第15夜 『フラグ・トレイン』
午前4時に電話が鳴る。
これは常識を知らぬにもホドがある。こんな無礼な電話は無視してやろう――と男は布団に潜り込む。どうせ、イタズラ電話に違いない。
しかし悪戯電話にしてはしつこい。それは目覚まし時計を超える忌々しさで、延々と鳴り続けている。
安眠を邪魔され腹立たしく思いながらも、ベッドから手を伸ばし、エックス田は受話器を耳に当てた。
「もしもし? エックス田か? 俺だジェイ本だ」
「ジェイモトだって!? 懐かしい! ずいぶんと久しぶりじゃないか」
大学時代の懐かしい友人の声に、エックス田はいっぺんに目が覚めた。
「エックス田。お前、大学を出てから政府の職員をやっているんだろう?」
「ああ。そうだが、君はまだマフィアなのかい?」
「俺の事はいい。それよりも、重大な話があるんだ」
「重大な話?」
「ああ。ちょっと電話じゃ言えない。明日、夜の7時きっかりにH駅からでる夜行列車に乗ってくれ」
「おいおい。話が急すぎないか?」
エックス田はいぶかった。しかし、ジェイ本の必死な声に結局折れてしまう。結局言われるがままに約束し、電話を切った。
しかし電話で話せない重大な事とは何だろうか。ベッドの中で枕を抱きながら、エックス田はわかるはずもない疑問に答えを探しながら、再び眠りに飲まれていった。
* * *
「おや、あんたも夜行列車に乗りなさるのかね?」
不安から、胸のペンダントをいじくっていたエックス田に、人の良さそうな老人が声をかけてきた。
「ええ……友人と待ち合わせで」
「そうか、そうか。なんたって、個室にシャワー完備の超高級列車だからねぇ。私も楽しみにしていたんだよ。そうだ、アンタもこれを食べるかね? 美味いですぞ」
老人は鞄から弁当箱を取り出して蓋を開けた。中には何やら透明のラップに包まれた白い物が入っている。
「なんですか? これは」
「餅ですよ。私は餅が好きでね」
どうにも、老人とのんびり餅を食べる気分にはなれなかった。まだジェイ本と落ち合っていないのだ。緊張状態で餅など――どうせ味もわからない。
「友人と待ち合わせしていますので……。お気持ちだけ頂きます」
老人はにこやかに頷き、弁当箱を鞄に戻した。
「おい! エックス田! こっちだ」
突如としてエックス田を呼ぶ声。声の方へと視線を向けると、そこにジェイ本がいた。
「エックス田! 急いでくれ。電車に乗ってくれ!」
ジェイ本はよほど焦っているらしく、久々の再会に笑顔も浮かべない。もとより気を遣うような仲ではなかったが、その鬼気迫る形相に、挨拶もないままエックス田はジェイ本の背中を追いかけた。
* * *
ジェイ本がようやく立ち止まったのは、食堂車に入ってからだった。彼はテーブルの椅子を引き、周囲を見回してから腰を落とす。テーブルの向かいにはすでに、チンピラ風の男が座っていた。
「エックス田。こいつはケイ山といってな、俺の部下だ」
ケイ山は軽く首を傾け、会釈してきた。
「ちわっす」
戸惑いながらもエックス田も会釈し、ジェイ本へ訊ねた。
「なんか、良くわからないが……重大な話ってなんだ? そろそろ説明してくれ」
「実は……俺とケイ山は組織と政府に関わる重大な秘密を知ってしまったんだ」
「マフィアと政府が、つるんで悪さしてたんすよ」
政府職員であるエックス田にとって、それは、にわかには信じがたい話だった。だがジェイ本は次々に証拠なり根拠なりを提示し、さらにはその状況を利用して一儲け企んでいる事まで打ち明けてきた。
「片棒を担がないか」ジェイ本はいかにもマフィアらしい表情で言った。
「これが成功すれば、まとまった金が入る。そうなりゃ高飛びさ。時間がないんで……次の駅に着くまでに、俺たちに手を貸すかどうか、決めておいてくれ」
ジェイ本はウインクすると、「トイレに行く」と言って席を立った。
そりゃあエックス田だって金は欲しい。
しかしジェイ本と組んで、政府とマフィアを敵に回すのは余りにも無謀に思えた。チンピラのケイ山は楽しそうに言う。
「何悩んでんすか。男ならやってやりましょうよ。俺ね、この計画が終わったら、結婚するんすよ。絶対成功させますって」
唐突に、トイレの方から悲鳴が上がった。
しばらくすると、トイレのある連結器の方から、般若のような顔をした男がのっそりと現れ、食堂の出口に立ち塞がる。
「俺は刑事だ。たったいま、トイレで男が殺された。マフィアのジェイ本とかいう奴だ! 犯人はきっとこの食堂車のなかに居る! 全員ここから出る事は許さん!」
目の前が真っ白になったエックス田に、ケイ山が囁いた。
「マズいっす。あいつ、前から俺らの組織を嗅ぎ回ってた刑事っすよ。クソっ」
「計画の事はバレてるのか?」
「あのことは、俺と兄貴しか知りません。あいつはきっと、麻薬絡みで俺らを追ってるんすよ」
「しかし……ジェイ本が……死んだなんて」
刑事は出入り口を警官に封鎖させ、食堂車にいる人間一人一人に対し取り調べを始める。
――犯人は本当にこの中にいるのだろうか?
