「堕ちていく夜」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。
渡辺真紀 バスケ部マネージャー。
竹内京子 二年生。
新田百合 一年生。日向に好意を寄せている。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
「堕ちていく夜。」
シーツの波の中で体を重ねる。
日向とは違う、体温。
日向とは違う、感触。
この体温に浸っていれば、日向のことを忘れられると、そう信じていた。
自分が日向のことを好きになったのは、きっと間違っていたんだ。
それでも、傍にいたら、日向を求めてしまう。
だからいっそ、遠くで違う体温に触れようと思った。
誰でもよかった。
満たされていれば、誰でもよかったんだ。
嘘でいいから、誰かの温もりに甘えていたかった。
豪華なソファーや大きなテレビがある、小奇麗で広い部屋。
自分と日向が寝ていたベッドと比べると、二倍ほどの広さの大きなベッド。
そこに彼方と、その隣には全裸の女性が布団に包まって眠っていた。
窓がないこの部屋は、太陽が差し込まない。
彼方は、隣で眠っている女性を起こさないように、
そっと起き上がり、携帯電話を手に取り、時間を確認する。
携帯電話が映した時刻は、昼前だった。
日向からのメールや着信は、今日もない。
お互いの携帯に、お互いの電話番号とメールアドレスを登録しておいたが、
日向から連絡してくることはなかったし、自分からは連絡しづらかった。
何と連絡と取ればいいのか。
今更何を言えばいいのか。
連絡を取る理由がない。
けれど、それでいいのかもしれない。
こうやって、お互いがいない時間というものが普通になって、
日向は自分以外に大切な人を見つけて、幸せになってくれる。
きっと、そうなることが一番正しい道なのだろう。
携帯を見て、日向からの連絡がないことに落ち込んでいる自分が、馬鹿みたいだ。
日向と離れれば、日向のことを忘れられると思った。
けれど、誰と寝ても、誰を抱いても、日向のことばかりを考えてしまう。
日向のことを考えないように、指を絡めて、舌を絡めて、体を絡めてみても、
その情事が終わった後には、きまって日向の顔が思い浮かぶ。
日向はこんなことをしている自分を、どう思うのか。
呆れるだろうか。
蔑むだろうか。
嫌いになるだろうか。
しつこいほどの甘い香水の香りが、体に纏わりついているような気がする。
―気持ち悪い。シャワー浴びよう。
そう思って彼方は、ベッドから降りようとすると、
隣で眠っている女性が、もぞもぞと身動ぎをする。
彼方は静かに、その女性を眺めた。
脱色を繰り返して傷んだ長い栗色の巻き髪、何重にも塗られた濃い化粧、か細く柔らかい体、
カラフルに彩られた長い爪、むせかえるほどの甘い香り。
全部、日向とは違う。
日向の黒髪は傷みもなく、素直で綺麗。
日向の肌は、白くて滑らか。
体は少し細いけれど、骨っぽい角張った体だ。
料理や散髪をしてくれる指の爪は、綺麗に短く整えられている。
そして、なんだか落ち着く香りがする。
―この女性とは、全然違う。
そんなことを考えていると、目の前の女性が目を覚ます。
重たそうな瞼をゆっくりと開けて、その瞳に彼方を映すと、女性はニッコリと微笑んだ。
「おはよ、彼方君。」
「おはよう、麗華さん。」
そう言って彼方が微笑むと、彼女はゆっくりと彼方に抱き付くように、
肩に手を回して、唇が触れるだけのキスをする。
そして、首を傾げて、悪戯っ子のような表情で微笑む。
彼女は麗華。苗字は知らない。
「麗華」という名前自体も、本名かどうかもわからない。
歳は二十代半ばくらいで、この街の高級クラブに勤めているらしい。
そんな曖昧な情報だらけのこの女性は、自分との夜を、金で買ってくれる。
そして、一夜の偽りの関係に、満足そうに微笑む。
夜の遊びを知る、大人の女性。
そんな麗華はシーツを裸体に纏って、ベッドに腰掛ける。
「彼方君はさ、好きな人とかいないの?」
そう言いながら、麗華は煙草に火をつけた。
