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「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
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「カフェ・プレーゴ」



登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。

渡辺真紀 バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。

竹内京子 二年生。優樹の妹。

新田百合 一年生。日向の恋人。

桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。

白崎先生 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。

梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。

川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。


 「カフェ・プレーゴ」




昨日、百合と約束をした。

百合だけを愛する約束。

百合以外の誰かを愛さない約束。例え、それが彼方であっても。

そして、百合が自分から離れていかない約束。


その約束の印として、日向の首筋には新しいキスマークが一つ増えていた。

以前の印は、もうすっかり薄くなって消えてしまった。

噛み跡と違って、キスマークは消えるのが早いみたいだ。


自分は、印がないと不安になる。

言葉だけじゃ足りない。

言葉なんて、不確かなものだと彼方に思い知らされたから。

首輪のように、目を引く印が必要だった。


「あー!高橋さん、また絆創膏貼ってる!

 昨日も彼女といちゃいちゃしてたんっすかー?」


キッチンのカウンター越しに、明るい声が聞こえる。

振り返ると、日向と同じくらいの身長で、体躯がいい少年が立っていた。

日に焼けて、小麦色になった健康的な肌。自分とは大違いだ。


今はバイト中。ランチタイムのピークを越えて、すっかり店は静かになっていた。

時計は午後三時を回っていて、店にいる客も二、三組程度と落ち着いた時間だ。

この時間は客からのオーダーもなく、空いた時間でディナータイムに使う食材の下ごしらえをしているところだった。


「あんまり茶化すなよ、虎丸。」


彼は、桜井虎丸。

厳つい名前とは裏腹に、爽やかで素直で人懐っこい少年だ。

日向と同じ学校の二年で、サッカー部所属らしい。

部活がない時にだけシフトに入っていて、体育会系らしい言葉遣いが特徴的だ。

虎丸は日向より先に、この店で働いているが、

日向の方が歳が上だからと、不器用な敬語を使ってくれる。

小学校から続けているサッカーで染み付いた体育会系のノリで、

年上の日向を慕ってくれているようだ。


「ちぇー。やっぱモテる男はいいっすねー。」


虎丸は唇を尖らせて、羨ましそうに日向を見る。


「別に…俺はモテるわけじゃないよ。」


野菜を一つ一つ手洗いしながら、日向は言う。

夜は団体予約が入っているらしいから、いつもより仕込みの量が多い。


「何言ってるんすか!高橋さんはモテますよ!学校で有名なんすから!」


虎丸は唇を尖らせたまま、身を乗り出す。

日向は、この店では名字で呼ばれる。

学校では、同じ苗字の彼方と区別するために名前で呼ばれるが、ここに彼方はいない。

だから『高橋さん』と呼ばれるが、呼ばれ慣れない苗字に少しだけ違和感を覚える。


「有名?」


日向は首を傾げて虎丸に問う。

自分が学校で有名だなんて、聞いたこともない。

どちらかといえば、寡黙で目立たない方なのに。


「そうっすよ!すっごい有名っすよ!

 女子たちがいつもきゃーきゃー言いながら噂してますよ!」


「噂って、どんな?」


「三年にイケメンの双子がいて、カッコいいだけじゃなくて、誰にでも優しいって!

