「初めて知る気持ち」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。
渡辺真紀 バスケ部マネージャー。
竹内京子 二年生。
新田百合 一年生。日向に好意を寄せている。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
「初めて知る気持ち」
日向は夏祭りに、どんな服を着ていくか迷った。
百合とデートだからではない。
自分の体には、彼方に噛まれた傷跡が、生々しく鮮明に残っているからだ。
冬場ならマフラーやタートルネックで隠せるが、今は夏だ。
マフラーやタートルネックなんて、不自然に決まっている。
ストールを巻いても、全ては隠しきれない。
首筋、肩口、胸元。
赤い花のように、彼方の噛み跡が、自分を縛るように残っていた。
噛まれた時は嬉しかったはずなのに、今はただ、心が痛い。
あんなに激しく、熱っぽい瞳を向けて自分を求めてくれたのに、
シャワーから出てきた彼方は、自分を避けていた。
帰ってきた時のことを、「覚えていない」と言い、
彼方を掴む自分の腕を、乱暴に振り払った。
―男同士で…そんなふうにくっつくの、おかしいと思うよ。
その言葉に、息が詰まった。
いつも嬉しそうにくっついてくるのは、彼方の方なのに。
自分が彼方に触れることは、許されないのか。
愛しそうに、切なげな吐息を洩らして、自分の体を噛んだのに、
どうして触れることを許してくれないのか。
どうして自分を見てくれないのか。
彼方は何処で何のバイトをしているのだろう。
記憶がなくなるまで酒を飲んで、
自分の知らないシャンプーの香りをちらつかせて、何をしているのだろう。
何か危ないことを、しているのだろうか。
彼方は変わってしまった。
あれは、自分の知っている彼方ではない。
自分の知っている彼方は、あんなことを言わない。
乱暴に手を振り払わない。自分を見て笑ってくれるはずだ。
あれは、彼方じゃない。
日向は独りになった。
本当は夏祭りなんて行く気分ではないけれど、独りが怖かった。
傍に誰かがいてほしかった。
百合に、縋りつきたかった。
こんなことをするのは、狡いとわかっている。
けれど、独りは怖い。
彼方に見放された日向は、独りが怖かった。
百合に彼方を重ねて、満たされていようと必死だった。
愛されていたいと、必死だった。
独りじゃないと、そう思いたかった。
「日向先輩!」
百合は可愛らしい淡いピンクの浴衣に身を包んでいた。
長い髪は頭の上で上品に結って、浴衣から白いうなじを覗かせている。
日向を見つけて、嬉しそうな顔をして日向のもとへ駆けてくる。
その姿はさながら子犬のようだ。
「似合ってます?」
そう言って、百合は袖口を掴んで、モデルのようにくるりと回って見せる。
歩きづらいのか、少しよろけた後、首を傾げて微笑んだ。
正直、まだ百合のことを好きかどうかは、わからない。
けれど日向は、可愛らしく懐いてくる百合を、突き放すことはできなかった。
自分の寂しさを埋めるためだけに、百合を傍に置く。
きっと、自分も百合のことを、好きになれる。
自分は百合のことが、好きだ。
そう信じることで、孤独を紛らわせた。
「似合ってるよ。」
「それだけですか?」
百合は少し意地悪な笑みで、日向を見上げる。
普段とは少し違う、「祭り」という非日常に、百合も少し興奮しているようだった。
「可愛いとか、言ってくれないんですか?」
首を傾げて、ニッコリと微笑み、日向の顔を覗きこむ。
小悪魔のような、あざとく可愛らしい仕草だ。
「はいはい、可愛いよ。」
「適当じゃないですかー!」
軽い日向の言葉に、百合は頬を膨らませて、拗ねた様な顔をする。
「日向先輩冷たいですー!」
そう言った百合は、ぐらりとよろける。
慣れない草履で、歩きづらいのだろうか。
足元がおぼつかないようだ。
