「子供の純真さ」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。
渡辺真紀 バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。
竹内京子 二年生。優樹の妹。
新田百合 一年生。日向の恋人。
桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。
篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。
麗華 彼方の客。
智美 彼方の客。
梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。
川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。
「子供の純真さ」
午前十一時。
京子は近所のスーパーで買い出しをして、食材を冷蔵に詰めていた。
この家では、京子が家事全般をこなす。
炊事、洗濯、掃除。全てだ。
優樹は料理ができないわけではないが、めんどくさがって、ほとんどしない。
ほっとくとコンビニ弁当ばかり食べるし、それじゃあ体に悪い。
彼方は全く料理ができないみたいで、キッチンに立とうともしない。
だから、消去法で京子が毎日全員分の食事を作るのだ。
もっとも、この家では全員の生活時間が違う。
自分とは違い、二人は昼夜逆転の生活をしているし、
優樹と彼方の間でも、多少生活時間のズレがある。
優樹は早朝帰ってきて、夕方まで寝ることが多いし、
彼方は昼頃帰ってきて、出勤ギリギリまで眠っていることが多い。
だから、いつでも食事を摂れるように、作り置きした食事を冷蔵庫に入れておくのだ。
今日も、優樹は早朝に誠に抱えられて、酔って帰ってきた。
話に聞くと、優樹は酔って、店で眠ってしまうことが多いらしい。
それでちゃんと仕事をしているのかは疑問だが、
毎日毎日そうやって誠に迷惑をかけるのはやめてほしい。
優樹は一度眠ったらなかなか起きないから、仕方なく誠が抱えて連れて帰ってきてくれるのだ。
散々迷惑をかけた優樹は、今は自室で眠っている。
彼方は、まだ帰って来ない。
毎日『アフター』というものをしているらしい。
店が終わった後に、客と外で食事や買い物に行ったりしてるみたいだ。
優樹は『サービス残業みたいなものだ』と言っていた。
そうやって彼方は、毎日昼に帰ってきて、夜には『同伴』というもので優樹よりも先に家を出る。
『同伴』とは、出勤前に客と外で食事をして、そのまま出勤することらしい。
だから彼方は、この家にほとんど寝に帰ってくるだけのようなものだ。
『同伴』や『アフター』で、外で食事を食べてきているからか、家でほどんど食事はしない。
もしかしたら、外でもそんなに食べていないのかもしれない。
だって彼方は、明らかに痩せた。
本人は否定するが、誰が見ても気付くほどだ。
元々細身だった体は、さらに細くなった。
頬も痩けて、顔に赤みがない。不健康なほどに、青白い顔になった。
そして、少し老けたと思う。大人になったんじゃない。疲れたような顔になっている。
それは夜の仕事を始めたせいか、日向への想いが叶わなかったせいか。
それとも、過呼吸だとかいう病気のせいなのか。
気にはなるが、京子は深くは聞けずにいた。
冷蔵庫に食材を詰め終わり、京子はいつものようにソファーに座ってテレビを付ける。
別にテレビが好きなわけではない。
優樹が眠っていて、彼方がまだ帰って来ないこの家は、静かすぎる。
広いこのマンションに一人で座っているのは、少し寂しい。
だから、テレビから流れる雑音で孤独を紛らわす。
お昼のワイドショーは、いつもと変わらず、つまらないけれど。
ふいに、玄関の扉が乱暴に開く音がした。
彼方が帰ってきたのだろう。
その足音は不安定で、フラフラと心許ない。
おそらく、酔っぱらっているのだろう。
「ただいまぁー。」
リビングの扉を開けながら、彼方は少し気の抜けたような声を出す。