怪しまれる行動は慎むべきだとわかっていながら、どうしてもエックス田はキョロキョロ。不安から、またペンダントをいじくり回してしまう。
「がはッ!」
突然の出来事だった。食堂車の一角で、誰かが倒れたのだ。みると、それは駅でエックス田に餅を勧めてきた気の良い老人だった。倒れた老人をみて、刑事が血相を変えた。
「いかん! この爺さん餅を咽に詰まらせてるぞ!」
みるみるうちに老人の顔は変色し、あっさりと動かなくなった。文字通り息絶えたのだ。
「なんてことだ! 運び出せ!」
刑事が警官に指示をあたえ、老人は食堂車から運び出された。すると、今度は取調の終わったテーブルで、一人の男が立ち上がる。
髪をオールバックに固め、洒落たフレームのメガネをした――見るからに神経質そうな男だ。
「もう我慢ならん! ここには殺人犯がいるかも知れないんだ! こんな所にいられるか! 私は自室に帰る!」
神経質の男は警官の制止を振り切り、強引に食堂車から去っていった。それに呼応するように、もう一人が立ち上がった。今度は金髪の美しい女性だ。
「私も部屋に帰るわ。身体がベトベトしちゃって……シャワーを浴びるの」
他にも自室に帰ろうとする乗客がいたが、刑事による取り調べが終わっていない者がほとんどで、その者達は警官に退出を阻まれた。
「なんだか、えらい事になってるっスね……」
不安げに呟くケイ山を見ようともせず、エックス田は考えていた。
何かがおかしい。この違和感は何だ。
ふと、エックス田が窓の外を見やると、列車はちょうど湖の上を通過中だった。夜の湖面が月をきらきら反射して美しい。
そんな景色の一点を見て、なんだ、あれは。とエックス田は呟く。よくよく見れば、湖面に人影が。
「誰か、泳いでるっすね。女かな?」
「こんな夜中に……それに裸じゃないか。こんな光景、どこかで見たような……」
たとえばこれがホラー映画なら、あの女はワケのわからない敵に襲われ――。エックス田が馬鹿馬鹿しい想像をした瞬間、女が苦しそうに水面に藻掻き、沈んだ。
エックス田はみた。仮面を付けた殺人鬼のような存在を!
「あ! エックス田さん! オンナが殺されたっす!」
「なにがあったんだ!」
しばらく待ったが、女は浮かんでこない。
すっかり湖を通り過ぎてしまったが、エックス田は自分の目の前で起こっている状況が信じられない。嫌な予感ばかりが頭をよぎる。
――もしかしたら。あの神経質そうな男……。
その瞬間、1人の警官が食堂車に飛び込んできた。
「刑事! 先ほど自室に帰られた2人が殺されました!」
やはりか! この時、エックス田は自らの置かれた状況を確信した。これは……。
ケイ山がニヤリと笑って呟く。
「そうか……なるほどね……。一連の犯人がわかりました」
「駄目だケイ山。言っちゃ駄目だ」
ケイ山は一つ咳払いをすると、傍らに置いてあったグラスを手に取り、水でノドを潤して、言う。
「どうしてっす? 知りたくないんすか? 犯人」
「そうじゃない。まだ犯人を指摘しちゃいけない。ここは異世界で、お前が犯人の名を言葉にすることは――」
ケイ山の笑いがエックス田の言葉を遮った。
「うっそだぁ。異世界とか面白い事言わんで下さいよー、マジウケるんですけど」
「ケイ山! お前はきっとこの物語の主人公じゃない! 主人公で無い者が真相――つまりは犯人に気付いたら――」
「気付いたら?」
「死亡フラグだ」
自分で断言した瞬間、エックス田は手遅れだと気付いた。ケイ山は、この仕事が終わったら結婚すると言っていたではないか。それはまさに、死亡フラグ以外の何物でもないのだ!
