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「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
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「強い決意と少しの揺らぎ」

登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。

渡辺真紀 バスケ部マネージャー。

竹内京子 二年生。

新田百合 一年生。日向の恋人。

白崎先生 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

竹内優樹 彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

篠田 誠 彼方と同じ優樹の店で働く従業員。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。



 「強い決意と少しの揺らぎ」




家に帰って、しばらく経った。

将悟に心配されたが、恐れていた母親は、既に家にはいなかった。

少し拍子抜けしたけれど、きっと、またしばらく帰ってくることもないだろう。

一度出ていけば、一ヶ月は帰って来ない。

半年帰って来ないこともあったのだから、もう二度と帰って来なくてもいいのに。

そう思って、日向は無残に散らかった部屋を片付けた。


彼方がいない静かな家は、やはり少し寂しい。

けれど、きっと彼方は、夏休みが終われば帰ってくる。

そう信じることしか、今の日向にはできなかった。


置きっぱなしだった携帯には、

百合からのメールや着信がたくさん来ていた。

メールの内容は、日向の身を案じたものや、謝罪が綴られていた。

百合を泣かせてしまったこと、不安にさせてしまったこと、

それなのに、百合は自分の身を案じてくれたことに、心が痛んだ。

それと同時に、もう二度と百合を悲しませたくないと、日向は強く思った。



しかし、相変わらず、彼方からの連絡はなかった。


―男同士で、そんなふうにくっつくの、おかしいと思うよ…。


あんなことを言われた手前、なんと連絡を取っていいかわからず、

今はそっとしておこうと、日向から連絡を取ることはなかった。

夏休みが終われば、彼方も帰ってきて、全部元通りになる。

そう信じることしか、できなかった。


けれど、こんな弱い自分のままではいられない。

変わりたいと、強くなると、百合に誓った。

そのために、日向は今の環境を変えようと思った。


手始めに、髪を切って、バイトを始めた。

近くの飲食店の調理の仕事。

初めてするバイトは、最初はわからないことばかりで大変だったけれど、

面倒見のいい店長や、他のスタッフ優しくしてくれて、すぐに馴染めた。

人と関わるのは苦手だけれど、変わるために、少しずつ慣れていこうと努力した。


そのころにはすっかり頬の腫れも引いて、傷も少し薄くなっていた。

首筋の痣や、体中の傷は、まだ色濃く残っているけれど、

バイト先の人たちは、気にしている様子こそ見せたが、深くは聞いてこなかった。

それよりも、百合がつけたキスマークを茶化されたりして、

バイトに行くときだけは、絆創膏で百合の印を隠した。


卒業後の進路は、まだ悩んでいる。

けれど、進学するためには、とりあえず必要なのは学費だ。

彼方のことや、学費のこと、色々考えることもあるけれど、

働いていれば、少しは気が紛れた。


毎日朝からバイトをして、それが終わったら百合と過ごした。

慣れないバイトで体は疲れているけれど、百合の笑顔を見たら、

疲れなんて、まるで嘘のように消えていった。


「髪の毛、すっかり短くなっちゃいましたね。」


百合は、短くなった日向の髪を指で梳きながら、ポツリと呟く。


夕暮れ時、二人は日向の家のリビングで、

ソファーに身を寄せ合いながら、映画を見ていた。

たまたまテレビを付けたら放送していた、数年前に流行ったミステリー。

その映画も終わりを迎えて、画面にはエンドロールが流れていた。


「長いと暑いし、バイトもあるからな。」


日向は、百合の手に自分の手を重ねて、小さく微笑む。