メンソールの細い煙草から紫煙が漂う。
「…麗華さんかな。」
考えるように少し無言になった後、彼方は麗華の隣に腰かけて微笑む。
「んもう、そんな営業トークはいいから。」
見え見えの薄っぺらい言葉に、麗華は笑いながら紫煙を吐き出す。
「まあでも、『お客さん』の前では、そんな話できないかー。」
そう言って、煙草を吸いながら麗華は、彼方に凭れかかるように身を預ける。
彼方は後ろから手を回して、麗華が望むように、その体を抱きしめた。
いくら触れてみても、日向とは違う、柔らかい体。
麗華の体からは、咽返るほど甘い、香水の香りがする。
「彼方君は、どうして夜の仕事始めたの?」
彼方の体温に、満足げに微笑みながら、麗華は聞く。
夜の仕事。
彼方は年齢を偽って、バーテンダーなんて名ばかりの、
まるでホストのような、夜の仕事のアルバイトをしていた。
正直、バイトなんて何でもよかった。
ただ、能も資格もない彼方が手っ取り早く稼げるのは、夜の仕事が一番だと思ったのだ。
自分たちを虐待し続ける母親と、同じ世界。
何の因果か、自嘲の笑みが零れる。
「前に…僕に兄弟がいる話、したよね?」
彼方は微笑んだまま、静かに口を開く。
笑顔で嘘を吐くことが、だいぶ得意になった。
笑っていれば、傷つけられることもない。
「うん、高校三年生の弟くんでしょ?」
麗華は身を預けたまま、彼方を見上げる。
彼方は嘘を吐いている。
この世界の彼方は、高校三年生でもなければ、双子の弟でもない。
高校三年生の弟を持つ、二十歳の兄。
それが、この夜の世界での、彼方だった。
「ちゃんと進学してほしいんだ。だから、学費のためにお金貯めるんだ。」
「人のため…か。」
麗華は小さく呟いて、小馬鹿にしたように、鼻で笑う。
そして、指先で彼方の体の痣を、そっとなぞる。
最初は痣だらけの体を晒すのは、気が引けた。
けれど、この痣だらけの体は、同情を買える。
「みんなには内緒だよ」とか、「君だけに見せるんだ」と言えば、
いろんな女性が「可哀想だ」と言って、優しくしてくれる。
自分は、虐待の痕ですら、道具にできる。
その痣をちらつかせて、同情を買い、一夜を売る。
最低な人間だと思う。
「自分以外の人のために、こんなことをできるなんて、
…素敵だとは思うけど、彼方君はそれでいいの?」
麗華は煙草を咥えたまま、彼方の体に残る痣を一つ一つ、指でなぞる。
器用に、長い爪が刺さらないように、そっと。
まるで自分の嘘を、引き剥がそうとするように。
「僕は…弟が幸せになってくれれば、それでいいんだよ。」
少し儚げに微笑む彼方に、麗華は不思議そうな顔をして、首を傾げる。
「ふーん…。変なの。」
そう言って、麗華はベッドの脇のテーブルに置かれた灰皿に、煙草を押し付ける。
煙草の火が消えても、紫煙の香りがまだ漂っている気がした。
「なんか彼方君、その弟さんのこと大好きなのね。…恋してるみたい。」
からかうように、麗華は笑う。
実際その通りだ。
自分は日向のことが、好きだ。
けれど、それを忘れようとして、こんなことをしているのに。
麗華に自分の気持ちを知られたくは、なかった。
これ以上、この話はしたくない。
自分の想いを、暴かれたくない。
その五月蝿い口を、塞いでしまいたい。
彼方は、そっと麗華の肩を抱き、ベッドに押し倒す。
「ねえ、麗華さん。もう一回シよ?」
麗華を組み敷いて、彼方は少し切なそうな表情で微笑んだ。
彼方の言葉に、麗華は挑発的に笑った。
百合のことが、好きだ。
百合は可愛いし、優しくて、いい子だ。
一緒にいると、胸がドキドキする。
けれどその体温に触れると、ひどく安心した。
百合のことを、大事にしようと思った。
口下手な自分は、気の利いた甘い言葉なんて言えないけれど、
言葉以外に、自分が得意なことで、百合を喜ばせたかった。
百合のために、料理やお菓子作りをした。
お菓子なんて、あまり作ったことはなかったが、
レシピ本を見れば、それなりに上手くできた。
百合はそれを喜んで食べてくれて、嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
