「お姫様には、なれないから」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。
新田百合 一年生。日向に好意を寄せている。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
「お姫様には、なれないから」
朝方の海は静かだ。
波が、押しては引いて、ゆらゆらと揺れる。
ゆっくりと太陽が昇る水平線を眺めながら、
彼方は靴を脱いで、静かに波に足をつけてみる。
冷たい海水に流される砂が、足を掠めてくすぐったい。
―いつかの雨の日は、日向が助けてくれたっけ。
入水をしようとしたことを思い出す。
あの時は何も言わなかった。
どこへいくのか、何をするのか、何も言わなかった。
それでも、日向は必死になって、息を切らして、自分を探し出してくれた。
冷たい自分の体を抱きしめて、繋ぎとめてくれた。
こんな情けない、どうしようもない自分でも、
生きていてもいいのだと、言ってくれているような気がした。
日向だけが、自分を認めてくれていた。
だから、自分も日向のことを、大事にしようと思った。
誰に嫌われてもいい。日向に嫌われたっていい。
それでも、日向を大事にしようと思った。
目の前に広がる海は、広くて深い。
仄暗いその底には、まるでこの世界じゃない、何か別の世界が広がっているように思える。
海の底に沈んでしまえば、自分なんて、なかったことになるような気がした。
消えるとか、死ぬとか、そういうことじゃない。
きっとこの世界は、自分が見ている夢で、その海に沈めば、目が覚める。
その夢の世界に、自分が最初から存在しなかったことになる。
そんな世界だったらいいのに。
確かに今を生きている自分が、もどかしく、憎らしくさえ感じた。
自分がいなければ、日向が戸惑うこともなかった。
自分がいなければ、日向が苦しむことはなかった。
自分がいなければ、日向が悲しむことはなかった。
自分がいるから、日向が苦しむ。
だったら、自分なんていないほうがいい。
いないほうがいいのに。
―消えたくない。離れたくない。
どうしようもない気持ちが渦巻く。
自分はそんなに利口な人間じゃない。
駄目だと言われても、好きなものは好きだし、欲しいものは欲しい。
頭より先に、感情が動くタイプだ。
それが駄目だともわかってはいる。
けれど、人は、そんなにすぐには、変われない。
波が寄せては返す。
このまま自分を、攫ってしまってくれたらいいのに。
そのまま自分を、なかったことにしてくれたらいいのに。
辛い。苦しい。消えたい。死にたい。
けれど、日向と離れたくは、ない。
太陽が高い位置に昇ってくる。
この田舎町の海は静かで、きっとここには誰も来ない。
日向もきっと、自分を探してはくれないだろう。
学校では、話さないようにしていた。
必要以上に、近付かないようにしていた。
いつものように、甘えないようにしていた。
日向の世界には、自分はいない方がいいから。
話したい、触れたい、甘えたい気持ちを押し込めて、
日向から離れようとしていた。
一緒にいたら、いつまでも自分は日向に甘えてしまう。
離れられないまま、日向を苦しめる。
だから今は、一緒にいない方がいい。
「ワンッ!ワンッ!!」
遠くから、犬の鳴き声が聞こえる。
振り返ってみれば、大きな金色の毛の色の犬が、こちらに向かって駆けてきた。
その後ろから、大人の女性がその犬に引きずられるように、走ってくる。
リッキーと、その飼い主の女性だ。
「あーもう、こらー!リッキー!」
引き摺られるまま、女性も彼方の近くへと来る。
リッキーは嬉しそうに彼方にじゃれつく。
「リッキー。久しぶりだね。」
彼方は、リッキーのなめらかな毛並みの背を撫でてやる。
リッキーはその大きな体を擦り付けるように、彼方に甘える。
「あれ、この前の…。」
女性は彼方に気付き、驚いたように目をパチパチと大きく瞬きさせる。
「こんにちは。お久しぶりです。」
彼方はリッキーを撫でたまま、女性と目線を合わす。
女性はじっと、彼方の髪型を見つめる。
「びっくりしたー!イメチェンしたの?」
「はい。似合ってます?」
「ええ。かっこよくなったんじゃない?」
「えへへ。よかった。」
はにかんで笑う彼方に、女性は優しく笑いかける。
リッキーは尻尾を振って、嬉しそうに舌を出して、彼方を見上げていた。
「すっかりリッキーも君に懐いてるわね。
今日は一人でどうしたの?また、悩み事?」
「悩み事は…もうないです。全部、もう…決めちゃいましたから。」
そう言い、少し悲しそうに笑う彼方に、女性は不思議そうな顔をする。
「…フラれちゃったの?」
女性の小さく窺うような、その言葉に、彼方は、少し口を瞑んで沈黙した後、
心配そうに見つめるリッキーの目線に合わせてしゃがみ込み、呟く。
「僕、昔…人魚姫の絵本が好きだったんです。」
「人魚姫?」
唐突な話に、女性は戸惑うように首をかしげる。
「人魚姫って、アンデルセンの?