 んで、めちゃくちゃモテるのに、どんなに可愛い子が告白しても、絶対オッケーしない、難攻不落のプレイボーイって!」


「難攻不落って…なんだその胡散臭い噂。

 俺、彼女いるし。それに…それ、俺のことじゃないだろ。」


根も葉もない噂話に呆れながら、日向はせっせと野菜を洗う。

夜は百名を超える貸し切り客がいるらしく、サラダに使うレタスだけでも凄い量だ。

レタスを洗い終えても、まだ山のように積まれたトマトやキュウリも残っている。

コース料理のデザートも、この時間から仕込まないと間に合わない。

キッチンの奥では、店長とシェフも仕込みに精を出している。

他のパートさんはもう帰ってしまったし、夜のシフトの人が出勤してくるまで、まだ時間がある。

いつもならランチタイムを過ぎれば帰れるのに、今日はもうしばらく帰れそうになさそうだ。


虎丸はカウンターに手を付いて、暇そうに口だけを動かす。

彼はウエイターの仕事しかできない。彼方と同じで、料理が全くできないのだ。

忙しいキッチンとは裏腹に、静かな店内でウエイターの仕事はないらしい。

よっぽど暇なのか、日向を話し相手にしてこの暇な時間を潰そうとしているようだ。


「うちの学校に、双子なんて高橋さんしかいないじゃないっすか!」


「それは…まあ、そうかもしれないけど…。俺、モテるわけじゃないし、

 女子にきゃーきゃーなんて言われたことなんてないよ。」


確かに、こんな田舎の学校で双子は珍しい。

小規模な日向たちの通う高校では、双子は自分たちだけだ。

けれど、そんな噂なんて聞いたこともないし、胡散臭すぎる。

カッコいいだとか、モテるだとか、尾ひれがつきすぎだ。


ああ、でも、彼方は確かにモテてたな。

いつも女子と楽しそうに話していたっけ。

女子の方もまんざらでもなさそうだった。


「…多分それ、全部彼方のことだろ?」


「ああ、もう一人の方の人っすか?」


「アイツは俺と違って、懐っこいからな。俺は話すの苦手だし。」


「何言ってるんすか!

 顔がよければ、黙ってても『きゃー!クールでかっこいいー!』ってなるもんすよ、女子は!」


虎丸は両手を頬に添えて、女子の真似をする。

そんなポーズをしても、日に焼けた肌と、程よく付いた筋肉がアンバランスだ。

日向は蛇口を閉じて、洗った野菜の水切りをして、ザルにあける。

次はサラダ用にカットしなくてはならない。


「あ、じゃあ、あの噂は彼方さんですか?」


虎丸は思いだしたように口を開く。

日向は、まな板と包丁を取り出しながら問い返した。


「あの噂って?」


虎丸は、おかしそうに笑いながら語りだす。


「もー、ホント、胡散臭い噂なんすけどね、

 誰とも付き合わないけど、誰とでも寝るとか。毎晩違う女の子と寝てるとか。

 噂では、女の子百人切りらしいっすよ。さすがに百人は言いすぎっしょー。」


その言葉に、日向は目を瞠った。

思わず、手に持っていたトマトが落ちる。

手から滑り落ちたトマトは、鈍い回転をしてシンクの隅に留まる。


「…ただの、噂だろ?」


そんな噂を全く信じていないように、虎丸はおどける。


「そうっすよ。ただの噂っす。それにしても、ヒドイ噂っすよねー。

 フラれた女の子の嫌がらせか、モテない男の僻みっすかねー。」


そう言って、虎丸は軽い調子でケラケラと笑う。

日向はシンクに落ちたトマトを拾って、蛇口を開いて洗いなおす。

平静を装って、溜息を一つ。


「…ホント、酷い話だな。」


尾びれが付いているというレベルの話じゃない。

けれど、火のないところに煙は立たない。

ただの噂ならいいが、日向はその噂を、ただの噂だと笑い飛ばせなかった。

だって、思い当たる節がある。


彼方が髪を切ってから、毎日夜遅くまで家に帰らず何処で何をしていた?

いつもと違うシャンプーの香りや、女性ものの香水の甘い香りを纏わせて、何をしていた?