老人に餅、部屋から逃げ出す神経質そうな男。美女にシャワー。裸で湖。
間違いない。ここは恐るべきフラグの世界なのだ。
突如として、ケイ山が苦しみだし、口から大量の血を吐いた。
「エックス田さん……! 犯人は……犯人は……!」
最後まで言い切ることなく、ケイ山は息を引き取った。グラスの水に毒が盛られていたに違いない!
「また死者か! クソッ! どうなってる! なんでお前の連れは死んだんだ!?」
刑事が怒鳴った。
エックス田は必死で考える。いまはフラグを立ててはいけない。フラグが死を呼び込む。険しい顔でエックス田を詰問する刑事、エックス田は刑事が羨ましく感じる。
こういう場合、刑事が死ぬ事はまず無いからだ。特に『後手後手にまわる役立たず警察』の場合は。無能であれば無能であるほど、生命が保証される。
背後の座席で、子供の声がした。
「ママぁ。なんか列車のガタガタって音が、さっきより酷くなってるよ? 脱線するんじゃない?」
「そんなこと、ありません! 縁起でもない事を!」
エックス田は即座に気付いた。フラグが立った。列車は脱線する! 素早く窓を開け、エックス田は列車から身を投げた。
そして窓から見えないぐらいの位置に、手をかけてぶら下がる。
「刑事! あいつ逃げました!」
「チッ……あいつが犯人だったか? まぁ、これだけの速さの列車から飛び降りて、無事でいられるわけがない――」
エックス田は車外でその言葉を確認してから、ようやく車窓から手を離した。この場合、『無事でいられるワケがない』は生存フラグに他ならないからだ。
ちょうど、列車が土手にさしかかっていた事もあり、エックス田は跳ね飛ばされながらも無事、着地した。
――生き残った……。
安堵から溜息が漏れる。あの列車はどうかしていた。まさに異世界だ。あんなところにいては、命がいくつあっても足りない。
エックス田はとりあえず、家に帰ろうと周囲を見渡した。
土手の向かいは雑木林になっており、人通りがまるでない。バス停でもないかと目を凝らしていると、車道の脇で揺れている車を発見した。
どうやら、若い男女がいかがわしい行為におよんでいるらしかった。
苦笑いを浮かべ、頭を掻いてしまう。
――やれやれ。
瞬間、林の中から仮面の怪人が現れ、まずは彼氏を、そして次に彼女を林の中に引きずり込んでいった。まだ、フラグの世界は終わっていないのだ! 悪夢は続いている!
エックス田はカップルのいなくなった車に駆け込むと、素早くキーを回した。こういう場合には、間違いなくキーが刺さっていることをエックス田は知っていたのだ。
しかし、セルがヒステリックな音を立てるばかりで、エンジンはまるでかからない。
「くそ、でも……良い傾向だ。これでいい……これでいいんだ」
いきなりエンジンがかかるよりも、苦労してかけた方が生存確率が高い。必死でエンジンをかけるエックス田の耳に、銃声が響いた。
一瞬で目の前が暗転し、胸に激しい衝撃を覚える。見れば、車の前方に、老人が立っていた。
――あの老人、餅の……。
餅老人の手には拳銃が握られ、表情は険しい。
「組織の秘密を知った者には、死の報いを!」
物語の最初の方に死んだ人間は、どんでん返しとして蘇ってくる事が多い。餅を詰まらせたのも演技だったのだろう。そして、監視から逃れて次々に犯行を……。
――しかし!
エンジンが掛かると、エックス田は車を急発進した。突進をひらりとかわした老人を尻目に、一気に車は加速する。
ハンドルを片手にエックス田が胸のペンダントを指で確認すると、予想通り、中央に弾丸が命中していた。
――やはりな。僕が主人公だったんだ。何気なくペンダントをいじるクセも、フラグだったのか!
