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「ダリアの幸福」  作者: 麻丸。
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「知られたくなかった真実」



登場人物


高橋日向 双子の兄。一人称は俺。

高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。

坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。

中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。

矢野千秋 クラスメイト。

渡辺真紀 バスケ部マネージャー。

竹内京子 二年生。

新田百合 一年生。日向の恋人。

白崎先生 精神科医。

リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。

お姉さん リッキーの飼い主。

優樹   彼方の働くボーイズバーの店長。京子の兄。

誠    彼方と同じ優樹の店で働く従業員。

麗華   彼方の客。

智美   彼方の客。


 「知られたくなかった真実」




頭が痛い。体が熱い。意識が朦朧とする。

日向が重たい瞼を開くと、そこは見たこともない部屋だった。

人の生活の気配がしない、殺風景な和室。

何もない部屋に布団を敷いて、そこにただ一人で寝かされていた。


ここはどこだろう。

自分はどうして、こんなところにいるのだろう。


日向はぼうっとする頭で、おぼろげな記憶をたどる。

ああ、そうだ。自分は逃げ出したんだ。

母親の暴力に耐えかねて、家を出たんだ。

けれど行くところなんてどこにもなくて、

バス停で途方に暮れていたら雨が降ってきて、それから…

それからどうしたのだろう。


記憶が曖昧だ。

確か誰かに声を掛けられた。

誰に声を掛けられたんだっけ。


そんなことを考えていると、ゆっくりと襖が開く。


「あ。…目、覚めたんだな。」


そう言いながら、姿を現した人物は、将悟だった。

将悟は静かに襖を閉めて、部屋に入ってくる。


「…中村…?」


将悟の姿を見て、日向は身を起こそうとする。

しかし、熱のせいか体がふらつく。


「あ、おい、熱あるんだから寝とけよ。」


ふらつく体を腕で体を支えて座ると、

日向は自分が着ている服が、変わっていることに気付いた。


「あ…。」


黒い半袖のTシャツ。

これでは傷や痣が見えてしまう。

日向は慌てて、両腕を背中に隠す。


そんな日向の姿を見て、将悟は静かな声で呟いた。


「別に、隠さなくてもいい。」


その言葉に、日向は黙って腕を背中に隠したまま、気まずそうに俯く。

確かに、あんな傷だらけの体を見られるのは気が引けるだろうと、将悟は思う。

しかし、あの傷が何なのか、誰につけられたものなのか、気になって仕方がなかった。


「あのさ…、」


将悟が言いかけると、それを遮って襖が乱暴に開いて、銀髪の大男が姿を見せた。


「しょーくーん!日向君起きたー?」


その男は無邪気な笑顔で、両手で真っ白な毛の子猫を抱えて、部屋に入ってくる。

銀色の髪の襟足だけを伸ばし、耳には無数のピアスを揺らしていた。


「ちょ…!誠さん、その猫どこから連れてきたんですか!」


将悟は誠が抱えている子猫に気付いて、

少し怒った様子で、眉間に皺を寄せて誠に言う。


「そこで拾ってきちゃったー。」


誠と呼ばれた男は、悪びれる様子もなく、

ニコニコ笑いながら、その真っ白な子猫を撫でる。


「もううちにはサクラとスミレがいるんですから、ダメですよ。」


将悟がそう言うと、廊下から首輪を付けた二匹の猫が顔を覗かせた。

真っ黒な毛の猫と、白と黒のまだら模様の猫。

その二匹はチリンチリンと鈴の音を響かせて、ゆっくりと部屋に入ってくる。

そして、将悟の足に絡みつくように、頬擦りをした。

相当将悟に懐いているようだ。


「じゃあこの子は、アンズちゃんかにゃー?」


そう言いながら、誠は子猫と目を合わせて微笑む。

突然の見知らぬ男に、日向はただ黙って戸惑っていた。

窺うように誠を見つめていると、ふいに、目が合う。


「あ、日向君おはよう!

