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「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
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「たった一つ」



登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。日向に好意を寄せていた。

渡辺真紀 バスケ部マネージャー。亮太の幼馴染。

竹内京子 二年生。優樹の妹。

新田百合 一年生。日向の恋人。

桜井虎丸 二年生。日向のバイト仲間。サッカー部。

白崎先生 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

篠田 誠 優樹の店で働く従業員。元ヤンキー。将悟のバンド仲間。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。

梨本浩一 カフェ・フレーゴの店長。

川口順平 カフェ・フレーゴのシェフ。


 「たった一つ」




京子と優樹を見て、『傍にいられるだけでもいい』、

そう思ったけれど、やっぱり自分は日向の一番がよかった。

一番じゃなきゃ、意味がなかった。

でも、もう自分が日向の一番になれないことは、わかってた。

本当は、全部、わかってたんだ。

諦めたくなくて、少しだけ期待をしてしまったんだ。

そしてまた日向を傷つけた。怖がらせた。怯えさせた。

もう諦めないと。日向のことを忘れないと。

もう日向に、自分は必要ない。

日向は自分を望んでいない。

お別れなんだ。





彼方は重い瞼を開ける。

カーテンが開けっ放しになっている窓の外からは、

眩しい日差しが、うっとおしいほどに降り注いでいた。

太陽がてっぺんにある。もう昼だろうか。


なんだか頭がぼーっとする。

思考がぼやける。頭が重い。体も重い。

昨日のことを思い出そうとすると、曖昧だ。

だけど、日向に拒絶されたことだけは覚えている。


体がだるい。

ベッドの下に目をやると、空っぽになった薬のシートが散らばっていた。

そういえば、昨日は発作が起きそうで、いや、京子の前で発作を起こしてしまった。

でも必死に発作を押し込めようと、薬を飲んだ。

海岸沿いで。駅で。電車の中で。ここに帰ってきてからも。

ずっと発作が起きそうで、不安で、苦しくて、薬を飲み続けた。

残っていた薬は、確か五日分だったか。

全部空になっている。五日分も一気に飲んでしまったのか。

どうりで、頭も体も重いわけだ。記憶も曖昧。薬の副作用だ。

どうやって帰ってきたのかも、いつ寝たのかも覚えてない。


ああ、でも、発作が起きて、京子に背中を撫でてもらったのは覚えている。

日向みたいに、心配そうな顔を向けて、必死で、でも優しく背中を撫でてくれた。

本当に、日向みたいだった。

日向だったら、よかったのに。

…駄目だ。日向のことは忘れないと。

もう、無理なんだから。無駄なんだから。


けれど、最後に、自分が日向にしてあげられることが一つだけある。

何もできない自分が、日向にしてあげられる、たった一つのこと。


彼方は重たい体を引き摺り、ベッドから降りて、

クローゼットの奥の奥にある、靴の入っていた空箱を取り出す。

中身は、厳重にタオルで包んで隠した、現金だった。


優樹の店で働いてもらった給料と、客の女と寝てもらった金。

合わせて百万円を超えていた。

汚い金だと思う。けれど、金は金だ。

日向は美容師になりたいと言っていた。

専門学校の学費は、これで足りるだろうか。


最後にこれを渡したら、本当にさよならだ。

いや、日向の顔を見たら、離れられなくなる。

日向が家にいないときに、こっそり置きに行こう。

最後に日向の役に立てるなら、それでいい。

それが今の自分の、唯一の救いだ。


頭の中で、昔好きだった絵本を思い出す。

深海の人魚のお姫様と、陸上の人間の王子様。