途端に気分は舞い上がり、鼻歌を漏らした。カーラジオに合わせ、全身でリズムを刻む。この世界で生き抜くのは簡単かも知れない。先にちゃんとフラグさえ成立させておけば、どうという事ではない。もしかしたら、大金持ちになれるかも知れない。
達成感からアクセルを踏み込むと、急にカーラジオに雑音が混じった。ザ、ザ、とノイズが混じり、それに呼応してエンジンが停止した。
これは良くない事だ。この状況は、『近いうちの死亡』を意味する。エックス田は焦り、必死で考えた。
――絶対にやってはいけない事。
それはボンネットを開けて、修理を試みることだ。そして、車に対して『くそったれ』などの暴言を吐けば、死亡確率は格段に上昇する。
車を捨てて逃げる事にして、エックス田はドアを開けた。
「追いかけっこはここまでだ!」
背後から上がった老人の声に、エックス田はゆっくりと振り返った。
「まったく、苦労させおって……」
しつこい餅老人が銃をこちらを向けたままバイクから降りた。万事休すか――。だがここでエックス田の頭脳は、素晴らしい冴えを見せた。両手を上げ、吐き捨てるように言う。
「ふ、降参だ……殺せよ」
我ながら、名案だと思う。この台詞を吐いて死んだ奴など見たことがない。
潔さは生存確率を上げるのだ。しかし、それだけでは足りない。
「さあ!」
エックス田が挑発すると、老人はニヤリと笑った。
「ほう、諦めのいいことだな。では――」
「でも……その前に、どうやって組織がジェイ本の計画を知り得たか……。それを教えてくれないか」
この台詞は賭けだった。生存だけではなく、敵を倒すための……。
「……まぁ、いいだろう。冥土の土産に聞かせてやろう」
――勝った!
エックス田は内心ガッツポーズだ。『冥土の土産』は禁句!
その発言をした者が、冥土へ一直線という呪われた言葉なのだ!
瞬間、銃声が響いた。
夜のしじまを切り裂いて、柔らかなエコーが反響する。老人は風穴の開いた自らの胸に手を当て、ゆっくりと倒れた。
「君! 無事か!」
刑事の声に、エックス田は勝利を確信する。
しかしエックス田は勝利に舞い上がり、うっかりと、倒れた老人に捨て台詞を吐いてしまう。
「ふん、バカめ!」
刹那、再び銃声が夜を切り裂いた。それと同時にエックス田の腹に焼けるような痛みが走る。――ど、どうして。
エックス田が気がついた時には遅かった。『バカめ』は基本的に悪党が使う言葉だったのだ。それもやられる間近の……。
口角から血を垂らした老人が銃を向けながら、ニヤリと笑っている。
エックス田は倒れ込みながら必死で生存フラグを考えたが、思いつく前に――意識は失われた。
* * *
モヤのような意識のなか、エックス田は声を聞いた。
「先生! この男、助かりますか?」
どうやら、病院に運び込まれたらしい。
「ああ、刑事さん。どうでしょう……難しい手術になりそうですな。成功は……1%といった所でしょうか」
エックス田は朦朧とした意識にあっても、フラグの確認は怠らなかった。
こういう場合の1%は、主人公の場合、ほぼ100%のはずだ。生き残れる……必ず生き残れるはずだ。難しければ難しいほど良い。
「この男は、事件の重要な証人なんです! 何とか証言を聞き出せませんか?」
「一瞬なら……意識は戻るかも知れませんなぁ」
どうにも会話の雲行きが怪しく感じる。『一瞬』という言葉が妙に引っかかる。いやそう言うモノじゃあないだろう。もっと、ヒロインなり、同僚なりがベッドの側で取り乱して――。
しかし、主人公は不死鳥の如く……。
すると突然部屋のドアが開かれた音がした。それと同時に刑事がマヌケな声を上げる。
「おっ。来たな名探偵クナン君! やっと真打ちの登場だ! この男が事件のことを詳しく知っているんだが……残念ながら話は聞けそうにないんだ」
「構いませんよ、警部。すでに全貌は暴きました。政府とマフィアの隠された陰謀の全てを――ね。では説明しますので、別室に全員集めてください」
――あれ? おかしいじゃないか。名探偵って何だ? 何のはなしだ?
主人公は俺だろう?
刑事とクナンくんが去った後、医者が呟いた。
「これはもう、駄目かもしれんね」
《フラグ・トレイン 了》




