「不安定な心」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。
渡辺真紀 バスケ部マネージャー。
竹内京子 二年生。
新田百合 一年生。日向に好意を寄せている。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
「不安定な心」
放課後になって、一人で帰路に着く日向。
一人の通学路は、もう慣れたものだった。
今日だって追試なんてもうないのに、彼方は放課後になるとすぐ、
いつの間にか教室から姿を消していた。
どこで何をしているのかも知らない。
きっと、夜遅くまで帰って来ない。
日向は柄にもなくイラついていた。
昼休みに亮太に言われたことを考える。
将悟にも、似たようなことをお好み焼き屋で言われた。
どうしてあの二人は、人の恋路に関わろうとするのだろう。
誰に何を言われたところで、自分の気持ちは簡単には変わらないのに。
確かに百合は真っ直ぐで、素直で、いい子だと思う。
明るくて、可愛らしくて、魅力的だとは思う。
自分にない、いいところをたくさん持っていて、羨ましいとも思う。
好意を向けられて、恥ずかしい反面、嬉しいとも思った。
けれど、好きだと言われて自分も好きになるほど、
日向は単純な人間にはなれない。
正直、誰かを好きになるという気持ちが、わからなかった。
自分が彼方に向けている気持ちが、
百合が自分に言うような『好き』という気持ちだとしたら、
自分は百合に向けて『好き』という感情を、持ってはいない。
日向は、自分が彼方に向けている気持ちは、きっと恋だと思っていた。
だからこそ彼方が別人のように変わってしまって、
自分のことを見ないことが、こんなに苦しいのだと思っていた。
今まで必死で守り抜いてきた箱庭が壊れてしまって、
二人一緒にいる未来を望めなくなって、
だから苦しくて、寂しくて、辛いのだと、そう思っていた。
百合のことを傷付けたくはないけれど、
その感情がないのに不実に付き合えるほど、
日向は器用な人間にはなれない。
それに、誰かの『特別』になってしまえば、
きっと、彼方はもう戻って来ない気がしていた。
いや、もう彼方が自分のもとに戻ってくる保障なんて、ないのだけれど。
彼方以外の、誰かの手を取ることが、怖かった。
手を取ったとしても、彼方のように離れて行ってしまう、遠くへ行ってしまう、
そんな日が来るのが、怖かった。
そもそも『好き』って、何なのだろう。
ずっと一緒にいたい、触れたいと思うのは彼方だ。
百合にそんな感情はない。
むしろ、気まずさから顔を合わせづらい。
でも、日向は気付いていた。
彼方に対して、キスしたいだとか、
男女関係と同じようなそれ以上の、深い関係を望んでいないことを。
むしろ、キスされた時は驚きと、恐怖と後悔があった。
もしかしたら、自分は勘違いしているのではないか。
彼方にキスをされた時から、彼方のことが好きだと、勘違いしているのではないのか。
そう思うと、不安になった。
確かに彼方のことは大事で、一緒にいたいと思うのに、
それ以上のことを、自分は望んでいない。
じゃあ彼方のことが好きじゃないのかと聞かれれば、
間違いなく『好き』だと答えるだろう。
日向が彼方に対する『好き』は、
百合たちが口にする『好き』とは違うのだろうか。
いや、自分は間違いなく彼方のことが好きだ。
それはきっと、間違いない。
学ランの襟で隠した傷が、痛い。
彼方に貼ってもらった絆創膏は一日も持たずに、
シャワーを浴びているときに剥がれてしまったし、
彼方につけられた傷は、もうほとんど消えかけている。
残るのは、母親の爪跡と、自分の爪跡。
こんなものを残したいわけじゃないのに。
彼方の傷跡が欲しかった。
自分は彼方のモノだと、そう疑わせない傷跡が、欲しかった。
迷わないように、間違えないように、繋ぎとめていてほしかった。
イライラする。
どうして自分はこんなにイライラしているのだろう。
また亮太に八つ当たりしてしまった。