その頃の彼方の周りは、女子ばかりだった。

虎丸の話が、ただの噂だなんて思えない。


ふいに、遠くの方で店の入り口の扉が開く気配がした。

店の玄関に吊るされている風鈴が、涼しげな音を奏でる。


「いらっしゃいませー。」


虎丸が入口へと駆けていく。

その背中を見送って、日向は肩を落とした。


何をやっているんだ、彼方は。

一体何がしたいんだ。どうしたかったんだ。

散々自分や周りを掻き回して、何がしたかったんだ。


日向は、もう彼方のことを考えるのはやめると決めた。

百合と約束した昨日、決めたんだ。

どうせ、分かり合えるわけがない。

もう、分かり合えるはずがないから。


「高橋君、すっかり虎丸に懐かれてるな。」


急に背後から声を掛けられる。

彼は梨本浩一。カフェ・プレーゴの店長だ。

少し小柄だが、気さくで優しい三十代前半の男で、大きな黒縁フレームの眼鏡をしている。

その眼鏡には度は入っていない。いわゆる伊達メガネだ。

店長曰く、『お洒落眼鏡』らしい。


「同じ学校だからですかね。」


日向は野菜を切りながら、言う。

梨本は日向の隣のシンクで手を洗っていた。

手に生クリームが付いている。夜の予約の客のホールケーキを作っていたのか。


「同じ学校って言えば、もう一人いるぞ?」


「そうなんですか?俺まだ会ったことないかも…。」


カフェ・プレーゴは学校の近くだから、

同じ学校の生徒が何人もバイトしていると思ったが、そうでもないらしい。

日向と虎丸と、もう一人は誰だろう。自分の知っている人だろうか。


「ああ、彼女は夏休み終わらないと、バイト出てこないんだ。

 なんか、家庭の事情で夏休みとか長期休みは、遠くで暮らす家族のとこ行ってるらしくて。」


「どんな人なんですか?」


「虎丸と同じ二年生で、可愛いって言うより、綺麗系かなあ。」


「そうなんですか。」


なんだ女の子か。

女の子の知り合いなんて、百合か千秋か真紀くらいしかいない。

三人はバイトをしていないし、二年でもない。

おそらく知らない子だろう。

百合以外の女の子と話すのは、まだ少し苦手だ。

仲良くなれるといいな、と思いながら、日向はトマトを切った。


しばらくすると、大きな足音を立てて、虎丸がホールの方から走ってきた。


「高橋さーん!高橋さんの知り合いって言うお客さんが来てるっすよ!

