偽りの私、本当の私
その日は何もかも上手くいかない日だった。
朝寝坊した所から始まり、朝食を食べ損ねて挙句電車には乗り遅れ、更にせっかく夜中まで掛かって仕上げたレポートのデータを持って来るのを忘れた。家にはプリンターが無いので学校で印刷しようと思っていたのだが、データが無ければ何の意味もない。
もうこれだけで十分不運に見舞われていたのだが、更に購買ではいつも買っているサンドイッチが売り切れており、その時点でもう今日は全てを諦めたと言っても過言ではなかった。
「――あ」
不運というのはどうして畳み掛けるように起こる気がするのだろう。本当に今日は厄日だ。ガシャン、と音を立てて割れた皿を茫然と視界に入れながらそう思った。
「店長、すみません!」
「怪我が無いならいいが……るか、今日はどうした。注文は間違えるわ皿は割るわ」
疲れてんのか? と店の物を壊してしまったのに少しも怒ることなく心配してくれる店長にもう一度謝り、私は塵取りを持ってきて割れた皿を片付け始めた。
「るか、手伝うぞ」
「大丈夫ですよ、これくらい――っ」
大きな破片を先に手で拾い上げていた時、蓮さんから声が掛かって不意に視線を上に向けた。それが間違いだったのだ。
ざくり、と小さく嫌な音が聞こえた。慌てて手を引っ込め、もう片方の手で包み込んで隠す。また、指を切ってしまったのだ。
けれど問題はその光景を蓮さんに見られてしまったということである。流石に一瞬で本当の肌まで見られた訳ではないが、それでもざっくりと指を切ったということは私の反応ではっきりと知られてしまっていた。
「切ったのか!? 見せてみろ」
「いえ、平気なので気にしないで下さい」
「そういう訳にもいかないだろ。早く消毒しないと」
「本当に、大丈夫です!」
以前は蓮さんに切った瞬間を見られていなかったのでさっさと自分で絆創膏を貼ってやり過ごしたものの、今回に至っては目の前でしっかりと指を切った瞬間も音も聞かれてしまった。平気だと、これくらい大丈夫だと何度も言うのだが彼も中々引いてくれず、押し問答が続く。
「お願いですから、蓮さんは仕事に戻って下さい」
「だが、結構すっぱり切っただろうが。遠慮してないで手当てしてやるから早く――」
「いいから放っておいて下さい!」
ぱしん、と音が鳴って私は我に返った。
心配そうにこちらに伸ばしていた彼の手を、私が思い切り叩き落としたのだ。一瞬、しんと店中がやけに静まった気がした。唖然とした様子で動きを止めた蓮さんに謝ろうとして、しかし言葉は喉から出ては来なかった。彼を拒絶した理由なんて、言える訳がないのだから。
「るか」
最初に沈黙を破ったのは店長だった。
「帰れ」
「え」
「そんな辛気臭い顔客に見せるくらいなら、とっとと帰って腹一杯食べて寝ろ。そしたらいつものアホ面も戻って来るだろうよ」
片付けはやっておくからと言われ、私は言葉も返せずにこくりと頷いて立ち上がった。目の前の蓮さんの顔を見るのが怖くて、俯いて彼の隣をすり抜ける。何でもいい、すみませんくらい言えば良かったと通り過ぎてすぐに思ったが今更振り向くことも出来ない。
「るかちゃん、これ使って」
「斉藤さん……」
テーブルを横切るタイミングで斉藤さんから絆創膏を差し出される。以前家にあったのでさえ偶然で、勿論絆創膏など持ち歩いていなかったので本当に助かった。お礼を言って切ったのとは反対の手で受け取ると、「あんまり思いつめたら駄目よ」と私にだけ聞こえるくらいの声で囁かれる。
……そんなのきっと、無理だ。
自宅に帰ると、私は荷物を全て投げ出してベッドに倒れ込んだ。
「……どうしよう」
やってしまった、次からどんな顔して蓮さんに会えばいいんだ。
もっと彼が気にしないように何てことない感じを装って笑って誤魔化せばよかったのか、そもそも指を切ったなんて気のせいだと言い張ればよかったのか……今更考えてもどうにもならないのに、そんな事ばかりが頭を過ぎる。
手を振り払った時の、驚きに染まった彼の表情が忘れられない。けれど、ああしなければ私が人間ではないことがばれてしまっていた。そうすれば他の機械人にだって迷惑が掛かる。だから、仕方がなくて……。
言い訳が出口のない迷路のようにぐるぐると頭の中で彷徨い続ける。違う、今考えるべきことは次に蓮さんに会う時のことで、他のことなんて考えても無意味で。
聞き慣れた電子音が部屋に響いたのはそんな時だった。
ピー、ピー、と急かすように鳴るそれは、遠い宇宙の先まで繋がる機械――惑星間通信端末。そしてこれを使って私に掛けて来る相手など、十中八九決まっている。
のろのろと体を起こして通話ボタンを押すと、画面に映ったのはお母さんだった。
「もしもし、るか……るか?」
「お母さん……」
「どうしたの、泣きそうな顔して」
