「かりそめの夢」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。
渡辺真紀 バスケ部マネージャー。
竹内京子 二年生。
新田百合 一年生。日向に好意を寄せている。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
「かりそめの夢」
夏の暑さが照り付ける、季節は夏。八月を迎えていた。
祭りの日の夜から、日向と百合は手を繋ぐことが日常になった。
抱きしめて、体温を分け合うことも多くなった。
そして、日向の家で二人きりで過ごすようになった。
日向の家は、祭りの日に聞かされたとおり、誰もいなかった。
日向一人には広すぎる家で、何をするわけでもなく、
二人きりで他愛のない話をして、一緒に料理を作って食事をしたり、テレビを見たりして過ごした。
日向は器用で、料理が上手かった。
百合は普段それほど料理をするわけでもなく、慣れない作業に、不器用ながらも日向を手伝った。
不器用な包丁捌きに、日向に笑われながら、必死で皮を向いた野菜の不格好さに、首を傾げながら。
日向は優しかった。
言葉は少ないけれど、自分の嫌がることは絶対にしない。
得意の料理で、百合の好きなものを作って、喜ばせてくれた。
「普段はあまり作らない」と言いながら、お菓子だって作ってくれた。
器用にスポンジから焼いたイチゴの乗った可愛らしいショートケーキ。
作っている姿を想像すると、似合わなさに少し笑えてしまうが、百合は嬉しかった。
そして、手を繋いだり、抱きしめあったりした。
日向は意外と寂しがりだ。
何も言わないけれど、寂しそうに、自分の手をじっと見つめる。
それが手を繋ぎたい合図。
自分の顔を窺うように見つめ、少し腕を広げて、首をかしげる。
それが抱きしめたい合図だ。
―おっきな子供みたい。
自分から触れたいとは言わない。
自分から触れることもしないが、触れたいと目でアピールしてくる。
それを汲み取って、百合から手を繋ぐ。抱きしめる。
そして、体温が触れると、日向は安心したような顔をする。
百合の好きな日向は、綺麗で、繊細で、寂しがりで、脆く、弱い人。
いつも日向は、自分の肩口に顔を埋めて、温もりを貪るように、強く強く抱きしめる。
その姿が、まるで捨てられた子供のようで、百合は嬉しい反面、切なさが込み上げた。
だからガラス細工を扱うように、優しく、そっと、触れる。
日向を傷つけないように、日向を壊さないように。
日向と過ごす日常は、幸せだ。
好きな日向と、朝から晩まで一緒にいられる。
口数は少なくても、自分を喜ばせようともしてくれる。
今まではあまり見れなかった、小さく笑う、そんな姿を見せてくる。
けれど百合は気付いていた。
祭りの夜、日向を抱きしめた時に、見えてしまった。
日向の首筋から覗く、不自然な絆創膏と、
服の隙間から見えた、赤い噛み跡。
誰が、付けたのだろうか。
日向は浮気をするような人間ではない、と思う。
けれど、生々しいその傷は、新しく鮮明なもので、百合は不安を拭いきれないでいた。
噛み跡があるということは、体の関係があるということなのだろうか。
自分は手を繋いだり、抱きしめ合ったりはするけれど、キスやそれ以上のことは、何もないのに。
感情表現が不器用な人だ、浮気なんてできるはずがない。
けれど、日向は寂しがりだから、考えたくはないけれど、
もしかしたら、他の女性と関係を持っているのかもしれない。
そんなことを考えてしまう。
外出らしい外出は、ほとんどしなかった。
毎日日向が駅まで百合を迎えに来る。
そして、たまに食材を買いに、一緒にスーパーに行く。
夜になれば、日向が駅まで送ってくれる。
ほとんどを、この閉鎖的な日向の家で過ごした。
まるで、誰にも見られないように。
見られたくないのだろうか。
見られて困る相手が、いるのだろうか。
そう言えば、日向から「好き」という言葉を、聞いたことはない。
自分が「私のこと、好きですか?」と聞けば、
「うん」や「ああ」とは答えてくれるが、
「好き」という言葉を、言ってはくれなかった。