指先から伝わる、百合の優しい体温が好きだった。


「私は長いのも好きですよ。

 もちろん、今の髪が短い日向先輩も、大好きです。」


そう言って、百合は柔らかく微笑む。

そんな百合の温かい笑顔も、日向にとっては幸せを感じられるものだった。


「俺も、好き…。」


そう小さく呟いて、照れくさそうに、日向は百合を抱きしめる。

あの日から、日向は照れながらも、百合に「好きだ」と言うようになった。

手を繋ぐのも、抱きしめるのも、日向から求めることが多くなった。


少しずつ、ゆっくりと、日向は変わろうとしている。

まだ少し無口で口下手だけれど、以前よりは感情表現が豊かになったし、

恥じらいながらも、ゆっくりと、自分の思ったことや、

考えていることを、少しずつ、口にするようになった。


「自分で切ったんですよね。すごいなあ…。

 あ、そうだ!日向先輩、美容師さんになったらどうですか?」


百合は思いついたように、目を輝かせて、日向を見つめる。


「でも、美容師なんて女の人ばっかりだろ?なんかなあ…。」


日向は考えるように、俯いて首を傾げる。


接客なんて苦手だし、特に日向は女性が苦手だ。

男と違って、女性にはどう接していいかわからないし、

百合以外の女性と接することも、今まであまりなかったと思う。

専門学校や、職場のスタッフ、お客さんなど女性ばかりの環境は、日向にとっては少し辛い。


「いいじゃないですか!男の人の美容師さんってかっこいいと思いますよ!」


あまり乗り気ではない日向と裏腹に、百合は目を輝かせて力説する。

日向は、そんな百合の無邪気な様子も、可愛いと思う。

日向はいつも自分で髪を切っていたため、美容院になんて行ったことはないが、

雑誌やテレビで見る限りは、男性の美容師なんて極稀なんじゃないかと思う。


けれど、百合に「かっこいい」と言われたら、少し心が揺らぐ。

これが、惚れた弱みとでも言うのだろうか。


「…ホント?」


首を傾げたまま、日向は百合に窺う。


「はい!それに、日向先輩なら、絶対似合います!」


自信満々に微笑む百合が眩しくて、

美容師が似合うだとか、美容師になれる確証もないのに、

何故か、見えないはずの将来への不安なんて、吹き飛んでしまう。


「…じゃあ俺…美容師になろうかなあ。」


ポツリと日向が小さく零すと、百合は一層嬉しそうに笑った。


「まあ、すぐに専門学校、っていうわけにはいかないけど、

 卒業したら一、二年バイト続けて、学費貯めないとな。」


美容系の専門学校は、結構学費が高いと聞く。

卒業したらしばらくフリーターになって、働くことを覚悟しなければならない。


「日向先輩の手は、優しい手だから、

 絶対、美容師さんに向いてると思いますよ。」


そう言って、百合は日向の手を取り、指を絡めた。

自分より、はるかに小さい百合の手。

子供のように小さなこの手は、いつだって力強く自分を導いてくれる。

日向は、この小さな少女に、何度も何度も救われた。

きっとこの先も、百合がいれば、何があっても自分は大丈夫だ。

そう、日向は思った。


「あ、そうだ!今度、日向先輩のバイト先に、

 友達と一緒に、ご飯食べに行ってもいいですか?」


指を絡めたまま、百合は日向を見つめて、ニッコリと微笑む。


「いいけど…なんか恥ずかしい。」


そう言って、日向は百合の手をぎゅっと握る。

指先から伝わる体温に、ひどく安心感を覚えた。


「友達に自慢するんです!私の彼氏は優しくて、

 カッコよくて、こんなに素敵な人なんだよって!」


百合も日向の手を握り返して、嬉しそうに微笑む。

迷いもなく、自分に「カッコいい」や「素敵」なんて言う百合に、

日向は、少し恥ずかしくなってしまう。

今まで誰かにそんなことを言われたことなんてなかったから、照れくさい。


「俺…そんなに、自慢できるような男じゃないと思うけど…。」


照れくさそうに、百合から目を逸らして、少し俯いた日向は、小さく呟く。

「彼氏」という言葉が、なんだかくすぐったい。

実際、自分は百合の彼氏なのだが、口に出してそう言われると、

なぜか少し、恥ずかしくなってしまう。


「何言ってるんですか!日向先輩は私の自慢の彼氏ですよ!」