泣きそうだと、そう言われたら余計に目頭が熱くなった。何より安心できる人の顔が見られたということもあるだろう。何れにしても、頭の中がぐちゃぐちゃになってどうしていいのか分からなくなっていた私に、溢れだす涙を止める術などなかった。
「るか!?」と驚くお母さんを見て涙を拭うけれど、それでも次々と涙が出て来る。朝からの色々なことが全部蓄積して、もう何がなんだか分からなかった。
「……ご、ごめ」
「無理に泣き止まなくていいから、落ち着くまでちゃんと居るから大丈夫だよ」
こんなにも離れているのにまるですぐ傍で言われているようで、私は何度も何度もしゃくり上げながら、溢れる涙を只管拭い続けた。
何をやっているんだろう、こんな風に子供みたいに泣いて。成人していてもいつまで経っても立派に大人だと言い切ることも出来ない。
息が苦しいが、それでも少しずつ呼吸は落ち着いてくる。涙だって一頻り泣けばすっきりして収まり、頭も冷静さを取り戻し始めた。
酷く心配そうに見つめるお母さんに申し訳なく思いながら、私は最後の涙を拭った。
「……もう、大丈夫。ごめん」
「……話せるのなら、聞いてもいい?」
言いたくないならいいけど、と控えめに問い掛けられ、思考がクリアになって来た私は頷いてぽつりぽつり、淡々と話し始めた。
今日一日ついてないことばかりだったこと、バイト先で皿を割ってしまったこと、機械人だとばれるのを恐れて心配してくれた蓮さんを強く拒絶したこと。
言葉にしてみればたったこんなもので、けれど情緒不安定になっていた私を混乱に突き落とすには酷く容易い出来事だった。
全て話し終えると、お母さんは一言「一日大変だったね、るかは頑張った」と優しく告げた。
「その蓮君? も、心配してくれたんだから謝って仲直りしないとね」
「謝れば、許してくれるかな」
「ちゃんと言葉にすれば大丈夫」
「……」
「るか?」
蓮さんは優しい。だからきっと、お母さんの言う通り謝ったら許してくれると思う。せっかく心配してくれたのにごめんなさいと、そう言えばきっと元通りの関係に戻れるのだろう。
元通り、今まで通り機械人であることを隠して、人間であると嘘を吐き続けて。
「私……」
本当は、今日ばれてしまってもよかったかもしれない、なんて少しだけ思った。蓮さんになら知られてもいいんじゃないかと、ほんの一瞬だけ思ってしまった。
ずっと偽りの姿を見せ続けて、そして人間として、鈴木るかという存在の思い出だけを彼に残して帰る。そんなのとても寂しい。だったらいっそ、今日知られてしまえばよかった。
「お母さん」
「何?」
「もし……私が誰かに機械人だって教えたいって言ったら、反対する?」
「知ってほしい人が、いるの?」
「……」
無言で小さく頷くと、そっか、と短く呟いて目を細める。
「るかの好きにしていいよ。伝えたいくらい、大事な人なんでしょう?」
「大事というか……嘘を吐き続けたくなくて、機械人としての私も居るんだよって、知ってほしい」
作られた上辺の鈴木るかだけではない、機械人のるかだって私なんだって、そう言ってしまいたい。
「……私も一度、そんな風に思ったことあるよ」
「お母さんが?」
「うん、大事な親友だったからね。……るか、後で後悔するくらいならちゃんと伝えなさい。たった一年、すごく貴重な時間だから」
「……うん、実感してる」
これまで過ごして来た間も、とても大切な日々だった。もう二度とこの一年はやって来ないなんて分かり切っているのだ、悔いなど残せるはずがない。
「蓮さん」
「るか……手、大丈夫なのか?」
仕事から帰って来た彼をすぐさま訪ね、私は大きく頭を下げた。
「大丈夫です。……あの、さっきは本当にごめんなさい。心配してくれたのにあんな態度とって、本当にごめんなさい!」
「謝ることじゃないよ。俺も何かるかの気に障るようなことしちゃったんだろ? こっちこそ悪かった」
「違います、蓮さんは少しも悪くないんです」
私の顔を上げさせた彼はそのまま切った方の手を取り、巻かれた絆創膏にそっと触れた。
「私の勝手な事情なんです」
「事情?」
「……今は、まだちょっと言えないですけど、でも必ず言いますから」
すぐに機械人だと告げるのは、まだ勇気が足りない。嫌われたくない、怖がられたくない。離れられるのが、怖い。
それでも、本当の私を知ってほしい。嘘偽りの無い、ただのるかという機械人を。
私の言っていることなど意味不明だろうに、それでも蓮さんは首を傾げることもせずに「分かった」と頷いた。
「待ってる」
「……はい」
静かに微笑んだ彼を見て、じわじわと胸が温かくなるのを感じた。この人にだけは、正直に全てを話したい。全てを知って、そして――受け入れてもらいたい。
ああそうか、と当然のように理解してしまう。
私――蓮さんが、好きなんだ。