疑いたくはないはずなのに、鮮明な傷跡が百合を戸惑わせる。
それを隠すように、日向は季節に見合わない、肌を隠すような服しか着ない。
学校の時も、夏でも学ランを着ていたのは、噛み跡を隠すためだったのだろうか。
なんとなく、何故肌を見せないのか、その噛み跡は何なのか、
それは、聞いてはいけないような気がしていた。
聞けば日向を戸惑わせる、困らせる、そんな気がしていた。
やっと笑ってくれるようになったのに、日向の笑顔を奪いたくはなかった。
弱く脆い日向を、守りたかった。
彼方に言われたからではない。
百合は日向の笑顔を、守りたかった。
手を繋ぎながら、駅から日向の家の近くのスーパーへ向かう。
「百合の手は小さいな。」
自分の手をしっかりと握って、ふいに、日向が感慨深そうに呟く。
まるで大事なものを守るように、日向の手は温かく、力強かった。
「そうですか?普通だと思いますけど。」
人と手を比べることなんてないし、
男性と比べれば、女性である自分の手が小さいことは、当たり前のことだ。
「…そうか。」
日向はそう言って、少し切なげに微笑んだ。
そんな日向の表情に、百合は変な違和感を感じる。
最近日向は、自分に微笑んでくれるようになった。
照れ屋で恥ずかしがりの日向は、
大きく声を上げて笑うことなんてないけれど、静かに優しく微笑んでくれる。
そんな日向の笑顔が、好きだったはずなのに。
今の笑顔は、なんだか違う気がする。
「今日はお昼、何食べたい?」
少し考えるように首を傾げる百合を見て、日向は優しい声で問う。
日向も少し首を傾げて、百合に視線を合わせる。
そんな仕草が、さり気ないけれど、日向の優しいところだと思う。
「んー、何がいいですかねー。日向先輩なんでも作れちゃうしなー。」
唇に指を添えて、百合は嬉しそうに微笑む。
そんな百合の可愛らしい仕草に、日向も嬉しくなる。
「『なんでも』は作れないけど、ネットでレシピ調べたら大丈夫だろ。」
「さすが日向先輩ですね!」
「百合はもうちょっと、料理できるようにならないとな。」
「もーっ。日向先輩、意地悪です。」
そう言って、二人で仲良く笑い合う。
そんな、なんでもない平凡な時間が、幸せだった。
二人で仲良く手を繋ぎながら、スーパーで買い物をする。
今日の昼食のメニューに悩んでみたり、新商品を見つけて、はしゃぎながら。
「日向君!」
ふいに、遠くから日向を呼ぶ女性の声が聞こえる。
振り返ると、日向と同い年ぐらいの女性が、嬉しそうな笑顔で駆けてきた。
「矢野…。」
どうやら日向の知り合いみたいだ。
しかし、日向は少し驚いた顔をして、その矢野と呼ばれた女性から目を逸らす。
千秋はそんな日向を見て、不思議そうな顔をして首を傾げる。
そして、日向が百合と手を繋いでいることに気付いたようで、
千秋は一瞬だけ百合を見たあと、少し悲しそうな顔をして小さく呟いた。
「…彼女?」
「ああ…。」
日向は目を逸らしたまま、気まずそうに答える。
この人は、日向の何なのだろうか。
日向を見つけて嬉しそうに駆け寄ってきた。
自分が手を繋いでいることに気付き、悲しそうな顔をした。
もしかして、日向の体に噛み跡を付けたのは、この女性なのだろうか。
「そっか…。あのね、夏祭り、楽しみにしてたんだよ。
日向君が白色が好きって言ってたから、白い浴衣を買ったんだけどね…。
デートだったなら、仕方ないか…。」
そう言って、千秋はしょんぼりと肩を落とす。
百合が、日向と二人きりで行きたいと言った夏祭り。
先約は、この女性とだったのか。
クラスメイトと行くのでは、なかったのか。
「…ごめん。」
日向は申し訳なさそうに、謝る。
そんな日向の顔を見て、千秋は取り繕うように、慌てて笑顔を見せる。
「ううん、いいの。…また学校でね!それじゃあ。」
そう言って、足早に千秋はその場を後にする。
居た堪れなくなって、この場に居辛かったのだろう。
日向は千秋の約束を断って、自分と夏祭りを過ごしてくれた。
けれど、千秋も日向のことが好きなのではないか。
だから、日向を見つけて嬉しそうにかけてきて、
自分と手を繋いでいることに気付いて、悲しそうな顔をしたのではないか。
