蓮さんの意外な弱点
私にとって蓮さんは親切な隣人だ。兄みたいだと思ったことはあってもそれ以上の感情を抱いたことはなかった。だからこそあんな言葉を言われて異様に動揺してしまったし、余計にあれこれと思考が頭を巡ってしまっている。
……別に、意識なんてしていない。そもそもたった一言で一体何を気にしているんだ。……いやいや、気にしてなんかない。
同じ場所で思考がループしている気がする。しかしそんなことにもやもやしている間にも時間は流れて行き、学校にも行けば勿論バイトにも顔を出す。当然蓮さんとも何度も会うことになったのだが、彼の態度はあの日以前と全く変わっていなかった。
よくよく考えてみれば、あの言葉には大した意味などなかったのではないか?
互いに想い合える相手、という言葉だけならば別に恋愛感情でなくても信頼関係だけで十分だ。蓮さんはそういう意味で言ったのではないか。
……聞く勇気もない癖に――そもそもあんな一言を言ったことなんて忘れているかもしれない――悩んでいるのがだんだん馬鹿らしくなってきた。彼が態度を変えないのならば深い意味など無かったのだろうと、私はなんだか無駄に疲れてようやく心を落ち着かせた。
さて、そんな悶々とした日々も終わり、天気も私の心を表すように梅雨が明ける。
いつも通り学校に行き、今日は定休日でバイトがないので夕食を作る前にのんびり風呂に入っていた。機械人は人間よりも頑丈だが、しかし精密な部位が多いのでちょっとしたことで不具合が起こることがある。だから関節部など、細かい部分まで良く洗わないと後々面倒なことになったりするのである。
時間を掛けて湯に入り、さっぱりした所で風呂を出た。夕飯は何にしよう。簡単な物で済ませて後はゆっくり過ごそうかと考えた所で、不意に今あまり聞きたくなかった音が響いた。
「え、今?」
玄関のインターホンの音に私はげんなりと肩を落とす。誰だ、私の寛ぎタイムを邪魔しようとするやつは。もう居留守でいいだろうか。
そう思って扉の向こうにいる人物が去るのをじっと待っていたのだが、今度はインターホンの代わりに「るかー?」と聞き慣れた声が聞こえたものだから、即座に居留守は却下することにした。
蓮さんは何か用事がなければ尋ねて来ることはないし、その内容だって私にはありがたいことにお裾分けが大半だ。もしかして今日もそうかもしれない。
そのまま玄関まで進み、いざ扉を開けようとした所でようやく私は我に返った。自分の恰好がとても人様に見せられるものではないという事実をようやく思い出したのだ。
現在の私は風呂上りで、更に言えば完全に一人で寛ぐ為の状態だ。……つまり一言で言えば、人の皮を被っていなかった。
「るか?」
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ってて下さい!」
ここまでどもったのは初めてだと、後々どうでもいいことを思った。
どたばたと洗面所兼脱衣所まで戻る背中に「別に急がなくていいぞー」という声が微かに聞こえる。しかし家の前で長い間待たせる訳にもいかないので、私は手早く着替えを開始した。
尋常ではなく心臓が早い。本当に危なかった。あの状態で蓮さんに出くわしていたら一体どうなっていたか……想像もしたくない。
私は備え付けの収納棚の戸を開けて畳んであった皮を取り出す。まずは着ていた服を脱ぎ、それから皮を着て更に服を着直す。とても面倒な作業だが仕方がない。
一度鏡を確認して人間の姿に違和感がないかを確認してから再びどたばたと急いで玄関へと舞い戻った。このアパートは機械人が住めると判断されただけあって頑丈なので、他の部屋に足音が響いていないといいのだが。
「蓮さん、どうしましたか」
「何か急がせたみたいでごめんな。実はるかに頼みがあって……」
「蓮さんが、頼みですか?」
驚いてしまったが仕方がない。何せこれまで私がお世話になることはあっても彼から何かを頼まれたことなど殆どなかったのだから。以前困ったことがあったら言って下さいとは言ったが、ようやくその機会が訪れたようだ。
