「背中を押す」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。
渡辺真紀 バスケ部マネージャー。
竹内京子 二年生。
新田百合 一年生。日向に好意を寄せている。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
「背中を押す」
月曜日の朝。
いつも通りの図書室の約束。
百合と亮太は静かな図書室でいつも通り談笑していた。
百合の恋愛相談といいつつ、実際は他愛のない会話が多い。
それでも、亮太は百合と二人きりで過ごせる、この時間が嬉しかった。
「追試、大丈夫だったんですか?」
「あー、うん、たぶん。」
亮太の歯切れの悪い返事に、百合は真っ直ぐな目で亮太を見つめる。
「坂野先輩、学級委員ですよね…?」
訝しげな瞳の百合に、亮太は目を逸らす。
思えば学級委員らしいことは、何一つしていないような気がする。
名前だけの学級委員で、テストも常に赤点ばかりだ。
亮太が好きな百合の真っ直ぐな瞳が、刺さるように痛い。
「まあ、そうなんだけど…。って言っても、委員会ももうすぐ終わりだしなー。」
「え?」
「三年生は受験勉強があるから、夏休み入ったら委員会の仕事ないんだよ。」
三年生は受験勉強に専念するために、委員会活動の参加は夏休み前までだ。
それは亮太も例外ではない。
まともに委員会の仕事をしていない亮太は、
委員会がなくなったところで何も変わらないかもしれないけれど。
「え…。それじゃあ、日向先輩と会えるの…今週で最後じゃないですか…。」
今週いっぱいで前期の授業が終わり、来週から夏休みが始まる。
下級生の百合は、日向との接点は金曜日の図書室だけだった。
委員会がなくなるということは、百合が日向に会える理由がなくなるということだ。
そのことに、百合は悲しそうな顔をする。
「あ…そっか。」
自分と違って、百合は日向と会う理由がないのだ。
日向もまた、百合に会う理由がない。
このまま夏休みが来てしまえば、
二人はもう、会うことがないかもしれないのだ。
「夏休みも、きっと会えないですよね…。」
しょんぼりと肩を落とす百合。
元々小柄な体が、一層小さくなる。
悲しげな顔をする百合を、見ていられなくて、
亮太はなんとか話題を変えようと、無い知恵を絞る。
「えっと…その…そ、そういえばさ、月末のお祭り知ってる?」
言葉に詰まりながら、やっと絞り出した話題は、
日向や将悟や千秋も誘って一緒に行く予定の夏祭りのことだった。
「お祭り…?」
突然の話題に、百合はポカンと口を開けて、何のことだかわからない様子だった。
百合はこの地から少し離れたところに住んでいるため、無理もないだろう。
その神社のお祭りというのも、田舎の小さなお祭りなのだから。
「学校の近くの神社でさ、夏祭りがあるんだ!
屋台とかいっぱい出てさ、花火…花火とかもあるんだ!
だから…だからさ…」
― 一緒に行こう。
そんな言葉、言っていいはずがない。
百合の気持ちを無視して、日向との友情を無視して、そんなことは言えなかった。
切ない想いを隠して、笑う。
「…百合ちゃんも来なよ。日向も、来るし。」
「え!?日向先輩も来るんですか!?目一杯おしゃれしなきゃ…!」
日向の名前が出た瞬間、両手を頬に当て、悩ましげな顔をする百合。
その仕草が、可愛らしいと思った反面、心に突き刺さる。
百合が心を悩ませているのは、自分じゃない。
いつだって、百合は真っ直ぐに日向のことを想っている。
亮太は、胸が締め付けられるような気持ちで、小さく呟く。
「そのままでも、百合ちゃんは可愛いよ。」
その言葉に、百合は少し悲しそうな顔をした。
「それは…日向先輩に言ってほしいですね。」
少し俯いて、そう言った百合は、
またすぐに顔を上げて、いつものように笑う。
「なんて、冗談です。」
悪い冗談だ。
いや、冗談なんかじゃないのだろう。
自分に気を使って、誤魔化したのだろう。
亮太はその百合の優しさが、狡いと思った。
突き放すようなことはしないくせに、懐にはいれてくれない。
百合の見つめる先には、日向しかいない。
それでも、百合の前で情けない顔は見せたくなかった。
下手な作り笑顔で、自分を誤魔化す。
「日向は口下手だからなー。でも意外と顔に出やすいんだぜ、アイツ。」
「そうですよね!日向先輩、照れたらすごい可愛いですよね!
