表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
80/171

「狡い人」



登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。

渡辺真紀 バスケ部マネージャー。

竹内京子 二年生。

新田百合 一年生。日向の恋人。

白崎先生 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

篠田 誠 彼方と同じ優樹の店で働く従業員。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。


「狡い人。」




時刻は夜八時。

京子はリビングで、付けっぱなしのテレビを見ていた。

特にテレビが好き、と言うわけでもなく、面白い番組があるわけでもない。

優樹と誠は仕事に行ってしまったし、一人では何もすることがないのだ。

せっかく夏休みは兄のマンションで過ごしているのに、

兄と過ごせる時間は驚くほど少なかった。

仕事があるのは仕方ないと思うし、

その仕事も、自分とちゃんと学校に行かせるためだとも、わかっている。

だから京子は、「もっと一緒にいたい」なんてワガママは言わなかった。

そんな子供のようなワガママなんて言えない。

少しでも、ほんの少しでも、兄と過ごせる時間があれば、幸せだ。


けれど、兄のマンションは広すぎて、一人で過ごすには、少し寂しかった。


そういえば、彼方がまだ帰ってきていない。

昨日の仕事が終わって、寝ずに昼前に出掛けて行ったきりだ。

こっちで過ごしている時に、彼方が一人で出かけるのは珍しかった。

買い物にせよ、何にせよ、いつもは兄と行動を共にしていたから。

一人で出かける用事。兄や、誠に、内緒にしたい用事。

きっと、日向に会いに行ったのだろう。


あれだけ尻込みしていたのに、やっぱり彼方は日向のことが好きなのだ。

会うのが怖いとか言いながら、やっぱり日向に会いたいのだ。

最初は同性愛なんて、と思ったが、兄に恋心を抱いている自分が、

人のことをどうこう言える立場ではない。

愛の形は人それぞれ。愛の形は色々ある。わかってる。

彼方にとっては、日向がかけがえのない人間なのだ。


兄の携帯に、彼方から「今日仕事を休みたい」と連絡が入ったのは夕方。

それ以上は兄は何も言わなかった。

彼方が仕事を休むと言うことは、

日向と仲直りできて、一晩自分の家で日向と過ごすことにしたのか。

それとも、やっぱり思い通りにいかなくて、落ち込んでいるのか。

後者の方が可能性の方が高いな、と京子は頭の隅で考えた。


玄関の方からガチャ、という音がする。扉が開いた音だ。

彼方が帰ってきたのだろう。

仲直りできたにしては帰ってくるのが早い。

上手くいかなかったのだろうか。

その足音は京子がいるリビングには向かずに、手前の方で止まった。

そして静かに扉が開く音が聞こえ、閉める音がした。


優樹のマンションは3LDK。

京子がいるリビングダイニングが一番奥にあって、廊下を挟んで玄関までに3部屋ある。

優樹と京子の部屋が隣り合わせで、向かいに彼方の部屋と洗面所、風呂場、トイレがある。

いつもは帰ったらリビングに顔を出すのに、今日は真っ直ぐに部屋に入ってしまったのか。

相当落ち込んでいるのだろうか。


京子はリビングを出て、玄関に向かう。

玄関には、彼方の革靴が脱ぎ散らかっていた。

やっぱり彼方が帰ってきている。

それにしても、彼方も、優樹も、靴を揃えない。

横着と言うか、おおざっぱと言うか…そういうところは男だなあ、と京子は思う。

脱ぎ散らかった二人の靴を揃えるのは、いつも京子の役目だった。


いつものように、京子は彼方の靴を揃える。

そして、彼方の部屋の前に立った。

静かだ。物音一つさえしない。


「彼方さん?帰ったんですか?」


京子は扉越しに声を掛ける。

壁を挟んだ向こう側で、彼方はどんな顔をしているのだろう。


「…ごめん。…今は、誰とも喋りたくない。」


扉越しに聞こえた声は、弱弱しかった。

それは耳を澄まさないと聞こえないくらい、小さくて不安定な声だった。

やっぱり、何かあったのか。


「日向さんに、会ってきたんですか?」


「…。」


返事は、なかった。

おそらく図星だろう。

彼方が仕事を休むなんて、初めてだ。

こんなにも落ち込むのは、日向のこと以外にありえない。


「いきなり仕事を休むって言い出すから、お兄ちゃんも、誠さんも、心配してましたよ。」


「…ごめん。」


聞こえるか、聞こえないかくらいの小さな声が、扉から漏れる。

素直に謝るなんて、珍しい。

いつもは適当な言い訳でも並べるのに。

そんな気もおきないくらい、参っているのか。


こういう時の彼方は、危うい。

日向から離れるために、こうして夜の仕事を始めたり、

「自殺」と言う言葉を匂わせて、煙草を吸いだしたり。

またそんな馬鹿なことをしなければいいが。

一人で考えたいこともあるだろう。

でも今は、そっとしておくことができなかった。


「…入っても、いいですか。」


そう言って、京子はドアノブに手を掛ける。

硬く無機質な、金属特有のひんやりとした感触。


「…ほっといてくれないかな。」


拒絶の言葉が聞こえる。

けれど、彼方をこのままにしておいては、いけない気がした。


「ほっとけるわけ、ないでしょう。」


京子は、構わずに扉を開けた。

静かな部屋に、ドアノブを回す乾いた音だけが響く。

扉を開けると、灯りもつけずに、彼方は上着を着たまま、

両手で抱えた枕に顔を埋めて、ベッドに俯せになっていた。

ベッドの脇には、薄い処方箋袋のようなものが乱雑に置かれている。

その袋の口からは銀色の薬のシートが覗いていて、その中身は空っぽだった。

何の薬だろう。具合でも悪いのだろうか。


「ほっといてよ。…また、ひどいことするかもよ?」


枕越しの、くぐもった声。

彼方は枕に顔を埋めたまま、京子の方を見ようとはしなかった。

精一杯の強がりだろう。その声は震えていた。


「それで気分が晴れるなら、どうぞ。」


京子は、冷静な声で彼方に答える。

そして、彼方の部屋に入って、静かに扉を閉めた。

電気もつけていない暗い部屋は、どこか寂しかった。


「…なにそれ。…馬鹿なこと言わないでよ。」


「馬鹿なことばっかりしているのは、貴方でしょう?