 どう?熱は下がったかにゃー?」


誠は戸惑う日向に、ニッコリと笑いかけて、

アンズと呼ばれた子猫を、日向の膝の上に乗せる。


「え、えっと…。」


自分よりも大きな大人の男が猫を抱えて、猫撫で声で猫に話しかけている。

しかし、見た目は日向たちよりもずっと年上で、銀髪を靡かせ、耳はピアスだらけ。

腕からはタトゥーを覗かせていて、いかにも怖そうな感じだ。

そんな誠に膝に乗せられたアンズは大人しく、体を丸めて日向のことを見ていた。


「あー、まだちょっと熱あるねー。ゆっくり寝てなよー。」


誠は戸惑って何も言えない日向の額に手を当てて、熱を測る。

行動が予測不能で、マイペースな男だと日向は思う。

そして、自由気ままによく喋る。

亮太もよく喋るし、マイペースだけれど、亮太と少しタイプの違うこの男に、

日向はどうしていいかわからず、困っていた。


そんな二人の様子を見て、将悟はため息を吐く。


「うちのバンドでドラムやってる誠さんだよ。

 お前、バス停のところでずぶ濡れで倒れてて、

 ほっとくわけにもいかないから、俺と誠さんで俺の家に運んだんだ。」


将悟の説明に、日向は驚いた。

目覚めた時、自分がどうしてここにいるか、ほとんど覚えていなかった。


「嫌がってたみたいだけど、勝手に着替えさせちゃった。…ごめんね?」


誠は首を傾げて謝る。


自分は、あの場所で倒れていたのか。

二人は自分を、助けてくれたのか。


「その…ありがとう。」


日向は小さく礼を呟く。

しかし、服を着替えさせられたということは、痣や傷を見られてしまったのではないか。

こんな傷だらけの体を見て、二人は引いたりしていないだろうか。

気持ち悪いだとか、汚いだとか、思われていないだろうか。

背中で隠したこの腕の傷も、きっと見られてしまった。


必死に腕を隠す日向を見て、将悟は静かに口を開いた。


「…お前さ、家には帰れないって言ってたけど、その傷と…関係あるのか?」


その言葉に、明らかに動揺したように、日向は目を逸らす。

腕を隠しても、首筋の噛み跡や、首を絞められたような痣は隠せていない。


「…なんでも…ない…。」


目を逸らしたまま、日向は小さく呟く。


「なんでもないって…。じゃあこれ、どうしたんだよ。」


将悟はそう言って、背中で隠した日向の手を掴んで、引っ張る。

アンズはそれに驚いて日向の膝から降り、誠の方へと走った。

隠していた腕が、二人の目前に晒される。

痣や切り傷、火傷の痕が残った、醜い腕。


「これは…その…。」


二人の前に腕を晒されて、日向は言い訳ができずに、口ごもる。

そのまま日向は、口を噤んで黙ってしまった。


重い沈黙が、流れる。


日向は俯いて口を開こうとはしないし、

将悟は日向の腕を掴んだまま、離そうとしない。

そんな二人を見て、黙っていた誠は、アンズを抱えてゆっくりと口を開く。


「将君も心配してるんだよ。どうしても言えないようなこと?」


落ち着いた優しい口調で、誠は日向を諭すように語り掛ける。


そんなことを言われても、本当のことなんて、言えるわけもない。

心配してくれるのは有難いが、言ったところで、どうにもならない。

それに、何と言っていいのか、わからない。


口を噤んだまま、話そうとしない日向に、将悟は小さく呟いた。


「彼方か?」


日向の腕を握る手に、力が籠る。

将悟は日向を真っ直ぐに見つめて、静かに、けれど強い声で言った。


「これ全部…彼方が、やったのか?」


将悟の真剣な声に、日向は俯いたまま、小さく首を振る。


「違う…。彼方は、こんなこと…しない…。」


誠は日向の隣にしゃがみこみ、大きな体を小さく丸めて、

見上げるように、首を傾げて日向の顔を覗く。


「じゃあ、誰にこんなことされたの?」


それはまるで、子供を諭すように優しい口調だった。

誠が抱えているアンズも心配してくれているのか、小さく首を傾げている。

将悟は真剣な眼差しで、誠は心配するように、日向を見つめていた。

二人の真っ直ぐな視線が、辛かった。


「…母親。」


消え入りそうな小さな声で、日向は呟く。

俯いた瞳を揺らして、自分を守るように背中を丸めて、

絞り出したか細い声は、かすかに震えていた。


「は…?なんで、こんなこと…。」


意外な人物に、将悟は言葉を失う。

何故母親が暴力を振るうのか。

こんなの、虐待ではないか。


「理由なんて、ない…。いつものこと、だから…。」


日向が夏でも絶対に学ランを脱がなかった理由は、これだったのか。

体中に残る虐待の痕を、隠すためだったのか。


「いつから…いつから、そんなことされてんだよ…。」


信じられない現実に、将悟の声も震える。

日向は長い睫毛を揺らして、ゆっくりと小さな声を洩らす。


「…そんなの、覚えてない。…ずっと、昔から。」


よく見れば、日向の体は夏休み前よりも細くなった気がする。

まともに食事が取れていないのか、痩せたというよりも、やつれたように見える。

掴んだ腕も、細く、頼りないように感じた。


「なんで…ずっと黙ってたんだ…。」


ずっと、耐えてきたのだろうか。

誰にも助けを求めず、彼方とたった二人で、虐待を受け続けたのか。

ただ黙って、こんなに傷だらけになるまで、耐え続けたのか。


何故、話してくれなかったのだろう。

何故、気付けなかったのだろう。

何故、無理やりにでも聞きださなかったのだろう。


いつも自分は、後悔ばかりだ。

自分の不甲斐なさに、反吐が出そうだ。


将悟は、苛立ちが溢れた。

日向の腕を掴む手が震える。

この苛立ちは、怒りは、日向に対してではない。

気付けなかった自分への、怒りだ。


また身近な人間が傷付いているのを、悩んでいるのを、気付けなかった。

今思えば、サインはたくさんあった。

どうして気付いてやれなかったのだろう。


将悟は悔しさに奥歯を噛み締める。

そして、そっと日向の手を離した。


今自分にできることは、何だ。

自分にもできることが、何かあるはずだ。


「取り敢えず…お前、しばらくうちに泊まれ。」


将悟は、静かにそう呟いた。


「え…?」


日向は戸惑ったように、顔を上げる。


少し腫れた右頬と傷が痛々しい。

白い首筋には噛み跡と不自然な痣が覗く。

腕には煙草を押し付けられた跡まである。

そんなボロボロの状態の日向を、このまま家に帰すわけにはいかない。


「家には帰れないだろうし、まだ熱あるだろ?