困ったような顔もすごく可愛くて、もっと困らせちゃいたくなりますよね!」
今まで見たこともないくらいの悪戯っ子の笑みで、少し興奮気味に話す百合。
彼女は意外に、少しSっ気があるのかもしれない。
「百合ちゃん…いい趣味してるね…。」
百合の発言に、呆れ気味の亮太。
彼女の意外な一面を受け入れられずに、苦笑する。
「でも、やっぱり日向先輩には笑っていてほしいです。」
そう言った百合は、清々しいほど幸せそうに笑った。
―ああ、俺は、この笑顔が好きなんだな。
きっと自分の好きな百合は、日向のことを一途に想い続けている百合なのだ。
真っ直ぐに、日向しか見えていない、そんな百合が好きなのだ。
それは、叶うことがない、不毛な恋だ。
「…俺、ちゃんと百合ちゃんのこと、応援するよ。」
落ち込んでいる百合より、悲しそうな顔をしている百合より、
やっぱり明るく笑っている百合が好きだ。
自分の想いが叶わなくとも、彼女の笑顔を守りたいと思った。
彼女が笑ってくれるのなら、自分は救われる。
「当たり前じゃないですか!ちゃんと応援してくれないと困ります!」
頬を膨らませて、拗ねるような仕草をする百合。
その仕草が妙に子供っぽくて、可愛らしくて、自然と笑みがこぼれる。
「百合ちゃんには、敵わないな。」
「日向君、元気ないねー。どうしたのー?」
午前の授業が終わった昼休み。
千秋は首を傾げて、日向の顔を覗きこむ。
朝から一日中、伏し目がちで落ち込んだ様子の日向に、
千秋は心配そうな目を向けて、日向を見つめる。
「…なんでもない。」
日向は、そんな千秋から目を逸らして、小さく素っ気ない返事を呟く。
猫背気味の背中を丸めて、肩を落とす日向に、千秋は心配そうに言葉を掛ける。
そんな二人を、後ろの席から亮太は黙って見ていた。
千秋は、きっと日向のことが好きなのだろう。
追試の時に、日向の話題を出して、顔を赤らめた千秋のことを思い出す。
金曜日の図書室でしか日向に会えない百合と違って、
千秋は卒業までは同じクラスなため、長期休み以外は、ほぼ毎日顔を合わす。
二人の距離が縮まるのは、時間の問題のような気がしていた。
日向と千秋がくっつけば、自分にも可能性があるのではないか、と考える反面、
やっぱり百合には幸せになってほしい、日向と上手くいってほしいと思ってしまう。
百合の悲しむ顔は、見たくない。
百合には、笑っていてほしい。
自分には、何ができるのだろう。
そんなことを考えながら、亮太は頬杖をついて二人を見つめる。
「亮太、飯いかねーの?」
将悟の声で、ハッと我に返る。
最近、気がつけば百合のことばかりを考えている気がする。
それも当然だ。自分は百合のことが好きなのだから。
「…お、おう!そーだな!」
下手に取り繕って、将悟に返事をする。
その返事に訝しげな顔をした将悟には、
なんとなく今自分が考えていたことが、伝わっているような気がした。
自分がわかりやすいだけかもしれないが、将悟は昔から聡い。
だからこそ、将悟には嘘もつけないし、誤魔化せない。
けれど亮太は、何も言ってこない将悟に安心して、
そのまま、千秋と話す日向の肩を叩いて、いつもの笑顔を見せる。
「日向!飯行こうぜ!」
その言葉に、千秋は少し残念そうな顔をして、でもまたすぐ笑う。
「じゃあ、私は友達のとこ行くね。日向君、元気出してね。」
手を振りながら遠ざかる千秋に、日向は少し安心したような顔を見せた。
話の終わりを切り出せなくて、困っていたのだろうか。
最近気付いたことは、日向は素っ気なくとも、相手を突き放すようなことはしない。
わかりにくくても、それが日向の優しさだ。
中庭の木陰に座り、各々パンや弁当を広げる。
少し強い風に煽られて木々が揺れる音が、心なしが涼しさを感じさせる。
この時期の屋上は、直射日光が当たって、
とてもじゃないけれど長時間そこにいるのは辛い。
最近はもっぱら三人で、木陰があるこの中庭で昼食をとることが多くなった。
最近の日向は大人しい。
元々大人しいけれど、以前にも増して沈んだ顔をして、俯いていることが多くなった。
きっと、もう決めるのに時間がない進路のこと、変わってしまった彼方のことなど、
いろいろ考えることがあるのだろう。
それでも、亮太は百合に目を向けてほしかった。
日向に、百合のことをちゃんと考えてほしかった。
日向は日向なりにいろいろ考えて、百合の好意を断ったのだろうけど、
そのことを、自分が口出しする権利がないことは、わかっているけれど、
亮太はどうしても、日向にこの気持ちを言いたかった。
夏休みまでに、委員会が終わるまでに、
百合のことを、もっと真剣に考えてほしかった。
そんなことに口出しして、日向に嫌われるかもしれない、呆れられるかもしれない。