 見ていられないんですよ。彼方さんは本当にお馬鹿すぎて。」


京子はため息を吐きながら、彼方のベッドに近付く。

部屋は暗いけれど、カーテンを開けっ放しにしている窓からは、

外の街灯の灯りが漏れていて、全くの暗闇というわけではなかった。


彼方の部屋は、お世辞にも綺麗とは言えない。

脱ぎ散らかした服や、飲みかけのお茶が入ったペットボトルなどが床に散乱している。

足の踏み場がないほどではないが、もう少し片付けた方がいいと思う。

京子は、床に散らばる服や、ペットボトルを避けてベッドに腰掛けると、

彼方が肩を震わせて、浅い息を繰り返していることに気付いた。

息切れをしているような、ハッ、ハッという、息苦しそうな浅く速い呼吸。


「彼方さん…具合、悪いんですか?」


京子は心配そうに、彼方の肩に手を伸ばす。

その肩は夏休み前に比べて、ずいぶん細く、華奢になっていた。


「…平気だから…っ、構わないで…。」


「構わないでって…。」


浅い呼吸交じりの言葉は、苦しそうだった。とても平気そうには見えない。

何かの病気だろうか。命に関わるようなものだったら、どうしよう。

こんな時間に、近所の診療所はやっていない。

大きな病院も遠いし、京子一人では彼方を運べない。

どうしよう。どうしたら。どうすれば…。

京子は混乱した頭で必死に考える。


「そうだ、救急車…っ!」


京子は思いついたように声を上げる。

早く救急車を呼ばなくては。

携帯電話はリビングに置きっぱなしだ。

京子は彼方に背を向け、慌ててリビングに向かおうとする。

けれど、その手は彼方に掴まれた。


「馬鹿じゃないの…っ。救急車なんて呼んだら…全部バレちゃうでしょ…っ。」


掴まれた手はけして力強いものではなく、簡単に振り払えるほど弱弱しかった。

彼方の言っていることは正しい。

救急車を呼んで病院に行けば、保険証やカルテで彼方の年齢がわかってしまう。

そこまではいい。けれど、何かの弾みで、優樹にまでバレる可能性があるかもしれない。

それに、何かあった時に、カルテを辿って優樹のマンションの住所が、誰かに漏れてしまうかもしれない。

例えば日向に。例えば彼方の親に。それでもし、彼方が年齢を詐称して夜の仕事をしていることもバレたら…。

それはマズい。優樹の立場が危うくなる。


「でも…。」


振り返って彼方を見れば、彼方は京子の手を掴む手とは反対の手で口元を覆って、

肩を上下させて、顔を歪めて、苦しそうな浅い呼吸を繰り返している。

優樹に迷惑をかけるわけにはいかない。

けれど、彼方をこのままにしておけない。

京子は覚悟を決めて、携帯電話を取りにリビング向かおうと、彼方の手を振り払おうとする。

しかし、彼方は、京子の手を握る力を強めた。


「大丈夫…。ただの発作だから…すぐ…治まるから…っ。」


「発作…?」


彼方は息をするのも苦しそうなのに、必死に救急車を呼ばせまいと、京子の手に縋りつく。

上手く呼吸できないのか、不安定で曖昧な息を吸う乾いた音が、部屋の中に寂しく響いてる。

それでも、彼方は京子の手を離そうとはしない。


「本当に、すぐ治まるんですか…?」


そう京子が聞くと、彼方は声は出さずに小さく頷いた。

信じていいのだろうか。本人はそう言うが、すごく苦しそうだ。

けれど、ギュッと握られた手は力強くて、京子はどうしようもなかった。

どうにかして、彼方の苦しみを取り除いてあげたい。

自分に、何ができるだろう。


京子は、苦しそうに肩を震わす彼方の背中を撫でた。