あの絵本の結末は、バッドエンドだった。

自分と日向みたいだ。結ばれることはない。

人魚姫は、最後は泡になって消えてしまうんだ。

王子様のことが本当に好きだから、王子様のことを殺せなかったんだ。

人魚姫は自ら犠牲になって、王子様の幸せを願うんだ。

自分も、消えてしまおうか。

だって、日向に愛されないのなら、自分が生きている意味はない。

日向がいないと、生きていけないのだから。


体がふらつく。頭が重い。けど、なんだかふわふわする。

五日分も一気に飲んだから、薬の副作用がひどいみたいだ。

ああ、そうか。もう薬はないんだ。また病院に行かないと。

でも今日は無理だ。体がだるくて、それどころじゃない。


彼方は顔を洗おうと、ゆっくりと部屋の扉を開けて、洗面所に向かう。

体が鉛のように重い。自分の体なのに、自由が利かないみたいだ。

部屋を出て、廊下から玄関を見渡すと、優樹の靴が並べられていた。

そういえば、昨日は仕事を休ませてもらったんだった。

この時間は優樹は眠っているだろうから、あとでちゃんと優樹に謝らないと。


ぼーっとしたまま、顔を洗う。

鏡に映った自分の顔は、ひどい有様だった。

瞼が腫れている。そういえば、昨日は泣き腫らしたんだった。

京子の肩で、子供のように泣き喚いたんだ。情けない。

でも、京子の優しさが、痛かったんだ。


いつも八つ当たりばっかりで、自分にはニコリともしないのに、

時々京子は、自分に優しくしてくれる。慰めてくれる。

どうしてだろう。こんな自分のことなんて、どうでもいいはずなのに。

でも昨日は、その優しさが怖かった。辛かったんだ。

その温もりに縋ってしまいそうで、怖かった。

日向以外の人間に甘えそうになった自分が、怖かった。

誰でもいいわけじゃない。自分には、日向だけなんだ。


鏡に映る自分の顔は、青白く、頬が痩けていた。

薬のせいか、少し浮腫んでいる。

不健康。みっともない。みすぼらしい。

日向とは、全然違う。

自分の体につけられた虐待の痕は、すっかり薄く、綺麗になっていた。

きっと、日向とは違う。

日向の首筋には、ひどい痣があった。

あれは母親がやったのだ。母親が、帰ってきていたのだ。

それなら、きっと、服の下に隠した日向の肌には、もっと色濃い痣が残っているのだろう。

可哀想だ。なんで日向だけ、こんな目に遭わないといけないんだ。


ああ、どうせ死んでしまうなら、母親を殺したっていいじゃないか。

そうすれば、日向はもう苦しまなくて済む。

そうだ。自分には、まだできることがある。

今まで母親の虐待に耐えていたのだって、日向と一緒にいるためだった。

一緒にいれない今、日向を守る方法は、ただ一つ。


鏡の中の自分が言う。


『もう日向と一緒にいられないのなら、

 母親に遠慮する必要なんてないじゃないか。殺してしまえ。』


『どうせ死ぬんだ。人を一人殺したところで、どうってことない。

 あんな母親、いない方がいい。』


『日向を、守りたいんだろう?』


『そうだ、殺してしまえ。』


そこまで考えて、自分の手が震えていることに気付く。

情けなく、みっともなく、ガタガタと肩まで震えていた。


「僕は…何考えてるんだ…。」


声にならない声だった。

確かに口を開いたのに、音にはならなかった。

静かな呼気だけが、空を裂いた。


自分の考えていたことの恐ろしさに、吐き気がする。

なんということを、考えてしまっていたんだ。

人を殺す、だなんて。

できるわけない。そんな恐ろしいこと。


彼方はそんな考えを拭おうと、冷たい水で顔を洗った。

何度も、何度も。目が覚めるように。

悪い考えが、浮かばないように。

ただただ、強迫的に。




どのくらい顔を洗っただろう。

どのくらい洗面所にいただろう。

すっかり顔も手も冷たくなっていた。

彼方は大きく息を吐いて、顔を拭く。

そして、恐る恐る顔を上げて、鏡の中の自分と目を合わせる。


そこに映るのは、自分だ。

みすぼらしい顔の、いつもの自分だ。

