幸せのお裾分け
「それじゃあ店長、お先に失礼します」
「おう、気を付けろよ」
夏真っ盛り、というには少し暑さも落ち着き始めた九月、私はバイトを終えて蓮さんと共に葉月洋食店を出た。日が落ちるのが早くなったのでもうすっかり辺りは暗く、昼間とは違い気持ちの良い風が吹いている。
「大分涼しくなったなあ」
大きく伸びをしながら言った彼に相槌を返しながら、私は気付かれないように蓮さんの横顔を窺った。
……蓮さんは、私のことどう思っているんだろう。
何度か思わせ振りな言動をされている気がするが、けれど普段の彼の様子はまるで変わったところはない。何だか私一人で勝手に蓮さんの言葉や態度に振り回されている気がして、自意識過剰なのではないかとすら思ったりする。
「今日は雲もないから月が良く見えるな」
「そういえば今日は何かの日らしいですよ。……えーと、中秋? の名月だとか。朝テレビでやってました」
必死に思い出しながら言うと彼は成程、と頷いて目を細めるようにして月を見上げた。
その様子を眺めていると突然彼がこちらを向いたものだから驚いて飛び上がりそうになってしまった。
「るか」
「な、なんですか?」
見ていたことを不審に思われたのかと思ったのだが、彼は私の様子を気にすることなく「ちょっとこの後付き合わないか?」と続けたのだった。
月見をしよう、という蓮さんの提案に頷いて、私達は帰り道の途中にある橋の欄干に寄り掛かって月を見上げた。視界を阻むものも無く喧噪も遠いので、何にも邪魔されることなく月が一望できる。
途中で購入した温かい紅茶を飲みながら、私達は特に会話をすることもなく只々月を見上げた。それだけ今夜の月は綺麗だったし、その向こう側にあるもの思いを馳せていたということもある。
あの空のずっと先には私の故郷がある。そこにはお父さんもお母さんも、おじいちゃんもお婆ちゃんも、おじさんも友達も居て。気の遠くなるほどの距離に何だか不思議な気持ちになった。寂しいとは少し違う、自分がこんなに遠くまで来たんだということを改めて実感したような感じだった。
思わず片手を空へ伸ばしていると、隣からぽつりと言葉が零れ落ちる。
「もう、あと半年か。早いな」
そういえば。
感慨深く呟かれた言葉に、私もふと我に返った。そう、ここに居られるのはあと半分しかないのだ。日本にやって来た頃に蓮さんがあっという間に時間が過ぎていくと言っていたが本当にあっという間だった。ぼんやりしているときっとすぐに帰る日になってしまうだろう。
「蓮さんも故郷に帰るんですよね。それでそっちでお店開くんですか?」
「いや、そんなすぐには無理だよ。もっと腕を磨いて、いつか自分の店が持てたらいいなとは思ってるけどな」
「蓮さんなら出来ますって。私の舌が保障します!」
「……るかの舌じゃ信用ならないな。だってお前何でも美味しいって言いそうだし」
「失礼な、私だって不味いと思うものもありますよ。……確かに蓮さんの料理だったら全部美味しいって言いそうですけど」
「ほら見ろ」
からかうように笑った蓮さんは、けれど次第にその表情をやや曇らせる。
涼しい風が私達の間を通り抜け、それと同時に妙に空気が静かになった気がした。
「……うち、あんまり家族仲が良くないってお前に言ったっけ?」
「そういえば、家出同然で出てきたって」
「ああ。……昔から結構厳しい親でさ、言われたことだけやれ、無駄なことはするなって口癖のように言われ続けて来た。好きなことが出来るやつが羨ましかったし、俺が料理人になりたいって言った時も反対なんて可愛いものじゃなくて、正気すら疑われたよ」
「正気って」
「『本当にそんなものになるつもりか』ってさ。それでも家を飛び出してここで見習いになって。……後悔はしてないんだ。むしろ本当に良かったと思ってる。店長や、それにるかに会えて、な」
今言わないと、言う時間なんて無くなっちまいそうな気がして、とそうもごもごと言いながら照れた様子で彼は頬を掻いた。