そう言って、百合は目を逸らした日向の顔を覗きこむ。

覗き込んだ日向の顔は、照れて赤く染まっていた。


「…馬鹿。」


日向は照れ隠しのように、百合を抱きしめる。

照れて赤くなった顔を見られるのは、少し恥ずかしい。

それに、抱きしめた百合の、細いのに柔らかい体が好きだった。

百合の肩口に顔を沈めて、ふわりと香る甘いシャンプーの香りに酔いしれる。


「もー。日向先輩ったら、すっかり甘えんぼですね。」


クスクスと笑いながら、百合は日向の髪を撫でる。


「…もっと甘やかして。」


日向は、目を閉じて百合の温もりを感じながら、小さな声を洩らす。

人に甘えるのは苦手だったけれど、百合にだけは素直に甘えられるようになった。





慌ただしいランチタイムを終えて、時刻は15時過ぎ。

日向は、いつものようにバイトを終えて、家に向かう。

この後、百合に会う予定があるが、一度帰ってシャワーを浴びたい。

バイト先の飲食店は冷房がついているが、バイト中は何の意味も成さない。

厨房での調理の仕事は、常に火を使っているため、バイト終わりはいつも汗だくだった。


今よりシフトを長くして夜まで働けば、もっと学費を稼げるけれど、

百合と過ごす時間も、日向にとっては大切なものだった。

早く会いたい。そんな思いから、バイトの後はいつも少し早歩きになる。


家に着いて、日向は玄関の扉を開ける。

すると、そこには見慣れない靴が、雑に脱ぎ散らかっていた。

母親の靴とは違う、少し高そうな男性用の革靴。

こんな革靴なんて家で見たことはない。

誰が、来ているのだろうか。


日向は玄関に立ち尽くして考えていると、

その人物はひょっこりと、リビングから顔を覗かせた。


「おかえり、日向。」


そう言って姿を現したのは、彼方だった。


「…彼方、帰ってたのか。」


自分を見て、彼方は嬉しそうに微笑んでいるけれど、

以前より痩せて、その表情は、少し疲れているようだった。


「どこ…行ってたの?」


前までの冷たい視線とは違い、日向の顔色を窺うように、

不安そうな瞳で、躊躇いがちに彼方は問う。


「あ…えっと…バイト。」


日向は口ごもりながら答える。

久々に会うと、どういう顔をしていいか、わからない。

前に会った時の彼方の態度を考えれば、尚更だ。


「…そうなんだ。何のバイトしてるの?」


そう言って、彼方は微笑む。

けれど、日向にはその笑顔が、いつもと違うように見えた。

自分が好きだった彼方の笑顔と、何かが違う。


「近くの飲食店の…調理の仕事。」


彼方の揺れた髪の隙間から、何か赤いものが光った気がした。

あれは何だろう。ピアスだろうか。

痛がりで、怖がりな彼方が、ピアスを開けるなんて、

いったいどういう風の吹き回しだろう。


彼方の様子を不思議に思いながら、日向は靴を脱いで、家に上がる。


「そっか。…頑張ってるんだね。」


その様子を見て、彼方は日向に背を向けて、リビングに入っていく。

日向も、その後に続いて、リビングに荷物を置いて、上着を脱ぐ。

首に巻いたストールも外して、上着と共にハンガーに掛けた。

几帳面なのは、いつもの癖だ。


静かにソファーに座った彼方は、伏し目がちに肩を落として、

落ち込んでいるような様子だった。


「どうした?なんか…元気ないぞ。」


日向はそう言って、少し躊躇いがちに、彼方の隣へ座る。

傍に寄れば、また拒絶されるのではないかと、少し不安だった。

しかし、彼方は隣に座った日向を拒絶することはなく、

俯いたまま、ゆっくりと、たどたどしい言葉を紡いだ。


「うん…。あのね…日向と…少し、話がしたいな、って…思って…。」


そう言って顔を上げた彼方は、日向を見て、驚いたような表情をした。


「ちょっと待って…。なんで…こんな…。」


呆然とした様子で、彼方は日向の首を、そっと指でなぞる。

彼方が触れたのは、母親に首を絞められた時にできた痣だった。


そういえば、彼方は母親が帰ってきていたことを知らない。

自分が母親に、「殺してくれ」と乞うたことも知らない。

つい、いつもの癖で、家に帰ってすぐ、

上着を脱ぐのと一緒に、首の痣を隠すストールを外してしまった。


「…これくらい、平気だ。」


そう言って、日向は目を逸らす。


「平気なわけないでしょ!?