「ほら、手、繋いでてやるから。」
そう言って、少し照れくさそうに左手を差し出す日向。
百合は少し驚いた顔をして、おそるおそるゆっくりと、右手を日向の左手に絡める。
初めて触れた百合の手は、彼方よりもはるかに小さく、暖かかった。
触れた指先から、ビリビリと痺れるような感じがする。
自分の知らない体温に、胸がドキドキする。
こんな気持ち、知らない。
彼方に触れた時とは、全く違う。
これが、「好き」ということなのだろうか。
自分は百合のことを、ちゃんと「好き」になれたのだろうか。
「…日向先輩って、誰にでもこういうことするんですか?」
そう言った百合の手は、少し震えていた。
百合も緊張しているのだろうか。
「そんなわけないだろ。」
触れる指先に、胸がドキドキして、百合の顔が見れない。
彼方と手を繋いだ時とは違う、少し小っ恥ずかしいような気持ちになる。
「それは、私が特別ってことですか?」
窺うような、不安そうな声で百合は問う。
どんな顔をして、百合は言ったのだろうか。
百合と視線を合わせることすら、恥ずかしい。
「…そうだな。」
素っ気なく小さく呟いた日向の言葉に、百合はとびきり嬉しそうな顔をした。
それから、手を繋いで屋台めぐりをした。
浴衣を着て、草履を履いた百合の歩幅は狭く、
ゆっくり、ゆっくりと、百合の体温を噛み締めるように歩いた。
夏の湿気を纏った暑さが、少し気怠い。
日向は噛み跡を隠すために、長袖のシャツとストールを巻いていた。
ストールで隠しきれない部分は絆創膏を貼ったが、百合は何も言わないでいてくれた。
「暑いですねー。」
「浴衣は暑いだろうな。」
「かき氷食べましょ!」
そう言って、百合はかき氷の屋台を指さす。
幼いころ、母親もまだ穏やかで、祖母が生きていたころ、
祖母に彼方と夏祭りに連れてきてもらった記憶がある。
その時も、彼方が「暑いから、かき氷が食べたい」と言い出した。
「いろんな味がありますねー。私はイチゴがいいなあ。」
色とりどりの、いろんな味のシロップが並ぶ。
彼方が好きなのは、メロン味だった。
色が緑色なだけで、実際にメロンの味なんてしなかったけれど、
彼方は嬉しそうに、メロン味のかき氷を食べていた。
自分も彼方と一緒の、甘いだけでメロンの味がしないメロン味を食べた。
「日向先輩は何にします?」
「…レモンかな。」
どんなものでも、たくさん種類があっても、いつも彼方と同じものにした。
いつも彼方が選んで、自分がそれに合わせる。
そのことに何の疑問も抱かなかった。
けれど、メロンを選んだら、また彼方のことを思い出してしまう。
百合と同じイチゴにしても、彼方のことを思い出してしまうような気がした。
だからイチゴでもメロンでもない、たまたま目についたレモン味にした。
初めて食べるレモン味は、少し甘酸っぱかった。
「かき氷って、食べてると舌の色変わりますよね。」
そう言って、百合は小さな舌をベッと出して、日向に見せる。
百合の舌は、赤かった。
舌は元々赤いものだし、そんなに変わらないと思う。
少しだけ、色付いたくらいだ。
「俺は?」
日向も百合を真似て、舌を出して見せる。
「日向先輩、すごい黄色いですよー。」
そう言って、百合は楽しそうに笑う。
自分に向けられる、その柔らかな笑顔が、嬉しかった。
些細だけれど、少し幸せなような気がした。
すっかり日も沈み、祭りもお開きを迎えたころ、
日向と百合は、暗い海沿いの道を歩いていた。
「帰りたくないなー。」
日向と手を繋ぎながら、百合はポツリと寂しそうな声を零す。
百合の家は、日向が住む場所から電車で三駅離れている。
田舎の三駅なんて、結構な距離だ。
それに、終電の時間も早い。
「…そうだな。」
小さく零す日向の声に、百合は少し意外そうな顔をする。
「え、日向先輩もそう思ってくれたんですか!?」
驚いたように、百合は日向の顔を見上げる。
