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「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
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「残酷な我儘」


登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。

渡辺真紀 バスケ部マネージャー。

竹内京子 二年生。

新田百合 一年生。日向の恋人。

白崎先生 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

篠田 誠 彼方と同じ優樹の店で働く従業員。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。


「残酷な我儘」




「彼方…俺、…彼女ができたんだ。」


日向の口から出た言葉は、とても残酷なものだった。

電車の中であの少女から聞いたことと同じ、

彼方が望んでいたはずの、残酷な現実。

日向の口から、そんな言葉、聞きたくなかった。

そんなことを、優しい微笑みで伝える日向が、信じられなかった。


「彼女って…あの子?」


彼方は引きつった顔で、日向に問う。

こんなことを聞いたって、何の意味もない。

もう百合から日向と付き合っているということを、聞いてる。

けれど、彼方は、何と言えばいいか、わからなかった。

日向に彼女ができて、進路が決まって、日向が幸せな道へ進むことを、

ちゃんと祝福できると、そう思っていたのに、

この口は、上手く言葉を紡げなくなっていた。


「うん…。あの…図書室の、ちっちゃい子。」


日向は少し照れくさそうに、頬を掻く。

はにかんで笑うその仕草が、彼方の心に深く突き刺さる。


なんだ、日向も満更でもないようだ。

あの子の片思いだけなら、よかったのに。

日向は優しいから、その好意を拒否できなくて、

「仕方なく」付き合っているだけなら、よかったのに。

日向も百合のことを、想っているのか。

日向も百合のことが、好きなのか。


「だから彼方…。百合には…手を出さないで。」


その言葉に、彼方は呆然として、言葉を失う。

何も言えないまま日向を見つめると、日向の瞳は、真剣だった。


そんなにあの子のことが、大切なのか。

日向は、自分よりも、あの子の方が、大切なのか。

日向の一番は、ずっと自分だったのに。

ずっと日向は、自分のものだったのに。


信じられない。

これは全て、夢なのではないかと疑う。

自分の瞳に映る日向は、自分を映してはいない。

いや、目の前の自分を、ちゃんと確かに見据えている。

けれど、何かが違う。今までとは明らかに違う。

日向の心の中の、自分の居場所が、ズレた気がした。


呆然と日向を見つめると、彼方は日向の首筋に、

不自然に貼られた絆創膏に気付いた。


「この絆創膏…。」


彼方はその絆創膏に手を掛ける。

そこは確か、自分が噛み跡を付けた場所だ。

自分のモノだという、独占欲に溢れた印をつけた場所だ。

どうして隠しているのか。見られて困るものなのか。

その下には、何が隠れているのか。


「あっ…やめろ彼方…っ!」


無理矢理に剥がした絆創膏の下に隠れていたのは、赤いキスマークだった。

それも、彼方が残した噛み跡の上に、何ヶ所も何ヶ所もつけられていた。

小さな、拙い、独占欲。

それはまるで、自分に対するあてつけのようだった。


「なんで…っ。」


ああ、本当に嫌な女だ。

その赤い印が、日向はあの女のモノだと、

日向の隣に自分の居場所はないのだと、そう嘲笑っている気がする。


花弁のように散らばる、赤い印。

どうして日向は、こんな印を付けられているのか。

こんな印を大切そうに隠す日向に、彼方は悲しみが込み上げる。


「…なんで…っ!日向、言ったじゃない…っ!

 もっと痕つけてって…僕に言ったじゃない…っ!