子供をあやすように、優しく、優しく。

そういえば、自分も幼いころに、よく兄にこうしてもらった気がする。

悲しいこと、怖いことがあると、こうやって兄は自分の背中を撫でて慰めてくれた。

自分と違う兄の暖かい体温が、酷く心地よくて、安心したのを覚えている。


京子は、何度も、何度も、彼方の背中を撫でた。

苦しみがなくなるように。悲しみがなくなるように。安心して落ち着けるように。

優しく、ゆっくりと、体温が伝わるように。


京子の願いが届いたのか、しばらくして、彼方の呼吸はゆっくりと落ち着いてきた。

まだ少し顔色は悪いが、呼吸は安定しているようだ。


「落ち着きましたか?」


京子は背中から手を離して聞く。

覗き込んだ彼方の顔は、青白く、疲れているようだった。


「うん…。ごめんね。こんな姿見せて。びっくりしたでしょ?」


そう言って、彼方は取り繕って笑う。

ああ、下手な作り笑いだな、と京子は思った。

いや、まだ作り笑いをする余裕なんてないのだろう。


「…何かの病気なんですか?」


ベッドに散乱する処方箋袋を見つめる。

空っぽになった、たくさんの銀のシート。

何の薬だろう。知らない名前が書いてある。

大きな病気を抱えているのだろうか。


「ただの過呼吸だよ。別に命に関わるものじゃない。

 だから…今日見たことは、誰にも言わないで。」


過呼吸。ああ、ドラマや映画でよくあるアレか。

だが、実際に目の当たりにしたのは初めてだった。

ドラマや映画とは全然違う。あんなに苦しそうで、辛そうなのか。

いつも悪態をついて、八つ当たりをして、

彼方なんてどうでもいいと思っていたのに、あんな苦しそうな姿を見て、

京子は彼方が死んでしまうのではないかと、不安になった。怖くなった。


「言いませんよ。お兄ちゃんが聞いたら、絶対大騒ぎしますもん。」


そんなことを思ったなんて悟られまいと、澄ました顔で答える。

悔しいから、心配したなんて、不安になったなんて、言ってやらない。


その強がりが、彼方にも伝わったのだろうか。

彼方は京子を見て、小さく笑った。


「…京子ちゃんは、意外と優しいよね。…日向みたいだ。」


伏し目がちの下手な微笑みで、彼方は寂しそうな声を洩らす。


本人は否定するが、やっぱり彼方は痩せたと思う。

元々体格がいい方ではなかったが、さらに華奢になった。

細くなった肩が、少し頼りなく見える。

日向と離れて、彼方は脆くなった。

いや、元々脆くて、弱い人間なのかもしれない。


「やっぱり、日向さんと何かあったんですか?」


そう京子が聞くと、彼方は悲しそうに顔を歪めた。

この質問は少し意地悪だったか。

口に出して聞かなくても、それ以外の理由なんてないだろう。


「…日向の傍に、僕の居場所はなかった。…もう、日向のところには…帰れない。」


長い睫毛を揺らして、彼方は小さな声で呟く。

ベッドの上で膝を抱えて、背中を丸めたその姿はまるで、

幼い子供が、孤独に怯えているようにも見えた。


「日向の傍に、いたかったな…。日向に、…愛されていたかった。

 でも、もう…本当に無理なんだ…。」


彼方は目を伏せて、たどたどしい言葉を紡ぐ。

消え入りそうな小さな声は、今にも泣きだしてしまいそうに震えていた。

その姿があまりに切なくて、京子は何も言えなくなってしまう。


「…あーあ。馬鹿みたい。…僕、独りぼっちになっちゃった。

 もう誰も、…愛してくれない。」


そう言って、彼方は自嘲気味に笑う。

その表情が、京子の心に深く突き刺さった。