「私に出来ることならまかせて下さい」
どん、と胸を叩くようにしてそう言うと蓮さんはそれを見て少し笑った後、困ったように眉を下げた。
「ちょっとうちの風呂が壊れたみたいなんだ。業者は明日来てくれるから、今日だけ貸してくれたら嬉しいんだが……」
「お風呂? 勿論いいですよ」
そんなことか。もっと大変なことを頼まれるかと思ったが、そのくらいお安い御用だ。
「悪い、ありがとう。……お詫びに夕飯作ったんだがまだ食べてないなら一緒にどうだ?」
「ちなみにメニューは」
「から揚げ」
「から揚げ!」
蓮さんは神様かもしれない。
私はタッパーに入れられたから揚げを受け取ると、諸手を挙げて彼を部屋へ招き入れ風呂場まで案内する。と言っても部屋の構造は同じなのだからあまり意味はないが。
「浴槽にお湯も入っているのでシャワーでもお好きな方どうぞ!」
「急に元気になったな。悪い、借りるぞ」
「ごゆっくり!」
洗面所の扉を閉め、私は意気揚々と夕食の支度に取り掛った。
ご飯は蓮さんが風呂から上がって来てから準備すればいいので、先にそれ以外のおかずを皿に取り分ける。タッパーにはから揚げの他にもポテトサラダも入っていて更に気分が上昇した。今日の私は何にも負けない気がする。
あらかた準備を終えてしまえば手が空き、手持ち無沙汰になった私はテレビを付けて暇を潰すことにした。
最初に付いたチャンネルはニュース、次が野球中継。何か興味を引かれる番組はないかとリモコンを触っていると、いくつか変えた所で心霊番組が映った。初夏のホラー特集と画面の右上にテロップがあり、実際に体験したとされる話が再現ドラマで放映されているようだ。
「……暑い季節はどこも同じようなものだなあ」
うちの故郷でも暑い時期になるとやたらこのような話を聞くようになる。人間も機械人も思考は大して変わらないのである。
かく言う私も、実は嫌いではない。幽霊だったり謎の怪奇現象だったり心霊スポットであったり、未知のものというのは総じて興味を引かれる。本当なのか嘘なのか、そんな真相は抜きにしても話を聞くだけでわくわくしてくるのである。
私はリモコンをテーブルの隅に戻して薄暗い画面を食い入るように見つめた。
『ある暑い日の夜中、私は寝苦しさに目を覚ましました』
そんなナレーションで始まった物語。暗い部屋で目を覚ました女性は暑さの所為か酷く汗を掻いており、着替えようとクローゼットの扉を開けた。目は暗闇に慣れており、着替えたらすぐに寝ようと思っていた彼女は明かりを付けることなく目当てのパジャマを取り出して着替え始める。
その時、彼女はどこからか視線を感じた気がした。女性は一人暮らしで、この部屋に誰かがいるはずなどない。気のせいだと思うのに、夏の暑さのようなじっとりとした視線がこちらを見つめている気がしてならなかった。
部屋の中を見渡しても、勿論誰かがいる訳がない。しかしいざ着替え終わり、薄く開いていたクローゼットを閉じようとした時、先ほどから感じていた気配が急に強くなった気がした。
女性は微かに覗くクローゼットの奥の闇に包まれた空間を見る。そんなはずはない、そう言い聞かせるのに心臓はばくばくと音を立てた。彼女は一つ深呼吸をしてから、とうとうその扉を開け放つ。
クローゼットの、奥は。
『何も、ありませんでした』
そう、いつも通り。先ほどパジャマを取り出した時と同じ、なんてことない空間が広がっていた。
女性は拍子抜けしたように安堵して、大きく開けた扉を閉めようとした。
しかし何かが引っ掛かったように、その扉は完全には締まらなかった。開けた時に服が引っ掛かったんだろうかと、女性は何の気も無しに上から何が挟まっているのかを確認する。
クローゼットの一番下まで見た所で、女性は悲鳴を上げた。
そこには暗闇の中でぼんやりと見える白い指が挟まっていたのだから。
「……あ」
私はそこまで見た所で途端に体温が下がった気がした。テレビの映像が恐ろしかった訳ではない。もしかしてとてつもなくまずいことをしたのでは、と思ったのだ。