 なのに…なんで…こんな痕…っ。」


悲痛な声を洩らし、彼方はその赤い印に、爪を立てる。


噛み跡を付けた夜のことを、覚えていないわけがない。

日向が「もっと」と言って、求めたのだ。

そして、付けられた噛み跡に、満足そうに微笑んだのに。

ああ、邪魔なあの女の赤い印を、掻き消してしまいたい。

爪を立てて、皮膚を抉って、全部消してしまいたい。


「やめろって…っ!」


しかし、その手は日向に振り払われた。

彼方の手を振り払った日向は、大切そうに首筋を手で覆う。

それはまるで、大事な宝物を守るように。


その姿を見て、彼方は絶望した。


その印は、そんなに大切なものなのか。

自分の手を振り払ってまで、守りたいものなのか。

もう日向は、自分のことを、何とも思っていないのだろうか。

自分の印を上書きしてまで、残したいものなのか。


彼方は、肩を落として俯く。


「…ねえ、僕のこと…好き?」


「え…?」


ポツリと零した彼方の小さな声に、日向は困惑するような声を洩らした。


「僕とあの子、どっちが好き?」


彼方は俯いたまま、言葉を続ける。


嘘でもいい。自分を選んでほしかった。

日向は優しいから、自分を選んでくれる。

そう信じたかった。

そう信じて、いたかった。

そう信じるしか、なかった。


「…そんなの…どっちも大事に決まってるだろ。」


躊躇いがちに口を開いた日向の言葉は、以前とは違った。

これまでは、自分だけを選んでくれていたはずなのに、

その言葉には、あの女の影がチラつく。


「どっちか、選んでよ。」


彼方は顔を上げて、日向を見つめる。

真剣な瞳を向けると、日向は戸惑うように顔を背けた。


「選べるわけ…ないだろ…。」


困ったように伏し目がちになる、そんな日向の瞳が好きだった。

その瞳に映るのは、自分だけだったのに。


「僕のことが好きなら…あの子と別れて。」


目を背ける日向の頬に、手を添える。

その瞬間、驚いたように日向の体が震えた。

こちらを向かせて視線を合わせると、日向は少し怯えたような表情をした。


またキスされるとでも思ったのか。

ああ、でもこのままキスしてしまうのも、いいかもしれない。


頬に手を添えたまま、彼方は日向の唇を指でなぞる。

少し荒れてカサついた日向の唇は、柔らかかった。


「…嫌だ…。」


日向は目を逸らして、弱弱しい声を洩らす。

それは、あの女と別れることが嫌なのか、

それとも、唇をなぞられて、キスされるかもしれないことが嫌なのか。


強くは抵抗しないが、日向はソファーの隅にまで仰け反っていた。

彼方は日向を見据えたまま、静かな声で呟く。


「あの子のことを選ぶなら…僕は、もう…日向の傍にいられない…。」


その言葉に、日向は眉間に皺を寄せて、一層辛そうな顔をした。


そんな顔をするのなら、迷わず自分を選んでくれればいいのに。

どうして、迷う必要があるのか。

どうして、躊躇う必要があるのか。

全部、あの女せいだ。


長い睫毛を揺らして、日向は消え入りそうな声を洩らす。


「…そんなの…嫌だ…。」


以前は、迷うことなんてなかったのに。

何の躊躇いもなく、自分だけを選んでくれていたのに。

今の日向は唇を噛み締め、自分を見ようとはしない。


「ねえ、日向。…日向は、どっちを選ぶの?」


真っ直ぐに見据える彼方の視線が痛いくらいで、日向はギュッと目を瞑る。


選べない。選べるわけがない。

百合は大切にしたい恋人で、彼方はずっと一緒に過ごしてきた兄弟だ。

どっちか、なんて自分に選べるはずがない。

自分にとっては、どちらも大切だ。どちらも必要だ。


ゆっくりと目を開けて、日向は自分の頬に添える彼方の手を握った。


怖い。彼方の目が見れない。

この言葉を、彼方はどう受け取るのか。

怖くて、逃げてしまいたいほどだった。


「彼方も、…百合も、どっちも大事だ。…選べない。」


絞り出すような、拙い声。


「駄目だよ。…選んで。」


彼方の声は、力強かった。


これが最後のチャンスだと思った。

今ここで、日向が自分を選べば、二人は元に戻れる。

世界から背を向けて、元の箱庭に閉じ籠っていられる。

二人で、二人きりの世界で、生きていける。

でも、そうじゃなかったら。


日向の頬に添える手に、力が籠る。


「ねえ…っ。僕だけを、選んでよ…。」


縋るような気分だった。

この狭い箱庭には、他人なんていらない。

日向と自分と、二人だけで完結している世界でいい。

あんな女なんて、いらないはずだ。

この箱庭には、必要ない。

必要ないんだ。


彼方の手が震えた気がした。

日向は、恐る恐る彼方を見る。

彼方は辛そうな、苦しそうな顔をしていた。

今にも泣き出してしまいそうな顔で、自分を痛いほど見つめていた。


「なんで…。彼方が…言ったんじゃないか。

 『進路決めろ』って、『彼女作れ』って…。

 なのに…なんで…こんな…。」


日向も、辛そうな顔だった。

不安そうに揺れる瞳で、困惑したようにたどたどしい言葉で、

弱弱しく薄い唇で、疑問を投げかける。

その姿が、やけに脆くて儚くて、彼方は溜息が漏れる。


「僕のことが好きなら、日向からキスしてよ。」


その言葉に、日向は目を丸くして、口をわずかに開く。

驚いたというより、戸惑うような表情だった。


「…何言って…。」


もういっそ、不器用な言葉なんていらない。

望んだ言葉が与えられないのなら、キスで示してほしい。

その薄く柔らかい唇で、自分のことが好きだと、そう伝えてほしい。

そうしてくれれば、まだ、まだ、やり直せる気がした。