 女の子が二人!巨乳の美女と、ロリっぽいかわいこちゃんっす!」


虎丸は興奮した様子でホールの奥を指さす。

そんな仕草が、まるで亮太みたいだ。

どうして体育会系はみんなこうなのか。

日向もホールの方を覗き込んでみたが、キッチンからは奥の席は見えない。


「…え?巨乳?ロリ?」


日向は女子の知り合いは少ない。

ましてや巨乳なんて、いない、と思う。

…いちいち気にしていないだけかもしれないが。


「奥の五番テーブルっす!彼女っすか?」


虎丸は興味津々な様子だ。


「なになに、高橋君、彼女呼んだの?」


梨本店長も気になるらしく、カウンターから身を乗り出してホールの奥を覗き込む。

けれど、ここから見えるわけもない。


「いや、そんな連絡来てないですけど…」


確かに百合は『今度友達を連れていく』と言っていたが、

日向の携帯電話には、何の連絡も来ていない。

自分を驚かせようと思って、急に来たのだろうか。


「あ、オーダー、アイスミルクティー二つです。」


「ああ。」


ミルクティーは百合が好きな飲み物だ。

やっぱり来ているのは、百合なのだろうか。

そう思いながら、日向がミルクティーを用意していると、梨本店長に声を掛けられる。


「ちょっと顔だしてきたら?」


「え?いいんですか?」


日向が首を傾げて聞くと、梨本店長はニヤニヤと笑みを浮かべる。

そんなに自分の彼女が来たのが面白いのだろうか。


「ちょーっとだけな。」


「ありがとうございます。」


そう言って、日向はトレンチにミルクティーを二つ乗せる。

いつもキッチンで調理ばかりしていたから、こうやってホールに出るのは初めてだ。

そのまま日向はキッチンを出ようとすると、遠くの方から呼び止められた。


「高橋、ちょっと待て。」


「はい?」


日向を呼び止めたのは、カフェ・プレーゴのシェフ、川口順平だった。

梨本店長と同い年の三十代前半で、寡黙だけれど真面目で優しい男だ。

川口シェフは日向のもとへと少し早足で歩いてきて、トレンチに皿を二つ乗せる。


「ほら、これサービスで出してやれ。」


そう言ってトレンチに乗せられたのは、アイスとフルーツが綺麗に盛られた平皿が二つ。

この短時間で用意してくれたのだろうか。


「いいんですか?」


「特別、な。」


「ありがとうございます。」


日向は川口シェフにお礼を言って、キッチンを出る。

五番テーブルは、窓際の一番奥の席だ。

そこの席に座っていたのは、やっぱり百合だった。


「百合。来てたのか。」


「日向先輩!えへへ、来ちゃいました。」


百合は日向を見ると、ふんわりと笑う。

『来ちゃいました』だなんて、まるで押し掛け女房のようだ。

そんな少し強引なところも、可愛いのだけれど。


「びっくりしたよ。何の連絡もないから。」


「ごめんなさい。驚かせようと思って。」


百合の笑顔に、日向はさっきまでの疲れが吹き飛ぶような気がした。

疲れていても、百合の顔を見たら顔がほころんでしまう。


百合の向かいに座る女性は、見たことのない人だった。

そもそも百合と共通の友人なんて、亮太や将悟、真紀くらいしかいないし、当たり前か。

その女性は、上品でおっとりとした雰囲気を漂わせて微笑んでいた。

自分よりは少し年上っぽくて、肩まで伸びた長い黒髪が印象的だ。

開いた胸元からは、ふくよかな谷間が覗いている。


日向は恥ずかしくなって、反射的に谷間から目を背けた。

確かに虎丸の言う通り、巨乳かもしれない。

だけど少しだけ、百合に似ている気がする。

百合を少し大人っぽくしたような感じだ。


「えっと…友達?」


「あ、お姉ちゃんです!」


「…え?お姉さん?」


日向がその女性に視線を向けると、その女性はペコリと軽く頭を下げた。


「どうも、百合の姉の椿です。いつも百合がお世話になってます。」


百合に似た柔らかい微笑みで、椿は丁寧に挨拶をする。

友達を連れてくるとは聞いていたが、まさか姉だなんて。


「あ、その…こちらこそ。

 えっと…初めまして、百合…さんとお付き合いさせていただいてます、高橋日向です。」


日向は恐縮気味に不器用な挨拶をする。

百合の家族に挨拶するなんて、緊張する。何か失礼はないだろうか。

そもそもいきなりお姉さんに挨拶だなんて、何の心の準備もできていないのに。

戸惑い、混乱して、かしこまった挨拶をする日向に、百合と椿は顔を合わせておかしそうに笑った。


「あらあら、そんなに緊張しなくてもいいのに。

 でも、本当に優しそうな彼氏さんね。ねえ、百合?」