 部屋は余ってるし、ばーちゃんと二人暮らしだから、気を使わなくていい。」


「でも…。」


将悟は、何かを言いかけた日向に口を挟ませる隙もないくらい、強い声で言った。


「いいから、黙って監禁されてろ。」








「どーするの?将君。」


日向を寝かせて、将悟と誠は居間で机を挟んで座っていた。

将悟はギターを抱えて、適当なフレーズを弾きながら、

誠は猫じゃらしで三匹の猫と遊びながら。


「匿ったって、問題が解決するわけじゃあ、ないよねえ?」


誠は笑顔を猫に向けたまま、将悟の方は見ずに、真剣な声で言う。


「わかってますよ。…でも、ほっとくなんて、できないじゃないですか。」


ギターのフレットを見つめながら、将悟は小さな声を洩らす。

見つめたフレットの先で、ポロポロとアルペジオを爪弾く。

考え事をするとき、悩むとき、ギターを抱えるのが将悟の癖だった。


「将君は相変わらずだねえー。でも、どうするの?

 他人の家庭の問題なんて、そうそう口出しできるものじゃない。

 将君にできることなんて、ないんじゃないかなあ?」


猫じゃらしをピョンと跳ねさせて、誠は猫たちの気を惹く。

サクラとスミレは、猫じゃらしに興味深々な様子で、

誠は猫たちが手を伸ばすたび、ヒョイと猫じゃらしを引いて、

何度も何度も、猫たちの目の前で猫じゃらしを跳ねさせる。

それはまるで、踊っているようだった。


アンズはまだ慣れないのか、机の下に隠れて、

そんな二人と二匹を窺っているようだった。


「それは…そうですけど…。でも考えたら、きっと何かできるはずです。」


ゆっくりと、不揃いなリズムのアルペジオが、切なく響く。

チリンチリンと、サクラとスミレの首に着いた鈴の音が、

将悟のギターに合わせるように重なる。


「ははっ。そうなるといいねえ。」


誠はたいして興味がなさそうに、笑い飛ばす。


それもそうだ。

誠は日向のことを、たいして知らない。

将悟にとって日向は、同級生で友人だ。

そして日向が何かを隠していることを、ずっと気にしてきた。

しかし、誠は日向のことなんて赤の他人で、ただ居合わせただけだ。

たいして興味がないのも頷ける。


けれど、日向を脱がせたとき、誠は彼方の名前に反応した。

まるで、彼方と知り合いのような口ぶりをしていた。


誠は何か知っているのではないか、将悟はそんなことを思う。


「…誠さん。彼方のこと、知ってるんですか?」


将悟はギターを弾く手を止めて、誠を見据える。


「…知らないよ。」


誠は笑顔のまま、猫じゃらしを躍らせる手を止めた。

その一瞬、黒猫が猫じゃらしに噛み付く。

白と黒のまだら模様の猫も、器用に両手を使って、

動きを止めた猫じゃらしを捕まえる。


「でもあの時、何か知ってるような口ぶりだったじゃないですか。」


猫たちの首輪に付いた鈴の音だけが鳴り響く、静かな部屋の中、

将悟は少し身を乗り出すように、真剣な声で誠に迫る。


「日向の双子の弟の、彼方のことです。」


将悟の言葉に、誠は猫じゃらしを手から放す。

そして顔を上げて、ニッコリと微笑んだ。


「やだなあ。俺には『将君の同級生』の知り合いなんて、いないよ?」


自分と違って、器用な生き方をする『大人』の誠の笑顔。

それは、どこか誤魔化しているような笑顔だった。

自分より何年も大人の世界に生きてきた誠は、嘘を吐くのが上手い。

嘘を吐く、というより、面倒事を嫌がり、回避する。


大事なことを知っていても、知らないフリをする。

自分に関係のないことには、首を突っ込まない。

厄介ごとには関わらない。

余計なことは言わない。


利口な生き方だとは思うけれど、そんな誠が隠した真実に、

将悟は何も知らずに、今まで何度も後悔した。

知っていれば、変えられてたこともあったかもしれない。

子供だった自分ができることなんて、たかが知れているけれど、

それでも、知っていれば何かできたはずだ。

けれど、当時から誠は、大事なことは何も語ろうとはしなかった。


「また俺だけ、何も知らないのは…嫌ですよ…。」



将悟はポツリと、小さな声を洩らした。





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