「夜の海とアルペジオ」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。
渡辺真紀 バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。
竹内京子 二年生。優樹の妹。
新田百合 一年生。日向の恋人。
桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。
篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。
麗華 彼方の客。
智美 彼方の客。
梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。
川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。
「夜の海とアルペジオ」
今日の彼方は早起きだった。
早起きと言っても、午後五時くらいだ。
優樹はまだ眠たい瞳で、リビングのソファーに座り、夕方のニュースを見ていた。
彼方も、テーブルを挟んで優樹の向かいに座っていた。
京子はキッチンで何やら料理を作っている。いい匂いがしてきた。今日の夕食は何だろう。
我ながら、料理上手で世話焼きないい妹だと思う。
コーヒーの入ったグラスに口を付けると、遠慮がちに彼方が話しかけてきた。
「あの…優樹さん。」
「ん?なんだ?」
優樹は彼方に視線を向ける。
彼方は言い辛そうに、横目で京子を窺っていた。
「ちょっと…話があるんですけど…。」
京子は料理に集中している。
こちらを振り向く素振りはない。
「どうした?なんの話?」
優樹はテレビの音量を少しだけ上げる。
下げるのではなく、京子に話の内容が聞こえないように、上げたのだ。
「実は…お願いがあって…。」
彼方は声を潜める。
髪の隙間でピアスが光った。
自分が開けたピアスじゃない、銀のピアス。
「今月いっぱいじゃなくて、来月も…いや、もうしばらく働かせてもらえませんか?」
彼方が言った言葉に、優樹は驚いた。
「…え?お前、彼女は大丈夫なのか?」
彼方は、田舎に彼女を置いてきているのではないか。
来月からは田舎に戻って、彼女と過ごすのではないのか。
何か事情があって、出稼ぎに来ていたのではないのか。
「彼女なんて、最初から…いないですよ。」
そう言って、彼方は物悲しそうに笑った。
「まだここに、…置いてもらえませんか?」
嘘を吐いている笑顔じゃない。
あの夜仕事を休んで泣いていたのは、彼女と別れてしまったからなのだろうか。
だから、彼方はここに残ると言い出したのだろうか。
『余計な詮索はしてはいけない』
それは、自分が作った店のルールだ。
気になる。けれど、聞いてはいけない。
これは彼方のプライバシーだ。自分が踏み込んではいけない。
「…わかったよ。これからもよろしくな。」
そう言って、優樹は笑顔を作って、右手を差し出す。
「ありがとうございます。」
彼方はその手を取り、握手をした。
その手は、細く、骨っぽく角張っていた。
彼方が痩せてしまったのは、病気のせいだろうか。
「でも、あんまり無理するなよ?
休みたかったら、いつでも言ってくれればいいから。」
あの日見つけた薬の名前を調べた時に、なんとなく、彼方の抱えている病気に気付いた。
夜の仕事をしている人間は、精神が病んでいる者が多い。
自分がちゃんと責任をもって、彼方を支えてやらなければ。
「平気ですよ。ちゃんとバリバリ働くんで、安心してください。」
そう言って、彼方はまた笑った。
今日も天気が良かった。
雲一つない広い空に、沈みかけた夕日が水面を赤く照らす。
八月もあと数日で終わる。夏の終わりの海岸に将悟はいた。
もうこの時期には海に入っている人はいない。
お盆を過ぎれば、クラゲが湧くからだろう。
海岸にも、誰一人いなかった。
静かに揺らめく波を見ながら、浜辺に座って将悟はギターを弾く。
去年の夏休みに短期のバイトをして買った、赤いアコースティックギター。
こんな田舎の海でギターを弾くことを咎める人なんていない。
周りを気にせずに、思い切りギターを弾けるこの場所が好きだった。
潮風を受けて、波音とギターのデュエットが静かな海岸を満たすのが、気持ちよかった。
次はどんな曲を作ろうか。どんな歌を歌おうか。
そう考えながら、将悟の指は弦の上を踊る。
鼻歌交じりに弦を掻き鳴らせば、彼女への想いばかりが募る。
自分の作る曲は、彼女への曲ばかりだ。
会いたい。けれど、もう会えない。
あの頃に戻りたい。戻れるわけなんてないのに。
彼女の強さと、自分の弱さ。
ごめんとか、好きだとか、愛しているだとか。
自分の作る歌は、ありきたりだ。
自分の想いも、ありきたりなのだろうか。
ありきたりでもいい。彼女への想いは、本物だ。
夏の終わりが、なんだか切なく感じるのは、何故だろう。
ああ、そういえば、彼女がいなくなった時も夏の終わりだった。
夏の終わりと共に、彼女は消えてしまったんだ。
一人で死んでしまったんだ。
ふと顔を上げると、誰もいなかった海岸の隅に人影を見つけた。