見上げた日向は、少し寂しそうな表情をしていた。
「ああ。…まだ、帰りたくないな。」
駅まで百合を送れば、日向はまた独りになる。
家に帰っても、誰もいない。独りぼっちだ。
「…じゃあ、これからどこか行きましょうよ。」
日向の手を強く握って、百合は立ち止まる。
立ち止まった百合に手を引かれて、日向も立ち止まる。
「駄目だ。親御さんが心配するだろ?」
百合を見据えて、日向は静かに首を振る。
自分よりも年の若い女の子を、夜遅くまで連れ回すわけにはいかない。
「私だって、日向先輩ともっと一緒にいたいです…。」
握った手を離さないまま、拗ねるように、百合は頬を膨らませる。
「百合は待っててくれる人がいるんだから、ちゃんと帰らないと駄目だろ?」
ゆっくりと諭すような優しい口調で、日向は言う。
百合には、ちゃんと待っていてくれる家族がいる。
自分とは違う。
「それは…日向先輩だって、同じじゃないですか。」
その言葉に、日向は少し悲しそうな顔をした。
「俺は…誰も、いないよ。」
そう言った日向は、視線を逸らして、俯いた。
寂しさを噛み締めるように、繋いだ手に、少し力が籠った気がする。
「え…?弟さんとかは…?」
首を傾げて、控えめに、窺うように百合は聞く。
「彼方はバイトで、しばらく家には帰って来ない。」
日向はポツリと、静かな声で答える。
「お母さんとか、お父さんとかは…?」
「父親はいないし、母親はもうずっと…帰ってきてない。」
日向はあまり、自分の話をしようとしない。
一緒にいても、いつも百合が話して、日向が静かに相槌を打つだけ。
初めて知った日向の家庭事情に、百合は驚いた。
「じゃあ…一人、なんですか?」
「…そうだな。…独りだ。」
そう答えた日向の瞳は、少し揺れているように見えた。
自分よりも大きいはずの日向の肩が、何故か儚く、小さく見えて、
百合は胸が締め付けられた。
「なんで…ずっと黙ってたんですか…?」
百合は日向を真っ直ぐに見つめて、震える声で呟く。
繋いだ手を離して、百合は日向の真正面に立って日向を見つめる。
孤独に怯える、伏し目がちな瞳。
変わることを拒む、少し伸びた黒髪。
自分自身を守るように、少し猫背気味な背中。
そうだ。日向は言葉にしなくても、「寂しい」という思いを自分に伝えていた。
百合は、そんな不器用な日向を抱きしめるように、
日向の胸に顔を埋め、そっと腰に手を回した。
「百合…?」
突然のことに、日向は戸惑う。
百合は日向を抱きしめたまま、静かに、けれど芯の強い声で呟いた。
「日向先輩が寂しくないように、おまじないです。」
百合の甘い香りに包まれる。
彼方とは違う、優しい温もり。
百合の体温は、温かかった。
自分の知らないその温もりに、何故か涙が出た。
何故涙が出るのだろう。
悲しいのか、寂しいのか、辛いのか、嬉しいのか、幸せなのか。
どんな気持ちで涙が流れたのかは、日向には、よくわからなかった。
けれど涙は止まることはなく、
日向は百合の肩口に顔を埋めて、息を殺して、静かに泣いた。
百合の背中に手を回して、強く抱きしめた。
離れていかないように、自分の傍にいてくれるように。
その優しい体温に、縋るような気持ちだった。
「明日も、会えますか?」
「…ああ。」
「明日はいつもより、少し早い電車に乗りますね。」
「…ああ。」
「明日も、手を繋いでくれますか?」
「…ああ。」
「日向先輩、ちょっと腕の力、強いですよ。」
「…ごめん。」
日向の胸に顔を埋めたまま、百合は穏やかで優しい声で言う。
日向は震える涙声で、噛み締めるように、ゆっくりと、返事をした。
百合には自分が泣いていることが、きっとわかっているだろう。
けれど百合は何も言わずに、少し背伸びをして、日向の頭を撫でる。
まるで、子供をあやす母親のように、優しく、優しく。
ああ、きっと、自分は百合のことが、好きなのだ。