情けなくて臆病な自分だ。とても人殺しなんてできるような人間じゃない。

大丈夫。自分は。きっと、大丈夫。間違えたりは、しない。


緊張が解けて、一気に脱力する。

薬の副作用か、緊張したせいか、喉が渇いた。何か飲みたい。

彼方はもう一度大きく息を吐いて、ゆっくりとリビングに向かった。



リビングの扉を開けると、いつものように京子がいた。

ソファーに寝転がり、テレビを付けたまま、雑誌を読んでいるようだった。


「おはよう…。」


彼方は小さく挨拶を呟く。

彼方の声に、京子は顔を上げた。

散々泣いた後に、京子の顔を見るのは、少し恥ずかしい。

あんなに情けない姿を見せて、呆れられていないだろうか。


しかし、京子は気にしていない素振りで、いつも通りの澄ました顔を見せた。


「おはようございます。…ひどい顔ですね。」


ひどい顔。その通りだ。

瞼は腫れて、頬は痩けているのに、顔が少し浮腫んでいる。

おまけに顔色は青白いし、上手く笑うことすら、ままならない。


「自分でもわかってるよ…。昨日は…ごめん。迷惑かけた。」


「…今日は、やけに素直ですね。」


言い訳なんて、しようがない。

京子に迷惑をかけたのは事実だし、発作も見られてしまった。

それに、あんなに取り乱して、驚いている京子の顔は初めて見た。


「…できれば、昨日のことは、忘れて…ほしい…。」


そう呟いた語尾は、小さく消える。

京子と目を合わせることすら、できない。

昨日は京子の肩に顔を埋めて、子供のように泣いて、日向への想いを叫んだ。

思い出すほど、情けなくて恥ずかしくなる。

あんな姿を見せて、引かれたりしていないか、心配だ。不安だ。

今自分は、京子にどんな顔をしたらいいのか、わからなかった。


「残念ながら、私は記憶力がいいんです。」


いつも通りの京子の素っ気ない言葉。

京子は、いつも通りだった。

昨日のことを、なかったことにしてくれているのだろうか。

それとも、京子なりに気を使ってくれているのか。

だとしたら、自分も、いつも通りにしないと。


彼方は目を逸らしたまま、小さく笑ってみせる。


「…そっか。それは、残念だね…。」


自分でもわかるくらい、下手な笑顔だ。

口角が上がりきらない。頬が引きつっている。

自分はこんなに作り笑いが下手だったか。


そんな不器用な笑顔が京子にも伝わったみたいで、

京子はソファーで寝転がったまま、頬杖をついて、ため息を吐いた。


「私の前でくらい、無理して笑わなくてもいいのに。」


「…ごめん。」


上手く笑うことも、気の利いたことも言えず、ただ謝ることしかできない。

自分の情けなさが恥ずかしくて、彼方はリビングの入り口で、迷子の子供のように立ち尽くしていた。


「そんなところで突っ立ってないで、座ったらどうですか。」


京子は向かいのソファーを指さして、彼方に座るように促す。

素っ気ない口調でも、京子なりの気遣いだ。


「…ああ、うん…。」


彼方がソファーに座ると、入れ替わるように京子は、雑誌を閉じて立ち上がる。

京子が読んでいたのは、若い女性向けのファッション雑誌のようだ。

派手な表紙に、若さを感じる。京子はこういう本を読むのか。意外だ。


「アイスコーヒーでいいですか?」


京子はダイニングキッチンへ向かいながら、彼方に聞く。

スリッパがフローリングに擦れるたび、ペタペタと乾いた足音が響いた。


「うん…。」


彼方は小さく頷く。

京子は俯いたままの彼方を見て、食器棚からグラスではなく、マグカップを二つ取り出した。


「…やっぱり、何か温かいものにしましょう。」


返事は、しなかった。

薬の副作用で思考がぼやけているせいか、昨日のことへの後ろめたさか、

今は何も話す気になれない。返事をするのでさえ億劫だ。


けれど、京子は構わずに冷蔵庫から牛乳を取り出して、鍋に注いでコンロの火を点ける。

京子が牛乳を温めている間、二人とも無言だった。何も話さなかった。

付けっぱなしのテレビの音と、キッチンの換気扇が回る音だけが静かに響いた。


