい逸材だとか天才だとか言われてさー、頼まれて鬼になったけど、もう鬼とか、嫌なのー、飽きたのー。かぁちゃん今度は天使になりたいのよー」


「とうちゃんはー?」


「美人が多いし、鬼の給料が悪くないから、鬼のまま地獄に居るほうがイイってー」


背後に部下たちの視線を感じながら、X太は溜息をついた。なんて自分勝手な親たちなんだろう。

「天国には連れて行けないよ」


「どうしてよー薄情じゃないー」


「かぁちゃんも、とうちゃんも今まで好き勝手してきたじゃないか。俺の給食代をパチンコに使ったろ」


「でも勝ったよー」


駄目だ。度し難い。

下でわめいている鬼女は、自分の子供が給食の時間に感じていた引け目や窮屈さを、微塵にも想像できないのだ。

X太が学校から遠ざかってしまった遠因など、パチンコの勝敗以下なのだ。


「もういい。窓を閉めろ。今後、あの女を塔に近づけるな」


X太は玉座へと戻り、決意を新たにした。これ以上、いいように振り回されるものか。あんたが無視してきたように、俺もあんたの気持ちを無視しよう。取るに足らないことのように扱おう。



塔の工事は進み、やがてX塔は天国へと到達した。初めて見た天国の風景に、X太は思わず息を飲んだ。

桃色の雲が空に重なり、まるで宝石を溶かしたかのような青く澄んだ水が音もなく流れている。

そよ風は絶え間なく花びらをひらめかせ、浮遊感のある歌声や琴の音色が、全身の細胞を愛撫する。

甘い香りが漂う天国の空気を胸一杯に吸い込むと、X太は号令を発した。


「侵攻せよ」


X太の命令とともに、罪人たちはたちまち塔中から天国に殺到した。

怖じ気づいた天使は、保身から雲に身を隠し、平和ボケした住人たちは、アトラクションと勘違いし、手を叩いて歓喜した。

ある住人は石弓で頭を割られたし、ある住人は雲の隙間から地獄に落とされた。


歓喜の声がパニックに、琴の音色が不協和音に変わった頃、X太は大軍を率いて神の眼前にいた。光を発する神の身体は、X塔の如く巨大で、遙か上空に位置する顔には虹色の

雲がかかっていた。


しかし、神を前にしても、X太は畏怖しなかったし、動揺もしなかった。当然、ひるまないし、驚きもしない。

X太の背後に整列する、数千を数える石弓部隊が、発射の合図を今か今かと待ち受ける。

数千にものぼる石弓を一斉斉射されれば、神といえど、ひとたまりもないに違いない。


神の声が、上空から振ってきた。

「なんてこと……なんて恐ろしい子供だ! 両親や学校の先生は何をしてきたんだ! 何を……いったい何を、教えてきたんだ!」


「なにを教わったかって?」X太は神に問い直すと、平然と答えた。


「身勝手が、最高にイカしてる暴力だってこと……だな」


吐き捨てるように言うと、X太はニヤリと笑い、手刀を振った。


「斉射!」



  《地獄事変 了》

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