あの話って、確か泡になって消えるっていう…バッドエンドよね?」
「でも、好きな人のために自分を犠牲にできるって、凄いことだとおもいません?」
「それって…。」
「見守るだけでいいんです。見守るだけ。それで、僕はいいんです。」
悲しげな笑顔をする彼方に、女性は小さく呟く。
「それで…君は救われるの?」
「僕には…そうするしかできないから。
その人のためには、そうするしかないから…。」
何もできない自分には、そうすることしかできない。
日向のために、自分がしてあげられることなんて、何もない。
自分が離れることでしか、日向を救えない。
自分がいれば、日向を悩ませるだけだ。
好きだからこそ、日向には笑っていてほしい。
その笑顔を守るために、自分くらい、犠牲にできる。
確かな決意と、それを認めたくない感情で、泣いてしまいそうになる。
そんな苦しそうな彼方の表情を見て、
リッキーは、まるで慰めるに彼方の手をペロペロと舐める。
「いつか…今よりももっと、好きになれる人ができるわよ。
君のことを本当に愛してくれ人だって、現れるわ。」
そう言いながら、女性は彼方の頭を撫でる。
まるで子供をあやすように、優しく、優しく。
その優しい手が、なんだか日向に似ている気がした。
「…なんか、お母さんって感じですね。」
「そう?…私ね、冬にはママになるのよ。」
よく見ると、少し腹部が膨らんでいるように見える。
そうだ。この人も「普通」の人生を歩んでいる。
普通に結婚して、普通に子供が生まれて、普通の家庭を作る。
自分たちが望んだ「普通」は、案外近くにあるものだ。
「いいですね。幸せそうで。」
羨ましそうな彼方の言葉に、
笑顔が絶えない彼女は、少し困ったように笑った。
「でもね、私だって不安よ。
ちゃんと元気な子産めるかなーとか、
ちゃんといいママになれるかなーとか。
結婚する前だって、本当にこの人でいいのかなーとか、
好きなだけで結婚してもいいのかなーとか、
ていうか私でいいのかなーとか、いろいろ考えたわよ。」
あれもこれも、というように、指折り数えながら女性は語る。
「そんなものですか。」
「そうそう結局、何かをするたびに悩み事って尽きないのよ。
でも通り超えたら、案外杞憂だったなー、って思うものよ。
悩んでる時は本当に苦しいけどね。案外、なんとかなるものよ。」
拳を握り、強気に笑う。
「…大丈夫よ。だから君も、きっと大丈夫なのよ。」
大丈夫、大丈夫と、まるで彼方を安心させるように、繰り返す。
その笑顔は眩しすぎるほどで、余計に心が締め付けられるような気がした。
「…ありがとうございます。」
その笑顔は、今の自分には苦しい。
目を合わせられず、俯き、リッキーの体を撫でる。
「ところで、進路はどうするか、決めたの?」
女性は、俯いたままの彼方を見つめ、空気を換えようと、
わざとらしいほどに明るく、違う話題を振る。
「それは…まだ、です。僕には何も…得意なこととかは、ないから。」
「そんなことはないでしょ?」
女性は困ったような笑顔で、首を傾げる。
「勉強も苦手だし、スポーツとかもできないし、不器用だし、
…ホント、何もできないんです。」
「そうかなー?君は動物も好きそうだし、
トリマーとか、ブリーダーとか、似合いそうだけどね。」
「そうですか?」
彼方が女性を見上げると、女性は唇に指を添えて、考えるような仕草を見せる。
「あ、でもこの前のお兄ちゃんは、
君は不器用だからトリマーは難しいかもって言っててね、
でもブリーダーは似合うんじゃない?