彼方のように離れていかないように、必死で百合を繋ぎとめておきたかった。
離さないように強く手を繋いで、逃げていかないようにきつく抱きしめた。
指先から伝わる百合の優しい体温は、心地よかった。
大切に、大事に、傍に置いておきたかった。
日向は口下手だ。そして、甘え方を知らない。
手を繋ぎたい、抱きしめたい、そう思っても、言葉にすることは難しかった。
けれど、百合は自分が何も言わなくても、
その想いを汲み取って、自分から手を繋いでくれる。抱きしめてくれる。
百合といると気が楽だった。
自分が聞かれたくないことは聞かないし、ただ隣で微笑んでくれる。
寂しい自分に、体温を分け与えてくれる。
こんな自分のことを、好きだと言ってくれる。
自分も、百合のことが好きだ。
彼方がいなくても、百合がいればそれでいい。
百合といれば、自分は幸せになれる。
そう日向は思った。
百合に彼方を重ねていないと言えば、嘘になる。
自分に向ける、あどけない純粋な笑顔。
懐っこく、自分を求めてくれるところ。
よく喋り、よく笑う、子供っぽい仕草。
百合は彼方に似ている。
似ているから、一緒にいて落ち着くのだろうか。
けれど、百合のことを、彼方の代わりなんて、思ってはいない。
百合は彼方じゃない。
自分は、ちゃんと百合のことが好きになったのだ。
だから、大事にしようと思った。
必死で繋ぎとめようと思った。
嫌われないように。
離れていかないように。
愛されていたかった。
独りじゃないと、そう言ってほしかった。
その優しい微笑みを、自分に向けていてほしかった。
ずっと抱きしめていたかった。
百合の体温に酔いしれていたかった。
だから、百合を家に招くことが多くなった。
手を繋いで外を歩くことは、少し恥ずかしいが、なんとかできるけれど、
外で抱きしめるなんて、恥ずかしくてできない。
「お菓子を作ったから」と家に誘った。
「抱きしめたいから」なんて、とても恥ずかしくて言えない。
我ながら下心だと思う。
けれど、百合は疑いもせずに、嬉しそうな顔で付いてきてくれた。
「百合の髪は綺麗だな。」
隣り合ってソファーに座り、日向は百合の髪を手で梳きながら呟く。
肩が触れるほど近くで、時間と体温を共有する。
彼方の染毛で傷んだ髪とは違う、素直で真っ直ぐでしなやかな百合の黒髪。
自分の指に甘えるように纏わりついて、するりと抜ける感触が、懐かしかった。
「日向先輩の髪だって、綺麗じゃないですか。」
百合は嬉しそうな顔をして、髪を梳く日向に寄りかかる。
触れる体温が、心地いい。
「ううん、百合の髪は、なんか…いい香りがする。」
その言葉に、百合は笑って、日向を抱きしめるように、
首に手を回して、日向の肩口に顔を埋める。
「日向先輩だって、シャンプーのいい香りがします。」
満足そうに呟く百合の温かい体温と、柔らかい体。
日向も百合の背中に手を回して、抱きしめる。
その時間はとても至福で、伝わる百合の鼓動に、ひどく安心した。
「日向先輩…私のこと、好きですか?」
「…ああ。」
彼方のことを忘れたい。
彼方のことを好きだと思った記憶を、忘れたい。
自分の気持ちを、百合の体温で、全部塗り替えてほしかった。
けれど、服の下に隠した彼方に噛まれた傷が、彼方を思い出させる。
まるで自分を縛るように、その傷を見るたび、彼方が浮かぶ。
この傷が全部消えたら、自分は彼方のことを、忘れられるのだろうか。
何の疑いもなく、百合だけを、愛することができるだろうか。
百合のことは、好きだ。とても大切だ。
けれど、彼方のことも、忘れられなかった。
みっともなく足掻く自分の心を、
服の下に隠した彼方の噛み跡を、
百合に見られたくはなかった。
きっと、見られたら驚くだろう。
軽蔑するかもしれない。
嫌われるかもしれない。
そう思うと、自分の全てを、百合には見せることができなかった。
ずっと好かれていたかった。愛されていたかった。
独りにならないように、百合を強く、抱きしめた。