「洗面所の棚って、ちゃんと閉めたっけ」
まずい。もしも忘れて開いたままだったら、その中に収納されている皮が蓮さんにばれてしまう。必死に頭を捻って思い出そうとするが、よく覚えていない。
テレビでは挟まっていた指が扉をこじ開けようとして女性が必死に扉を押さえている。しかし指はどんどん力を増して手首まで外に出ようとしていた。
ところが私もそれどころではない。蓮さんが今何事もなく風呂に入っているのだからきっと戸は閉まっていたのだろう。……しかし私は先ほどとても慌てていた。それこそ皮膚の一部――例えば指とかがはみ出てたとしてもおかしくないのだ。
最初は気が付かなくても、何かの拍子におかしいと思って扉を開かれたら――。
とうとう手の力に負けてクローゼットの扉が開け放たれる。女性はその奥を見るのを恐れ、背を向けて部屋を出ようとした。これはきっと夢なのだと、そう言い聞かせて。
けれど彼女は逃げられなかった、足首を冷たい何かに掴まれたのだ。何かなんて言うがその正体は判明している。女性は恐怖に顔を歪めながら足首を掴んでいる白い手を視界に捉え、そしてそのクローゼットの奥を見てしまった。
目が、合った。
「「うわあああああ!」」
どうしよう、本当に見つかってたらどうしよう!
大混乱の私がそう叫んだ瞬間、何故か途端にテレビの電源がプツリ、と音を立てて落ちた。
「え」
この部屋にも怪奇現象が!
色々ありすぎて頭が回らなかった。私は茫然とテレビの女性のように思わず部屋の中を見回して、そして。
「はあ……はあ……」
いつの間に風呂から出たのか、そして何故かとても息が荒い蓮さんがテレビのリモコンを持って私の背後に立っていたことにようやく気が付いた。私が混乱していたからかそれとも彼が素早かったのか、リモコンを取ったことにまるで気が付かなかった。
妙な沈黙が部屋の中に充満していたが、私は意を決して彼に声を掛けることにする。
「あの……蓮さん」
「るか」
「は、はい」
まるで崩れ落ちるように立ち膝になった蓮さんは、そのまま私の両肩をがし、と掴み酷く淡々と言葉を紡いだ。
「いいか、るか。この世に幽霊なんているはずがない。科学的に証明出来てないし絶対に見たとか言ってるやつらが嘘を吐いているだけだ。だから盆に祖先が帰って来ることなんてないしハロウィンに悪霊が飛び回ることもありえないあんな番組真っ赤な嘘だ幽霊なんていない」
「……はあ」
ものすごく真剣に語られたが、私は気の抜けた相槌しか返すことが出来なかった。
蓮さんって、幽霊とか苦手だったんだ。よくよく冷静になって振り返ってみれば、さっき私の声に誰かの叫び声が重なっていた気がする。……誰かなど言うまでもないが。
「だ、大丈夫ですよ蓮さん。幽霊なんていませんから」
「……当然だ、いるはずがない!」
そうは言うものの体が少し震えている彼は、余程先ほどの映像が恐ろしかったのだろう。せっかく風呂に入って来たのに冷や汗を掻いていそうだ。
「そもそもあの番組、投稿者の体験した心霊現象を再現してるんですよ? つまりあの女性は生きてるんですから大丈夫です。きっと夢か何かだったんですよ。ね?」
まるで子供に言い聞かせるように努めて優しく伝えると、蓮さんは落ち着きを取り戻したのか「そうだよな」とほっと息を吐いた。
……もしかして本当に幽霊が投稿したかもしれないが、さすがにその言葉は口に出さなかった。
こんなに彼の意外な姿を見るとは思っても見なかった。おかげで私の懸念はすっかり頭から抜け落ちており、夕食を終えて蓮さんが家に戻ってからようやくそのことを思い出すことになった。
まあ彼が皮を目撃したらきっと先ほど以上の悲鳴を上げそうなので大丈夫だろうとは思ったが、一応確認するときちんと棚の戸は閉まっていたし、中を見ればしっかり畳まれた皮が鎮座していたので安心した。
ちなみに余談だが、次の日バイトへ向かうと寝不足でふらつき店長に注意を受けている蓮さんがいたのだった。