「あの子にはキスできて、僕にはできないの?」


再び、日向の唇を指でなぞる。

緊張しているのか、その唇はカラカラに渇いていた。


「だって…百合は彼女で…彼方は兄弟だし…。」


日向は躊躇いがちに言葉を洩らし、唇をなぞる彼方の指をどけて、

キスを拒むように、自分の口元を手で覆う。


「…それに…男同士で、そんな…おかしい…だろ…。」


口元を手で覆って、目を逸らす日向に、彼方は泣きたいような気持になった。

日向が自分を拒んだことなんて、なかったのに。

無理矢理にキスをしたあの夜だって、日向は戸惑いながらも受け入れてくれた。

なのに、目の前にいる日向は、自分を拒んでいる。


「おかしくないよ。男とか、女とか、関係ない。

 …僕は、日向が好きだよ。」


もう自棄になっていた。

きっと、日向はあの女に毒されているんだ。

自分が日向を、元に戻さないと。

昔読んだ絵本のおとぎ話だって、

呪いを掛けられたお姫様に、王子がキスをすれば、呪いがとける。

日向の目を覚まさないと。


彼方は日向の顎を掴んで、無理矢理に引き寄せる。


「彼方…っ!やめろ…っ!」


日向は強く抵抗した。

自分を押しのけようとする手首を掴んでも、顎を引いて、必死で顔を背けようとする。

それでも、彼方は止めなかった。

無理矢理に、抵抗する日向の肩を掴んで、逃げられないように、ソファーに押し込める。

狭いソファーの上、激しい攻防の末、もつれ合って、日向を押し倒すような形になった。


「日向…。」


これ以上抵抗ができないように、彼方は日向に馬乗りになって、

キスを拒もうと、口元を覆う細い両手首を掴む。


「嫌だ…!彼方…っ!」


日向は怯えた表情をして、必死で顔を背ける。

その長い睫毛の先の揺れた瞳は、涙が滲んでいるようにも見えた。

もういっそ、無理矢理でもいい。

無理矢理にでも、日向が自分のものになってくれたら、それでいい。

彼方はゆっくりと、日向に顔を近づける。


「やめろ…っ!百合に…百合に、嫌われたくない…っ!」


その言葉に、彼方は呆然とした。

日向が呼んだのは、自分の名前ではなく、あの女の名前だった。

絶望が押し寄せる。

日向は自分ではなく、百合を選んだのだ。

もう自分の居場所はないのだと、もう自分は必要ないのだと、

そう言われているも、同然だ。


彼方は日向の手首を握る手を離して、肩を落とす。


自分は何をやっているのだろう。

馬鹿みたいだ。とんだ道化だ。

無理矢理にでも、日向を手に入れたかったのに。

自分だけのものでいてほしかったのに。


変わることを怖がっていたはずの、日向が変わってしまった。

目の前にいるのは、もう自分の知っている日向じゃない。

なんなんだ。これは一体誰なんだろう。

ああ、そういえば、自分の知っている日向は、もっと髪が長かった。

日向の姿をした、知らない誰か。

自分は今、誰と話をしているのだろう。


日向の幸せなんて、望まなければよかった。

どうして、間違えてしまったのだろう。

どうして、昔のままではいられなかったのだろう。


でも一つわかるのは、全てを壊したのは、自分自身だということだった。

日向の幸せを願うなんて、馬鹿なことを考えたから、こうなってしまった。

自分が「彼女でも作ったら」と、強がって日向を突き放したから、

わざと日向から遠ざかったから、日向は変わってしまった。

全部、自分が間違えたからだ。


カラカラに乾いた、自嘲的な笑みが零れる。

もう、戻れない。戻れるはずがない。


「僕は、日向のことが…好きだよ。

 …でも、僕のだけのものになってくれない日向が、嫌いだ。」


涙が一つ、零れた。

本当は子供のように泣き喚きたいけれど、そんなことはできなかった。

憔悴しきった頭はやけに冷静で、これ以上日向の傍にいてはいけないと告げていた。


ゆっくりと、日向の体の上から離れる。


「彼方…?」


日向は戸惑う様な声を洩らして、身を起こしたが、

彼方は、日向の顔を見ることはできなかった。

哀れだ。惨めだ。消えてしまいたい。

日向の心の中に自分の居場所がないのなら、

その瞳に自分を映してほしくはなかった。


居た堪れなくなって、彼方は日向に背を向けて立ち上がる。

これ以上、ここにはいられない。

もう二度と、日向の傍にはいられない。


「ごめんね。もう二度と、日向の前には現れないから。」


その声は、自分でも驚くくらい、冷静だった。

心が乾ききって、感情なんて、もうなくなってしまったんじゃないかと、錯覚させられる。


「どういう…意味だ…?」


彼方の冷たい鉄のような無機質な言葉に、

日向は不安になって、彼方の服の裾を掴む。


そんな縋るような日向の手に、恐怖を感じた。

受け入れてくれないくせに、自分だけを選んでくれないくせに、

離れるのは嫌だなんて、それは子供のような我儘だ。

今の自分には、残酷すぎる。


長い睫毛も、不器用で無口な低い声も、器用で優しい指先も、

控えめに小さく笑う姿も、少し猫背気味な背中も、素直に甘える黒髪も、

口には出さないけれど、孤独を嫌がり寂しがりな日向も、好きだった。

全部全部好きだった。

大切に、していたかった。


「もうこの家には、帰れない。」


これで最後だ。

なんてあっけない別れだろう。


彼方は日向の手を、ゆっくりと振り払う。


「じゃあ元気で。…バイバイ。」



振り返りもせずに呟いた言葉は、静かな部屋に寂しく響いた。



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