 こんなことされて…死んじゃったら…どうするの…。」


彼方は、縋るように日向の肩を掴んで、泣きそうな顔をした。


「…俺は平気だよ。最近は、あの人も帰ってきてないし。」


彼方もこの痣が誰につけられたものなのか、わかっているのだろう。

こんな痣を付けるのは一人しかいない。

日向は、母親を「母親」とは、呼ばない。

あんな人のことを、母親だとは認めたくはない。


「なんで…なんで、こんなことになってるのに…っ、

 どうして…連絡してくれなかったの!?」


彼方の瞳は、涙で揺れていた。

瞳いっぱいに涙を溜めて、堪えようとするが、それができない。

いつもの、心配性で泣き虫な彼方だ。


「心配…してくれてるのか?」


日向は驚いた。

今までの素っ気なく冷たい態度とは違う、その瞳は、ちゃんと日向を映していた。

仲の良かった以前のように、自分に寄り添って、縋っていた。


「当たり前でしょ…。僕は…っ、日向がいないと…生きていけないのに…っ。」


辛そうな声を洩らして、彼方は日向の肩を掴んだまま、

日向の胸に顔を埋めて、声を殺して泣いた。

日向はそんな彼方の背を撫でて、何故か少し安心していた。


彼方が帰ってきた。

避けたりしないで、自分の隣にいてくれる。

目を逸らさずに、自分のことをちゃんと見てくれる。

こんな姿の自分を見て、泣いてくれる。

これで、何もかも元通りだ。

もう何も心配することはない。


そう、日向は思った。


「…ねえ。この家を、出よう。」


ポツリと、日向の胸に顔を埋めたまま、彼方は呟く。

仄かにシャンプーや香水とは違う、甘ったるい香りがした。

何の香りだろう。少し煙のような匂いみたいだと思う。


「この家を出て、二人で…二人だけで…、

 母さんも、誰も…いないところへ…逃げよう。」


肩を掴む手が、少し震える。

それでも彼方はぎゅっと、日向の肩を掴む手を、離さなかった。


「…俺たちに、行くとこなんて…ないだろ?」


日向の言葉に、彼方は涙を手で拭って、顔を上げる。


「日向は何も心配しなくていい。僕が用意するから。」


顔を上げた彼方は、真っ直ぐに日向を見つめて、力強い声で言った。

その表情は真剣で、とても冗談を言っているようには見えない。


「何言って…。」


何処かへ逃げることなんて、できない。

学校があって、バイトがあって、将来があって、

自分たちは、この狭い選択肢の中で、生きていかなくてはいけない。

逃げたところで、その先に何がある?

こんな高校生の自分たちに、住むところも、働くところさえあるか怪しいのに。

それに、自分には、守りたいものもできた。

それを捨てることなんて、できない。


ちゃんと言わなければ。

自分が選んだ、進路のことを。

彼方が望んだ、将来のことを。


「夏休みも、もう終わるし…バイトもあるし、

 それで、俺…卒業したら、美容師の専門学校行こうかな、って…。」


日向は、不器用に言葉を紡ぐ。


ちゃんと、彼方に言われた通りに、進路も決めた。

変わることを怖がって、足が竦んで選べなかった、

二人一緒じゃない、自分自身の将来。


それは、たった一人の小さな少女のおかげだった。

彼女を守るために、強くなると誓った。

強い決意で、変わることを選んだ。


全部、彼方に伝えなければ。



「彼方…俺、…彼女ができたんだ。」




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