リッキーもこんなに懐いているし。ね?」
同意を求めるように、首を傾げて笑う。
正直、自分に未来なんてない。
けれど、適当な言い訳としては、ちょうどよかった。
「じゃあ、ブリーダー目指してみようかな。」
月曜日の朝。
いつも通りの、二人きりで机を囲んで、静かな朝食。
土曜も日曜も、彼方は朝早くから家を空け、夜遅くに帰ってくる。
まるで自分を避けているように。
どこにいたのか、何をしていたのか、
それを聞いても、はぐらかされるばかりだった。
そのせいか、いつもより家にいても会話が少ない。
日向は、彼方が自分を避けていることも、
金曜日の少女のことも、聞けずにいた。
「あ、そういえば、追試って今日からだよね。
僕、休んでた分の追試あるから、学校終わったら先帰っていいよ。」
卵焼きをつつきながら、彼方が口を開く。
彼方は三日間のうち、一日しかテストを受けていない。
つまりは、ほぼ追試ということだろう。
日向は頭は良くはないが、可もなく不可もなく。
追試はすべての教科で免れていた。
「…待ってるよ。」
「いいよ。今週たぶん全部、放課後追試だから。」
彼方は突き放すように、静かに言う。
こういう時は、「これ以上詮索するな」という合図だ。
その言葉に、日向は何も言えなくなる。
「あ、それと、…夏休み始まったら、僕、バイトするから。」
「…は?なんで…?」
戸惑う日向を気にもせず、
彼方は視線も合わさずに、淡々と語る。
「僕ね、ブリーダーになろうと思って。
専門学校行くのにお金もかかるし、夏休みだったら都合もいいし。」
「え…?」
「日向は進路どうするか、決めた?」
彼方は、自分の都合の悪いことに、日向が口出しできないように、話題を変えようとする。
最近、彼方は視線を合わすことすらしなくなった。
自分の方を、見ることもなくなった。
どこか大きな壁があるように感じる。
近くにいるからこそ、それが余計に辛い。
「なんで…急にそんなこと…。」
聞きづらいのと、その答えを聞きたいないのとで、
日向は最後まで言葉を紡げない。
口ごもった日向に、彼方は冷たく言い放つ。
「…先に、将来の話をしたのは、日向じゃん。」
怒ってるわけでも、拗ねているわけでもない。
ただその言葉は、静かで、冷たい。
いつもと違う、まるで他人のような彼方の言葉に、
日向は何も言えなくなった。
「僕、お皿洗っておくね。日向は早くシャワー浴びて準備しなよ?」
食事を終え、彼方は食器をまとめながら言う。
いつも日向が朝食を作っている間に、彼方はシャワーを浴びて支度をする。
そして、彼方が食べ終わった食器を洗っている間に、日向はシャワーを浴びて支度をする。
いつもより、その声が、冷たい気がした。
日向は、何も言えないまま、食器を台所へ持っていく彼方の背中を見送る。
仕方なく、日向は黙って風呂場へ向かう。
シャワーを終えて、風呂場からでると、彼方はもう家にはいなかった。