「おかえりなさい。」
疲れているのか、酔っているのか、フラフラと心許ない足取りで、彼方は真っ直ぐにソファーに向かう。
そしてソファーに座ったかと思ったら、ずるずると体を倒してソファーに沈み込む。
「あー疲れた…。」
そう言って、彼方は気だるげに息を吐く。
俯せでソファーに寝転がり、今にも眠ってしまいそうだった。
「ちょっと、寝るなら部屋行ってくださいよ。こんなところで寝たら、風邪ひきますよ。」
「んー。まだ寝ないよぉ…。」
京子が咎めると、彼方は気が抜けたふにゃふにゃな声のまま、
ゆっくりとソファーから体を起こす。
その瞳は眠たそうにトロンとしているし、
ぐったりとソファーの背もたれに寄り掛かって、完全に体を預けているみたいだ。
そして、ぼーっとしたまま、ポケットから煙草を取り出して、火を点ける。
最近彼方は、よく煙草を吸うようになった。
一日中煙草をふかしている優樹や誠に比べれば、本数は少ないけれど、
以前よりはずっと自然に、咳き込むこともなく紫煙を吐き出す。
その紫煙が揺れるたび、甘いバニラの香りが部屋中に広がった。
アフター帰りの時は、特に本数が増える。
ほら今も、燃えて短くなった煙草を灰皿に押し付けて、彼方は新しい煙草に火を点ける。
それはタバコが吸えない場所に長時間いたからか、アフターに多少のストレスを感じているからか。
彼方はアフターが多い。ほぼ毎日だ。
どこで何をしているのかは知らないけれど、帰ってくるのは昼だ。
最初は自分に気を遣って、優樹と過ごす時間を邪魔しないためかとも思ったが、
彼方はそんなに気を遣うタイプじゃない。
むしろワガママで甘えたで、あまり他人のことは気にしないタイプだ。
ふと彼方に視線をやると、彼方はうつらうつらと眠たそうだった。
頭が重力のまま下がってきていて、瞼が閉じてしまいそうになっている。
指に挟んだ煙草は、火が消えそうになっていて、灰が落ちそうだ。
「眠いんですか?」
京子の声に、彼方は僅かに顔を上げた。
そして指に挟んだ煙草を灰皿に押し付けて、ゆっくりと口を開く。
「うーん、ちょーっとだけー。」
気の抜けた声は少し舌っ足らずで、まるで甘える子供のようだった。
彼方がこんなに酔っているのは、珍しい。
夜の仕事を始めた最初の頃は、よく潰れて帰ってきていたけれど、最近はそんなことはなかった。
むしろ彼方が優樹の介抱をしていたように思える。
元々酒はそんなに弱くないみたいだし、むしろ強い方だろう。
それに、優樹のように馬鹿みたいに酒をガブ飲みするタイプでもない。
しかし、目の前の彼方は酒に酔って、情けないほどにふにゃふにゃになっていた。
「珍しいですね。そんなに酔うなんて。」
京子は、呆れて溜息を吐く。
彼方はヘロヘロと再びソファーに身を沈める。今度は仰向けだ。
「んー、薬のせいか、なんか変にお酒回っちゃってさー。フラフラする…。」
なんだそういうことか。
そもそも薬を飲んだのなら、酒を飲まなければいいのに。
そこまで考えが回らなかったのか。やっぱり彼方は馬鹿だ。
それとも、仕事上、酒を飲まないわけにはいかなかったのか。
よくこの状態で仕事をして、アフターまでこなしてきたものだ。
「さっきも言いましたけど、寝るなら自分の部屋行ってくださいよ。」
口を尖らせながら京子が言うと、
ぐったりとソファーに横になった彼方は、なんとも情けない声を出す。
「んー…。」
そして、力なく両手を京子のいる方へと伸ばした。
「ん。引っ張って。」
そう言って、彼方の両腕は宙をブラブラとしている。
まるで、ワガママを言って甘える子供のようだ。
「私じゃ、彼方さんのこと運べませんよ。」
京子は素っ気なく言う。
どう考えても、彼方を部屋まで運ぶなんて不可能だ。無理がある。
「引っ張るだけでいいからー。」
彼方は情けなく、甘えた声を出す。
手をバタバタと揺らして、今度は駄々をこねる子供のような仕草を見せた。
「はあ…。子供じゃないんですから…。」
京子は溜息を吐いて、仕方なく彼方の両手を取る。