こんな整備もされていない田舎の海岸に、誰か来るなんて珍しい。
海岸の隅にいた人物は、こちらに向かって歩いてきた。
季節に見合わない長袖のシャツ、少し猫背気味の姿勢。
その人物は、日向だった。
「お、日向。珍しいな。」
将悟はギターを弾く手を止める。
日向はゆっくりとこちらに近付いてきた。
「何か音楽聞こえたから…気になって。こんなところで、何やってるんだ?」
日向は首を傾げて、浜辺に座り込んでギターを抱える将悟の隣にしゃがみ込む。
しゃがむと余計に猫背が目立つ。歪な曲線を描く真ん丸な背中だ。
「気分転換。お前は?散歩?」
将悟は右手でアルペジオを弾きながら問う。
海辺の夕陽に、ギターの優しいアルペジオなんて、映画の中の一コマみたいだ。
「駅まで百合を送ってきた帰り。」
日向は駅の方角を指さす。
今日も百合と過ごしていたのか。
自分の携帯番号もメールアドレスも知っているはずなのに、夏休み中に日向からの連絡はなかった。
あんなことがあった後だから、たまに自分から『大丈夫か?』とメールを送っても、
『大丈夫。ありがとう。』と、二言だけの素っ気ないメールしか返ってこないし。
まあ、でも、素っ気ないメールは日向らしいか。
日向には彼女がいるし、邪魔したら悪いと思って、
自分から遊びに誘うことは控えていたが、日向から遊びに誘うということもなかった。
ちょっとだけ、水臭いと思う。友達なのに。
「相変わらず、ラブラブだな。」
「おかげさまで。」
そう言って、日向は小さく笑う。
以前に比べて、ずっと自然な笑顔だった。
久しぶりに見た日向は、髪が短くなっていた。
日向に会うのは、日向が自分の家に泊まっていたころ以来だから、二週間ぶりくらいだ。
元気そうに見えるけれど、相変わらず痩せ細ったままで、長袖で肌を隠している。
まだ傷は癒えていないのだろうか。
「そういえば、…傷、治ったか?」
日向は一瞬言い辛そうに俯いて、すぐに顔を上げた。
「まあ…薄くはなってきてるけど。火傷の痕は残りそうかな。」
日向は袖越しに自分の腕を擦る。
切り傷や、火傷や、痣があった場所だ。
襟から覗く首筋には、もう痣は見えなかった。綺麗に消えてよかったと思う。
百合が残したというキスマークも、目を凝らして見ないとわからないくらい薄くなっていた。
ただ一つだけ、色濃い印があった。おそらく昨日今日付けたモノだろう。
そういうのは隠せと言ったのに。
「そっか。またそんなことがあったら、すぐ俺に言えよ。いつでも泊めてやるから。」
「…ありがとう。でも、今は母親も帰って来ないし、平気だよ。」
あの日のことを知るのは、将悟と、誠と、将悟の祖母だけだ。
いや、日向は百合にも話しただろう。
日向の家の事情を知るのは、たった四人だけ。
母親から虐待を受けているなんて、言いふらすようなことでもないし、日向は隠したがっている。
今も長袖で肌を隠して、他人に虐待なんて悟られないようにしている。
だからこそ、日向が頼れる人間が少ない。
誠には『おせっかい』だなんて言われるが、もしもの時は、自分が力になってあげないと。
「…俺さ、美容師になろうかと思って。」
遠くの海を見て、ポツリと日向が呟く。
「進路の話?なんで美容師にしたわけ?」
確かに日向は手先が器用だし、彼方は髪を染めた時も綺麗だった。
短くなった日向の髪も、自分で切ったのだろう。
『美容院で切った』と言われても、信じられるくらい上手いと思う。
けれど、美容師は接客業だ。日向には苦手な分野なのではないか。
「百合が、『美容師がいい』って。『男の美容師はカッコいい』って言ってくれたんだ。」
日向は嬉しそうに微笑む。
百合の話になると、日向はよく笑う。それはもう、幸せそうに。
すっかり日向は、百合にデレデレなようだ。
「お前なあ…。自分で決めたんじゃねーのかよ。」
将悟は少し呆れて、ギターを弾く指を止める。
自分の人生を、他人任せになんてするべきじゃないと思う。
「確かに、百合に言われたから美容師になろうと思ったけど、最終的には自分で決めたよ。」
「最終的には、って…。」
恋は盲目だなんて、よく言ったもんだ。
無口で思慮深いイメージだったのに、今の日向はよく笑うし、よく喋る。
日向は、見違えるほど明るくなった。
それにしても、浮かれすぎにも見えるが。
「まあ、卒業したら、しばらくバイトして学費溜めないといけないけどな。
スマホで専門学校調べてたら、学生寮があるとこ見つけてさ。…家、出ようかと思ってるんだ。」
浮かれているように見えて、しっかり考えているのか。
携帯電話を持ったのは最近の癖に、もう器用に使いこなしているらしい。
自分でバイトをして専門学校に行くなんて、今時珍しくないのかもしれないが、偉いと思う。
それに、家を出るなら、もう虐待の心配もない。
けれど、将悟の頭の中に疑問が浮かんだ。
「家出るって…彼方は?彼方は、どうすんだよ?」
そうだ。最近、彼方の話を全く聞かない。
日向が虐待を受けて将悟の家に保護した時でさえ、日向は彼方のことを何も言わなかった。
いつもなら、真っ先に彼方の名前を口にするはずなのに。
彼方も日向と一緒に、虐待を受けていたのではないのか?