そんなの私だって日本に、この場所に来て本当によかったと思っているに決まってる。
店長や常連さんに学校の友人、そして何より蓮さんに会えたから。
「悪いな、何か急にこんなこと言って」
「蓮さんは、どうして料理人になろうと思ったんですか?」
わざわざ故郷を飛び出してまで料理人になりたいと、そう思ったのは何故だろう。
「るかってさ、幸せそうに食べるだろ?」
「はあ、まあ食べてる時は幸せですね」
「美味しい物を食べるって、幸せになれる酷く単純で、簡単な方法だと思うんだ。……まあ、これは受け売りみたいなものだけど。
料理人は、幸せを与えられるってすごく分かりやすく実感できる職業だから、かな。幸せを色んな人にそれこそ料理みたいにお裾分けできる。……かっこつけたこと言ったけど、喜んだ顔を見れるのが嬉しいからなんだよな」
料理は人を幸せにする。それは私が一番よく分かっていると言っても過言ではない。
「私、沢山幸せ分けて貰ってますよ」
けれど私が蓮さんに貰っている幸せは、決して料理だけが理由ではないと思う。蓮さんの料理を食べると温かい気持ちになる。それはきっと彼が私のことを考えて作ってくれたという気持ちや、蓮さん自身の人柄によるものもあるのだろう。
彼だからこそ、一緒に居て温かい喜びを感じるのだろうと思う。
「そうだと俺も嬉しい。いつか、いつかさ……家族にも、美味しいって言ってもらいたいんだ。仕事以外興味のない人達だけど、一つでもいいから好きな物を、食べて幸せだって思えるものを見つけて欲しい。それで、それを俺が作れたらすごく嬉しいと思う」
「蓮さんは、家族が好きなんですね」
「そう、だな。なんだかんだ言って、結局そうなんだろうな」
家族を思っているのか、酷く穏やかな表情で微笑んだ蓮さん。私に向けられたものではないのに、それを間近で直視した私はどきりと心臓が跳ね上がった気がした。
そんな私の動揺に気が付いたのか彼はきょとんと目を瞬かせていたが、私が何事もなかったかのように月に視線を向けると、蓮さんも同じように上を向く。
「……人の好みなんて千差万別だから、いざ作って不味いと言われても構わないけど、それでも最後には美味しいって言ってもらいたいんだ。それこそ店長みたいに、その人の味を見つけられたらって」
「大丈夫ですよ、蓮さんなら出来ますって!」
「随分言い切るな。またお前の舌が根拠か?」
「今回は違います」
呆れたような顔をした蓮さんに、私は胸を張って自信満々に言葉を紡いだ。
「ほら、店長も言ってたじゃないですか、料理は愛情って。蓮さんが家族を好きなら絶対いつかは美味しいって言ってくれるもの作れます! 蓮さんの気持ちが根拠ですよ」
「……よく分からん理屈を捏ねるなあ、るかは」
「わっ」
脱力するようにため息を吐いた彼は、突如私の髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回した。先ほどから風で随分乱れていたので大して困らないが、それでも長い金髪が視界を遮って邪魔だ。
「何するんですか!」
「心の声を行動で表してみた」
何だそれは。
「お前と居ると、時々色々考えてるのが馬鹿らしくなる時があるよ」
「それは褒めてるんですか、貶してるんですか」
「どっちも」
とても正直にそう言った蓮さんはからっと笑い、ぼさぼさになった私の髪を手櫛で整える。
「さっき、お前は幸せを分けて貰ってるって言ったけど、俺もお前に貰ってるんだぞ?」
「え?」
「食べて喜んでる姿見てると、こっちが嬉しくなって幸せ貰ってる気分になるんだ。るかのおかげでそれが分かった」
「私、食べてるだけですよ?」
他には何もしてないのに。そう言っても彼は只々笑って頷くだけだ。
「それでいい。俺が勝手にそう思ってるだけだからな。でも言わせてほしい」
彼は改まったように背筋を伸ばし、そして私と目を合わせて真剣な表情で口を開いた。
何で、だろう。
「るか、ありがとう」
月明かりに照らされる彼が、地球人である蓮さんがとても格好良く見えたのは。