京子は温めた牛乳をマグカップに注いで、冷蔵庫から何かを取り出してその中に入れた。

カチャカチャと、スプーンでかき混ぜるような音が聞こえる。

でも何故か、その音も、テレビの音も、換気扇の音も、京子の足音も、どこか遠くに聞こえた。

まるで別の世界にいるみたいに、フィルターがかかっているように感じる。

一人だけ、世界に取り残されたような、そんな感じだった。


「どうぞ。」


気付いたら、コトンと軽い音を立てて、ホットミルクが机の上に置かれていた。

マグカップからは湯気が立ち込めていて、熱そうだった。


「ありがとう…。」


彼方はすぐには口をつけず、しばらく机の上のホットミルクを眺めていた。

猫舌なのだ。このまま飲んだら、火傷をしてしまう。

そんな彼方を気にもせずに、京子は涼しい顔をして、自分のマグカップに口を付ける。

けれど、すぐに口を離し、熱かったのか、わずかに眉間に皺を寄せた。


しばらく待った後、湯気が消えたことを確認して、彼方もマグカップに口を付ける。

京子が淹れてくれたホットミルクは、甘かった。

隠し味に砂糖と蜂蜜を入れたらしい。全然隠せていないと思う。入れすぎだ。

そもそも、真夏の昼にホットミルクなんて、どうかしてる。

けれど、くどいくらいの甘さと温かさに、少しだけ泣きそうになった。

何故だろう。ホットミルクの甘さが、京子の優しさだと感じたのかもしれない。

少しだけ、ほんの少しだけ、安心した。


彼方の顔がわずかに綻んだのを見て、ずっと黙っていた京子は、静かに口を開く。


「…らしくないですね。失恋がなんですか。

 他に、もっといい相手を見つければいいでしょう。」


その目はテレビに向けられていて、彼方を映していなかった。

気にしていない素振りを見せていても、心配してくれているのだろう。

ぶっきらぼうな言い方は、優樹の照れ隠しに少し似ている。


「…もう恋なんて、しないよ。」


他の相手なんて、考えられない。

日向以外なんて、考えられない。

だってこんな自分を、誰が愛してくれると言うのだ。

こんな情けなくて、みっともなくて、臆病な自分を、誰が。


「日向のことは…もう諦めた。」


切なく零した小さな声。

京子は俯いたままの彼方をじっと見つめて、

赤いピアスがなくなっていることに気付く。


「…ピアス、無くしたんですか?」


「…捨てた。あれはもう…いらないんだ。」


赤い色は日向みたいで、あのピアスを付けていれば、

日向が傍にいてくれるような気がして、安心していた。

でも、もう日向に甘えるわけにはいかない。だから、外したんだ。

もう、傍にはいられないから。


「なんかね、『ピアス開けると運命が変わる』って、お客さんから聞いたんだ。

 …結局、迷信だった。運命なんて、変わらなかったや…。」


そう言いながら、彼方はわずかに顔を上げて、京子を見つめる。

京子はマグカップに両手を添えて、上目遣いに彼方を見ていた。


「それって、ピアスを一個開けたら、運命が一つ変わって、

 もう一個開けたら、更に変わるとか言いましたよね。開けた分だけ変わるって。

 どうせ迷信なんだし、思い切って、もっとピアス開けたらいいじゃないですか。誠さんみたいに。

 いっぱい運命が変わって、いい方向に行くかもしれませんよ?」


京子はそう言いながら、少し意地悪そうな笑みを見せる。

その笑みを見て、彼方は京子にピアスを開けてもらおうとしていた時のことを思い出す。

あの時と同じ笑みだ。


「そんなこと言って、京子ちゃん、僕のこと虐めたいだけじゃないの?」


「バレました?」


「あの時、京子ちゃん楽しそうだったからなあ…。」


京子は小さく声を出して笑う。

痛いのは怖い。怖いのも嫌だ。自分は臆病なんだ。

それに『運命を変える』だなんて、これ以上どう変わるのだろう。

変わりようがないだろう。もう自分の傍に、日向はいないんだから。


彼方の沈んだ表情に気付いて、京子は笑顔を引っ込める。

そして、いつもの澄ました顔で、コホンと一つ咳払いをした。


「でも、これからどうするんですか?