けれど、言わなきゃいけない気がした。
ここで言わないと、また自分が後悔する気がした。
日向の方を見ると、ただ黙ってぼーっとしながら、
箸を動かす手を止めて、何かを考えるように俯いていた。
―俺が、背中を押さないと。
じゃないと、日向は前に進めない。
そう思った亮太は、自分を落ち着けるように、大きく息を吐く。
そして、決心するように拳を握り、立ち上がった。
「…日向!俺、今からめちゃめちゃワガママなこと言うぞ!」
「…は?」
突然の言葉に、日向は微かに視線を上げて、怪訝そうに亮太を見上げる。
亮太は日向と視線を合わせて、真っ直ぐに日向を見つめる。
「百合ちゃんのこと、ちゃんと考えてやれよ。」
力強い、しっかりとした言葉で伝えなければ。
ちゃんとした、自分の言葉で伝えなければ。
「おい亮太…。」
静止しようとする将悟をよそに、亮太は言葉を続ける。
少し震える手を隠すように、握る拳に力が籠る。
それでも、今言わなければ。
「お前は優しい奴だから、いろいろ考えて断ったんだろうけど、
百合ちゃんだって真剣なんだ。真剣に日向のこと想ってるんだよ。」
真っ直ぐな亮太の言葉に、日向は視線を落とす。
そして、箸を置いて小さく呟いた。
「…亮太だって、あの子のこと、好きなんだろ。」
そうだ、あの事件のときに、自分の気持ちは日向の耳に入っている。
三人で話したあの喫茶店で、相手が百合だとは言わずに、将悟が話した。
けれど、百合から告白されたのだったら、なんとなく、察しはついているだろう。
それを理由に、百合の想いを受け取れなかったのだろうか。
「俺のことは、どうでもいいんだよ。
俺のことを考えて、百合ちゃんの告白を断ったんなら、それは優しさじゃねえよ。
そんなのは、ただの自己満足の偽善だ。」
弛みない真剣な目で日向を捕らえる。
その言葉に、日向は俯いたまま、小さく答えた。
「あの子がいい子だってことは、わかってる。
…けど、中途半端な気持ちで、答えられない。」
日向は少し面倒そうに、伸びた髪を掻き上げる。
日向が呆れるのも当然だ。
こんなことを、自分が口出しするべきじゃない。
日向には日向なりの考えがあるのは、わかっている。
それでも亮太は、少しでも百合の力になりたかった。
「頼むから…百合ちゃんの気持ち、わかってやってくれよ…っ。」
折れることのない亮太を見て、日向はため息を吐く。
少しイライラした様子で、亮太のことを横目で睨んで話す。
「…じゃあお前は、告白されて、自分がその子のことを、まだ好きかどうかも、
これから好きになれるかもわからないまま、その子と付き合うのか?
気持ちがないまま、付き合うのか?…それこそ、不誠実だろ。」
そうだ、日向はこういう人間だ。
いつも自分の思いつかないところまで考えている。
日向は優しいから、人の気持ちを一番に考えている。
だけど不器用だから、全部は言わない。
不誠実に、簡単に、受け入れようとはしない。
百合の想いが叶って、二人が付き合えばそれでいいと思っていたのに、
それだけじゃダメなんだと、今更気付かされる。
日向はこんなにも誠実に百合のことを、考えてくれていたのに、
自分は日向の気持ちを無視して、話していたのか。
日向が百合のことを好きになる前提で、話していた。
日向の気持ちを無視した不誠実な行動を、強要していた。
「それは…そうだけど…。でも…。」
日向の正論に何も言えず、でも何か言いたそうに口ごもる亮太。
そして、少しイラついた様子で亮太を睨む日向。
空気が重い。険悪なムードだ。
そんな二人を見て、黙っていた将悟が口を開く。
「もういいだろ。やめてやれ。」
そう言って、将悟は静かに亮太を見つめる。
日向は、意味ありげに将悟のことを黙ってじっと見つめた。
百合のことを大事にしようと思うあまりに、
日向の気持ちに気付けなかった自分を、恥ずかしく思い、
居た堪れない空気に亮太は俯いて、小さく呟いた。
「…ごめん、日向。言いすぎた。」
放課後、帰宅部の百合は真っ直ぐ家に帰ろうと、下駄箱へ向かう。
三年生以外は、ほとんど部活動に所属しているため、
この時間は、玄関に人は少ない。
廊下を抜けて、下駄箱の前あたりに来たところで、声を掛けられる。
「やあ、こんにちは。」
その声に振り向くと、意外な人物が自分を待ち伏せていた。
「…あなたは…。」
その男は、自分が好きな彼の顔によく似た、自分が大嫌いな人物。
あの時とは違い、髪を茶色に染めて、卑しい顔で笑う。
その男を見て、百合は一瞬で気づいた。
彼は、日向ではない。
以前、自分に乱暴しようとした、日向の双子の弟だ。
青ざめた表情をした百合を見て、
彼方はニッコリと笑って、強い力で百合の手首を掴んだ。
逃げられないように、しっかりと。
「ちょっと、話をしようよ。」