「うん。優しくて素敵な自慢の彼氏なの。」


嬉しそうに、百合は微笑む。

とても仲のいい姉妹なのだと思う。

仲睦まじく笑う姿は、まるで以前の自分と彼方のようだった。

少しだけ、切なくなる。

駄目だ。彼方のことは、考えないようにすると決めたんだ。


百合と椿は伸ばした黒髪も似ているし、柔らかく微笑む姿はそっくりだ。

百合も大人になったら、椿のように綺麗な女性になるのだろうか。

少女のあどけなさから、大人の綺麗な女性に、変わるのだろうか。

そんなことを考えながら、日向はテーブルにアイスティーを並べる。


「これも、よかったらどうぞ。サービスです。」


先程、川口シェフに用意してもらったデザートも一緒にテーブルに並べた。

短時間で作ったとは思えないくらい、綺麗で可愛らしいデザートだった。

アイスに生クリームとフルーツが数種類添えてあって、チョコレートソースがかかっている。


「わあ!すごーい!」


「あら。わざわざごめんなさいね。」


百合は無邪気な笑顔で喜ぶ。

椿は申し訳なさそうに、けれど嬉しそうに微笑んだ。

つられて日向も微笑む。百合の嬉しそうな顔が好きだ。

百合と同じで、椿も甘いものが好きなのだろうか。

二人は喜ぶ顔もそっくりだ。


「百合ったら、本当に甘やかされてるのねー。」


「甘やかす?」


椿の言葉に、日向は首を傾げる。

甘やかされているのは、自分の方だと思う。

恥ずかしい話だが、自分の方が百合に甘えている。


「百合ったらね、毎日毎日『日向先輩が作るご飯が美味しいから、体重が三キロも増えたー』っていつも言ってるの。」


椿はおかしそうに百合の真似をしてみせる。

姉妹だけあって、そっくりだった。


「ちょっとお姉ちゃん!体重の話は内緒だって…!」


百合は恥ずかしそうに、椿を止めようと声を出す。

少し頬が赤くなっていた。

けれど、椿は構わずに言葉を続ける。


「『甘やかされた分だけお腹の脂肪がー』って言っててね。」


「お姉ちゃん!」


恥ずかしがる百合が可愛くて、椿の百合の物まねがおかしくて、日向はつい笑ってしまう。

百合は声を出して笑う日向を見て、拗ねるように頬を膨らませた。

そんな子供っぽい仕草も、可愛らしい。


「もー!日向先輩も笑わないでくださいよ!」


「ごめんごめん。百合があんまりにも可愛いから。」


日向は口元を覆って、笑みを隠す。

百合といると、楽しい。優しい幸せな時間だ。


「本当に二人は仲がいいのね。」


椿はおっとりとした口調で日向を見つめる。


「今日も、このあと百合と過ごすの?」


「その予定…です。」


「もちろん!私と日向先輩はラブラブなんだから!」


日向がはにかんで笑うと、百合も幸せそうに笑う。

そんな二人を見つめて、椿も微笑む。


「うふふ。急にお泊りになっても、私がお母さんに上手く言っておくから大丈夫よ。あ、でも…」


言いかけて、椿は日向に手招きをする。

日向が椿に耳を寄せると、椿は日向の耳元で囁いた。


「避妊はちゃんとしないとね。」


そう言って、椿は無邪気に微笑む。

その言葉に、日向は驚いて小脇に抱えていたトレンチを落としてしまう。

トレンチは音を立てて床に転がった。


「え…っ!?あの…えっと…」


動揺する日向を見て、椿は意外そうな顔をした。

そして口元を手で覆って、おっとりとした口調で続ける。


「あら、もしかしてまだなの?最近の高校生は早いって聞いてたから…ごめんなさいね?」


悪気はないようで、椿は申し訳なさそうに頭を下げる。

そんなことをストレートに言われるなんて、思ってもみなかった。

顔が熱い。自分は今、赤面しているのだろうか。

恥ずかしくて、上手く言葉を紡げない。


「いえ…その…。」


動揺が収まらないまま、日向は口ごもる。

そんな日向を見て、百合は不思議そうに口を開く。


「お姉ちゃん、何言ったの?」


「なーいしょ。百合は、本当に日向君に大事にされてるのね。」


そう言って、椿は少し意地悪そうに微笑む。

日向は床に落ちたトレンチを拾い上げる。

しゃがみ込んでトレンチを掴むと、視界の隅に、虎丸と梨本店長が見えた。川口シェフまでいる。

三人はホールの隅に固まって、こちらを窺っているようだった。

こちらを指さしたり、ニヤけたりしている。

虎丸や梨本店長ならまだわかるが、寡黙な川口シェフですら、楽しそうに笑っている。


きっと、キッチンに戻ったらまた茶化されるんだろうなあ、と思いながら、日向は溜息を吐いた。



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