そして、少し引っ張ってやると、彼方はゆっくりと上体を起こした。
「ん。立たせてー。」
ソファーの上に上げていた足を降ろし、彼方はさらに甘える。
京子は再び大きな溜息を吐いて、先程より少し高い位置から手を引っ張る。
彼方は京子に引かれるままに、ゆっくり、のろのろと立ち上がった。
しかし、足はおぼつかない。フラフラだ。
「そのまま、部屋まで連れてってー。」
そう言いながら、彼方の体はふらつく。
京子の肩口に凭れかかるように、彼方は体重を預けてきた。
その重さに、京子は少しよろける。
「ちょ、ちょっと!自分で立ってください!」
抱き付くような体制に、京子は少し動揺してしまう。
「むーりー…。」
「もう…。甘えすぎですよ。」
何度目かもわからない溜息を吐いて、京子は彼方の背中に手を回す。
そして、ゆっくりとリビングを抜けて、彼方の部屋まで彼方を支えて歩く。
彼方の足取りは相変わらずフラフラで、途中何度も廊下の壁にぶつかっていたが、
無理を言っているのは彼方の方だから仕方ない、と京子は思った。
やっとのことで彼方の部屋に着くと、彼方は京子から離れて、ベッドに飛び込むように沈み込んだ。
うーん、と低く唸り、布団を抱きしめるように、ごろんと寝転がる。
仕事着のスーツのまま、眠ってしまいそうだった。
「ちょっと彼方さん、そのまま寝たらスーツが皺になります!ちゃんと脱いでください。」
彼方が着ているのは優樹のスーツだ。
優樹と彼方は身長も体型も近いし、たかが一ヶ月とちょっとだけ働くのであれば、
新しいスーツを買うのがもったいないから、という理由で優樹が貸しているのだ。
貸しているのは優樹の古いスーツだが、まだ充分に着れるくらい綺麗なものだ。
「えー?んー…あとで着替えるからー。」
京子が咎めると、彼方は眠そうな、気だるげな声を出す。
瞼は完全に閉じていて、眠ってしまうのは時間の問題だった。
「男の人の『あとで』は信用なりません。
それ、お兄ちゃんから借りてるんでしょう?ほら。」
京子は、無理矢理彼方のスーツの上着を脱がそうとする。
「もー、京子ちゃんったら、や・ら・し・いー。」
そう言って、彼方はケラケラと笑う。
そして、体を起こして、上着を脱がそうとする京子の手を掴んだ。
「このまま、えっちなことしちゃう?」
余裕を持った挑発的な笑み。少年じゃない、男の強い瞳。
二つもボタンを外したシャツから覗く、肌蹴た胸元。
普段は全然気にしていなかったが、彼方の整った顔で見つめられると、心を射抜かれそうになる。
京子は不覚にも、ドキッとしてしまった。
「な…何言ってるんですか。」
京子は平静を装って、素っ気ない言葉を吐く。
けれど、まだ心臓がドキドキしている。
恥ずかしくて目を合わせられず、京子は俯いてしまう。
彼方にドキドキしてしまったなんて、バレたくない。
なんだか悔しい。
「冗談だよー。本気にしちゃったー?」
そんな京子を見て、彼方はおかしそうに笑う。
酔っているせいか、タチが悪いほど無邪気な笑みだ。
そうだ。この男の無邪気さは、タチが悪い。
「ね、添い寝してよ。」
笑い終えて、彼方はベッドに寝転がる。
スーツは着たまま。どうやら脱ぐ気はないようだ。
「嫌ですよ。なんで私が。」
京子は不機嫌だった。
不覚にも、彼方にドキドキしてしまった自分が腹立たしい。
なんで、こんな男なんかに。
「僕が寝るまででいいから。ほら、おいで。」
そう言って、彼方は両手を広げて見せる。
先程の男の顔ではなく、子供のような甘えた眼差しになっている。
「…嫌です。大人しく一人で寝てください。」
京子はベッドに腰掛けたまま、そっぽを向く。
「えー。京子ちゃん冷たいー。」
彼方は頬を膨らませて、拗ねるような仕草を見せる。
本当に大きな子供みたいだ。
「…じゃあ、手、繋いでてよ。」
小さく呟いて、彼方は右手を差し出す。先程よりも控えめに。
彼方を見れば、京子を窺うような瞳だった。
「はあ…もう、めんどくさい酔っぱらいですね。」
京子はまた溜息を吐いて、彼方の手に自分の手を添える。
彼方の手は温かいと言うより、熱かった。おそらく酒のせいだろう。