もしかしたら、彼女が日向の浮気相手なのではないのだろうか。
だから日向も、気まずそうな顔をしたのではないのだろうか。
疑いたくはない。けれど、疑ってしまう。
日向は千秋が過ぎ去った後、ホッとしたような顔をした。
その表情には、どんな意味があるのか。
そのまま買い物を済ませ、スーパーを出た。
しかし、百合の頭の中には、漠然とした不安が渦巻いていた。
手を繋いで、日向の家へと帰る途中、
拭いきれぬ不安に、百合は立ち止まった。
立ち止まった百合に手を引かれ、日向も立ち止まる。
そして、少し戸惑うように、静かに百合の顔を窺うように覗く。
「…どうした?」
心配そうに、日向は少し屈んで、百合と目線を合わせて、首を傾げる。
覗き込んだ百合の表情は、暗かった。
「さっきの…誰ですか?」
百合は少し黙った後、ポツリと小さな声を洩らす。
先程の女性のことが、気になって仕方がなかった。
ちゃんと日向の口から、「彼女とは何もない」と、言ってほしかった。
「同じクラスの女子だよ。」
日向は少し困った顔をして、答える。
「でも、すごく仲良さそうでした…。」
そう言いながら、百合は真っ直ぐ日向を見つめる。
ちゃんと自分の目を見て、ハッキリと言ってほしかった。
自分の不安や疑いがなくなるように、ちゃんと答えてほしかった。
「それは…クラスメイトだから…。」
日向は少し言い辛そうに、口ごもる。
その様子が、さらに百合の疑いを膨らます。
「あの人も…日向先輩のことが…好きなんじゃないんですか…?」
その言葉に、日向は動揺したように、目を背ける。
「…そんなんじゃ、…ない。」
目を背けたのは、何かやましいことがあるのではないか。
どうして日向は困った顔をして、目を背けたのか。
疑いたくない。疑いたくないのに、不安が込み上げる。
「じゃあどうして…っ!」
感情的に、荒くなる声を飲み込む。
疑いたくない。日向を責めたいわけじゃない。
けれど、今は冷静に話をすることが、できなかった。
「…っ。今日は、もう…帰ります…っ!」
そう言って、百合は日向と繋いだ手を、そっと解く。
離した手には、日向の優しい温もりが、
骨っぽいゴツゴツとした繊細な手の感触が、纏わりつくように残っていた。
「百合?」
日向は離された手に、百合のいつもと違う様子に、戸惑うような顔を向けた。
そして百合は、日向の家の方角ではない、駅の方へと駆け出そうとする。
日向は百合を引き止めようと、百合の手首を掴んだ。
「百合!ちょっと待て…!」
掴まれた手に、振り返った百合の瞳には、涙が溜まっていた。
「離してください!」
百合は瞳いっぱいに涙を溜めて、日向の手を振り払う。
それでも日向は、百合を落ち着けようと、肩を掴んで真っ直ぐに百合を見つめる。
「百合…どうしたんだ…?」
優しく宥めるような声で、日向は百合に向き合う。
けれど、目を背けた百合の瞳から、涙が一粒零れた。
「…私の髪は綺麗だとか…私の手は小さいだとか…
それって…それって、誰と比べてるんですか…?
日向先輩の彼女は、私じゃないですか…!?」
ポロポロと、涙を零しながら百合は呟く。
その言葉に、日向は何も言えなくなった。
百合に「彼方に重ねている」だなんて、言えるはずもなかった。
そんなことを言ってしまったら、全てが終わってしまうような気がした。
なにか言わなければならないのに、日向は何も言えなかった。
ただ黙って、百合を見つめることしかできなかった。
黙ったままの日向を見て、百合は少し辛そうな顔をした。
そして、涙を手で乱暴に拭って、俯いた。
「…もういいです。」
そう小さく呟いて、百合は日向に背を向ける。
そのまま、駅の方へと駆けだしてしまった。
「百合…!」
追いかけなければいけないのに、日向の足は動かなかった。
百合の辛そうな顔を見て、動けなくなった。
大事にしようと思ったのに。
大切にしようと思ったのに。
百合は振り返りもせずに、泣きながら自分の手を振り払って、行ってしまった。
嫌われないように、好かれようと、必死で努力したのに。
百合のことを愛そうと、そして百合に愛されていようと、必死だったのに。
百合が繋いでくれない手は、ひんやりと冷たい気がした。




