第18夜 『嫁入りしたくない狐』
T氏がバスを待っている。
ここは田舎のバス停で、時刻表によると、一日に三回しかバスが来ない。
数度、小さな鳥が低く飛ぶと、数分後には雨が降り出した。屋根もない、ベンチだけのバス停では雨をしのげず、T氏は傘も持っていない。
しかし、雨粒はほとんど霧のような、小さな粒で、すぐにずぶ濡れになるほどではない。
T氏はベンチに座ったまま、空を見上げた。薄い雲が四方に広がり、その隙間には青空だって見える。
「狐の嫁入りってやつか」
T氏が呟くと、舗装されていない道の向こうから、女性が走ってきた。
「助けてください!」
女性はT氏に近づくと、大声を上げた。これは、ただごとでは無さそうだ。
見ると、女性はウエディングドレスをまとい、スソをドロに汚している。
一見、二十歳そこそこの年齢に見える。
「どうしましたか?」
「追われているのです。かくまってください」
しかし、道の向こうからは、追っ手はおろか、バスが来る気配する無い。
T氏は首をかしげた。
「おやおや、いったい誰に追われているんだい?」
「親族です」
状況が良く飲み込めないまま、T氏は彼女を助けることにした。
「じゃあ、かくまってあげよう。僕の背後にある茂みに隠れていると良い。誰かが来たなら、君はすでに逃げたと言おう」
彼女はドレスのスカートを両手で上げ、上品な礼をした。そして、T氏の背後にある茂みへと身を隠した。
「うーん。誰も来ないが」
「すぐ、来ます」
「そうだね。わかった」
追っ手を待って、すでに十五分は経過している。
雨が霧のような粒であっても、T氏の身体を濡らすのに充分な時間だった。じっとりと湿った髪を掻き上げながら、T氏は尋ねた。
「君は、キツネだろう」
「……ええ。そうです」
「結婚したくないから、逃げてきたのか?」
「……ええ。そうです」
「君の望んだ結婚じゃないと?」
「つい2時間前に決まった縁談なのです。『日和がいい』とかなんとかで、会ったこともない人と……」
なるほど。T氏は頷いた。それでは逃げたくもなるだろう。
「なるほどなぁ。それで、親類縁者に追われているのか」
「はい。結婚するのが一族のため……種族のためなのだと。でも、こんな結婚をするぐらいなら、私、キツネでいたくありません」
「好きな人がいるのか」
キツネの女は質問に答えなかった。霧雨が森を輝かせ、柔らかな陽の光に色彩を強めた。雨が降っているのが嘘のようだ。
「私、つくづくキツネが嫌になりましたわ。全体のために、個人が犠牲になるなんて……」
「社会とはそういうモノだよ。君の両親だって犠牲を払ってきたのだろう」
「だから、変えたいんです。こんな社会。愛していない人の子供を愛する自信なんてないわ。キツネは人間を騙すのが仕事でしょう? なら、騙すことに人生を賭けるべきだわ」
「それは、どうだろうな。仕事ってやつは充実を生むし、金にもなる。しかし、それだけのために生きるのは生命の本質ではないだろう」
ばしゃばしゃと、水たまりを踏みつける足音にT氏は前を向いた。どうやら、追っ手が来たらしい。
T氏が平然とベンチに座っていると、仮装行列のような縁者たちがバス停までやってきた。洋装や和装、なかにはほとんど裸の奴だっている。各地方の礼服なのかも知れない。
「そこの御仁。お尋ねしますが、花嫁を見ませんでしたか?」
「あいあい。十五分ほど前に見ましたよ。この前をすごい速さで走り抜けてゆきました」
「よし、近いぞ! 雨がやむ前に連れ戻すんだ」
縁者たちはT氏に一礼をすると、走り去っていった。
「行ってしまったよ。もう出てきても良い」
キツネの女はゆっくりと茂みから出てきた。表情を見ると、少しホッとしたように見える。
「これから、どうするんだい?」
「さぁ……もう一族には戻れないし。どうしたものかしら……。このまま貴方と一緒にバスに乗って、遙か遠くまで行ってしまおうかしら」
「それは、無理だね」
「どうして?」
キツネの女がT氏の方を見やると、そこにT氏はいなかった。
バス停も、ベンチもなく、ただ苔むした地蔵がぽつりとたたずんでいるだけだった。
* * *
晴れの日に雨が降るたびに、T氏は思う。今日も、キツネの花嫁が逃げ出しているのだろうか、と。
タヌキと違って、キツネは大変だと思う。
制度やしきたりが重要視され、個は全体に奉仕する義務がある。
しかし、そうする事によってキツネは神格化され、御稲荷さんとして祀られたりしている。一方のタヌキはそうではない。
個を抑圧する統制された社会で種は発展すべきなのか。
それとも、タヌキのように個を尊重し、『誰かを騙すだけ』で面白おかしく日々を過ごし、社会の概念すら無くし去るべきなのか。
T氏にはわからない。
キツネたちのように神社に祀られたいと思うこともある。結婚して、家庭を持ちたいと思うときもある。
しかし……。
舗装されていない道を、のらりくらりとバスが来た。T氏の作った幻のバス停に、バスが止まる。
『こんなところにバス停があったかな』と首をかしげながらも停車する運転手を見て、T氏はほくそ笑む。
そして、後部の入り口から乗り込みながら、いつも思うのだ。
――この瞬間が、最高だ。
――社会なんてどうでも良い。神格化? 種の繁栄? そんなことのために、この快感を捨てるわけにはいかない。
タヌキをやっていて本当に良かった。と。
《嫁入りしたくない狐 了》