亮太が悪いわけじゃないのに、いつも自分は亮太にだけ、八つ当たりしてしまう。
そんなつもりなんて、全然なかったのに。
全てが、上手くいかない。
今はもう使われていない、倉庫と化した空き教室。
強引に手首を掴まれ、連れていかれた先は、
あの事件が起きた教室と、同じ部屋だった。
逃げ出そうと思えば、逃げ出せた。
まだ校内には生徒もたくさん残っていたし、
声を上げて抵抗すれば、きっと誰かが助けてくれた。
けれど、逃げ出さなかったのは、何故だろう。
目の前にいるのは、日向じゃないことはわかる。
茶髪に染め、髪を切り、日向と風貌も違うが、
明らかに仕草や言動が、日向のものとは別人だ。
自分のことを冷たい目で見降ろすこの人物は、日向じゃない。
日向の双子の弟、彼方だ。
もう、間違えない。
「話ってなんですか?彼方先輩。」
静かな声で問うと、彼方は冷たい目のまま、ニッコリと笑った。
その表情が、なんだか異常に見えて、百合は少し後退る。
「そんなに警戒しないでよ。今日は、少し話をしたいだけなんだ。」
ヘラヘラと口元を歪めて、日向と似た顔で笑う。
そんな張り付いたような笑顔に、百合は顔をしかめる。
「私は…あなたのこと、嫌いなんですけど。」
百合の怯むことのない強気な発言に、
彼方は口元に手を当てて、クスクスと笑う。
「ひどいなー。まあ、僕も君のことなんて、大嫌いだけどね。」
そして彼方は小さく息を吐いて、一度目を伏せた後、その笑顔を消した。
百合に真っ直ぐ向き合い、ゆっくりと距離を詰める。
彼方の冷たい眼差しが、百合の瞳を射抜く。
「ねえ、日向のこと好きなの?」
そう言いながら、彼方は百合にゆっくりと近付く。
「貴方には、関係ないじゃないですか。」
百合はそう小さく呟いて、顔を背ける。
それでも、彼方は足を止めずに、百合に近付いてくる。
ゆっくりと近付く彼方に後退れば、背中が壁に当たった。
「日向のこと好きなの?って、聞いてるんだけど。」
先程より強い口調で、触れそうな距離まで彼方が近付いてくる。
壁の方まで追い詰めれて、逃げ場がない。
冷たい目が、自分を見下ろす。
そうだ、この人は何をするかわからない。
以前自分にしたことや、もっと酷いことをされるかもしれない。
百合は、携帯電話が入っているスカートのポケットに右手を突っ込んだ。
「…好きですよ。悪いですか。」
その言葉に、彼方は面白くなさそうな顔をして、眉を寄せる。
そして、彼方は静かに百合が背をつく壁に右手をつき、
百合を覆うように、逃げ場をなくす。
「…ホント、嫌な子。」
彼方の冷淡な表情に、百合の体が強張る。
―誰か、呼んだほうがいいかもしれない。
そう思って、百合はポケットの中で携帯電話を握りしめる。
けれど、その右手は、彼方に掴まれた。
「駄目だよ。まだ話の途中なんだから。」
握っていた携帯電話が、手からするりと離れて、
スカートのポケットから床にすべり落ちる。
「あ…っ。」
右手で壁をつき、左手で百合の右手を掴む彼方。
自分の右手を掴む彼方の左手は、力が強くて、とても振り払えない。
携帯電話も、遠くの方へ滑り落ちてしまった。
逃げ場がない、助けを呼べない。
そんな状況に百合が絶望していると、彼方は静かに口を開く。
「…君に、日向のことを幸せにできるの?」
「…え?」
「日向を、ちゃんと笑わせられるの?」
呟くように小さく言った彼方を見上げると、先程までの冷たい表情をしていなかった。
切なそうに、眉を寄せて百合のことを見つめていた。
その顔が、今まで見てきた彼方の表情と全く違っていて、百合は戸惑った。
「こんな細い腕で、日向を守れるの?」
そんな顔で、そんなことを言って、
自分を不安にさせて、動揺させて、諦めさせようというのか。
それでも、百合は自分の気持ちを変えるわけにはいかない。
何を言われようと、日向への想いを大事にしたい。
百合は少し震える足を隠して、唇をきゅっと噛んで、
彼方を真っ直ぐ見つめて、話し出す。
「…なんなんですか、いきなり。
そんなこと言って、また日向先輩のことを諦めさせようとしているんですか?