今日だけで、何回溜息を吐いただろう。幸せが逃げてしまうじゃないか。
自分よりも体が大きいくせに、この男は自分よりも子供だ。
「彼方さんが眠るまでですよ。とっとと寝てください。」
「うん…。京子ちゃんの手は冷たいね。」
彼方は京子の手をぎゅっと握って、確かめるように呟く。
まるで誰かと比べているような発言だ。
その誰かは、確実に日向だろうけど。
「…日向がね、よくこうして手を握ってくれたんだ。
悲しいこととか、辛いことがあるたびにね、手を繋いで日向と一緒に寝るんだ。」
彼方は目を閉じて、思いだすようにゆっくりと言葉を並べる。
その言葉は、愛しさと切なさで溢れている気がした。
京子は何も言わず、彼方の言葉に耳を傾ける。
「でも、僕は寝相が悪いから、何回も日向をベッドから落しちゃったりしてね…。
日向は怒ったりしないんだ…優しいから…。だからね、日向はね…
よしよしって、頭撫でてくれて…日向の手はあったかくて、ね…」
酔っているせいか、眠いせいか、脈絡のない話だ。
たどたどしい言葉は、徐々にゆっくりになっていく。
「それでね、…日向が…。」
しばらくすると、彼方の寝息が聞こえてきた。
彼方は眠ってしまったようだ。
それでも、京子の手を強く握ったままだった。
「諦めるとか言いながら…日向さんのことばっかりじゃないですか…。」
日向が、日向と、日向を、日向は、日向の。
彼方が呟くのは日向の名前ばかりだ。
その名前を呼ぶ時の彼方の声は、愛おしそうで、切なそうで、痛々しいくらいだった。
諦めるんじゃないのか。全然諦められていないじゃないか。
一体いつまでそんなことを続けるのか。馬鹿だ。彼方は大馬鹿だ。
京子は、静かに眠る彼方の髪を撫でてみた。
「ん…日向…。」
安心したような表情で、彼方は日向の名を呼んだ。
本当に、子供みたいな人だ。
このまま、彼方はここで夜の仕事を続けるのだろうか。
本当に、日向のことを諦めて、日向と二人で暮らす家を捨てるのだろうか。
京子は繋いだ手を解く。
彼方は、静かに寝息をたてていた。
けれど、手が離れた瞬間、少し悲しそうな顔をした。
彼方を起こさないように、ゆっくりと立ち上がり、京子は扉に手を掛ける。
扉を開けて廊下に出ると、そこには眠そうな顔をした優樹が立っていた。
彼方の部屋から出てきた京子に、優樹は少し驚いたような顔をした。
そして、すぐにニヤニヤと笑って、茶化すような口調で言う。
「なになに、お前らデキてんの?」
「デキてない!」
京子は反射的に否定する。
当たり前だ。自分が好きなのは、目の前にいる優樹なのだから。
そんなこと、言えるわけないけれど。
「…酔っ払った彼方さんを、部屋に運んだだけよ。あんまり彼方さんを酔わせないでよね。
彼方さん、酔っぱらうとめんどくさいんだから。」
先程の彼方を思い出して、京子はまた溜息を吐く。
本当に、彼方は手のかかる子供のようだった。
「そうか?どうめんどくさいんだ?」
優樹は不思議そうに首を傾げる。
「子供みたいになって、めんどくさいの!」
「ははっ。なんだそれ。甘えてくるってことか?
俺には全然甘えてこないのに。」
なんだ。優樹にはそんな素振り見せないのか。
確かに、彼方は優樹に対しては他人行儀な気がする。
優樹の前ではヘラヘラと笑って、ただのいい人を演じているようだ。
もしかしたら、彼方が素直な感情を見せるのは、自分にだけかもしれない。
日向のことで落ち込んだ様子を見せるのも、日向のことで泣くのも、自分だけしか知らないのかもしれない。
彼方は、あまり他人に本心を見せない。
日向以外に、信用できる人間はいないみたいだ。
自分にだけは本心を見せるけれど、
夏休みが終われば、自分は学校の近くのアパートに戻らなければならない。
けれど、そうしたら彼方はどうなるのか。
誰にも本心を見せられない彼方は、どうなるのか。
彼方のことなんて、どうでもいいと思っていたのに、急に京子は心配になった。
「ま、彼方のこと、ちゃーんと面倒みてやってくれよ。」
そう言って、優樹は少し困ったように笑った。