 もう家には帰れないって、昨日言ってましたよね?」


京子は真剣な瞳だった。

正直、どこまで京子に話したか、覚えていない。

彼方はぼんやりと靄がかかった頭で、昨日のことを思い出してみる。


泣きながら、とりとめのないことを、たくさん口にした気がする。

日向への想いや、百合への嫉妬。

悲しいとか、苦しいとか、辛いとか。

本当に、思いつくままの言葉を、口に出した気がする。

思い出したら、また恥ずかしくなってきた。


けれど、『これから』か。

正直、死ぬことしか考えていなかった。

日向が受け入れてくれないのなら、死ぬしかないと思っていたのに。

死ぬなんて、怖い。

大体どうやって死ぬというのだ。

高いところから飛び降りるのは、怖い。

刃物で体を裂くなんて、絶対に痛いに決まっている。

怖いのも痛いのも嫌だ。じゃあどうやって?

薬だって駄目だ。ただ少しだけ頭がぼーっとするだけで、

とてもじゃないけれど、死ねるわけない。

眠るように死ぬなんて、できやしない。

どうやって死ぬかなんて、何も考えていなかった。


「…優樹さんの店で、もうしばらく働かせてもらえないかなあ。

 今月いっぱいじゃなくて、とりあえず、来月も。」


ボソッと、彼方は呟く。

先のことなんて、今は考えられない。


「それはお兄ちゃんと相談してくださいよ。でも…」


言いかけて、京子はリビングと廊下が繋がる扉を一度見て、声を潜める。


「学校、どうするんですか?本当に辞めるんですか?あと半年で卒業じゃないですか。

 それに、家出みたいなものでしょう?親に捜索願とか出されたらどうするんです?」


優樹に聞かれることを恐れているのだろう。

テーブル越しに身を乗り出して、京子は小さな声で問う。


「学校は、このまま辞める。

 それと、僕の親は…いないようなものだから、それはない。」


言うべきかは悩んだが、京子は意外と用心深い。

もちろん、心配しているのは彼方のことではなく、優樹のこと。

ちゃんと説明しなければ、後でグチグチと言われそうだ。

それに、京子には隠さなくてもいいような気がする、と彼方は思った。


「いないようなものって…。」


京子は訝しげな表情になる。

そう言えば、彼方から家族の話を聞いたことがない。

日向のことはよく話すのに、母親や父親の話は避けているように思う。


彼方は、また作り笑顔で笑う。

さっきよりは上手な笑顔だ。ちゃんと口角が上がっている。

けれど、瞳は凍っていた。


「僕の親は小っちゃい頃に離婚しててね、父親はもういないし、

 母親は…全然帰って来ないよ。ずっと、日向と二人でほったらかしだった。」


静かに言葉を紡いで、彼方は悲しげな薄笑いを浮かべる。

テレビから聞こえる笑い声が、場違いだ。

京子は慣れた手つきでテレビのリモコンを操作して、チャンネルを変える。

笑い声が絶えない賑やかなバラエティ番組の再放送から、

静かに淡々とした口調のキャスターが話すニュース番組へ。


「ネグレクト、ですか。」


ポツリ、と京子は呟く。


「なにそれ?」


「虐待の一種ですよ。育児放棄。」


京子はテレビ画面に目を向けながら言うが、

流れているニュースは、どこか遠い町での殺人事件だった。


「育児って…僕ら、もうそんなに子供じゃないよ。」


首を傾げながら、彼方は問う。

だって、日向がいれば、何不自由なく生きてこれたんだ。

あんな母親を必要としたことなんて、ない。いない方がマシなんだ。


「でも、立派な虐待ですよ。

 だから、彼方さんはそういう風になっちゃったんじゃないですか?」


そう言って、京子は真っ直ぐな瞳で彼方の顔を見つめる。

憐れむような、慈しむような瞳だった。


「そういう風って、どういう風?」


京子は小さくため息を吐く。



「もっと、自分を大切にしてあげたらどうですか。」




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