あなたに何を言われようと、何をされようと、
私は…、日向先輩のことを諦めるつもりは、ありませんから。」
真剣な百合の瞳に、彼方は壁から右手を離して、ため息を吐く。
「日向はね、ああ見えて繊細なんだ。すごく、傷付きやすい。弱いんだ。
でも優しいから、人の好意を無下にはできないんだよ。
…だから、中途半端な気持ちで日向に近付こうとするなら、許さない。」
許さない、そう強く言い切った彼方の瞳は、
切なそうに、熱を持っているように揺れていた。
それはまるで、日向に恋焦がれているような、苦しそうな瞳。
―この人も、日向先輩のことが大事なんだ。
けれど、彼方の行動は、何かがおかしい。
自分が日向に近付くことを嫌ったり、牽制したり、
自分のことを試すようなことを言ったり。
「…あなたいったい…何がしたいんですか?」
その言葉に、彼方は目を伏せて静かに言った。
「日向に…幸せになってほしい。」
百合の手を掴む左手を離して、俯く。
「普通の…本当に普通の幸せでいいから、笑っていてほしい。」
その言葉は、消えてしまいそうなほど弱弱しく、
本心ではないような、嘘を吐いているような、
まるで、無理をして自分を偽っているようで、儚く見えた。
「日向の邪魔する奴や、日向を傷つける奴は、みんな僕が日向に近付けさせない。
日向はずっと、僕のモノだったんだ。
…でも、もう僕じゃ、日向の傍には…いられないから。」
―ああ、なんて不器用で寂しい人だろう。
肩を震わせ、今にも泣き出してしまいそうなほど、
切ない顔をした彼方に、何故か、百合は同情していた。
彼方が、弱くて可哀想な人間に見えた。
「だから…こんなこと、君に言いたくないけれど、
本当に日向のことが好きなら、絶対に日向を裏切らないで。
何があっても、日向の味方でいてあげて。日向を、支えてあげて。」
放課後、もう部活のない亮太は、授業が終わったらすぐ帰ってしまった。
昼休みに、日向と言い合ったことを気にしているのか、少し落ち込んでいて、
何も言わずに、いつの間にか教室から姿を消していた。
亮太のことだから、二、三日悩んで、
それでもまだ悩むようなら自分に相談してくるだろう、と思いながら、
将悟は花壇の花に水やりをしていた。
「アンタ…本当に美化委員だったのね…。」
花壇にジョウロで水をまいていると、真紀は驚いたような顔をした。
真紀も部活がなく、亮太も帰ったのでヒマなのだろう。
色とりどりの花が咲く花壇を、しゃがみ込んでじっと見つめていた。
月曜日の放課後は、美化委員仕事がある。
将悟の、花の水やりの当番の日だ。
「嘘ついてどうするんだよ。」
呆れながらため息を吐く将悟に、
真紀は笑いをこらえるように、口元を手で覆って話す。
「いや…なんていうか…似合わなさ過ぎて…。」
「別にいいだろ。」
「花、好きなの?」
その質問に、将悟は少し考える。
咲く季節も様々で、色とりどりの花は見ていて飽きることもないし、
世話が大変な花も多いけれど、手を掛けた分、綺麗に咲くと嬉しい。
それに、自分には花に思い入れがたくさんある。
「まあ…嫌いじゃない。」
「ぷっ、似合わないー!」
噴き出したように笑う真紀。
似合わないのは、自分でもわかっている。
「うるせえ。」
一通り笑い終えた真紀は、花壇をじっとみつめて、口を開く。
将悟が一番大事にしている花を指さした。
「この棘いっぱいあるの何?バラ…じゃないよね?」
「あー…それはアザミだよ。」
ハリネズミのような細かい紫の花。
茎には棘がたくさんある。
この花を見るたび、忘れられないことを思い出して、少し切なくなる。
真紀はそんな将悟に気付かず、他の花を指さす。
「これは?菊?」
「アスター。」
確かに菊に似ているが、それとは少し違う赤い花。
同じキク科ではあるけれど。
「これは?まだ蕾?」
「キンギョソウ。もうすぐ咲くだろ。」
まだ蕾のままの黄色い花。
真紀は次々に色々な花を指さして、将悟に説明させた。
将悟が説明しても、真紀は説明を聞いているのか、いないのか、
花壇をじっと見つめて、頷くだけだった。
「詳しいじゃん。」
「まあ、美化委員だからな。」
そんな他愛のない会話をしながら、
将悟は水やりを終えて、ジョウロを倉庫へ片付ける。
真紀は花壇を見つめたまま、口を開く。
「ねえ、この後どっかいこーよ。」
「また亮太の愚痴か?」
「別に愚痴る気はないけどさー。」
そう言いながら立ち上がった真紀は、一点を見つめて口をポカンと開けた。
驚いたような表情をしたあと、怪訝そうな顔になる。
「うわあ、よく学校であんなことできるなあ…。」
そう呟いた真紀の見つめる校舎の一番隅を見ると、
一階の空き教室の窓際に彼方と、
彼方に抑え込まれている百合が見えた。