日向は彼方を置いて、逃げ出していたのか?
いや、そんなはずはない。日向はそんなことしない。
「お前さ、俺んち泊まった時、彼方のこと何も喋らなかったよな?
アイツ…どうしてるんだ?大丈夫なのか?」
その言葉に、日向の微笑みは消えた。
「彼方は…バイトで…ずっと家にいないんだ。」
日向は膝を抱えて、小さな声で呟く。
長い睫毛を揺らして、丸い背中は更に丸くなる。
「家にいないって、住み込み?何のバイトしてるんだ?」
「…知らない。彼方は、何も言わないし…。」
日向は静かに首を振る。
「知らないって…。」
夏休み前から、彼方の様子はおかしかった。
学校では日向と話そうとしないし、近付こうともしない。
まるで、日向を避けているようだった。
今も彼方は、日向のことを避けているのだろうか。
「やっぱり…俺と彼方は、一緒にいない方がいいと思う。」
日向は水面を見つめて、ポツリと小さな声を零す。
その瞳は、切なそうに目を細めていた。
「一緒にいない方がいいって…なんで?」
将悟の問いに、日向は一層強く膝を抱えた。
猫のような背中が、更に丸みを帯びる。
「その方が、彼方のためだ。…俺のためでもあるけど。」
表情は切なそうだが、日向の声はしっかりしていた。
はっきりとした、強い声。
「多分…俺たちは、今まで一緒にいる時間が長すぎたんだ。
将悟の言う通り、『ずっと二人で』なんて、無理なんだ。」
罪悪感が胸に押し寄せる。
そう仕向けたのは、自分のせいかもしれないと、将悟はずっと思っていた。
自分が余計なことを言わなければ、余計なことしなければ、二人は仲のいい双子のままだったのに。
二人の仲を引き裂いたのは、自分じゃないか。
「俺のせいだ…。」
将悟は消え入りそうな声を洩らす。
いつだって自分は、後になって後悔してばかりだ。
もう間違えないって、決めたはずなのに。
「俺のせいだろ?俺が余計なこと言ったから…。」
そうだ、自分のせいだ。自分のお節介癖が悪いんだ。
自分があんなことを言ったから。だから二人は違えてしまった。
二人をめちゃくちゃにしてしまったのは、自分だ。
けれど、日向はゆっくりと首を振った。
「違う。将悟のせいなんかじゃない。…彼方が間違えたんだ。」
真っ直ぐに将悟を見つめて、日向は力強く言う。
強い瞳が、百合に似てきた気がする。
間違えたとはどういう意味だろう。
彼方が百合に乱暴したことか。日向への異常な執着のことか。
何を誤ったというのだろう。
「それに、俺には百合がいるし。…百合がいれば、俺は平気。」
そう言って、日向は小さく笑って見せる。
そのぎこちない微笑みに、将悟は何も言えなくなってしまった。
波が押しては返す。何度も何度も、飽きることなく、ただそれだけを繰り返す。
いつの間にか、静かな海辺の夕日はもうすっかり沈んで、星空が広がっていた。
都会では見られない、田舎ならではの明るい星空。
彼女が好きだった、夜の海と星空。
彼女はよく、夜の海で泣いていたっけ。
生きるのが辛い、って。
生きていても意味がない、って。
いっそ死んでしまいたい、って。
彼女は苦しそうな呼吸を交えて、泣いていたんだ。
物悲しいアルペジオが、夜の海を満たす。
日向は黙って、静かな波を見つめていた。