なんて可哀想な人なんだろう。なんて不器用な人なんだろう。

この人は、ただ愛されたかっただけなのだ。

愛が欲しかっただけなのだ。居場所が欲しかっただけなのだ。

自分と一緒で、好きな人の傍に居たかっただけなのだ。

けれど、それが叶わなかった。いや、叶うはずがなかった。

けれど、心の隅で期待を持ってしまっていたのだ。

疑うことを知らない、純粋な子供のように。

期待を持ってしまった分、叶わなかった時の絶望は大きい。


彼方を支えられるのは、日向しかいなかった。

けれど、日向の傍にいられなくなった今、誰が彼方を支えられるのだろう。

支えを失った彼方は、どうやって生きるのか。


京子の目の前の、脆く儚い少年は、今にも壊れてしまいそうだった。

いや、もう随分前から、壊れてしまっていたのかもしれない。


京子はそっと、彼方を抱きしめる。

彼方は一瞬驚いたような顔をして、すぐに苦しそうに顔を歪めた。


「…京子ちゃん、僕のこと好きじゃないでしょ?」


自分でも、なんでこんなことをしたのか、わからない。

けれど、今はこうしないといけないと思った。

そうじゃないと、彼方が消えてしまう気がした。


「ええ。でも…嫌いではないですね。」


正面から腕を回して、体温を分け与えるように彼方を包み込む。

少しでも、彼方の寂しさが癒えるように。壊れてしまわないように。

そして、優しく髪を撫でた。傷んだ茶髪が、不安そうに指に絡まる。

彼方は拒絶しなかった。いや、できなかったのだろう。

誰かの温もりを欲しがる、寂しがりだから。


「やめてよ…。こういうの…一番ズルい。」


「それは貴方でしょう?」


「…馬鹿。」


彼方は、京子の肩に顔を埋めて泣いた。

幼い子供のように、みっともなく泣きじゃくった。

プライドや自尊心なんてなかった。

ただただ、恥を捨てて、情けないほど泣いた。

そんな彼方を、京子は幼子をあやす母親のように、優しく慰めた。







結局、日向は落ち込んでいる理由を話してはくれなかった。

何が日向を悩ませるのか、不安にさせるのか、百合にはわからない。

その不安を分かち合いたいと思っていても、日向は口を開こうとはしない。

心配させるのが嫌なのだろうが、自分はそんなに頼りないのだろうか。

日向の一番近くで、誰よりも日向を支えたいと思っているのに。


隣で眠る日向を見つめてみる。

眉を寄せて、低く唸り、うなされているようだった。

どんな夢を見ているのだろう。

怖い夢?悲しい夢?苦しい夢?辛い夢?

日向にとって、いい夢ではないことは確かだろう。

その夢の中に、自分はいるのだろうか。

夢の中の自分は、日向を救えるのだろうか。

この寂しい人を、癒してあげられるのだろうか。


「…かな…た…。」


眉間に皺を寄せて、小さく呟いた寝言は、自分の名前を呼ばなかった。

わかってる。日向に自分は必要だ。これは自惚れなんかじゃない。

けれど、同じくらい、日向にとっては彼方も必要なのだ。

自分が好きな寂しいこの人は、自分が嫌いな寂しいあの人のことも、必要としているのだ。

日向が大切にしてるのは、自分だけじゃない。


じゃあ自分には何ができるのだろう。

日向のために、何をしてあげられるのだろう。

自分がこうして傍にいることで、日向を少しでも癒せているのだろうか。

朝になって目が覚めたら、日向はいつもの小さな微笑みを見せてくれるだろうか。



百合は日向の手を握って、目を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